若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

行政をチェックする議員をチェックする ~ 観光旅行ですか、行政視察ですか ~

2013年01月21日 | 地方議会・地方政治
地方議会には、

・二元代表制の一翼
・言論の府
・役所に対するチェック・監視機関
・議決機関

などなど、様々な枕詞、形容詞が用意されている。
これらの言葉をつなげると、次のような文章ができあがる。

「二元代表制の一翼として首長に対峙し、提出された予算案や条例案について議場で議論を交わして問題点を明らかにし、予算執行の妥当性を委員会でチェックし、こうした議論を踏まえて議決を行う」

これが、議会のあるべき姿だろう。
しかし、これは理想であって、現実はそうではない。

期待通りに議会がチェック機能を発揮していれば、「事業仕分け」を改めて実施する必要は無かっただろう。無駄な事業、なんとなく継続している事業を大量に含んだ予算案が、形骸化した議会をフリーパスで通過していく。首長が作成した予算案に対し、否決や修正可決、付帯決議が行われるのはとても稀。

議会がチェックするどころか、実際のところ、チェックを受けなければいけないのは議会そのものだったりする。その中でも、よくよくチェックしなければならないのが「行政視察」だ。


○行政視察を観光旅行にしない方法、教えます - 高知発!青空エクスプレス
=====【引用ここから】=====
委員会で行政視察の目的地を決めるにあたり、このあいだの委員会でもそうだったが、いつもまず委員から出るのが「北海道にいこう」とか、「東京がえい」とか、「飛騨高山へいかんか」とか、まず目的地が先に出てくる。もう、観光目的がみえみえ。

全く何を考えているんだか。


~~~ (中略) ~~~

視察地の正しい選定の方法は、
①視察して学びたい行政課題を挙げて、その中から日程に合うだけの事業をいくつか選ぶ。

②そのそれぞれの事業の候補地としていくつか挙げ、その中から「本市と同じ地域性を持っているのはここ」、又は「本市が参考になるのはここ」だと最終的な目的地を決定する。

行政視察地の選定はこんな順序で決定されるべきもので、「九州の長崎へ行きたい」とか「長野県の上高地へ行きたい」なんて、最初から行きたい県や観光地の名前が挙がるのは観光目的であると断言する。

=====【引用ここまで】=====


委員会で視察に行ったり、会派で視察に行ったり、議員個人で視察に行ったり、場合によっては海外視察に行ったりと、様々な形で地方議員は行政視察へ行っている。上記リンク先を読むと、行政視察が観光旅行と化しているケースが全国でかなりあるのだろう、と推察される。

全国の地方議会のホームページでは、視察先一覧が掲載されていたり、視察報告書の写しが掲載されていたりする。これらを眺めていると、気づくことがある。

同一県内の他市町村への視察が、非常に少ないのだ。

県内であれば、車や各駅停車でサッと回ることができる。先進事例の調査が目的であれば、短時間で複数個所を回ることが出来る県内視察の方が効率が良い。経済的でもある。ところが、県内の視察というのは非常に少ない。建前は「視察課題に適した視察先を県内では見つけられなかった」ということなのだろうが、本音は「県内だとサッと回れてしまい、宿泊する理由がなくなってしまう」だろう。背後にある「宿泊ありきの観光旅行」という意識が見て取れる。

また、地方議会のホームページを見て回ると、一泊二日、二泊三日の視察行程で視察先が一箇所しかないという例や、博物館や資料館を見学するだけという例も見受けられる。他にも、「人口数万の小規模市町村が、予算規模のまるで違う政令市の事業を見てどう参考にするの?」と視察対象に疑問を抱かざるを得ないものもある。

上記リンク先のブログ主のように、ちゃんとした行政視察をしようと呼びかける地方議員も存在する。しかし、リンク先を読むと、そうした議員は少数派であるということが分かる。ほとんどの議員は、観光旅行のような視察に違和感を抱くことなく「今度の視察、どこ行こうか?」と軽く考えているようだ。

