若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

個人の官頼みが公務員の官尊民卑を後押し

2008年12月31日 | 政治
「社会保障の充実を!」なんてリベラルが騒ぎ、政府・官僚に莫大な金を委ねた結果、こうなった。

<年金記録>6年前から大量の食い違い 社保庁調査せず 11月2日 毎日新聞
 企業が厚生年金基金の運用部分を国に返す「代行返上」が始まった02年、企業の管理する年金記録と国の記録に大量の食い違いが見つかった状況を複数の企業担当者が毎日新聞の取材に証言した。社員の氏名の読み方や生年月日を中心に、多い所では社員の約17%に食い違いがあった。現在のずさんな年金記録問題につながる事態が6年前に発覚していたにもかかわらず、社会保険庁は当時、調査などに踏み出していないことから、改めて批判が強まりそうだ。

  関西の織物会社では約2万件の加入者記録のうち16~17%に食い違いがあった。氏名の読みや年金番号の不一致のほか、社保庁側の誕生日欄には1~9日生まれの人は「1日」、10~19日は「10日」などと記載され、1963~66年度に入社や退社した人に集中していた。会社側に残っていた年金台帳に基づき社保庁は訂正に応じたが、会社の担当者は「社保庁の間違いが明らかなものがほとんどだった」と話した。

  ある大手自動車メーカーは約10万2000件中、約1万400件に食い違いがあった。同社は、国の記録に合わせると年金が減る場合、社員にデメリットが生じないよう差額を補てんしたという。別の繊維会社は、社保事務所から「証拠がないなら国の記録に合わせて」と言われた。「両者が合わないと代行返上できず、合わせるしかなかった」と話す。【野倉恵】



加入者の誕生日。1~9日生まれの人は「1日」、10~19日は「10日」
こんな杜撰な管理をしてる保険会社とあなたは契約しますか?しませんよね?
官に頼ると、こんな信じられない管理の仕方が横行する。しかも、間違っているのは国なのに「証拠がないなら国の記録に合わせて」という官尊民卑っぷり。

官に頼ってはダメなのだ。

社会保障の充実だの、世代間の支え合いだの、 そうしたお題目を信じて得をすることは何も無い。行政機構が肥大化するだけだ。老後の生活にしても、自分や家族でどうにかするのを原則とし、公的年金を主として老後の生計を維持しようとする発想は捨てた方が良いと思う。

福澤諭吉はこうした状況を予測していたのだろうか、『学問のすゝめ』でこう述べている。

・・・学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、 十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心益々その風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜態見るに忍びざることなり。


国民の多くが公的年金をあてにして老後の計画を立てるという、官頼みの醜態。これ程までに官を慕い官を頼み、独立心を失っているにも関わらず、そういう人が公務員の無駄遣いを批判するねじれ現象。
公務員は批判されるべき点が多数ある。しかし、一方で公務員を批判しながら、一方で官頼みの風潮が改まらないというのは筋が通らない。
年金制度の運営という権限を政府から奪い、ずさんな管理をしていた者達から仕事を奪ってしまおう。

公務員に染み付いた官尊民卑の思想は、そう簡単には取れない。
「民間の調理業務に従事している人よりも、公務員調理職の方が質の高い仕事をしている。
だから、公務員調理職の方が給料が高くても、是正の必要はない」
と放言する人間もいるくらいだ。

公務員は、あの手この手で官尊民卑・官民の賃金水準の差を正当化しようとする。
公務員が一番恐れるのは、個人が独立すること。官が握っていた領域を、民に奪われること。

○公務員のためいき:普通救命講習を受講
同じ自治体で働く職員同士、その職責に差がないはずであり、事務技術系の非現業職と現業職の賃金水準などは基本的に同一な制度設計となっています。そのため、民間の調理業務などの従事者と比べ、公務員調理職らの「賃金は高すぎる」という批判が高まっています。そのような声があることを理由に現業賃金水準の引き下げや新規採用の手控えなど、総務省から自治体への圧力が強まっている現状です。

この動きに対し、自治労は単なる既得権確保の闘争にとどめず、よりいっそう現業職場の仕事の質を高めながら住民の皆さんからの共感を得られる取り組みを重視しています。その一環として、「公共サービス基本法」の制定をめざし、自治体業務の直営の必要性などを各地で訴えています。



