リバタリアンIT長者のトンデモ思想 | ビジネス | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
シールの信念の根幹にあるのは、悪びれることなく身勝手を貫く姿勢と、自然淘汰によって強い企業だけが市場で生き残れるという経済的ダーウィン説だ。自由主義経済を推進するシンクタンク、カト研究所のサイトに昨年掲載されたエッセイでは、「私は自由と民主主義が共存可能だとはもはや信じていない」と書いた。大衆は勝者がすべてを手に入れる規制なき資本主義を支持してくれないから、自分も大衆を支えないと、彼は言う。
「1920以降、福祉の受益者と参政権を得た女性というリバタリアン(自由主義者)にとって手ごわい2つの有権者層が力を持ちだして、『資本主義的民主主義』という概念そのものが自己矛盾になってしまった」と、シールは記している。確かに、女性に参政権を与えたせいで経済が崩壊したなんて本当のことを言って歩いたら、誰にも相手にされなくなるのがおちだ。100ドル札でも配って歩くけば少しは違うかもしれないが。
「私は自由と民主主義が共存可能だとはもはや信じていない」
「1920以降、福祉の受益者と参政権を得た女性というリバタリアン(自由主義者)にとって手ごわい2つの有権者層が力を持ちだして、『資本主義的民主主義』という概念そのものが自己矛盾になってしまった」
制限選挙制のころ、議会というのは、納税者の代表として政府の活動をチェックする機関だった。「俺達納税者が納めた税金を、無駄なことに使うんじゃないぞ!」と政府を抑制する機能が主だった。
ところが、男女平等の普通選挙制が浸透するにつれ、納税者の声は後退し、福祉の受益者や主婦といった「 納税 <<< 受益 」な人たちの影響力が大きくなった。彼らも「税金の無駄遣いをするな」と一応言うが、それ以上に「もっと私達への公的サービスを手厚くしろ」という主張を大々的に行うのが常だ。
普通選挙制で有権者の構成が大きく変わったことにより、議会は、制限選挙制の頃とは別の役割を持つようになった。制限選挙制における議会が専らブレーキを踏む役割であったのに対し、普通選挙制における議会は「○○を拡充しろ」「△△の公費負担を増やせ」「□□にとって住みやすいまちづくりを」と政府に要求し、頻繁にアクセルを踏む存在となった。
選挙権の拡大と社会保障制度の拡充がほぼ平行して進んだのは、決して偶然ではないと思う。そして、社会保障制度の拡充は専門家(官僚)の支配を強める。複雑な制度になればなるほど、官僚の手に委ねられる場面が増えてくるからだ。
社会保障の例として、国民健康保険をみてみよう。この制度は「病院の窓口で自己負担3割ですよ~」というだけの単純なものではない。出産育児一時金の金額設定があり、所得に応じた高額療養費の区分があり、保険料(税)の滞納による資格者証発行の是非があり、制度運営のための費用等を元に決められる療給負担金や調整交付金の係数があり、保険税徴収率による国から市町村へのペナルティがある。さらに、障害者医療制度との調整があり、健康保険組合や協会けんぽとの間で被保険者の異動があり、後期高齢者医療への財政負担の問題もあり、生活保護の医療扶助との棲み分けがあり、介護保険との連携もあり、資格管理における国民年金との連携もあり・・・
どこか1つを変更したら、他の制度に何らかの影響が及ぶ。ところが、選挙で選ばれた大臣や議員はこれだけをしているわけではない。思いつきで変更しようとしても、他の部分との整合性をとるのは至難の業だ。
社会保障が多くの人に適用され、規模が大きくなり、しかもきめ細かな対応が求められると、どんどん複雑化する。複雑になればなるほど、決定権は大臣や議員から専門家たる官僚の手に移る。気づいた頃には、専門家たる官僚がペーパーを作り、大臣は読み上げるだけの存在となる。議員は、分かったような分からないような顔をしながら、気になった点を質問し、あとは可決するだけ。
これが地方自治体になると、さらに酷い。社会保障制度や税制に関する改正法を読んだだけで、制度改正の内容を正確に把握し、条例改正が必要な個所を判別できる職員は稀だろう。国から届いた制度改正の骨子を読み、国から届いた改正条例参考例を焼き直し、中央の官僚が指示する通りに条例の一部を改正する条例を仕上げる。議員は改正条例そのものをほとんど見ることなく、国の制度改正の骨子を見て何となく理解し、可決する。
複雑な社会保障制度はこのように官僚主義的で中央集権的なのだが、社会保障制度が拡大し複雑になる背景には普通選挙制がある。民主制を信頼することで官僚主義、中央集権を是正するのは難しいだろう。現在の民主制が拠って立つ普通選挙制が原因なのだから。
