若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

人権とは、権利である。

2009年04月18日 | 政治
権利といえるためには、誰に対して、どのような行為(ないし不作為)を
要求できるのか、という点が明確でなければならない。
明確でなければ、権利に対応する義務を強制的に履行させることができない。
人権とは、こうした権利と義務の関係、すなわち法の領域の話だ。


ところが、そうではない人権観がかなり横行している。
こういうのを読むと、頭が痛くなる。


人権問題標語 人権週間や擁護も人権問題標語
人権問題標語など人権週間には募集が始まります。
最近、人権○○という言葉をよく目にするようになりました。
人権という言葉を専門的というか法的に解釈すると、膨大で複雑になってしまいます。
簡単にいうと、これは基本的な人間の徳性として発展させるものです。
わかりやすく言えば、キリスト教でジーザスが言った「愛」
お釈迦様が言った「慈悲」ですか。
やっぱり、自分の身に置き換えるとわかりやすいですが、誰だって冷たくされてあり、無視されたり、罵倒されると辛いですし、逆に親切にやさしくされたり、はげまされたりすると心が温まり、安らぐものです。



人権は法的な概念であり、確かに専門的なものだ。
精神的自由・身体的自由・経済的自由・法の下の平等・財産権・参政権etc・・
こうした権利・義務、法の領域の話を、
どう簡単に要約すると「愛」「慈悲」といった徳性になるのだろうか。
全く意味不明。

冷たくされたり、無視されたり、罵倒されたら辛い。そりゃそうだ。
だからといって、全ての人に同じように優しく接することはできない。
好悪の情があるんだから。

私はAさんに対して優しく接しているが、
嫌いなBさんに対してはどうしても表情が冷たくなる。
だからといって、他人に「Aさんに対して優しく接しろ」ということは
強制できない。
逆に、私に「Bさんに対して優しく接しろ」と言われても、おそらく無理。
そもそも、「優しく接する」というのは曖昧だ。
どのような態度・どの程度の対応であれば「優しく接する」を満たすのか。
基準のない義務を他人に課すことはできない。

優しくとか、思いやりとか、そういったのは道徳や感情の話であり、
人権という法の話とは基本的に無関係だ。


こうした誤解は、教育の場で、さも当然であるかのように子供達に布教されている。


人権週間の学級指導 川神正輝
(10)本校で、人権標語コンクールをして、次の4つの作品が優秀作品として残ったとします。
この中から最優秀賞を決めるときあなたならどれに1票を入れますか。(答え:   )
①えっ?まだいじめてるの?!
②やさしさは だれでもできる プレゼント
③いじめ、最低!
④いじめをする人 される人 みんな心が痛くなる



私がここの生徒なら、①~④の全てが人権とは無関係なので、
(答え:なし  DQN教員のたわ言はチラシの裏にでも書いとけ!)
と書いて、きっと怒られるんだろう。

人権の問題は、憲法が国家を名宛人としていることから、
原則として個人対国家の中で生じる。
子供同士の間で人権問題が生じるということは、まずない。

いじめが問題のある行為であるのは間違いない。
ただ、これを人権問題・人権教育と呼ぶのは間違っているし、そう呼ぶ必要もない。
道徳教育、倫理教育、情操教育とか、呼び方は他にいくらでもあるだろう。



さて。

カルデロン一家の件では、
「親子を引き離し、娘を一人残す処置は可哀そう。親子3人を日本に住まわせよう」
「娘の人権を保障する観点から処置をする責務が国にはある」
という感情的な声が一部であがる中、入国管理局は両親の強制退去を譲らなかった。
感情論と法律論をキッチリ分けた上での処置だった。

私は、この入国管理局のとった処置に賛成だし、感情論と法律論とは一線を画したもので
あるべきだと思っている。
問題は、一方では入国管理局のように法と感情との間に線引きをした対応をし、
一方では人権擁護局のように、人権という法的概念の中に感情やら道徳やらを
ごちゃ混ぜにして国民に布教するという、法務省のダブルスタンダードだ。

今回の両親強制退去という処置に対し、賛同する人と反対する人とに分かれた。
反対する人の下敷きには、このような悪しき人権教育があるんじゃないだろうか。
入国管理局の足を、人権擁護局が引っ張っているという構図が描けそうだ。



人権って、国家権力を制限することで守られる個人の権利であって、
国家が国民に対し、「人権を守りましょう」と教育するのは、
どうなんだろう。方向性が間違っているような気がしてならない。
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相手の話の本旨を理解しないというのは、弁護士としてどうなん?

