若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

正義感だけでは、腹の足しにもならない ~賃金を決めるのは誰か~

2010年03月23日 | 政治
韓国には「88万ウォン世代」という言葉があるそうな。日本の「ワーキングプア」と同じような文脈で用いるのだろう。これよりもさらに劣悪な条件、最低賃金以下で働く若者を指して「44万ウォン世代」と呼ぶそうな。


最低賃金以下で「奴隷契約」、韓国でアルバイト雇用問題が深刻に
 現在、韓国で定められている最低賃金は1時間あたり4110ウォン(約327円)で、1日8時間27日勤務した場合、1カ月で88万7760ウォン(約7万600円)受け取れる計算になる。これを「88万ウォン世代」と呼び、厳しい雇用状況の中で安い賃金で働く若者を指す言葉として韓国では使われている。
 しかし、最近になって「88万ウォン世代」よりもさらに劣悪な条件で働く「44万ウォン世代」という言葉が登場している。「44万ウォン世代」とは、1カ月どんなに頑張って働いても50万ウォン(約4万円)以上稼ぐことができない10代アルバイターのことを指す。
 最低賃金以下の条件でアルバイトを雇用するのは、コンビニやピザの配達などさまざまな職種に広がっている。「遅刻5000ウォン、無断欠勤20万ウォン」と一方的な契約を結び、10代アルバイターたちの労働力を悪用するところも見つかっている。しかし、10代アルバイターたちは大学の学費などを稼ぐために、最低賃金以下の条件でも契約せざるをえず、現実はほぼ「奴隷契約」状態だという。



さてここで、正義感を発揮して
「劣悪な労働条件で働かせるのは許せない!最低賃金の遵守を徹底させよう!違反した雇用主には厳罰を!」
と主張し、この主張のとおりに政府が動き、規制が強化されたらどうなるか。



「44万ウォン世代」の半分以上は「0ウォン世代」になるんじゃないか。

最低賃金以下で雇うことによって得られる収益と、処罰されることによって生じる損失とを天秤にかけ、損失の方が大きいなら、そもそも雇用しないという結論に達する雇用主は多いだろう。

最低賃金以下でも学費を稼ぐために仕方なく契約していた学生のうち、多くの者はバイト先を失うことになるだろう。そのために、学費を稼ぎだすことができなくなり、最悪の場合自主退学ということになるかもしれない。バイト先を確保できた者は、最低賃金を得ることができるようになるかもしれないが、シフト等はさらに過酷なものとなるだろう。

と、ここまで書いて、以前に自分が書いたものを思い出す。


先進的な法律は悪法だ - 若年寄の遺言


劣悪な労働環境、悲惨な生活状況。これらを目の当たりにして同情し、義憤にかられ、その改善を雇用主に要求する。雇用主が改善に向けて動き出さなければ、その正義感の矛先を政府に向け、公権力による規制を要求する。

しかし、規制によって新たな弱者を生み、新たな矛盾や歪みを生む。当事者間の契約を規制したところで、問題は何も解決しない。これは韓国も日本も同じこと。

ではどうすれば良いのか。



あなたが。


政府ではなく、既存の雇用主達ではなく、他の誰でもない。

あなたが、最低賃金を始めとする各種労働関係規定を徹底的に遵守した上で、継続的な事業を立ち上げ、雇用を生み出すのだ。起業に必要であろう度胸と才覚に加え、「劣悪な労働環境を改善したい」という正義感に満ち溢れたあなたが、あなたの考える「まともな雇用」を生み出せば良い。

正義感だけでは、腹の足しにもならない。正義感だけでは、むしろ状況を悪化させる。度胸と才覚が必要だ。

私には雇用を生み出す度胸と才覚がない。だから、「政府は規制を強化しろ」とは言わない。

言うのは簡単だ。言うだけならだれでもできる。しかし、言ったところでどうにもならない。賃金を始めとする労働条件を決めるのは雇用主と労働者の契約であり、これを最終的に評価するのは消費者だ。


