若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

日本共産党が、なぜTPPに反対なのか

2010年11月28日 | 政治
失業者、国民年金のみで生活する老人、生保受給者、派遣労働者etc・・・共産党を支持しそうな人たちは、関税撤廃で最も恩恵を受けるはずなのに、なぜ?


○2010年11月10日(水)「しんぶん赤旗」 TPPにかかわる「基本方針」の閣議決定について 日本共産党委員長 志位和夫
 一、農業分野の関税を完全に撤廃すれば、日本の食料自給率は14%まで低下し、コメの自給率は1割以下になってしまう。TPPへの参加は、“おいしい日本のお米を食べたい”という消費者の願いにも反し、国民の食の安全と安定的な食料供給を大きく脅かす。



どの程度の質の商品をどの程度の金額で買うかは、個々の消費者の判断に委ねられるべきものだ。政府や政党が決めることではない。
「無農薬の有機栽培の魚沼産コシヒカリでなきゃダメだ。金額は問わない」
という人がいる一方で、
「タイ米でもカリフォルニア米でもよい、とりあえず米を食べたい。けど安くないと困る」
という人もいるだろう。

仮に「おいしい日本のお米を食べたい」という願いがみんなに共通しているとしても、それを金額いくらまでなら許容できるかとなると、千差万別だ。関税による価格の底上げは、低所得層から米を遠ざけてしまう。米を食べる機会を奪ってしまう。

農産物の関税撤廃の恩恵は、エンゲル係数が高い低所得層ほど大きいはずだ。長年、農協と密着していた自民党が農協の片棒を担いでTPPに反対するならともかく、低所得層へ訴えかけることの多い共産党が、関税撤廃に対し反対の論陣を張る意味がよく分からない。

「家計への支援を」
「食料品への消費税を撤廃せよ」
「低所得者対策を拡充せよ」

と言う共産党の日頃の主張と、TPPによる関税撤廃は、見事にマッチすると思うのだが。



 農産物の関税撤廃は世界のすう勢どころか、農産物輸出国であっても、農産物の平均関税率はEU20%、アルゼンチン33%、ブラジル35%などと高く、アメリカも乳製品や砂糖の輸入規制を続けている。日本はすでに平均12%まで関税を下げており、農業について「鎖国」どころか「世界で最も開かれた国」の一つになっている。



関税が900%とも1000%とも言われるこんにゃく芋をはじめ、関税200%を超える農産物には落花生、米、雑豆、バター、でんぷん、砂糖、小麦などがあるといわれている。このように、高関税で外国産のものとの競争を免れている農産物がある一方で、ほぼ関税ゼロの農産物もある。

0%から1000%まで幅広くある中での、平均12%だ。

関税が無いに等しい農産物を作っている農家にとっては、TPP参加の影響はあまりない。TPPに反対するのは、高関税で競争を免れている農家が主だろう。開かれていない農家を擁護するために、関税をかけられていない農産物もひっくるめた数字を使って「日本は十分過ぎるほど開かれている」という議論を展開するのは、説得力がない。




 一、被害は、農業と食料の問題にとどまらない。経済産業省は、TPPに参加しない場合の雇用減81万人としているが、農水省は、参加した場合の雇用減を、農業やその関連産業などを合わせて340万人と、不参加の4倍以上にもなるとしている。北海道庁は、道経済が2・1兆円にのぼる損失を被るとしているが、その7割は農業以外の関連産業と地域経済の損失である。TPPへの参加は、日本農業を破壊するだけでなく、疲弊している地域経済の破壊をすすめ、雇用破壊をすすめるものにほかならない。
 日本経団連などは、「乗り遅れるな」などと煽(あお)り立てているが、この「恩恵」を享受するのは自動車、電機などの一部の輸出大企業だけである。一部の輸出大企業のために、日本農業を破壊し、国民生活に多大な犠牲を負わせることなど断じて許されない。




関税を撤廃することで損害が生じる、と主張する共産党。現在は関税によりそうした損害は生じていないわけだが、では誰の負担で損害を食い止めているか・・・といえば、もちろん消費者の負担だ。

ところが、そうした消費者に負わせている負担について、共産党は全く考慮していない。だから、TPPへの参加による「『恩恵』を享受するのは自動車、電機などの一部の輸出大企業だけである」なんて知性のかけらもないセリフが出てくるのだ。