なんでんかんでん、民間に任せてしまえ。
多少乱暴なくらいに民営化をした方が良い。
不手際をしても潰れない組織というのは、どんなブラック企業よりもたちが悪い。

勝手に宣伝 ~ ヒューマン・アクション ~

2008年12月23日 | 政治
『ヒューマン・アクション 人間行為の経済学』〈新版〉
L.V.ミーゼス著 村田稔雄訳
〈自由はとはなにか?〉〈市場がなぜ必要なのか?〉
人間行為学(Praxeology)の基礎的地平から、市場、通貨、景気などの経済的命題を捉えなおし、社会主義国家、福祉国家による市場干渉の誤りを解明し、自由主義思想の金字塔となったミーゼスの代表作。



景気対策を展開しようとする政府・与党。
福祉や社会保障の充実を求める野党。
与野党、官民問わず「大きな政府」を求める今の日本において、自由主義の立場から、
官僚制への不信や効き目無き市場介入を再認識するのは、決して無駄なことではない。

・・・と、まだ読んでもないし、買ってもないのに宣伝。

子育ては「公的責任」?

2008年12月19日 | 政治
公務員のためいき: 保育園が倒産
↑ここに、猪熊弘子氏の書いた『AERA』(2008年11月17日号)の記事抜粋が掲載されている。

この状況を、倒産した園に預けた親の「自己責任」だというつもりなのか。保育園は子どものための施設であり、本来、行政の責任で運営されるべきものだ。公的保育の責任を放棄し、安易に企業の参入を許すやり方が、むしろ子育て不安を増幅させている。世界的な企業でも一夜で倒産する時代。子どもたちの安定した生活を守るために、保育への企業参入を見直すべき時期に来ているのではないだろうか。


以下、私見。

子育ての主体は、あくまで親である。子供が成人するまでは、親が第一次的に責任を負う。家庭で子供を育てるか、子育ての一部を保育園や幼稚園等の施設に外注するかは、親の選択に委ねられている。外注した場合にのみ、施設は、親・施設間の契約の範囲内で第二次的に責任を負う。これはあくまでも、親の第一次的な責任を前提とする補助的なものだ。

「保育園は子どものための施設」という議論は、本質を誤魔化すものだ。親は、施設に対価を払って、子育てとして子供に費やす時間と労働力を施設から買っている。保育園は親が子育てを外注する施設であり、親のための施設だ。時間、人手、建物の維持や食事の提供などは、最終的には金額に換算され、誰かが費用を負担しなければならない。これは、自治体による施設運営であろうと企業による施設運営であろうと、異なるところはない。

「公的保育の責任」の強調は、我が子への保育の責任放棄を許すことにつながる。行政の責任は、保育園を運営した場合に、誰がいくら負担したのか、子供一人当たりの保育単価はいくらなのか、そういった点を明示することにある。保育園を運営すること自体は行政の責任ではない。保育園を運営するか否かは、自治体の裁量の範囲内であり、最終的には納税者の選択に委ねられるものだ。

猪熊氏は、保育園を「子どもが生まれて初めて関わる社会」と位置づけている。そして、子供の安定した生活を確保するため、行政による保育園の永続的な運営を要求し、企業の参入を制限するよう主張している。しかし、今は「世界的な企業でも一夜で倒産する時代」なのだ。永続的な運営自体が、相当なコストを必要とする。この時代に、タダで安定が手に入るなんて甘い考えは通用しない。


ここでひとつ、逆転の発想をしてみてはどうだろうか?
「保育園の倒産は、子供にとって良い社会経験になる」と前向きに捉えるのだ。
早かれ遅かれ、子供はそういう社会に叩き落されるのだから。

Passive man の生き方

2008年12月17日 | 政治
Libertarianism@Japan: Marx or Rand?
たとえば、ランドのActive man とPassive manの分類がある。参照→The only path to tomorrow
http://libertarian.up.seesaa.net/image/optt.htm
ようするにランドは、Active manが自由に活動できる自由を社会が抑圧してしまえば、Active manがだめになり、その結果として社会の大多数であるPassive manも駄目になると言っているのである。



