NHK北九州放送局のローカルニュース(平成24年11月15日放送分)で、
「北九州市の電動自転車共同利用サービスの3ヵ年の利用状況が低迷している中、北九州市が追加費用を投じて当事業を拡大しようとしている」
とあった。
ニュースの内容は、メモを頼りに大まかに記憶をたどると、
「電動アシスト自転車が現在116台ある中で、利用されているのは一日平均30数台」
「サイクルステーションと電動アシスト自転車の数を増やし、利用拡大を図る」
「需要予測はしてない。数字的な根拠や見込みは持っていない」
というもの。
狂気の沙汰だ。
現在ある110台のうち80台は利用されていないのに、何の見通しも無く、追加費用を投じて台数を増やすというのだ。こういう無駄を民間会社では通常しないだろうし、仮に、こういう無駄を続けて経営が傾いても、その会社の自業自得。経営方針の転換か倒産かを迫られることになれば、無駄を続けていくことはできない。
ところが、自治体はそうではない。無駄を続けることができる。根拠無き思いつきでも、予算を付けて無駄を拡大することができる。そして、公務員は自分で責任を取ることができない。責任を取るといっても、せいぜい辞表を出すくらいのもの。無駄によって生じたツケ、損害は、結局のところ納税者が負担しなければならない。
公務員と経営者は違う。そして、費用を負担する納税者と株主も違う。株主は、伸るか反るか、高配当を得るか株券が紙くずになるか、経営者の思いつき企画に賭けるかどうかの選択の自由がある。経営者は、株主に企画内容を説明し、納得を得られなければ資金を集めることができない。そうして集めた資金だからこそ、思い切ったことが許されるのだ。
このように、経営者の決定権は、市場の淘汰、経営者の説明責任、株主の選択の自由が相互にリンクした上に成立している。しかし、役所には、その事業内容に納得しようがしまいが、強制的に税金を取り立てる権限、徴税権がある。金を強制的に集め、金を取られた人の意向に沿おうが沿うまいが、事業を推し進めることができる。
ここで、事業を推し進めているのが首長であれば、その事業が気に入らない場合、4年に1度の選挙で落とすことができる。リコール請求もできる。公選職であれば、選挙によってその権限をある程度までは肯定できる。有効な手段とは言いがたいが、形式的には、権限を担保するものとして、一応の歯止めとしての選挙が存在している。
しかし、事業を推し進めているのが首長ではなく、いち担当公務員であった場合、どのように歯止めをかけることができるだろうか。市場の淘汰も株主の選択の自由もなく、選挙の歯止めもない担当レベルの公務員が独断専行した場合、これを裏付けるものはない。
さて。
3年前に『反「スーパー公務員」論』という記事を書いたが、最近、また「スーパー公務員」が話題になっている。
○仰天アイデアの「スーパー公務員」 (2012年06月16日) | ウェークアップ!ぷらす
○カンブリア宮殿 限界集落から奇跡の脱出!地方再生 仕掛けるスーパー公務員石川県羽咋(はくい)市役所職員 高野 誠鮮(たかの・じょうせん)氏
スーパー公務員、高野氏は、宇宙博物館が当たらなかったらどうするつもりだったのだろうか。当たらなかったら、ただの「旧態依然とした箱物行政」だ。赤字分は、自身が住職を勤める寺を売って補填するつもりだったのだろうか。
高野氏が社長か経営コンサルタントなら、「優れたアイデアと行動力を持つ人だ!!」と手放しで賞賛できる。
しかし、彼は公務員なのだ。成功した場合は良いが、失敗した場合の責任を何も負うことがない。道義的な責任はあるが、法的、経済的な責任は無い。
思いつきで突っ走って、後に残ったのがランニングコストだけ、そんな自治体の事業は山ほどある。全国あちこちにある。だが、それで担当課長がクビになったというような話は聞かない(逆に、無駄な事業を推進した担当者が、なぜか昇進したというケースすらあるようだ)。
高野氏の上司は、「犯罪以外のことなら、全部責任をとってやる」と言ったそうだが、どう責任をとるつもりだったのだろうか。屋敷と田畑を全部売って補填してくれるつもりだったのだろうか。金融機関を駆け回って金策に走ってくれるのだろうか。結局のところ、高野氏も上司も、責任をとらない、制度上責任をとれないのだ。
成功すれば高野氏のようにテレビで賞賛されるが、これは氷山の一角。水面下には、権限と責任の著しくアンバランスな中で遂行された失敗事業が、山のようにある。テレビで高野氏が賞賛されることで、全国の地方公務員が思いつきで独断専行を始めたら大変なことになる。
高野氏は「役に立つ人だから役人」ということを言ったが、実際の役人の世界には、役に立たない人を排除する仕組みが機能していない。そして、役人の世界には、何をもって「役に立った」と判定するのかの基準が無い。役人が「よし、私が実施した事業は役に立った」と言うのはただの自己満足。
番組の中で、経営者のような発想と突破力を賞賛されていた高野氏。だが、その権限には責任が伴っていない。アンバランスなのだ。彼は経営者ではない。担当レベルの公務員なのだ。
役に立たない(=利用者・消費者に支持されない)会社は長続きしない。良い取引で「ありがとうの連鎖」を続けることが、会社存続の鍵である。役に立つのは会社であって、役所・役人ではない。高野氏がこれからも「役に立つ人」であり続けたいのなら、公務員を辞めて、自身が立ち上げたブランド米販売会社にいくのが一番良いと思う。高野氏の能力なら、きっとできる。