ということで、赤旗の言い回しを借りて本日の締めくくり。

関税による恩恵を享受するのは、農水省や農協、ごく一部の専業農家だけである。一部の農業関係者のために、消費者に多大な犠牲を負わせ続けることなど断じて許されない。
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平成の統帥権干犯論争

2010年11月21日 | 政治
○NHK教育 司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 ~ 何が魔法をかけたのか ~
(番組放送27分頃から)
(軍部が暴走した「魔法の森」の昭和は)いつから始まったのか。明治憲法を取り出して読みますとですね、そんなに変なことはない。そして天皇制という言葉を使いますが、天皇制という言葉で使うと便利いいんですけど、カイゼルではないわけですね。天皇の責任はあるかといったら、明治憲法によると天皇は行動がほとんどできない。政治的な行動はほとんどできない。いわゆる国務大臣、内閣総理大臣も明治憲法では国務大臣の一人ですが、が最終責任を負うということになっていますから、どうも明治憲法というのはちょっと古臭い憲法ですけれども、あれなりに運営しても太平洋戦争や、あるいはその前の満州侵略といったようなものは、あるいは中国侵略というものは、ノモンハンの惨烈さといったものは、そして国民へのしめつけというものは起こらないわけです。信教の自由は認められておりますし、信書の秘密は認められておりますし、私有財産も認められておりますし、要するにナポレオンがナポレオン法典を作ってフランス革命の精神を民法に盛り上げました。それらの回り回った影響、むろんドイツ経由の影響ですが、明治憲法には現れました。それなりに近代憲法でありました。ですからそんな変なことは憲法からは出てこない。結局、統帥権、統帥権というこんな変なものが、どうも学問的には大正の初めころに言った人があるという話ですが、実際に統帥権が魔物になってやってくるのは昭和になってからです。

統帥権、みなさんにとって聞きなれない言葉ですけど、我々を酷い目に遭わせたのはこの三文字につきるんじゃないかと。ただこの言葉で魔法の森がとけるわけじゃないんですけどね。明治憲法でも三権分立でした。議会が立法し、国務大臣が、総理大臣以下国務大臣が行政をし、そして、司法があり、要するに三権分立でした。その上に超越的な権力、権能といいますか、いうものが統帥権でした。どこから憲法解釈しても出てこない話ですが、だけど「陸海軍は天皇がこれを統帥する」という一条を大きく解釈しますとですね、統帥権というインチキの理論論争を、なんといいますか、持ち出すことができる。立法、司法、行政という三権の上に超越しましてですね、軍人だけが統帥権を持っています。そして、軍人の中で陸軍大臣は持っていません。参謀本部の総長および参謀本部が持っています。



引用が非常に長くなってしまったが、以下、私なりにまとめ。

明治憲法の当初の解釈においては、天皇個人に政治的な意思決定を行う権限は持たされておらず、陸海軍は国務大臣の権限と責任において指揮監督(統帥)されていた。ところが、大正期に始まった明治憲法の曲解、インチキ解釈によって、統帥権が立法・司法・行政を超越し、国務大臣の権限と責任から外れ、参謀本部の手に委ねられてしまった。そのことが、大陸侵略につながった・・・と。

陸海軍の行動を決定する権限は国務大臣にある。権限のあるところに責任がある。この明治憲法の本来の形を崩したのが、統帥権論争だ。「統帥権独立」という大義名分により、大臣の権限・責任に基づく指揮監督という制約から陸海軍の行動が外れ、参謀本部の自律に委ねられてしまった。

そんな、司馬遼太郎の考える統帥権の構図と、どうも似ている・・・と私が思ったのが、↓こちら。


○政治職・執行職…「仙谷用語」で国交相擁護(2010年11月12日09時26分 読売新聞)
 中国漁船衝突事件の映像を海上保安官が流出させた問題で、野党が海上保安庁を所管する馬淵国土交通相の引責辞任を求める姿勢を強めていることに対し、仙谷官房長官は11日の記者会見で、「政治職と執行職では(責任の)レベル、次元が違う」と語った。
 10日にも同様の発言をしており、国土交通相の所管の一つとして海上保安庁にかかわる馬淵氏と、同庁を実質的に指揮する鈴木久泰長官とでは責任の重さが違うと強調することで、馬淵氏の辞任要求をはね返すのが狙いだ。
 仙谷氏は記者会見で、「執行職」を警察、検察庁、海上保安庁のほか、国税庁や自衛隊など「ある種の強制権限を持った執行機関」の所属者と定義づけ、「権限に応じて管理も自律的に行われなければならない」と持論を展開した。
 しかし、総務省や内閣総務官室によると、「政治職」「執行職」という言葉は法令上、規定されておらず、「あまり聞いたことがない」という。