アインランドの言うところの、Active man と Passive man 。
この構造は、次のリンク先の「自立・自己責任」と「甘え・無責任」の関係とよく似ている。

essay 525 日本の進路

Active man=「自立・自己責任」、Passive man=「甘え・無責任」で置き換えて読んでも、
ほとんどそのまま意味が通るだろう。

Passive man=「甘え・無責任」は、社会の圧倒的多数を占める。
Passive man がすべきことは、Active man=「自立・自己責任」の活動を規制せず、足を引っ張らず、
その活動と収入を嫉妬せず、自身の分際を弁えて生活することだ。

ワガママ原告団

2008年12月17日 | 政治
「アド街」の内容に問題があると審理要請
テレビ東京が10月18日に放送した「出没!アド街ック天国~浜田山」の内容に問題があるとして、「浜田山・三井グランド環境裁判原告団」は16日、放送倫理・番組向上委員会(BPO)に審理を要請する会見を都内で開いた。番組内は、グラウンド跡地に建設中のマンション「パークシティ浜田山」を1位にランク。価格を紹介するなど、スポンサーでもないのに宣伝要素が大きく、公共性を損なうというのが理由だ。2度にわたり質問や訂正などを要請したが、まともに対応せず、放送倫理に欠けるとしている。


原告団の理論でいくと、アド街の全ての放送が
「商品の価格を紹介するなど、スポンサーでもないのに宣伝要素が大きく、
公共性を損なう。」
という結論になる。
価格の紹介、宣伝要素の大きさが公共性に反するとして非難するなら、
特定の回の放送ではなく、アド街という番組そのものに文句を言うのが筋。
また、こういったことを放送するのは、この番組だけでない。
多くの放送局で、流行商品や食事、サービス、宿泊施設等を紹介する番組を作っている。
今回のように、建設予定の不動産を紹介することもある。
これらも、特定の商品を紹介し、宣伝要素が大きく、公共性を損なうものとなる。

・・・この調子で放送を弾劾していったら、8割方のテレビ放送は放送中止になるだろう。


さて。

この原告団のHPでは、次のような主張が掲載されている。

三井グランドと森を守る会: 「浜田山・三井グランド環境裁判」
歴史的・文化的にも、また都市環境の点からも極めて重要な意義を持つ本件三井グランドをとりつぶし、鉄とコンクリートのマンション群に変貌させることが、とりわけ周辺住民に対しどういう影響を及ぼすか、容易に想定できる。緑地を維持するだけでは足らず、格段に増やさなければならない状況であるのに、私有地であるとはいえ重大な社会的使命を果たしてきた三井グランドを営利の観点から一方的に処分開発することを周辺住民は黙過できなかった。控訴人らは、1万名以上にのぼる周辺住民を代表して、三井不動産と結託してこれを野放しにしている杉並区、東京都に開発を中止させ、緑地の保全を求めているのである。


今まで、タダで他人の土地を利用してきた。
タダで、緑地の恩恵を受けてきた。これからも恩恵を受けて当然だ。
周辺住民にタダで緑地を提供し続けるのが、三井不動産の社会的使命だ。

・・・この主張に狂気を感じたのは、私だけだろうか。
「社会的使命」という言葉は、なんて素敵なんだろう(棒読み


私有地でのマンション建設を予定する三井不動産に対し、
「緑地の維持管理料を全て負担するから、、建設を取り止めてほしい」
「三井グランドを地元住民で買い取って、緑地を保全したい。」
といった申し出をするのであれば、まだ理解はできるんだけど。

原告団の言うように、
「緑地を維持するだけでは足らず、格段に増やさなければならない状況」
ならば、周辺の一戸建てやアパートも片っ端から崩して更地にし、
そこを緑化すれば良い。
現在住んでいる住民だけがタダで緑地の恩恵を受け、
三井不動産にだけ負担を押し付けるのは不公平だ。
マンション建設を中止させるのなら、原告団をはじめとする周辺住民も立ち退くのが筋。
他人に社会的使命を要求するのであれば、
自分も同等の社会的使命を果たすべきだ。
公益のため、他者の私有財産をないがしろにする者は、
自分の私有財産についても、同様の制約を受けるべきだ。

