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若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

(仮想)公的おにぎり保険

2017年05月30日 | 政治
おにぎりを食べたいと思う客がいる。
        ↓
客がコンビニへ行く。
        ↓
客がおにぎりを手に取り、レジで店員に渡す。
        ↓
店員が代金を請求する。
        ↓
客が代金を支払い、おにぎりの引渡しを受ける。



このように、従来は、おにぎりの販売については自由に行われていたが、社会情勢の変化に伴うおにぎりに対するニーズの増大を背景に、誰もが安心しておにぎりを食べられるよう、おにぎりの提供を社会全体で支えることを目的として、「(仮想)おにぎり保険制度」が創設された。
おにぎり保険制度における、おにぎり入手までの流れは次のようになる。



おにぎりを食べたい客(又はその家族)が、市町村役場の窓口でおにぎり認定の申請をする。
        ↓
調査員が客の自宅を訪問し、身体機能、生活機能、認知機能などを調査する。
        ↓
客が主治医の診察を受ける。
        ↓
主治医が意見書を作成する。
        ↓
調査員が調査結果と意見書内容をシステムに入力し、どのくらいのおにぎりが必要か、月間で何個のおにぎりの提供を受けられるかの基準となる「要おにぎり度」をコンピューターで判定する(一次判定)。
        ↓
医師、栄養士、調理師などが集まっておにぎり認定審査会を開催し、「要おにぎり度」のコンピューター判定に対し意見を述べ、最終的な判定を行う(二次判定)。
        ↓
市町村が、判定された「要おにぎり度」を本人に通知する。
        ↓
客がマネージャーにおにぎり提供計画の作成を依頼。
        ↓
マネージャーが客やその家族と面談。
        ↓
マネージャーがおにぎり提供計画の原案を作成し、おにぎり事業所、客、家族で会議を開き、おにぎり提供計画を決定する。
        ↓
客と事業所(予めおにぎり提供事業者として都道府県や市町村の審査を経て指定を受けたものに限る)とで契約締結。
        ↓
おにぎり提供計画に基づき、事業所がおにぎりを提供。
        ↓
月ごとに、提供されたおにぎりの個数と種類を点数化して集計。
        ↓
事業所に配置された従業員の数、
おにぎりを握る人や運ぶ人の公的資格の有無、
国が定めるおにぎり管理研修の受講状況、
どういった客におにぎりを提供したか、
食中毒等の緊急時に備えた外部の事業者との連携状況
・・・等々に応じて加算、減算を行い、おにぎり事業所が公法人おにぎり連合会へ報酬を請求する。
        ↓
おにぎり連合会が点数を審査し、おにぎり報酬を算定。
        ↓
保険者(市町村)が総額の9割と審査手数料をおにぎり連合会に支払う。
        ↓
おにぎり連合会が事業所に総額の9割を事業所に支払う。
        ↓
客は、事業所に残りの1割を支払う。



…さてと。

おにぎり保険制度が創設されたことによって、弊害が生じた。

おにぎり保険制度の運営には、膨大な手間と時間を必要とする。当事者間の契約だけなら不要であった、マネージャー、医師、栄養士、調理師、SE、都道府県職員、市町村職員、連合会職員といった、多くの人がこれに従事させられることによって、本来なら提供されていたはずの他の商品やサービスの提供量が減ったか、あるいは提供そのものがなくなった。

また、制度創設によって、客への配慮・味の向上への意欲と同等かそれ以上に、事業所や報酬の審査を行う都道府県・市町村・連合会への配慮が必要になった。行政機関の審査に合格しなければ、客が承諾しても保険報酬が支払われないからだ。行政の審査を通らなくなるリスクを犯したくない。独自のおにぎりを提供するくらいなら、予め行政が示している類型に当てはめた無難なおにぎりを提供した方が間違いなく報酬審査を通る。これによって、おにぎりは画一的になり味は低下した。

弊害はまだある。

以前なら、客が代金を支払うとともにおにぎりを選ぶので、おにぎりが価格に見合ったものかどうかを客が判断していた。原材料の高騰で価格が上昇すれば、おにぎりの利用量を減らしたり、パン等の代替物に変えたりといった選択をすることになる。原材料の高騰という情報がおにぎりの値段を通して客へ伝わり、結果としておにぎりの消費量が自然と調整されていた。

