若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

周回遅れ素人が、インフレ目標政策に疑問を投げかけてみる

2011年03月02日 | 政治
デフレにおいては、債務者の負担が増す。借金は重くなり、名目金利はゼロでも実質金利は高止まりし不均衡は是正されない。一方、インフレは「インフレ税」という言葉があるように、財産権を侵害し、財布の中身や過去に蓄えた預金を目減りさせる。

債務者の損は、債権者の得。債権者の損は、債務者の得。一体、インフレが望ましいのか、デフレが望ましいのか。

「最適なインフレ率は誰にも分からない」と思うのだが、インタゲ論者は「2%がいい」「4%がいい」「5~10%」といった目標値を掲げている。どのような数式からこれらの数字がはじき出されるのかは、周回遅れの私には分からない。ただ、「分からない」では話が進まないので、仮にどれかが正しいとしよう。

設定されたインフレ目標値は、そのとおり達成されなければならない。目標を上回り、人々の予想を超えたインフレは、過剰な投資を招き、資源を浪費させる。本来の成長過程を妨げてしまう。

さて、インフレ率を、政府・日銀の狙いどおり目標どおりに合わせることはできるのだろうか。そのための手段はインタゲ論者の中で共有されているのだろうか。

この点、どうも怪しい。

「インフレにするためにはインフレ目標を掲げさえすれば良い。」
「将来インフレになっても、一定水準に達するまでは利上げをしないと宣言する。」
「インタゲ論者を日銀総裁にすればインフレ期待が高まる。」
「国債を50兆なり70兆なり出して、日銀に買い取らせる。」
「政府紙幣を発行して社会保障を2年間無料にすればよい。」
「インフレになるまで定額給付金を配り続ける。」
「日銀が株を買えば良い。」
「日銀が土地を買えば良い。」

・・・ネット上でざっくりと斜め読みしてみたが、インフレにすることに主眼が置かれていて、目標値どおりにコントロールすることはあまり重視されていないように思う。
酷いものになると、

「国債をどんどん発行して日銀に買い取らせれば、東九州自動車道なんてすぐ全線完成しますよ。」(これはオフラインで聞いた話)
「目標値を超えても、インフレになれば全ての問題が解決するんだ。デフレ下の現段階でインフレになり過ぎる心配はするな。」(これは2ch)

といった乱暴な意見まで。


・・・なんだかなぁ。


インフレ目標として何%が適正なのか。
インフレにする手段、目標値で留める手段はあるのか。
こうした点について、インタゲ論者の中で共有され確立したものはあるのだろうか。
都合よく制御することは可能なのだろうか。

インタゲのため、手段Aを実施した。思ったほどインフレは進まなかった。
続いて、手段Bを実施した。これもいまいち効果がなかった。
まだ足りないのかと手段Cを実施したが、まだまだ目標値まで上がらなかった。
「はて、どうしたものか」と首をひねっていたら、何かの拍子で突然インフレが進行し、あっという間に目標値を超えてしまった。・・・なんてことにならないだろうか。

インフレ率という経済の動きは、政府・日銀の政策で自在にコントロールできる代物なのだろうか。政府・日銀は、供給された資金の流れを管理することはできるのだろうか。「名目金利と実質金利の不均衡」という市場の失敗を解消するためにインフレ目標政策を実施したら、管理できないインフレを招き、一時的な加熱・過剰投資とその後の後退を招くのではなかろうか。


さて。


インフレ目標政策の利点として、

「無制約で無責任、広範な裁量を持つ日銀に、固定した目標を付与することで一定の枠をはめることができる。目標を達成できたかどうかが分かるので、責任を明確にすることができる。」

が挙げられる。
この点は正しいように思えるのだが、もし、

「インフレにするためなら何をやっても良い。日銀はありとあらゆる手段をとるべし」

という認識の下でインフレ目標を制度設計するのであれば、インフレ目標政策はあまり裁量を縛ることにはならないと思うのだが。

「中央銀行による通貨発行独占をいきなり変えることは、現実的に難しい」と渋々認めた上で、「せめて中央銀行の裁量に制限をかけるべき」というのであれば、目標だけでなく、とりうる手段や通貨供給量にも一定の制限や上限を設けるべきだ。