緑地の増加という公益を掲げ、緑地の保全を企業の社会的使命と位置づける原告団。
社会的使命、社会的責任、社会的正義、公共の福祉、公益etc
他者の責任を追及し、相手に義務の行使を要求する時、これらの概念はとても便利だ。
しかし、これが自分に向かってきたら、これほど怖ろしい刃はない。
そして、この刃をみんなで振り回したら、自由なんてあっという間に死んでしまう。

ハイエク著『法と立法と自由』第2巻。サブタイトルは「社会正義の幻想」
そう、社会正義なんて幻想にすぎないのだ。

「文民」とは、軍人でない者をいう。

2008年12月13日 | 政治
日本国憲法
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
 たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
 永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦
 権は、これを認めない。

第66条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の
 国務大臣でこれを組織する。
2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。



この二つの条文を、整合的に理解するのは難しい。
なんせ、一方では
「軍隊を持ってはいけません」
と言いながら、もう一方で
「軍人は国務大臣になれません」
と言っているのだから。

自衛隊が軍隊で、自衛官が軍人なら、憲法第9条に抵触する。
自衛隊が軍隊でなく、自衛官が軍人でないなら、
自衛官が現役のまま国務大臣になっても憲法第66条第2項には抵触しない。

「日本に軍隊はある。第66条第2項には意味がある」と考えると、
第9条の立場がなくなる。
「自衛隊は軍隊ではない。あくまでも第9条が軸にある」と考えると、
第66条第2項は空文化する。

自衛隊は軍隊か否か。自衛官は軍人か否か。
自衛隊が軍隊であり、自衛官が軍人であるならば、文民統制という言葉には意味がある。
自衛官が軍人でないならば、自衛官は文民であり、文民統制という言葉とは無関係。

今、与野党とも「田母神論文は文民統制に照らして問題がある」と主張している。
与野党間では「自衛官は軍人である」という点で一致している・・・ということになる。
日本は軍隊を持つ国と公言しちゃっていいんですか、共産党さん、社民党さん?

一方、問題の論文を発表した田母神氏は、
「自衛官は軍人ではない。文民統制には服さない。私が何を発言しようが私の自由だ」
と考えていたのだろうか?
それとも、文民統制を明文で規定した法律がないから、文民統制でバッシングされると
思っていなかったのだろうか?
あるいは、何も考えていなかったのだろうか?

税金の無駄、定義は?

2008年12月13日 | 政治
無駄ゼロ会議の提言要旨
【特別会計の支出】
 批判や国民の受け止めを踏まえ特別会計の支出を点検▼08年度予算実質支出
178兆円から国債償還費、社会保障給付、地方交付税交付金などを除いた11兆
2000億円を重点的に見直す▼労働保険特別会計(雇用勘定)は雇用失業情勢や
国家財政の状況を勘案し、国費投入を行わないことを含めて見直す▼雇用・能力開発
機構の「私のしごと館」は業務を廃止し、施設の売却先を検討
 【行政コストの節減・効率化】
 広報経費・委託調査費は必要性をゼロベースで見直し、政府全体の予算額を08年
度比25%以上削減▼レクリエーション経費は08年度の執行を凍結し、09年度は
原則廃止▼タクシー代は業務の効率化を図り08年度比25%以上削減



行政コストを削るのはいい。無駄を無くそうとすることは評価する。
でもさ。


>08年度予算実質支出178兆円から国債償還費、社会保障給付、
>地方交付税交付金などを除いた11兆2000億円を重点的に見直す


 社 会 保 障 給 付 を 見 直 し の 対 象 か ら 外 す の ?


社会保障給付も無駄でしょ?(無駄の定義如何によっては、ね)
無駄ゼロ会議では、無駄の定義はどうなっているんだろう?