L.v.ミーゼス著『ヒューマン・アクション』村田稔雄訳 642頁
他の市民たちが、賃金生活者のサービスと業績に対して認める価値によって、賃金率は究極的に決定される。労働は商品のように価格評価されるが、それは、企業家と資本家が不人情かつ無神経であるからではなく、彼らは、今日、賃金生活者と給料生活者が大部分を占めている消費者主権に無条件で支配されているからである。消費者は、誰の厚かましい要求も、ずうずうしさも、うぬぼれも満足させる気はなく、彼らは最も安い価格でサービスを受けたいのである。

似非リバタリアンの考える、リバタリアンと外国人参政権

2010年03月03日 | 政治
ここのところ、外国人参政権ネタをずっと繰り返してきた。
そんな中、ふと疑問が湧いた。
「リバタリアンは、この問題をどう料理するのだろうか?古典的自由主義の観点からはどうなるのだろうか。」
と。
俄かリバタリアンとしては気になるところ。

そこで、ちょっと検索してみると・・・


世界の中心で”放っておいてくれ”と叫ぶ: リバタリアンの外国人参政権への考え方
森村進 著「自由はどこまで可能か?リバタリアニズム入門」より転載
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【外国人の参政権について】
国籍によって区別せずに定住外国人にも参政権を認めるのが当然。
この事情は地方選挙でも国政選挙でも同じ。
ある外国人が、例えば東京都新宿区の住民だという理由で区政や都政への参政権が認められるなら日本国の住民だという理由で日本の国政への参政権も認めるべきである。
一方で、外国に定住している日本人は国の参政権を与えられるべきだが日本の参政権を与える必要はない。


(この本、実家に置いてあって手元になく、今回は他サイトの転載の転載)



「リバタリアンは国家・国籍の枠にとらわれてはならない。国籍によって区別してはならない。」ふーん、そうかそうか~・・・・と納得しかけた頭に、再度疑問が立ちはだかる。

「区別してはならない」ってのは、平等に軸足を置いた主張だ。往々にして自由と平等は衝突するということを考えた時、平等を目指す意見はリバタリアン的ではない。また、参政権付与というのは国家の政策決定に参加する権利であり、あくまでも国家の存在が前提とされている。「参政権を認めるべきだ」「参政権が与えられるべきだ」という時の「認める」「与える」主体は国家。参政権行使の結果が反映するのは国家の枠組みの中。どうもリバタリアン的ではない。

リバタリアンは自由を第一に考える。自由とは「他人から介入されない、強制されない」という消極的な価値観であり、構成員として集団の意思決定に参加するのとは質が違う。憲法学では参政権を「国家への自由」と呼ぶことがあるが、これは完全に言葉の誤用だ。リバタリアニズムの主眼は、国の介入、多数派の意思によって決められてしまう事柄を減らし、政府による合法的略奪から私的領域を守っていこうというものだ。100人が各々100通りの選択をできるのが自由であり、100人のうち51人の統一した意思で49人の意思を蹂躙するのが民主制だ。自由と民主とは緊張関係にある。

歴史的にみて、

制限選挙→納税額の引き下げ→普通選挙制→婦人参政権

という民主主義の拡大は、自由の保障に貢献しただろうか。この一連の流れが、社会保障の拡大、福祉国家・行政国家化の流れと一致することを考えると、民主主義の拡大こそが自由に対する脅威をもたらしたと考えることさえできる。



ちょっと視点を変えて。

町内会Aでは、18歳以上の住民全てが町内会の会合に出席することができる。
町内会Bでは、世帯の代表者だけが町内会の会合に出席することができる。
町内会Cでは、25歳以上で会費を払った人だけが町内会の会合に出席できる。
町内会Dでは、住民のうち町内会で会員登録を済ませた人だけが会合に出席できる。

リバタリアン的には、どの町内会のあり方が間違っていて、どの町内会のやり方が正しい、ということはないと思う。その町内会のルールが気に食わないなら、別のところに住めば良いだけの話だ。(移住の自由が保障されていることが前提だが)