○尖閣映像流出:海保長官辞任は不可避の見方…政府・与党 毎日新聞 2010年11月10日 20時40分
 仙谷由人官房長官は10日の記者会見で、中国漁船衝突事件のビデオ映像の流出問題に関し、「強制力を持った執行部門は、政治からの影響力を排除する相対的な独立性がある。独立性、自立性に応じた責任は当然出てくる。強い権限がある代わりに強く重い責任を負う」と述べ、鈴木久泰海上保安庁長官の責任は免れないとの考えを示した。


警察、検察庁、海上保安庁、国税庁、自衛隊における管理の自律性を強調し、国務大臣の責任軽減を主張する仙石官房長官。権限と責任は比例する。責任のない所に権限はない。権限の少ない者には大きな責任はない。国務大臣の責任を軽減することで、国務大臣からの指揮監督が及びにくくなる。

「自衛隊の活動は自律的に行われなければならない。国務大臣は重い責任を負わない。」

これを、弁護士出身の官房長官が言ったのだが、この発言が自衛隊の側から、

「自衛隊の活動は自律的に行われなければならない。責任なき国務大臣の指揮監督は受けない」

という形で主張されるようになると、まさに平成版・統帥権干犯問題となる。明治憲法にインチキ解釈を施して統帥権独立の理論を打ち立てたのは、仙石みたいな姑息な輩だったのだろう。

ちなみに、現行の日本国憲法には、自衛隊の根拠規定はない。自衛隊の合憲性が、憲法の文言の素直な解釈からだいぶ離れた所にある、綱渡りのような解釈によって辛うじて成り立っている状態だ。その自衛隊の管理・監督については、憲法上何も規定されていない。何も規定されていない状態で、時の官房長官が自衛隊の自律性を強調するのは危険だと言わざるを得ない。

昭和の頃は、犬養毅や鳩山一郎(野党の政友会)が、時の与党を揺さぶるために統帥権干犯で政府を責め立てた。現代の平成では、官房長官が野党の追及を回避するために執行部門の自律性を強調した。

少々立場が違うとはいえ、歴史は繰り返してしまうのだろうか。繰り返さないためには、流出させた海保職員をきちんと処分するとともに、国土交通大臣が辞職することで「責任の所在は内閣にあり」ということを示す必要があろう。
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湯浅誠のパーソナルサポートサービス ~ 政府があなたの生活を丸抱え ~

2010年11月11日 | 政治
先日、一瞬つけたNHKのテレビ番組に、派遣村でお馴染みの内閣府参与・湯浅誠が出演していた(NHK『日本の、これから』無縁社会)。画面の向こう側で、彼は馴染みの無い言葉を発していた。

           「パーソナルサポートサービス」

そりゃ、なんじゃ?
ということで、調べてみると・・・


○パーソナル・サポート(個別支援)サービスについて 平成22年5月11日 内閣府
○利用者に対して、「パーソナル・サポーター」が、個別的(マン・ツー・マン原則)かつ継続的に、相談・カウンセリングや各サービスに〈つなぎ〉、また〈もどす〉役割を担う。
・イメージは「専門知識をもつ友人」。友人は、病院を退院しても、生活保護を脱却しても、友人であることを止めない。



政府派遣の公的な友人「パーソナル・サポーター」が、利用者にマン・ツー・マンで寄り添い、継続的に相談に乗る。生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険、就労支援、住居支援、各種貸付などの制度横断的な専門知識を生かし、依頼者の状態にあった形に制度を組み合わせ、就労を促し、自立へ導く。自立後も、継続的に見守りを行っていく。