なぜこうなるのか。

地方議員には「先進事例を勉強してこよう」というインセンティブ、動機付けがないからだ。

宿泊可能な視察の予算が確保されているのに、
「午前中に県内の隣の市、そのまま車を走らせて、午後にその隣の町へ視察して帰る」
という日帰りの行政視察をするのは、面白くない。
また、
「インターネットで視察課題についての情報収集を行い、事前に視察先についての研修会を行い、1日目午前はここ、13時からここ、15時からここ、2日目はここを視察して帰る」
という濃いスケジュールを組んで見て回るのは、肉体的にも精神的にもキツイ。

それよりも、
「1日目に一つ視察して、観光をして旅館に泊まって温泉に浸かり、2日目は観光ついでに博物館の見学をして帰る」
の方が、議員は楽だ。形ばかりの視察をしても外部から責められることがなければ、当然楽なあり方が定着する。

「住民の税金を使っているのだから、中身のある視察をして行政へ反映させるべきだ」
というのは、正しい。納税者からすれば当然のことだ。
ところが、人間はどうしても楽な方に流される。有権者は聖人君子だけではないし、聖人君子だけが立候補しているわけではない。
また、今は「ちゃんとした視察をしよう」と考えている聖人君子の議員でも、その意思を来年、次の任期と継続できる保障はない。
聖人君子が主導権を握り、今はちゃんとした視察をしている議会でも、後に形骸化しないという保障はない。

「ちゃんとした視察をしよう」という意思を支えるインセンティブが無いのだから、いつかは楽な方に流される・・・と考えた方が妥当。

そもそも、視察して学びたい行政課題を思いつくためには、日ごろから課題の解決を真剣に考えている必要がある。また、適した視察先を探すためには、常にアンテナをはって他自治体の情報収集をしていなければならない。優れた能力と、日ごろからの労力が無ければならない。日ごろから考えていない議員、アンテナをはっていない議員が「さぁ視察だ」と言ったところで、視察課題に基づく適切な視察先の選定をできるわけがない。

「毎年1回、委員会や会派で行政視察を行っています」
という定例的、慣例的な行政視察は、止めるべきだ。
能力の無い者に、税金の使途を決めさせてはならない。

議員が惰性で行政視察を続ける限り、行政が惰性で続ける事業に歯止めをかけることはできない。
議員から職員に
「何年もこんな無駄な事業をしてはダメだ!」
と指摘したところで、職員から
「いやいや議員さん、そちらも中身の薄い視察をしてるじゃないですか」
と突っ込まれてしまうのがオチだ。

もし、行政視察を続けるのであれば、

・視察の行程、宿泊先、領収書添付の上での費用の詳細な公開
・(委員会単位、会派単位でなく)議員個人ごとの視察報告書の公開

位のことをしないとダメだろう。全て見られている、住民の監視対象になっている、と意識させることで、初めて、ちゃんとした視察をしようという動機付けが生じることになる。

「権力は腐敗する。専制的権力は徹底的に腐敗する。(アクトン卿)」

制限を受けない権力は、間違いなく腐敗する。
個人の使命感、道徳は、塩の塊のようなもの。簡単に溶けて崩れてしまう。
個人の性質に頼ることなく、制度で担保していかなければならない。
そして、腐敗を防ぐ最良の方法は、税金を使わせないことだ。
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民業圧迫とは、税金で下駄を履かせること ~ 道の駅とFB良品 ~

2013年01月16日 | 政治
○Business Media 誠:ライバルはアマゾン、自治体運営のネットショップ「F&B良品」
=====【引用ここから】=====
 「F&B良品」は、民間のネットショッピングモールと異なり、出店者は売り上げに応じた手数料を支払うだけ。売れなくても払わなければならない固定の出店料がゼロのため、地元の中小企業にとっては大変ありがたい仕組みです。

 「民業圧迫」という声もあるようですが、F&B良品は、ネット上の「道の駅」「特産品販売所」のようなものです。大手ショッピングモールに出店するだけの資金力のない中小企業の受け皿として、F&B良品は、民間との共存を目指しています。