ところが、おにぎり保険制度のもとでは、客は1割負担でおにぎりを買えるため、
「必要かどうかは置いといて、とりあえず毎月の枠上限までおにぎりを買っておこう」
と考える客が多数出現した。枠上限までおにぎりを購入する計画を、客に提示するマネージャーも続出した。

本来なら、価格メカニズムを通して、おにぎりに使用される米の量とチャーハンに使用される米の量が決定されていた。ところが、おにぎりだけが公営保険制度化されたために、おにぎりの消費量が本来の需要を超えて膨らみ、米がおにぎりの原料として優先して回されることになり、結果、チャーハンで使える米が著しく減ってしまった。

こうなると、チャーハンの業者は「おにぎりだけでなく、チャーハンにも保険適用せよ」とロビー活動をするようになる。そして、チャーハンが公営保険の枠組みに入ると、チャーハンの過剰消費が始まり、チャーハンで過剰に消費されたネギや卵が高騰するようになった。

おまけに、おにぎり事業所で働く従業員の低賃金も問題になった。というのも、保険制度の開始によって、国がおにぎり単価を設定するようになり、上質なおにぎりでもそうでないおにぎりでも、国の設定単価に合わせないといけなくなったからだ。個々の事業所で代金を変更することはできない。おにぎりが売り切れたからといって、おにぎりの値段を上げることができない。上質な米を使っておにぎりを作っても、腕のいい職人が作ったものでも、代金を上げることはできない。そのため、事業者はおにぎりの原材料費を下げるか人件費を削るかのどちらかでコストを下げて利益を獲得するようになったのだ。

制度が開始されたことによって、様々な分野で過剰消費や過少供給、賃金の歪み等が生じ、国民生活は貧しくなった。
あぁ、「おにぎり保険」のなんと恐ろしいことよ。
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「政府-正統性=暴力団」 ~ 政府に新たな役割を持たせない ~

2017年05月24日 | 政治
以前、当ブログにて「公務員 - 合法性 =ヤクザ」と述べたことがある。

○「公務員-合法性=ヤクザ」「労働組合=-合法性」「公務員+労働組合=ヤクザ」 - 若年寄の遺言
○公務員とヤクザの違い ~合法的略奪の反道徳性~ - 若年寄の遺言

今回は、この視点をもとに「国家」「政府」を見てみよう。

国家の三要素とは -意味/解説/説明 | 弁護士ドットコムで法律用語をわかりやすく
=====【引用ここから】=====
国家の三要素とは、「領土・国民・主権」であり、「国家」であると認定されるために必要な基準要項のことを意味する。法学・政治学の観点から、これら「領土・国民・主権」をもつものを「国家」としている。
-----(  中略  )-----
主権について、正統な物理的実力のこと。この実力は、対外的・対内的な性格をもって、排他的に行使できなければならない、つまり、主権的でなければならない。
=====【引用ここまで】=====

暴力団ミニ講座その5
=====【引用ここから】=====
5) 縄張り
「縄張り」とは、暴力団が正当な権利を持っているわけでもないのに、他の暴力団組織が活動することを拒否し、自己の権利として主張している勢力範囲のことです。

-----(  中略  )-----
こうした、暴力団の縄張り意識には、要するに、一定の土地とその区域内において、その集団が独占的、恣意的に支配する権利と、さらにその内外を明確に区分する境界の意識の3つが含まれているわけです。
=====【引用ここまで】=====

この二つの説明がよく似ていると思ったのは、私だけだろうか。

国家(≒暴力団とその縄張り)の範囲内では、実力行使によって他の国家を排除した独占的な権益が生じている。政府は、暴力団と同じように自身の実力によって縄張りから他の政府の影響力を排除し、縄張りからの上納金を集めている。

この二つの説明の中で、政府と暴力団が違うのはどこかと言えば、マックス・ウェーバーが言うところの「正統(当)性の有無」である。つまり、

「公務員 - 合法性 = ヤクザ」

という式が成り立つのと同様に、

「政府  - 正統性 = 暴力団」

という式が成り立っている。
政府と暴力団の違いは、ほとんど「正統性の有無」しか無く、これ以外の、例えば成り立ちや行動原理、あるいは政府指導者間の駆け引きと暴力団のそれ、といったものは非常によく似ていると言える。