※ちなみに「ありがとうの連鎖」は、尊敬する私の師匠筋のセリフ
「北九州市の電動自転車共同利用サービスの3ヵ年の利用状況が低迷している中、北九州市が追加費用を投じて当事業を拡大しようとしている」
とあった。
ニュースの内容は、メモを頼りに大まかに記憶をたどると、
「電動アシスト自転車が現在116台ある中で、利用されているのは一日平均30数台」
「サイクルステーションと電動アシスト自転車の数を増やし、利用拡大を図る」
「需要予測はしてない。数字的な根拠や見込みは持っていない」
というもの。
狂気の沙汰だ。
現在ある110台のうち80台は利用されていないのに、何の見通しも無く、追加費用を投じて台数を増やすというのだ。こういう無駄を民間会社では通常しないだろうし、仮に、こういう無駄を続けて経営が傾いても、その会社の自業自得。経営方針の転換か倒産かを迫られることになれば、無駄を続けていくことはできない。
ところが、自治体はそうではない。無駄を続けることができる。根拠無き思いつきでも、予算を付けて無駄を拡大することができる。そして、公務員は自分で責任を取ることができない。責任を取るといっても、せいぜい辞表を出すくらいのもの。無駄によって生じたツケ、損害は、結局のところ納税者が負担しなければならない。
公務員と経営者は違う。そして、費用を負担する納税者と株主も違う。株主は、伸るか反るか、高配当を得るか株券が紙くずになるか、経営者の思いつき企画に賭けるかどうかの選択の自由がある。経営者は、株主に企画内容を説明し、納得を得られなければ資金を集めることができない。そうして集めた資金だからこそ、思い切ったことが許されるのだ。
このように、経営者の決定権は、市場の淘汰、経営者の説明責任、株主の選択の自由が相互にリンクした上に成立している。しかし、役所には、その事業内容に納得しようがしまいが、強制的に税金を取り立てる権限、徴税権がある。金を強制的に集め、金を取られた人の意向に沿おうが沿うまいが、事業を推し進めることができる。
ここで、事業を推し進めているのが首長であれば、その事業が気に入らない場合、4年に1度の選挙で落とすことができる。リコール請求もできる。公選職であれば、選挙によってその権限をある程度までは肯定できる。有効な手段とは言いがたいが、形式的には、権限を担保するものとして、一応の歯止めとしての選挙が存在している。
しかし、事業を推し進めているのが首長ではなく、いち担当公務員であった場合、どのように歯止めをかけることができるだろうか。市場の淘汰も株主の選択の自由もなく、選挙の歯止めもない担当レベルの公務員が独断専行した場合、これを裏付けるものはない。
さて。
3年前に『反「スーパー公務員」論』という記事を書いたが、最近、また「スーパー公務員」が話題になっている。
○仰天アイデアの「スーパー公務員」 (2012年06月16日) | ウェークアップ!ぷらす
○カンブリア宮殿 限界集落から奇跡の脱出!地方再生 仕掛けるスーパー公務員石川県羽咋(はくい)市役所職員 高野 誠鮮(たかの・じょうせん)氏
スーパー公務員、高野氏は、宇宙博物館が当たらなかったらどうするつもりだったのだろうか。当たらなかったら、ただの「旧態依然とした箱物行政」だ。赤字分は、自身が住職を勤める寺を売って補填するつもりだったのだろうか。
高野氏が社長か経営コンサルタントなら、「優れたアイデアと行動力を持つ人だ!!」と手放しで賞賛できる。
しかし、彼は公務員なのだ。成功した場合は良いが、失敗した場合の責任を何も負うことがない。道義的な責任はあるが、法的、経済的な責任は無い。
思いつきで突っ走って、後に残ったのがランニングコストだけ、そんな自治体の事業は山ほどある。全国あちこちにある。だが、それで担当課長がクビになったというような話は聞かない(逆に、無駄な事業を推進した担当者が、なぜか昇進したというケースすらあるようだ)。
高野氏の上司は、「犯罪以外のことなら、全部責任をとってやる」と言ったそうだが、どう責任をとるつもりだったのだろうか。屋敷と田畑を全部売って補填してくれるつもりだったのだろうか。金融機関を駆け回って金策に走ってくれるのだろうか。結局のところ、高野氏も上司も、責任をとらない、制度上責任をとれないのだ。
成功すれば高野氏のようにテレビで賞賛されるが、これは氷山の一角。水面下には、権限と責任の著しくアンバランスな中で遂行された失敗事業が、山のようにある。テレビで高野氏が賞賛されることで、全国の地方公務員が思いつきで独断専行を始めたら大変なことになる。
高野氏は「役に立つ人だから役人」ということを言ったが、実際の役人の世界には、役に立たない人を排除する仕組みが機能していない。そして、役人の世界には、何をもって「役に立った」と判定するのかの基準が無い。役人が「よし、私が実施した事業は役に立った」と言うのはただの自己満足。
番組の中で、経営者のような発想と突破力を賞賛されていた高野氏。だが、その権限には責任が伴っていない。アンバランスなのだ。彼は経営者ではない。担当レベルの公務員なのだ。
役に立たない(=利用者・消費者に支持されない)会社は長続きしない。良い取引で「ありがとうの連鎖」を続けることが、会社存続の鍵である。役に立つのは会社であって、役所・役人ではない。高野氏がこれからも「役に立つ人」であり続けたいのなら、公務員を辞めて、自身が立ち上げたブランド米販売会社にいくのが一番良いと思う。高野氏の能力なら、きっとできる。
※ちなみに「ありがとうの連鎖」は、尊敬する私の師匠筋のセリフ