=====【引用ここまで】=====


○民業圧迫って? : 武雄市長物語
=====【引用ここから】=====
しかし、北海道大学の宮脇教授が、自治体連合型通販サイト自体は評価しつつも、民業圧迫の懸念がある、と言っているが、これは違う。

そんなこと言ったら、各地の「道の駅」はどうなんでしょうかね。自治体が直接経営していなくても、直接間接補助金が流れているのですが、しかも、巨額の。我々は、ネットに道の駅、もっと言えば、兵庫県の多可町長がおっしゃっているが、「宙(そら)の駅」を作っている。すなわち、商品展開のプラットフォームを作っているんですね。感覚的には、織田信長が断行した「楽市楽座」に近い。あの当時、場所代、関所等で販売価格の9割は取られていたという説を、僕は大学時代に習った。

自治体はそもそも儲けなくて良いので、出店料その他を取る必要が無く、その分消費者にお安く提供する、それが何が悪いんだろうか?また、日本だけだと販路が限られるので、広く、消費が爆発的に伸びるアジアに広域展開する、それが何がおかしいんだろうか?

=====【引用ここまで】=====


「F&B良品は民業圧迫というのは違う。道の駅はどうなんだ。」
と述べる、武雄市の樋渡市長。
道の駅があるんだから、F&B良品も民業圧迫ではない・・・ということにはならない。

道の駅が民業圧迫だという批判は根強い。農協や地元農家が経営している直売所や、商店街、スーパー等の小売店と競合しており、道の駅は赤字を補助金(税金)で埋めることができるという不当に有利な条件で直売所等を圧迫している。

「F&B良品」は、民間のネットショッピングモールと異なり、出店者は売り上げに応じた手数料を支払うだけ。
と謳われているが、こうしたことができるのは、F&B良品に携わる職員の人件費を税金で賄っているからだ。

自治体はそもそも儲けなくて良い
というのは、自治体には徴税権があり、税金で人件費ほか諸々の経費を払うことができるからだ。税金があるから、儲けなくて良いというだけのこと。消費者が負担する費用を安く抑えることはできるかもしれないが、これは見かけの費用。消費者が本来負担すべき費用を、住民に肩代わりさせているに過ぎない。

もし、民業圧迫でないと強弁するのであれば、一般会計から切り離した「F&B良品特別会計」を設置し、売り上げ手数料を収入とし、商工流通課の担当者の人件費の他、パソコン代、通信代、電気代、システム保守等の費用を全てこの特会の中から支払うようにしなければならない。一般会計から特別会計への繰入れ(=税金の投入)がゼロであれば、民間とほぼ同等の条件で競っていることになり、民業圧迫との批判は回避できる。

あるいは、樋渡市長も自ら
ずっと、行政がやっていると、確実に能率性や効率性が落ちるのは、そりゃ事実。その時点で、民間への移譲が必要だというのはそのとおり
と述べているので、この発言のとおり、確実に民間移譲を実施してもらいたいと思う。民間移譲しないままに現市長の任期が切れて、後任者が民営化に後向きだったりしたら悲惨である。

このF&B良品は、固定の出店料を税金で負担するという、形を変えた一種の補助金行政だ。立ち上げ時の一時的な補助に留まればまだ良いのだが、補助金行政は既得権化・恒久化しやすい。既得権者が抵抗するからだ。F&B良品の民間移譲を考えても、固定の出店料を免除された出店者が既得権者となり、民間移譲に抵抗することが考えられる。その時の市長が民間移譲の必要性をさほど認識していない人であれば、その抵抗に押され、おそらく公設公営のままダラダラと運営を続けてしまうだろう。

惰性で支出し続ける補助金ほど、非能率・非効率なものはない。図書館委託で見せた手腕を、FB良品民間移譲でもしっかり発揮してほしいと願う。
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当局の指示で商品を決める「絆共産主義」が始まります

2013年01月11日 | 政治
○県産品の販売促進へ法制化検討 森少子化相、扱い店舗優遇へ | 東日本大震災 | 福島民報