視点を変えれば、様々なものが無駄になったり、ならなかったりする。

例えば、国からのヒモ付きの補助金。

中央集権論者からすれば、国の関与を強化するためにヒモ付き補助金は有効な手段。

しかし、地方分権論者からすれば違ってくる。
ヒモ付き補助金は、地方の自主性を阻害し、地域の実情に合った行政を邪魔する存在。
すなわち、無駄な支出となる。
(その分は、ヒモのない交付税でよこせということになる。)

小さな政府論者からすれば、同じお金を、
国から支出しようが地方から支出しようが、
ヒモが付いていようが無かろうが、あまり重要ではない。
国・地方を合わせた政府支出の削減が目的なのだから。

定義次第では、社会保障給付が無駄になる。
定義次第では、マッサージチェアーが無駄にならない。

無駄とは、自分以外の誰かが受け取る支出の総称である。
自分に給付されるいかなる支出も、有意なものである。

社会保障は泥棒のはじまり

2008年12月13日 | 政治
コンビニに行った。腹が減った。おにぎりを食べたい。
しかし手持ちの金は100円のみ。

そんな時、人はどうするか。

何も買わず我慢する。90円のジュースでその場をしのぐ。
家から金を持ってくる。口座からおろす。明日の給料日を待つ。

おそらく、普通の人の行動はこんなところだろう。
しかし、別の行動をとる人もいる。

棚に手を伸ばしておにぎりをつかみ、その場で食べる。
棚のおにぎりを素早くポケットにねじ込む。
路地裏でカツアゲして小学生の財布を分捕る。

こういうのを、泥棒という。
自分の欲望、目的、意図などを達成しようとすれば、通常は手間がかかる。
わらしべ長者のように、交換や労力の積み重ねが必要だ。
ところが、泥棒は違う。ワラすら持たず、いきなり他人のみかんを盗ろうとする。
他人の負担や他人の金で、自分の欲望や目的を達成しようとする。

さて。

世の中には、
「医療費を無料にすべきだ」
「最低賃金を上げるべきだ」
「高校までの授業料を無料にすべきだ」
と主張する人々がいる。
この人々は、
「そのために、財産の半分を寄付します」
「私への所得税が倍になっても構いません」
「今受け取っている、年金の受給権を放棄します」
とは、あまり言わない。
逆に
「課税最低限を引き上げろ。所得税の最高税率を引き上げろ」
「生活必需品に対する消費税を撤廃しろ」
と主張するパターンが多い。

・・・泥棒どもめ。


「医療費を無料にすべきだ」
そう思うなら、あなたが医者になり、貧しい人々から医療費を取らないようにすれば良い。

「最低賃金を上げるべきだ」
そう思うなら、あなたが経営者になり、従業員に十分な給料と保障を与えれば良い。

「高校までの授業料を無料にすべきだ」
そう思うなら、あなたが私立の小・中・高校を設立し、貧しい家庭からは授業料を取らないようにすれば良い。

羅針盤なき社会保障

2008年12月13日 | 政治
「出産には金がかかる。なら出産費用を配ればいい」
こういう泥棒のような短絡さが気に食わない。
これで少子化対策になるんだろうか。金を貰ったら産む、という単純なものだろうか。

規制や補助金で不採算部門が温存され、
つぎはぎだらけの社会保障制度に多くの人がタダ乗りし、
公共サービスの維持を大義名分に、公務員の人件費は据え置かれる。
行政によって、社会全体が高コスト体質になっている。

今の仕組み、今の水準の社会保障制度を無理に維持しようとするから、少子化が問題になる。社会保障の水準を税収に見合った程度に下げていけば、少子化は問題にならない。問題視する必要が無い。

子供を産むかどうか、何人産むかはそれぞれの夫婦の問題であって、これを社会問題に転化するからおかしな話になる。むしろ、効果のあるかどうか分からない少子化対策を打ち出すことで、制度変更のコストが増すだけだ。


<出産一時金>42万円に増 来年10月から 財源に不満も 毎日新聞 2008年12月13日
 厚生労働省は12日の社会保障審議会医療保険部会で、出産育児一時金(現在35万円、09年1月以降38万円)を7万円アップし、42万円とする方針を説明した。09年10月~11年3月の暫定措置。妊産婦が立て替え払いせずに済むよう、医療保険が費用を医療機関に直接支払う仕組みを徹底させる。年間の所要金額約450億円のうち半分を国庫負担で、残りを保険料と交付税でまかなう。大筋で了承されたものの、舛添要一厚労相はこれまで財源を「全額国庫負担」と説明しており、出席者が不満を表明する場面もあった。