・・・という制度らしい。
別のところで、彼はこの制度の理念や背景を語っている。


○湯浅誠 事務局長 インタビュー [2/2ページ] 湯浅誠 事務局長 / 内閣府本府参与 - インタビューサイト SMPY
スローガン風に言うと「みんなが人間らしく暮らせる社会」というのを目指しているわけですが、そんな理想論を語っても現状は改善しないわけで、目の前にあることに地道に取り組むしかないと思っています。具体的に今取り組んでいることの一つに「パーソナルサポートサービス制度」というのを実施するための仕組みを整備するという仕事があります。それはどういうものかというと、現行の保障制度、例えば障害者に対する保障、雇用保険、生活保護といったのもがありますが、そういう制度には埋めきれない隙間があります。この隙間を埋めていたものが家族であったり、友人であったり、地域のつながりであったりしたわけですが、そのような隙間を埋めてくれるものを持たない人が保障の隙間に落ち込んでしまって貧困問題になっているわけです。では、そういった家族、友人、地域が埋めてきた領域を公的に埋めることができないか、そういう発想の個別支援が「パーソナルサポートサービス制度」です。2010年の秋には5つ、2011年度には約20のモデル事業の実施を予定しています。


いつも思うのだが、この湯浅という人の発想・思考法は気持ち悪い。

彼の脳内では、家族や友人、地域のつながりというものが、各種社会保障制度と制度の隙間を埋めるものでしかない。彼の理解では、まず最初に各種の社会保障制度がある。

 主:政府による社会保障   従:家族、友人、地域

社会保障制度があるのを前提とし、その隙間を埋めるもの、制度を補完するものとして、家族や友人、地域のつながりがある。制度の隙間が家族等で補完されていれば、その人は貧困に陥らない。社会保障制度の隙間を埋めるものがなければ、別の制度を作って制度の隙間を埋め、貧困を防ぐ必要がある、と。

ここから一歩突っ込んでいくと、

家族や友人、地域のつながりがなくても、制度がしっかりしていて、かつその隙間を埋める制度があれば良い。隙間を埋める制度があれば、家族や友人は不要だ。いなくても生きていける。家族や友人がいなくても、貧困に陥ることなく、人間らしく生きていければそれで良い。そういう生活を保障し環境を整えることが社会の責任だ。

・・・となるのだろう。

「家族や友人がいなくても大丈夫。常に寄り添ってくれる政府派遣の友人=パーソナルサポーターがあなたの生活に密着して責任をもってサポートします。」というわけだ。この制度のモデル事業は、今年から早速スタートする。


○asahi.com(朝日新聞社):アナタだけの生活再建、考えます 失業支援でモデル事業 2010年10月6日


ここで挙げられている具体例を見て、かなり驚いた。

パーソナルサポーターが利用者の生活状態を把握し、生活保護申請を手伝い、心療内科へ同行し、法テラスへ連れて行き、アパート探しを手伝い、友達づくりを手伝い、バイト先まで手配し、ハローワークへ連れて行き、正社員になるまで見守る・・・


ここに、問題の一つ目が見てとれる。

至れり尽くせりが過ぎるのだ。
手取り足取り。おんぶにだっこ。
しかも、ざっと調べたところ利用者負担は無さそう。あっても低額だろう。
これで依存心が生じないわけがない。

例えば・・・

父「お前、仕事探しもしないで毎日ゴロゴロして・・・俺達が元気なうちはいいが、死んだり寝込んだりしたらどうするんだ!」

子「親の稼ぎがあるうちは、ゴロゴロしてる。親父とお袋が死んだら、パーソナルサポーターに全部世話してもらうから大丈夫。」

・・・なんてニートが言い出す日は、そう遠くない。
(ドラマ『フリーター、家を買う』は、第1話から崩壊してしまうだろう。)

家庭の事情で高校に行かず、中学卒業と同時に働きだして家計を支える人。
50社、100社と面接ではじかれ、どうにか就職を自力で見つけた人。
クビになってから、独立開業して飲食店を営む人。
このような自分で努力してきた人と、パーソナルサポーターに手伝ってもらった人。頑張らない者ほど手厚い支援。この制度は、不合理な格差を、税金を使って助長することになる。依存した者勝ち。寄らば制度の陰、だ。


問題の二つ目。

手厚い支援の一方で、利用料は無料か低額。
制度の知名度が上がれば上がるほど、利用を希望する人は増えるだろう。

各種手続きを案内し、同行して手伝うとなると、場合によっては行政書士や社会保険労務士が従来行っていたようなことに手を出すケースも出てくるだろう。士業に頼むとかなりの相談料や手数料を取られるところ、同様の専門的知識を持つパーソナルサポーターに頼むとタダになる。