=====【引用ここから】=====
 森雅子少子化担当相(参院本県選挙区)は2日までに福島民報社の新春インタビューに答え、東京電力福島第一原発事故による風評被害を払拭(ふっしょく)するため、県産品の販売促進を目的とした法律の制定を検討する考えを示した。小売店に対し、安全が確認された農産物や工業品の販売を促す内容で、店頭に県産品を陳列した店舗の優遇などを想定している。森氏は平成24年度補正予算で風評被害対策の関連費用を拡充させ、課題解決に向けた取り組みを加速させることも強調した。
 風評被害対策に当たる消費者庁も担当する森氏は「県産品を店頭に並べて、買いたい人が購入できる環境を整備しないと対策は前進しない」と述べ、小売店対策を本格化させる意向を示した。
 風評被害に対する国の姿勢を明確に示すため、県産品の販売促進については法制化を目指す。今後、庁内や関係省庁と検討作業に入るとみられる。法案の概要については「本県を特区に指定し、国は小売店に対して、その地域の産品を扱うように命令したり、店頭で販売した店舗を優遇することができるようにする」と説明した。
 憲法で「営業の自由」が認められている小売店に対する命令に、どの程度強制力を持たせられるかが今後の焦点の一つになりそうだ。

=====【引用ここまで】=====


本県を特区に指定し、国は小売店に対して、その地域の産品を扱うように命令

福島県産の農産物を取り扱うよう、小売店に命令できるようにするらしい。

法律は誰に対しても等しく適用されるべきという、法律の一般性・平等性。「法の支配」において要求されるこの原則に反し、特定の人、物だけを対象とした法律が増えていくと、個人的自由は保障されない。この手の「絆立法」が積み重なることで、そのうち、当局の許可がなければおにぎりも雑誌も売ることができないような社会になる。

店頭に並べるか並べないかは、その店に任せれば良い。本当に福島県産を買いたいと消費者が考えているなら、店は次第に店頭に置くようになるだろう。それが店の売上につながるのだから。政府が介入する必要は全くない。

当局の命令で福島県産を店頭に並べて、売れ残ったら誰が責任をとるのだろうか。政府が売れ残り分を買い上げるのだろうか。

風評被害を理由に、福島県産を店頭に並べるよう命令することが一度許されてしまうと、次は隣接する茨城県産や宮城県産・・・と広がっていくことを止められなくなる。風評被害だけでなく、他の理由での店頭取扱命令が出るようになるかもしれない。そうなっていくと、
「この店舗では、A県産の米を○○kg、B県産の米を○○kg、C県産の野菜、D県産の魚、E県産の果物を取り扱うように」
といった詳細な指示が必要になる。こうなると、もはや共産主義国だ。
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それが「新自由主義」?ほんとに? ~ 組合機関紙正月号より ~

2013年01月04日 | 労働組合
『自治労ふくおかNo.1254 2013.1.1新年号』に、次のような文章が掲載されていた。

○2013年、日本の政治の展望と自治労が進むべき道 「選択肢」をつくる運動へ 九州大学大学院法学研究院教授 出水薫
=====【引用ここから】=====
政策路線でも失われた選択肢

 ただ、有権者に選択肢が開かれていなかったという場合、さらに注意すべきは、単に選べる政党が少なかったというだけのことではない。視点を変えると、政策路線の次元でも、今回の選挙において、有権者には実質的な選択肢がなかったと言える。
 すなわち個別争点としては、原発や消費税増税などが取り沙汰された。しかし、それらを除けば、選挙結果は、新自由主義と、それを補完する新保守主義以外の選択が、実質的にはなかったことを示している。つまり有権者は、せいぜいのところ、新自由主義に重点を置くのか、それとも新保守主義かという程度の違いしか選びようがなく、この両者の「外」に出る選択肢は、なかったのだ。

新自由主義と新保守主義