 一時金について舛添氏は当初「地域差をつける」と表明したが、自身が設置した検討会で猛反発を受け「一律アップ」に転じた。その際、舛添氏は「全額国庫負担で」と述べたが財務省と調整できず、3分の1程度は保険料で負担せざるを得なくなった。国庫補助の割合は保険者の財政力に応じて決めるといい、補助がゼロの健保組合も出てくる見込み。このため12日の審議では、負担増となる自治体や健保組合の代表らから「話が違う」と批判が相次いだ。



35万円→38万円の変更は、21年1月から施行。そのための政令改正は、この20年12月にギリギリ決まった。厚生労働省は政令の遅れをうけて、前代未聞の改正条例参考案を作って市町村に流すという不手際ぶりを発揮した。

それでようやく決まったと思ったら、もう次の変更だ。しかも、増額分は全額国庫負担の予定だったに、保険料からの負担アリという話になった。地域ごとに決めるという予定も、一律アップに変更された。そして、21年10月~23年3月の期間限定、暫定措置。その先はどうするか未定ときた。

どうも、継ぎはぎ感が否めない。腰が据わってない。ちゃんと事前準備をしてから施行できるんだろうか?そもそも、21年10月には麻生総理も舛添厚労相も閣僚を去っているんじゃなかろうか?

自分が議員なら、何を質問する?

2008年12月13日 | 地方議会・地方政治
行橋市議会:議員の一般質問者少なく、奮起期待の声も /福岡 毎日新聞 2008年12月9日 京築版
行橋市議会(定数21)12月定例会は8日、一般質問が始まった。同市議会は4月 の改選前から一般質問者が少ない状態が慣例化。改選後の6、9月定例会は8人で、今回も10人が質問するが、全議員の半分に満たないなど権利を行使しないのが当たり前となっている。

   ===============中略===============

質問者が少ないことについて4月の改選に出馬、落選した20代男性は「はがゆく悔しい。自動車工場の派遣社員削減問題への対応などただしたい事はたくさんあるのに」とため息。同じく落選した40代の男性も「当選したら毎回欠かさず質問に立つつもりだった。市政課題に立ち向かおうという姿勢が感じられない」と奮起を期待した。
一般質問は10日までで午前10時開会。【降旗英峰】
改選後、今議会を含み一般質問をしていない議員は以下の通り。(城戸好光議長除く、敬称略)
亀田国夫、藤本広美、諌山直、二保茂則、豊瀬尉、田渕哲、吉永直、沢田保夫(副議長)、西本徹




市議会議員は実名で批判され、批判コメントを出している落選者は実名が伏せられている。
選挙で落ちたら私人だから名前は非公表?選挙に立候補した人間を私人扱いすべきか?
なんか腑に落ちないので、実名を探してみた↓。

ザ・選挙 行橋市議会議員選挙結果

記事にある「落選した20代男性」は小坪慎也、 「落選した40代の男性」は井下田清智、
ということらしい。


さてさて。


議会の一般質問では、共産党、公明党、解放同盟、農家etc、
それぞれの議員が自分の支持者の利益を代弁している。
「財政状況は厳しいが、○○にはしっかり対応してほしい」
「交付金は減っているが、△△の充実は図っていくべきだ」
という、自分の畑に予算を引っ張ろうとするものが目立つ。
でも、
「役所の職員数を減らせ」
「歳出を減らせ」
「滞納者への対応を厳しくしろ」
といった、納税者の立場を積極的に代弁する一般質問はあまり目にしない。

住民は、自分の近くにお金を落としてくれる議員に票を投じる。
良い議員とは、自分に便宜を図ってくれる議員だと住民は思っている。
そうした部分最適の積み重ねでは、全体最適とはならない。
むしろ、部分最適を図る手段として行政を利用することで、行政は少しずつ大きくなり、結局は全体として高コスト体質の行政機構ができあがるのに。

民主主義は「治者と被治者の同一性」であると言われる。
住民のレベルが、議員や職員のレベル。治者と被治者は同一なのだ。