知名度が一定以上になった時点で、需要過多の状態が慢性化するだろう。

パーソナルサポーターの予約待ち、順番待ちは当たり前。パーソナルサポーターを利用できるかどうかの審査が厳格になったり、パーソナルサポーターを利用するために紹介が必要になったりするかもしれない。各種社会保障制度や支援制度へ利用者をつなぐのがパーソナルサポーターなのに、そのパーソナルサポーターへつなぐ新たな制度が必要になる。


問題の三つ目。

無理が通れば道理が引っ込む。公助が通れば自助・共助が引っ込む。

老齢年金が充実すればするほど、自分で老後の備えをしよう、とか、老後の面倒をきちんと見てもらえるようしっかりと子供を育てよう、といった意識が薄れる。
介護保険が充実すればするほど、家族や近所の人が介護の場から離れていく。
パーソナルサポートサービス制度が充実すればするほど、自力で生活を立て直そうという意識が薄れる。

冒頭のテレビ番組の中で、湯浅誠は
「縁は、地縁、血縁、職場の社縁の3つがあった。今はその3つの縁が減退している。」
なんてことを言っていたが、減退の原因としては、社会保障制度が幅広い分野に及ぶようになったことが大きいだろう。

ただ、社会保障制度が様々な分野に広がったとはいえ、まだまだ穴だらけ。だからこそ家族の縁、地域の縁がまだ幾らか機能しているが、この穴が新たな制度によって埋められていけば、血縁や地縁の機能はますます薄れていくだろう。ボランティアで行われていた相談事業なども、新たな制度の登場で駆逐されてしまうだろう。


問題の四つ目。

社会保障制度を広げる過程で必要なのが、所得や資産、家族構成、病歴、職歴、学歴といった個人情報の把握だ。これに加えて、パーソナルサポートサービスは密着型・寄り添い型の制度であるため、日常生活の事細かな部分まで把握されることになる。政府による監視・管理社会のできあがりだ。

しかも昨今、児童虐待や老人の孤独死などを受けて、児童相談所や市町村などの立入権限強化が主張されている。パーソナルサポーターの権限が強いものとなったら、自宅の中をパンツ姿で歩くことすら適わなくなるかもしれない。


問題の五つ目。

パーソナルサポーターとよく似た相談・つなぎ・支援事業をしている所として、共産党などがやっている相談事業がある。

○何でも相談用 | 日本共産党 埼玉県委員会


共産党の場合、相談に来た人の問題を解決する中で、投票をお願いしたり、入党を勧めたりといったことを行っているだろう。勧められた方も、相談に乗ってもらった手前、無下に断ることは出来ないはずだ。

一方、パーソナルサポーターには公務員か、あるいは役所から委託を受けたNPO職員などが就くと思われるので、表立った政治活動は出来ない。しかし、あくまでも表立っては出来ないというだけで、実際は友人として密着し寄り添っているのだから、その過程でどんな勧誘も可能だろう。

かつて私が、保険料徴収に行った先で老人の身の上話を聞いていたら、

「あんたは優しいねぇ。私にできることと言っても何もないが、毎回選挙には行くよ。次の選挙、どこに投票したら良いかい?」

と尋ねられたことがある。その時は、

「いやいや、自分で考えて、良いと思う人に投票してください」

と受け流したが、私が組合活動に熱心な者だったら、迷うことなく組合推薦候補に一票をお願いするところだ。こうした行為は当然、地方公務員法や公職選挙法の何かに抵触するだろうが、そこで交わされた会話を外部が知る術はない。

保険料の徴収に行って、身の上話を聞いただけでこれだ。

寄り添い型のパーソナルサポーターなら、利用者は当然恩を感じるであろうし、生活状況を事細かに把握された結果として弱みまで握られることもあるだろう。利用者の一票はパーソナルサポーターの手の中にあると言っても過言ではない。

税金を使った事業で、税金で飯を食う者が自己の票を増やす。




・・・と、「多分起こるであろう」事態から、「これはさすがに杞憂かな」という事態まで、色々書いてみた。色々考えてみるも、肯定的な感想が全く出てこない。「隷属への道」を最短コースで突っ走っている気がしてならない。

今の政権は、湯浅誠という筋金入りの社会主義者が政権中枢に入り込み、自身の思想を政策化し、予算化している。恐ろしい世の中になったものだ。
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