 自由化、規制緩和、民営化によって政府の役割を最小化し、市場の機能を極大化しようとするのが新自由主義である。新自由主義は、この30年間、世界と日本を席巻してきた。とりわけ冷戦後、世界規模でのマネーゲームに実体経済を従属させようと、新自由主義はさらに猛威を振るい、世界中の多くの人々が翻弄(ほんろう)されてきた。日本の文脈で言えば、新自由主義は公務員たたきと行財政改革という姿をとってきた。財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとするのも、その脈絡で新自由主義の一部に位置づけられる。
 一方で新自由主義は、市場競争を促し、旧来の秩序や組織を解体する力を生み出す。そのような「遠心力」を、「国家」や「民族」などを強調することで中和しようとするのが新保守主義である。両者は、お互いに補い合う関係にある。

=====【引用ここまで】=====



出水氏は、「新自由主義」を「自由化、規制緩和、民営化によって政府の役割を最小化し、市場の機能を極大化しようとするのが新自由主義である。
と定義している。古典派自由主義、アナルコキャピタリズム、最小国家論、制限国家論など、個人の精神的自由と経済的自由をともに尊重し、政府の役割に否定的な(あるいは全否定する)リバタリアンが、出水氏の言う「新自由主義」に該当するものと思われる。

ここまでは、良い。
ところがだ。別のところで出水氏は
日本の文脈で言えば、新自由主義は公務員たたきと行財政改革という姿をとってきた。財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとするのも、その脈絡で新自由主義の一部に位置づけられる。
と述べている。

リバタリアン(出水氏が言うところの新自由主義者)である私に言わせれば、

こ れ は ひ ど い !

財政健全化のために歳出削減を主張する新自由主義者はいるが、財政健全化のために増税を容認するというのは、新自由主義の文脈では考えにくい。

例えば・・・

○<財政の崖>辛うじて回避も赤字削減策は先送り 課題山積 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
=====【引用ここから】=====
 当初は歩み寄りがみられたオバマ大統領とベイナー下院議長の交渉は、下院共和党の抵抗などで難航。下院では、いかなる増税にも反対する財政保守派の不満が爆発し、「歳出削減が少なすぎる」「増税はのめない」と上院共和党の大多数が賛成した法案への反対論が広がった。
=====【引用ここまで】=====

↑これが、新自由主義の文脈から素直に導かれる、増税に対する基本的なスタンスである。

歳出削減を棚上げして「財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとする」というのは、リバタリアニズム、新自由主義の考えからすれば、まず出てこない。

もし、新自由主義者が消費税増税に賛成するとしたら、本来の主義主張を捻じ曲げに曲げた末の政治的妥協の産物か、あるいは、所得税や相続税、固定資産税などなどを廃止して、税体系をシンプルに一本化し、税の総額を減らす過程での消費税増税くらいだろう。

今回の選挙において、有権者には実質的な選択肢がなかったと言える。
選挙結果は、新自由主義と、それを補完する新保守主義以外の選択が、実質的にはなかったことを示している
というのは、新自由主義をちゃんと理解していないことから導かれる世迷言である。
リバタリアンから言わせてもらえば、投票するに値する政党が無くて困っていたというのに。

社会保障の拡充のために消費税増税を推進した民主党旧政権、
公共事業・国債発行・増税容認・金融緩和のアベノミクス新政権、
増税容認と消費税の地方税化を掲げた維新の会、
消費税増税には反対したものの、社会保障の拡充を要求した諸政党、などなど、
いずれも、お世辞にも新自由主義とは言いがたい。

新自由主義の文脈では、まず歳出削減である。社会保障と公共事業のいずれも削減し、削減し、削減し、増税の必要が無くなるまで削減を求めることになる。ほとんどの政党が社会保障の拡充か、減災名目等の公共事業による景気のてこ入れを主張しており、新自由主義に沿って投票できる選択肢はあったかどうか。

