権利といえるためには、誰に対して、どのような行為(ないし不作為)を
要求できるのか、という点が明確でなければならない。
明確でなければ、権利に対応する義務を強制的に履行させることができない。
人権とは、こうした権利と義務の関係、すなわち法の領域の話だ。
ところが、そうではない人権観がかなり横行している。
こういうのを読むと、頭が痛くなる。
人権問題標語 人権週間や擁護も人権問題標語
人権問題標語など人権週間には募集が始まります。
最近、人権○○という言葉をよく目にするようになりました。
人権という言葉を専門的というか法的に解釈すると、膨大で複雑になってしまいます。
簡単にいうと、これは基本的な人間の徳性として発展させるものです。
わかりやすく言えば、キリスト教でジーザスが言った「愛」
お釈迦様が言った「慈悲」ですか。
やっぱり、自分の身に置き換えるとわかりやすいですが、誰だって冷たくされてあり、無視されたり、罵倒されると辛いですし、逆に親切にやさしくされたり、はげまされたりすると心が温まり、安らぐものです。
人権は法的な概念であり、確かに専門的なものだ。
精神的自由・身体的自由・経済的自由・法の下の平等・財産権・参政権etc・・
こうした権利・義務、法の領域の話を、
どう簡単に要約すると「愛」「慈悲」といった徳性になるのだろうか。
全く意味不明。
冷たくされたり、無視されたり、罵倒されたら辛い。そりゃそうだ。
だからといって、全ての人に同じように優しく接することはできない。
好悪の情があるんだから。
私はAさんに対して優しく接しているが、
嫌いなBさんに対してはどうしても表情が冷たくなる。
だからといって、他人に「Aさんに対して優しく接しろ」ということは
強制できない。
逆に、私に「Bさんに対して優しく接しろ」と言われても、おそらく無理。
そもそも、「優しく接する」というのは曖昧だ。
どのような態度・どの程度の対応であれば「優しく接する」を満たすのか。
基準のない義務を他人に課すことはできない。
優しくとか、思いやりとか、そういったのは道徳や感情の話であり、
人権という法の話とは基本的に無関係だ。
こうした誤解は、教育の場で、さも当然であるかのように子供達に布教されている。
人権週間の学級指導 川神正輝
(10)本校で、人権標語コンクールをして、次の4つの作品が優秀作品として残ったとします。
この中から最優秀賞を決めるときあなたならどれに1票を入れますか。(答え: )
①えっ?まだいじめてるの?!
②やさしさは だれでもできる プレゼント
③いじめ、最低!
④いじめをする人 される人 みんな心が痛くなる
私がここの生徒なら、①~④の全てが人権とは無関係なので、
(答え:なし DQN教員のたわ言はチラシの裏にでも書いとけ!)
と書いて、きっと怒られるんだろう。
人権の問題は、憲法が国家を名宛人としていることから、
原則として個人対国家の中で生じる。
子供同士の間で人権問題が生じるということは、まずない。
いじめが問題のある行為であるのは間違いない。
ただ、これを人権問題・人権教育と呼ぶのは間違っているし、そう呼ぶ必要もない。
道徳教育、倫理教育、情操教育とか、呼び方は他にいくらでもあるだろう。
さて。
カルデロン一家の件では、
「親子を引き離し、娘を一人残す処置は可哀そう。親子3人を日本に住まわせよう」
「娘の人権を保障する観点から処置をする責務が国にはある」
という感情的な声が一部であがる中、入国管理局は両親の強制退去を譲らなかった。
感情論と法律論をキッチリ分けた上での処置だった。
私は、この入国管理局のとった処置に賛成だし、感情論と法律論とは一線を画したもので
あるべきだと思っている。
問題は、一方では入国管理局のように法と感情との間に線引きをした対応をし、
一方では人権擁護局のように、人権という法的概念の中に感情やら道徳やらを
ごちゃ混ぜにして国民に布教するという、法務省のダブルスタンダードだ。
今回の両親強制退去という処置に対し、賛同する人と反対する人とに分かれた。
反対する人の下敷きには、このような悪しき人権教育があるんじゃないだろうか。
入国管理局の足を、人権擁護局が引っ張っているという構図が描けそうだ。
人権って、国家権力を制限することで守られる個人の権利であって、
国家が国民に対し、「人権を守りましょう」と教育するのは、
