若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

続・反「スーパー公務員」論 ~ 役に立ちたいなら起業せよ ~

2012年11月21日 | 政治
NHK北九州放送局のローカルニュース(平成24年11月15日放送分)で、
北九州市の電動自転車共同利用サービスの3ヵ年の利用状況が低迷している中、北九州市が追加費用を投じて当事業を拡大しようとしている」
とあった。

ニュースの内容は、メモを頼りに大まかに記憶をたどると、
「電動アシスト自転車が現在116台ある中で、利用されているのは一日平均30数台」
「サイクルステーションと電動アシスト自転車の数を増やし、利用拡大を図る」
「需要予測はしてない。数字的な根拠や見込みは持っていない」
というもの。

狂気の沙汰だ。

現在ある110台のうち80台は利用されていないのに、何の見通しも無く、追加費用を投じて台数を増やすというのだ。こういう無駄を民間会社では通常しないだろうし、仮に、こういう無駄を続けて経営が傾いても、その会社の自業自得。経営方針の転換か倒産かを迫られることになれば、無駄を続けていくことはできない。

ところが、自治体はそうではない。無駄を続けることができる。根拠無き思いつきでも、予算を付けて無駄を拡大することができる。そして、公務員は自分で責任を取ることができない。責任を取るといっても、せいぜい辞表を出すくらいのもの。無駄によって生じたツケ、損害は、結局のところ納税者が負担しなければならない。

公務員と経営者は違う。そして、費用を負担する納税者と株主も違う。株主は、伸るか反るか、高配当を得るか株券が紙くずになるか、経営者の思いつき企画に賭けるかどうかの選択の自由がある。経営者は、株主に企画内容を説明し、納得を得られなければ資金を集めることができない。そうして集めた資金だからこそ、思い切ったことが許されるのだ。

このように、経営者の決定権は、市場の淘汰、経営者の説明責任、株主の選択の自由が相互にリンクした上に成立している。しかし、役所には、その事業内容に納得しようがしまいが、強制的に税金を取り立てる権限、徴税権がある。金を強制的に集め、金を取られた人の意向に沿おうが沿うまいが、事業を推し進めることができる。

ここで、事業を推し進めているのが首長であれば、その事業が気に入らない場合、4年に1度の選挙で落とすことができる。リコール請求もできる。公選職であれば、選挙によってその権限をある程度までは肯定できる。有効な手段とは言いがたいが、形式的には、権限を担保するものとして、一応の歯止めとしての選挙が存在している。

しかし、事業を推し進めているのが首長ではなく、いち担当公務員であった場合、どのように歯止めをかけることができるだろうか。市場の淘汰も株主の選択の自由もなく、選挙の歯止めもない担当レベルの公務員が独断専行した場合、これを裏付けるものはない。



さて。

3年前に『反「スーパー公務員」論』という記事を書いたが、最近、また「スーパー公務員」が話題になっている。

○仰天アイデアの「スーパー公務員」 (2012年06月16日) | ウェークアップ!ぷらす
○カンブリア宮殿 限界集落から奇跡の脱出!地方再生 仕掛けるスーパー公務員石川県羽咋(はくい)市役所職員 高野 誠鮮(たかの・じょうせん)氏

スーパー公務員、高野氏は、宇宙博物館が当たらなかったらどうするつもりだったのだろうか。当たらなかったら、ただの「旧態依然とした箱物行政」だ。赤字分は、自身が住職を勤める寺を売って補填するつもりだったのだろうか。

高野氏が社長か経営コンサルタントなら、「優れたアイデアと行動力を持つ人だ!!」と手放しで賞賛できる。

しかし、彼は公務員なのだ。成功した場合は良いが、失敗した場合の責任を何も負うことがない。道義的な責任はあるが、法的、経済的な責任は無い。

思いつきで突っ走って、後に残ったのがランニングコストだけ、そんな自治体の事業は山ほどある。全国あちこちにある。だが、それで担当課長がクビになったというような話は聞かない(逆に、無駄な事業を推進した担当者が、なぜか昇進したというケースすらあるようだ)。

高野氏の上司は、「犯罪以外のことなら、全部責任をとってやる」と言ったそうだが、どう責任をとるつもりだったのだろうか。屋敷と田畑を全部売って補填してくれるつもりだったのだろうか。金融機関を駆け回って金策に走ってくれるのだろうか。結局のところ、高野氏も上司も、責任をとらない、制度上責任をとれないのだ。

成功すれば高野氏のようにテレビで賞賛されるが、これは氷山の一角。水面下には、権限と責任の著しくアンバランスな中で遂行された失敗事業が、山のようにある。テレビで高野氏が賞賛されることで、全国の地方公務員が思いつきで独断専行を始めたら大変なことになる。

高野氏は「役に立つ人だから役人」ということを言ったが、実際の役人の世界には、役に立たない人を排除する仕組みが機能していない。そして、役人の世界には、何をもって「役に立った」と判定するのかの基準が無い。役人が「よし、私が実施した事業は役に立った」と言うのはただの自己満足。

番組の中で、経営者のような発想と突破力を賞賛されていた高野氏。だが、その権限には責任が伴っていない。アンバランスなのだ。彼は経営者ではない。担当レベルの公務員なのだ。