暴力団は、誰も頼んでもいないのに勝手に「ここは俺たちの縄張りだ」と主張し、他の暴力団の影響力を排除し、その実力を背景にして飲食店等に対し「ここはうちの縄張りだ、みかじめ料を払え」と脅してくる。政府も、個々の住民が同意していようがいまいが無関係に「ここは我が領土であり、お前は我が国民だ」と主張し、刑罰を背景に徴税している。

さてここで、一定のみかじめ料の収入が見込める地域で、既存の暴力団が手を引いて空白地帯ができたら、他の暴力団は好機と見て縄張りを広げようとするだろう。同様に、日本国政府という正統性を(一応)備えた暴力団が、日本国という縄張りを放棄したらどうなるだろうか。今が好機とばかりに、他国政府が縄張りを拡大してくることが予想される。また、国内的には、日本国政府という上位の暴力団が消えたことで、暴力団が自身の勢力拡大に乗り出すことだろう。

こうした事態に対し、無政府資本主義者は、民間警備会社との契約による治安維持を主張している。これを採用すれば、隣町を縄張りとする暴力団の拡大は防げるかもしれない。しかし、民間警備会社と契約する者の中には、「民間警備会社が有する実力をもって逆に隣町を縄張りとする暴力団を制圧し、隣町との間で抱えていた水利権や廃棄物処理のトラブルを、うちの町にとって一方的に有利な形で解決してしまおう」と考える人も出てくるだろう。国内的には、
暴力団 対 暴力団、
暴力団 対 民間警備会社、
民間警備会社 対 民間警備会社
という群雄割拠時代の幕開けとなり、同時に、他国政府が介入してくるというわけだ。

「アラブの春」の顛末を見ても、既存の国家の枠組みの全否定によって武装勢力の乱立が起きてしまうよりは、政府の権限に一つ一つ制限を加えていくやり方のほうが良いのではなかろうか、と思う今日この頃。

政府は「国防」というサービスを提供するために設立された組織ではない。暴力団が拡大し長期間にわたって存在し、正統性(らしきもの)を備えたに過ぎず、厄介な存在であることに変わりは無い。政府も暴力団も無ければ無い方が良い。ただ、これを全部なくすことができるのか。例えば、日本政府を無くしたところで
「アメリカ政府と中国政府とロシア政府とが分割して縄張りを主張するようになるだけではないか?」
「別の暴力団が台頭して日本国政府が就いていたポジションに就こうとするだけではないか?」
という疑問が残る。

さて。

リバタリアニズムには、国家の存在を認めるか否か、国家の役割をどの程度認めるかという点から、「古典的自由主義」「最小国家主義」「無政府資本主義」といった分類がなされている。言ってみれば、国家を、その中の統治組織である政府をどこまで小さくするかというゴールの設定に関する議論である。
政府≒暴力団という視点からは、
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないがある程度の役割を認める(古典的自由主義)」
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないが根絶は難しいからきつくきつく拘束しておくべき(最小国家)」
「政府は暴力団の親類なのだから根絶すべき」
といった議論になるだろう。

ここまでの議論について、私自身、どこをゴールに設定するのが理論的に正しいのか、また現実的にどこまで可能なのか、ここ数年ほど迷いに迷っているというのが現状である。

ただ1つ言えることは、

人権や差別問題や政治的公正を重視した政治

を称揚する発想や姿勢は、通常、リバタリアニズムの考え方からは出てきにくい、ということだ。政治によって課題解決を図るのは、政府(≒暴力団)の強制力によって遂行されることを願うという非リバタリアニズム的思考法である。

・政府(≒暴力団)の手によって保障される人権
・政府(≒暴力団)の手によって解消される差別問題
・政府(≒暴力団)の手によって実現される政治的公正

差別を解消しようと政府が施策を打ち出したことで、利権を生み出してしまったように、政治で解決しようとする意図は別の歪みを生じさせ新たな問題を引き起こす。もし、現時点で政府が特定の課題解決に積極的でないのなら、そのままにしておくのがベターである。そして、政府に介入させずに課題解決を図る道を探らなければならない。

政府は、実力をもって住民からみかじめ料を取ることを生業としている組織である。こういった組織は、雁字搦めに拘束し、住民へ影響の無いところでの縄張り争いに専念させよう。政府は、本能として他国政府や国内の暴力団との縄張り争いをしようとする。これ以外、政府には何もさせないことが、かえって人権保障や差別の解消に寄与するだろう。
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今村会見録にみる「国の責任」とは何か?