2009年04月16日 | 政治
[高校生の経済学] 経済学の10大原理 - 池田信夫 blog
おとといの記事には、意外に大きな反響があって驚いた。トレードオフというのは経済学では超基本的な概念で、マンキューの入門書の「10大原理」のトップにあがっている
-----(中略)-----
しかし一般には、トレードオフという概念そのものが知られていないらしい。



この記事に対し、オグリンこと小倉弁護士は次のように述べている。


la_causette: 地球温暖化対策と貧困対策と両方とも非常に大事だと答えて落第になる学校は滅多にない。
普通に考えれば,日本を含む全ての国において,国家予算が地球温暖化対策と貧困対策にのみ割かれているということはないのですから,他の用途に割かれている予算を削減することによって,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことは可能です。また,必要とあらば,法人税や相続税等を増税することにより国家予算の枠自体を拡大した上で,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことも可能です。


地球温暖化対策・貧困対策予算の増額と、他の用途に割かれている予算の削減
地球温暖化対策・貧困対策予算の増額と、法人税・相続税等の増税

このような関係を、トレードオフと言うんじゃまいか。
「トレードオフという概念が知られていない」とぼやく記事に対し、
こうした例をぶつけてくるあたりが、流石オグリン。

また、増税の例として「消費税・所得税」とは言わず、
「法人税や相続税等」とするのは、デフォですか。
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ははーっ、お代官さまぁ~

2009年04月13日 | 政治
土佐のまつりごと: 子どもの無保険 厚労省通知・全文

厚生労働省は、国民健康保険の運営にあたって、
「保険料(税)滞納者に対し機械的に資格証を発行するな」
「滞納の事情や生活実態をよく把握し、きめ細かい対応を」
と市町村に通知を出している。

「行政は、規則を機械的に適用することなく、きめ細かい対応をせよ」
という言説が、あまり批判されることなく大手を振って歩いている点に
すごい違和感を感じる。


「基準を杓子定規にあてはめることなく、個々のケースについて担当者が
その場その場で判断し、妥当な処置を行う。」

営利企業であったり、ポケットマネーで慈善事業をするのであれば、これでいい。
個々のケースで妥当な処置を行い、利益が上がった場合は、
これを評価し給料に反映させてよい。
利益につながる顧客には手厚く対応し、そうでない顧客にはそれなりに対応する
という選択肢もありだろう。

ところが、行政はそうはいかない。
法の下の平等(法適用の平等)という縛りがある。
どのような場合に、どのような処置を行う、という基準を法律や条例で定めたら、
この基準をすべての人に一律に適用しなければならない。
この基準を適用して都合が悪ければ、基準を作り直さなければならないのであって、
基準をその場その場で曲げてはいけない。

公務員に広い裁量を認めてはならない。
「きめ細かい対応」というと聞こえが良いが、このような運用を認めると、
応対した職員によって処置に差が出てくる。
同じ生活状況の人に対して、
職員Aは「これは可哀そうだ。保険証を交付しよう」と考え、
職員Bは「本当は滞納分を払えるはず。資格証を交付しよう」といったように、
応対した人で違ってしまう。

「機械的に判断するのではなく、きめ細かい対応を」
というのは、
「基準は有って無いようなものです。応対する職員の裁量で判断します。
みなさん、応対する職員の心証を良くするよう頑張ってください。」
と国民に言ってるようなものだ。
もっと悪く言えば、
「保険証が欲しければ、役所の窓口で土下座しろ!お役人様に媚びろ!
私の匙加減ひとつで、どうにでもなるんだぞ!」
ということだ。

これでは、法適用の平等は維持できない。自由に対する脅威となる。

私が思うに、行政は杓子定規でなければならない。
基準を満たせば、保険証が交付されて保険給付を受けることができる。
基準を満たさなければ、保険証を返納し資格証を受け、一旦は10割負担とする。
この基準の適用にあたっては、機械的に判断しなければならない。
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