役に立たない(=利用者・消費者に支持されない)会社は長続きしない。良い取引で「ありがとうの連鎖」を続けることが、会社存続の鍵である。役に立つのは会社であって、役所・役人ではない。高野氏がこれからも「役に立つ人」であり続けたいのなら、公務員を辞めて、自身が立ち上げたブランド米販売会社にいくのが一番良いと思う。高野氏の能力なら、きっとできる。

※ちなみに「ありがとうの連鎖」は、尊敬する私の師匠筋のセリフ
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議会改革に「納税者のため」の視点を ~政府が希少性を解決?~

2012年11月13日 | 地方議会・地方政治
先日、市民と議員の条例づくり交流会議in九州というイベントに参加してきた。

このイベントの内容や当日の雰囲気などは、

○社民党 田川市議会議員 - 佐々木まこと の 日進月歩 市民と議員の条例づくり交流会議IN九州行われる
○井星喜文ルーム 「福岡県筑後市議会議員 井星喜文のブログ」 議員の「質問力」

で紹介されている。

ここでは、議員の役割、存在意義、住民から見て分かりやすい議会のあり方、委員会による事業仕分けなど、議会改革にまつわる様々な問題提起がなされ、興味深い議論が行われた。

イベントの詳細や直接的な内容については、今回は触れない。
今回のテーマは、このイベントで配布された資料にあった、気になる一節。
これを引用する。

「一般質問の機能と可能性」
=====【引用ここから】=====
2.あたりまえのことから考える、政府=国・自治体の再定義
・ひとびとの暮らしを支える<政策・制度のネットワーク>のうち、市民からみて必要不可欠な部分を、市民から権限と財源をあずかって行う機関
・自治体=市民に最も身近な政府
・地域の課題にとりくむために、市民から権限と財源をあずかっている政策主体
・地域の課題にとりくむ=政策→施策→事業を展開する
・無限の課題、有限の資源。なので、無限の課題の「どれが市民から『市がとりくむべき』と委託されている課題なのか」を決める必要がある=優先課題を特定する「決断」
・決められる権限を持つのは、最終的には、市民の代表=長あるいは議会

=====【引用ここまで】=====
※この資料に近い内容は、「福知山市市民協働まちづくりシンポ レジュメ 自治基本条例を考える-市と市民の関係を再定義する-」にも掲載されている。


ここで出てきた「無限の課題、有限の資源」というのを見て、経済学で言うところの「希少性の原理」というのを思い出した。人間の欲望には限りがないけれど、その欲望を充足させる手段には限りがある、という、経済学のスタートの議論だ。

有限の資源をどのようにすれば有効配分できるか?

この問いに対しては、経済学ではある程度答えが出ている。
「市場における価格メカニズムが一番効率的でしょ」
ということだ。

いわゆる「市場の失敗」が指摘される部分以外では、価格メカニズムの効率性に勝るものはないだろう。「市場の失敗」が該当しない分野では、市場で解決できない問題を政府がやっても解決できず、政府の非効率がさらなる問題を生じさせる。首長の独裁で政府の意思決定を行おうが、議会での議論や修正を経て政府の意思決定を行おうが、市場で解決できないものは政府でも解決できない。

市町村の行政に寄せられる地域の課題は「市場の失敗」に限定されていない。そこで、寄せられた課題のうち、市町村行政が対処するものを「市場の失敗」に限定し整理することが、「無限の課題、有限の資源」に対処する第一歩なのだ。

ところが、首長にも、議員にも、行政の役割を「市場の失敗」に限定しようとする動機がない。有権者は、「あれも出来ます、これも出来ます」という候補者を選ぶので、「あれは行政ではしません。これも行政ではできません」と「市場の失敗」に限定しようとする首長や議員は選ばれにくい。これは、首長や議員が納税者の代表ではなく、市民の代表だからだ。

上記引用資料に「ひとびとの暮らしを支える<政策・制度のネットワーク>のうち、市民からみて必要不可欠な部分を、市民から権限と財源をあずかって行う機関」とあるが、このうち、「市民から権限と財源をあずかって」という部分が、根っこからズレているように思う。財源をあずけたのは、「市民」ではない。「納税者」なのだ。経済活動によって富を産み出した人々が、納税者としてその富の一部を役所にあずけている・・・盗られている。

納税者と税消費者は、考える基準が違う。納税者は「盗られた自分の金を、せめて、少しでも効率的・効果的に使ってもらいたい」と考えるが、税消費者は「自分のところに、少しでも多くの金が回ってきてほしい」と考える。納税者からは「市場に任せるのと政府に任せるのと、どちらが効率的か」という視点が出てくる余地があるが、税消費者からは出てこず、「自分のところに金が回ってくるか否か」しかない。税消費者は、自分のところに金が回ってくる施策であれば、いかに非効率な事業であっても賛成するだろう。

現在の日本では、憲法によって普通選挙制を採用している。直接税を払っているか否かを問わず、選挙権を行使して代表を送り出すことができる。税消費者の代表は、自分の支持者に金を回すことだけを考える。公共工事で、福祉で、公務員給与で、支持者への利益誘導を図る。

税消費者の代表の利益誘導を、納税者の代表がいかにして抑え込むか。

そのためのツールとして、議会報告会や議場資料公開、議員間討議、事業仕分けがある。事前に、あるいは事後に合目的性・効率性・妥当性の議論を重ね、問題点を白日の下に晒していかなければいけない。

これらのツールが政府の失敗の直接的な解決策とはならないだろうが、でも、しないよりはマシだ。
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