2017年05月01日 | 政治
「東北でよかった」発言で辞任した今村(前)復興大臣。
この発言を擁護する気は全くないのだが、その前に物議を醸した「自主避難は自己責任」会見についてはちょっと考えてみたい。前大臣の発言がどうのではなく、質問した記者の側の思想・思考方法に対し疑問が生じている。

以下、その会見録を部分抜粋。

今村復興大臣記者会見録[平成29年4月4日]
=====【引用ここから】=====
(問)・・・3月17日の前橋地裁の国とそれから東電の責任を認める判決が出たわけですけれども、国と東電は3月30日に控訴されました。ただし、同じような裁判が全国で集団訴訟が起こっておりますし、原発は国が推進して国策ということでやってきたことで、当然、国の責任はあると思うんですが、これら自主避難者と呼ばれている人たちに対して、国の責任というのをどういうふうに感じていらっしゃるのかということを、国にも責任がある、全部福島県に今後、今まで災害救助法に基づいてやってこられたわけですけれども、それを全て福島県と避難先自治体に住宅問題を任せるというのは、国の責任放棄ではないかという気がするんですけれども、それについてはどういうふうに考えていらっしゃるでしょうか、大臣は。
(答)このことについては、いろんな主張が出てくると思います。今、国の支援と言われますが、我々も福島県が一番被災者の人に近いわけでありますから、そこに窓口をお願いしているわけです。国としても福島県のそういった対応についてはしっかりまた、我々もサポートしながらやっていくということになっておりますから、そういうことで御理解願いたいと思います。


-----  (中略)  -----

(問)福島県、福島県とおっしゃいますけれども、ただ、福島県に打切りの、これは仮設住宅も含めてですけれども、打切りを求めても、この間各地の借り上げ住宅とか回って、やっぱりその退去して福島に戻ってくるようにということが福島県の、やはり住宅設備を中心に動いていたと思うんですが、やはりさっきも言いましたように、福島県外、関東各地からも避難している方もいらっしゃるので、やはり国が率先して責任をとるという対応がなければ、福島県に押し付けるのは絶対に無理だと思うんですけれども、本当にこれから母子家庭なんかで路頭に迷うような家族が出てくると思うんですが、それに対してはどのように責任をとるおつもりでしょうか。
(答)いや、これは国がどうだこうだというよりも、基本的にはやはり御本人が判断をされることなんですよ。それについて、こういった期間についてのいろいろな条件付で環境づくりをしっかりやっていきましょうということで、そういった住宅の問題も含めて、やっぱり身近にいる福島県民の一番親元である福島県が中心になって寄り添ってやる方がいいだろうと。国の役人がね、そのよく福島県の事情も、その人たちの事情も分からない人たちが、国の役人がやったってしようがないでしょう。あるいは、ほかの自治体の人らが。だから、それは飽くまでやっぱり一番の肝心の福島県にやっていっていただくということが一番いいというふうに思っています。
 それをしっかり国としてもサポートするということで、この図式は当分これでいきたいというふうに思っています。
(問)それは大臣御自身が福島県の内実とか、なぜ帰れないのかという実情を、大臣自身が御存じないからじゃないでしょうか。それを人のせいにするのは、僕はそれは……。
(答)人のせいになんかしてないじゃないですか。誰がそんなことをしたんですか。御本人が要するにどうするんだということを言っています。
(問)でも、帰れないですよ、実際に。
(答)えっ。
(問)実際に帰れないから、避難生活をしているわけです。
(答)帰っている人もいるじゃないですか。
(問)帰っている人ももちろんいます。ただ、帰れない人もいらっしゃいます。
(答)それはね、帰っている人だっていろんな難しい問題を抱えながらも、やっぱり帰ってもらってるんですよ。
(問)福島県だけではありません。栃木からも群馬からも避難されています。
(答)だから、それ……
(問)千葉からも避難されています。
(答)いや、だから……
(問)それについては、どう考えていらっしゃるのか。
(答)それはそれぞれの人が、さっき言ったように判断でやれればいいわけであります。
(問)判断ができないんだから、帰れないから避難生活を続けなければいけない。それは国が責任をとるべきじゃないでしょうか。
(答)いや、だから、国はそういった方たちに、いろんな形で対応しているじゃないですか。現に帰っている人もいるじゃないですか、こうやっていろんな問題をね……。
(問)帰れない人はどうなんでしょう。
(答)えっ。
(問)帰れない人はどうするんでしょうか。
(答)どうするって、それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう。
(問)自己責任ですか。
(答)えっ。
(問)自己責任だと考え……。
(答)それは基本はそうだと思いますよ。