続けて、上記の『自治労ふくおか』から引用する。

=====【引用ここから】=====
新自由主義から地域を守る地域政府(自治体)へ

 新自由主義、新保守主義が圧倒的な状況の下、橋下氏らの維新が、独自性を打ち出すのに利用したのは「分権」であった。国そのものを、ムダの塊として攻撃することで、独自性を打ち出したのである。それは新自由主義が、政府の縮小を主張していることと矛盾しない。国の行政機構、官僚を攻撃するために、分権を利用しているだけだ。その点は、みんなの党も同じである。
 そもそも新自由主義は、民営化などの単なる政策手法の集合なのではなく、政府体系の改編を組み込んだ「戦略」である。だからこそ、個別の政策や手法だけを対象に抵抗しても弱い。対抗する側にも、政府体系の改編などを含む「戦略」が必要だ。
 新自由主義とは異なる意味で「国」を相対化することこそが求められている。すなわち、グローバルな市場の暴力から実体経済=人々の生活を守るため、地域政府=自治体と地域の市民社会の共同で、地域の自律性を回復しなければならない。食料、エネルギー、福祉サービスをてこに、自治体が、地域に根ざした小さな循環経済を産み出す、分権的で多元的な福祉国家路線を追求するべきだろう。自治労の「戦略」は、おそらく、そこにしかない。

=====【引用ここまで】=====

まず、出水氏は、新自由主義と消費税増税の関係性を根本的に誤って理解しており、新自由主義は「圧倒的な状況」ではない、というのは前述のとおり。書き出しの時点でズレているので、以下、つらつらと書いている文章は「親亀こけたら皆こけた」状態である。山口二郎氏と同様、批判したい対象に、テキトーに「新自由主義」というレッテルを貼っているだけじゃないの?とすら思えてくる。

その点を割り引いて読んでも、なお、出水氏の分権論は訳が分からない。

「分権的で多元的な福祉国家路線」であれば、「グローバルな市場の暴力から実体経済=人々の生活」を守ることができる、守るためにその路線が必要だ、というように読めるのだが、具体的にどうすることで守れるのか。

そもそも、世界規模のマネーゲームに拍車をかけ、新興国バブルや資源高騰の一因となったのは、事実上政府の一部門である中央銀行の金融緩和だ。「市場の暴力」というが、政府部門たる中銀が大量の資金を供給し、その資金が特定分野に流れ込み、圧力を高めて市場を暴力的にした。市場を批判しても、問題は解決しない。

その「分権的で多元的な福祉国家路線」であるが、福祉国家を単純に言うと、国家による収奪と再分配である。奪わなければ配れない。福祉国家は常に収奪するための富を必要とする。自治体の範囲内に収奪できる富があれば良いが、自治体の範囲内に富が無ければ、福祉国家路線の自治体を実現することはできない。

今までは中央集権路線であり、貧しい自治体も中央からの分配を受けることで福祉国家路線を実施してきた。しかし、出水氏は「分権的で多元的な福祉国家路線」である。運営するための自治体の財源を、どこから調達するつもりなのか。中央が金を集め、中央に集まった金を地方に配分するという中央集権システムを当てにした分権論は、ただの「地方のわがまま」だ。

また、「地域の自律性」「地域に根ざした小さな循環社会」というと美しいが、具体的に何なのか、どういう状態を指しているのか。一歩間違えれば、「地域の閉鎖性」「外部との交易を断たれた縮小社会」である。他自治体からの農産物や工業製品に地域関税でもかけるのだろうか。

こんな具体論を欠いた「絵に描いた餅」を提示されて、「これからの自治労がとるべき戦略はこれだ!」と組合の機関紙で主張されても、これを読んだ組合員は困るだけだろう。山口二郎氏内田樹氏、そしてこの出水氏に共通する、良いとこ取りのご都合主義、具体性の無い主張。これらを「ありがたやー」と拝み、講演に呼んだり機関紙に掲載する人の気持ちが、私にはよく分からない。
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