どうなんだろう。方向性が間違っているような気がしてならない。
要求できるのか、という点が明確でなければならない。
明確でなければ、権利に対応する義務を強制的に履行させることができない。
人権とは、こうした権利と義務の関係、すなわち法の領域の話だ。
ところが、そうではない人権観がかなり横行している。
こういうのを読むと、頭が痛くなる。
人権問題標語 人権週間や擁護も人権問題標語
人権問題標語など人権週間には募集が始まります。
最近、人権○○という言葉をよく目にするようになりました。
人権という言葉を専門的というか法的に解釈すると、膨大で複雑になってしまいます。
簡単にいうと、これは基本的な人間の徳性として発展させるものです。
わかりやすく言えば、キリスト教でジーザスが言った「愛」
お釈迦様が言った「慈悲」ですか。
やっぱり、自分の身に置き換えるとわかりやすいですが、誰だって冷たくされてあり、無視されたり、罵倒されると辛いですし、逆に親切にやさしくされたり、はげまされたりすると心が温まり、安らぐものです。
人権は法的な概念であり、確かに専門的なものだ。
精神的自由・身体的自由・経済的自由・法の下の平等・財産権・参政権etc・・
こうした権利・義務、法の領域の話を、
どう簡単に要約すると「愛」「慈悲」といった徳性になるのだろうか。
全く意味不明。
冷たくされたり、無視されたり、罵倒されたら辛い。そりゃそうだ。
だからといって、全ての人に同じように優しく接することはできない。
好悪の情があるんだから。
私はAさんに対して優しく接しているが、
嫌いなBさんに対してはどうしても表情が冷たくなる。
だからといって、他人に「Aさんに対して優しく接しろ」ということは
強制できない。
逆に、私に「Bさんに対して優しく接しろ」と言われても、おそらく無理。
そもそも、「優しく接する」というのは曖昧だ。
どのような態度・どの程度の対応であれば「優しく接する」を満たすのか。
基準のない義務を他人に課すことはできない。
優しくとか、思いやりとか、そういったのは道徳や感情の話であり、
人権という法の話とは基本的に無関係だ。
こうした誤解は、教育の場で、さも当然であるかのように子供達に布教されている。
人権週間の学級指導 川神正輝
(10)本校で、人権標語コンクールをして、次の4つの作品が優秀作品として残ったとします。
この中から最優秀賞を決めるときあなたならどれに1票を入れますか。(答え: )
①えっ?まだいじめてるの?!
②やさしさは だれでもできる プレゼント
③いじめ、最低!
④いじめをする人 される人 みんな心が痛くなる
私がここの生徒なら、①~④の全てが人権とは無関係なので、
(答え:なし DQN教員のたわ言はチラシの裏にでも書いとけ!)
と書いて、きっと怒られるんだろう。
人権の問題は、憲法が国家を名宛人としていることから、
原則として個人対国家の中で生じる。
子供同士の間で人権問題が生じるということは、まずない。
いじめが問題のある行為であるのは間違いない。
ただ、これを人権問題・人権教育と呼ぶのは間違っているし、そう呼ぶ必要もない。
道徳教育、倫理教育、情操教育とか、呼び方は他にいくらでもあるだろう。
さて。
カルデロン一家の件では、
「親子を引き離し、娘を一人残す処置は可哀そう。親子3人を日本に住まわせよう」
「娘の人権を保障する観点から処置をする責務が国にはある」
という感情的な声が一部であがる中、入国管理局は両親の強制退去を譲らなかった。
感情論と法律論をキッチリ分けた上での処置だった。
私は、この入国管理局のとった処置に賛成だし、感情論と法律論とは一線を画したもので
あるべきだと思っている。
問題は、一方では入国管理局のように法と感情との間に線引きをした対応をし、
一方では人権擁護局のように、人権という法的概念の中に感情やら道徳やらを
ごちゃ混ぜにして国民に布教するという、法務省のダブルスタンダードだ。
今回の両親強制退去という処置に対し、賛同する人と反対する人とに分かれた。
反対する人の下敷きには、このような悪しき人権教育があるんじゃないだろうか。
入国管理局の足を、人権擁護局が引っ張っているという構図が描けそうだ。
人権って、国家権力を制限することで守られる個人の権利であって、
国家が国民に対し、「人権を守りましょう」と教育するのは、
どうなんだろう。方向性が間違っているような気がしてならない。