=====【引用ここまで】=====

政府の責任って何だろうか。

何か困りごとが起きた際に、「政府は責任をもった対応をしろ」と要求するのは簡単である。言いやすいし、聞こえも良い。しかし、政府は際限なく分配をするわけにはいかない。そこで、税金を分配する際には「住民から集めた税金を、○○という客観的条件を満たした人に配る。」といったルールを作る。ルールに該当した人は金を貰うことができ、ルールに該当しなかった人は何も貰えない。

政府は、住民から税金を徴収し、この集めた金を配る。政府は、基本的にこれしか出来ない。政府に対し「責任を持って支援しろ」と要求するのは、政府の向こう側にいる納税者に請求書を送付しているのと同じことである。

昨今流行りの「権利と義務はセット。義務を果たした者だけが権利を主張すべき」論も、根っこは同じだ。社会権・社会保障給付については、まず納税の義務に基づき納税者が納税をしなければ、政府は給付をすることができない。社会権を声高に叫ぶということは、その裏打ちとなるべき納税義務の強化を要求するのと同じことであり、つまり、「社会権の強化=政府による住民の管理強化」ということなのだが、この危険性はなかなか理解されない。「政府による監視社会に反対する!」という論者が、同時に「政府は生存権をしっかり保障すべきだ!」と言うのを聞くと、うんざりして頭が痛くなる。

さて。

話が脱線したが、責任という言葉は多義的であり、何を指しているか不明確な場合が多い。ここで仮に、責任の中身を上述のような「最終的な経済的負担」という意味で考えたとき、責任を負っているのは納税者である。政府自身が富を生み出しているわけではない。政府は、納税者から税を徴収して、途中でピンはねして、別の住民に配るという作業をしているに過ぎない。「最終的な経済的負担」という意味では、政府は常に無責任な存在である。政府が無責任な支払いをするのを防ぐために、客観的なルールは欠かせない。

一方、責任の中身を
「何かを決定し、その決定に何らかの誤りが発覚した時、その決定をした者はその職を辞する」
「何かを決定し、その決定に何らかの誤りが発覚した時、前回の決定内容を変更する」
といった政治的責任と考えた時、政府には大いに責任がある。

今回の件であれば、国策として「火力、水力、原子力、太陽光のベストミックス」と称して発電方式ごとの目標割合を定め、電源立地地域交付金などで立地自治体を従わせて目標割合へ誘導するということを長年続けてきた。発電所のある自治体へ様々な形で補助金や交付金をばら撒いたため、「(損害賠償や住民対策なども含めた)発電方式ごとの、発電に要する費用」の実態が不明確になっている。

この意味での責任を追及するのであれば、発電方式ごとの割合目標を政府が定めるという電力政策そのものを放棄するよう要求するのが筋だ。「政府なら発電方式ごとの最適な割合が分かるし、その割合を実現できる」というのが誤りであると明らかになったのであるから、これを放棄させなければならない。

上記を踏まえて、改めて引用した会見録を読んでほしい。

会見録に登場する記者は、「国として責任をとるべきだ」ということを繰り返しているが、その中身は、「自主避難者へ支援しろ(金を払え)」の繰り返し。栃木、群馬、千葉からの自主避難者を福島からの自主避難者とを混同しており、この記者の主張から、支払いの基準と成りうる何らかの客観的条件を読み取ることはできない。「○○という客観的条件に該当する人に対しても政府は支援をするようにしろ」というルール変更の要求ではなく、かといって、「政府は出来もしない電源ベストミックスを放棄し、電力を市場に委ねるべき。電力分野への政治介入をやめるべきだ」という政治的責任の追及でもない。そう、この記者は今村前大臣と同じかそれ以上に無能なのだ。

政府が「国は無責任だ!」という非難を恐れ、この記者のような要求に応じ続けていくと、徒に納税者の負担が増え続ける。この記者は、正義の味方を気取って政府に対し責任追及しているつもりで、実は、納税者に対する請求書をせっせと書いているに過ぎない。
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