議会はアクセルを踏み、官僚の裁量で様々な制度が作られる。社会保障はどんどん複雑になる。社会保障のどこかに問題があるのは分かるものの、どこかはみんなよく分からない。よく分からないまま、「強い社会保障のためには増税やむなし」という意見が横行し、自由は息苦しくなる。
「自由と民主主義が共存可能だとはもはや信じていない」だ。
さてさて。
最近「Libertarianism Japan Project」では、デフレ・インフレの話で盛り上がっている。
「デフレは惡い」のウソ(1) The Fallacy of the Evils of Deflation - Libertarianism Japan Project
「デフレは惡い」のウソ(2) The Fallacy of the Evils of Deflation - Libertarianism Japan Project
「デフレは惡い」のウソ(3) 大恐慌その1=株式ブームはなぜ起こつたか Myths of the Great Depression - Libertarianism Japan Project>
「デフレは惡い」のウソ(4) 大恐慌その2=金融危機の本當の理由 Myths of the Great Depression - Libertarianism Japan Project
「デフレは惡い」のウソ(5) 大恐慌その3=金本位制惡玉論を斬る Myths of the Great Depression - Libertarianism Japan Project
インタゲの槍もて日銀を穿て! Inflation targeting -Strike the BoJ with "Gungnir"!- - Libertarianism Japan Project
それでもインタゲに反対する人達の為の後書 -Inflation Targeting With Denationalisation of Money- - Libertarianism Japan Project
オーストリア派の立場からインフレを批判し、デフレとはインフレ期の水膨れが正常へ復帰する過程であると理解し、政府・中央銀行の裁量権を縛る手段として金本位制の有用性を主張するKnightLiberty氏。
これに対し、デフレにおける実質金利の高止まりを問題視し、野放図な通貨供給によるバブルと低インフレの違いを説き、政府・中央銀行の裁量権を縛る手段としてインフレターゲットを主張するtypeA氏。
両氏とも、政府や中央銀行が「景気が悪くなったぞ、それ対策を打て!緊急経済対策だ!為替介入だ!」といった場当たり的政策を実施することに反対している。ただ、中央銀行をどう拘束するかについて、上記のように両氏の意見は分かれている。
どちらの記事も、歴史的な事実を挙げて考察されており、かなり専門的だと思う。私ごときが軽々に批評できるものではないが、ちょっとだけ感想を述べたい。
KnightLiberty氏は、『
「デフレは惡い」のウソ(5)』の最後で次のように述べている。
だがミーゼスやハイエクが喝破した通り、たとへFedや日銀の幹部がいかに優秀でも、聰明で博學な高橋氏がかりに日銀總裁になつても、適切な通貨量や物價水準を知ることはできない。「見せかけの智識」に基づいて人爲的にマネーの量を操作する「金融政策」は今すぐやめ、金融市場を自由に機能させるべきだ。「非常時」はもちろん、いついかなる時も、より賢明な道筋を教へてくれるのは自由な市場だ。政府ではない。
中央銀行が通貨発行を独占している状態なので、自由な市場はこの分野では機能していない。貨幣発行に関して、自由市場が賢明な道筋を示してくれるとは思えない。KnightLiberty氏は墓穴を掘ってしまった気がする。
ただ、この中の「聰明で博學な高橋氏がかりに日銀總裁になつても、適切な通貨量や物價水準を知ることはできない」というくだりは、インタゲに対する私の疑問を的確に表してくれた。何%なら低インフレだからOKで、何%ならバブルを引き起こすのか。
あと、金本位制にしろ、インフレターゲットにしろ、法律を変えられてしまえばどうにもならない。常に人為的な操作が行われるおそれがつきまとう。複雑な事柄を政治の領域に預けておくかぎり、主導権は国民の手から政治家の手へ、政治家の手から専門家たる官僚の手へと移ってゆき、チェックはきかなくなる。
typeA氏は、『
インタゲの槍もて日銀を穿て!』の最後に
また、ルールを定める政府についても、その是非を選挙で国民に問うべきである。故にレビュ結果は広く国民に公表されるべきだろう。今の閉鎖的・官僚主義的な日銀よりは、国民がその誤りを是正できる可能性が少しでもある日銀の方が、余程マシではないだろうか。
と、インフレターゲットにおけるルール策定を民主化することで、是正できる可能性が少しはあると述べている。しかし、高度に専門的な知識で分析しなければならない事柄を、民主化することで解決できるのだろうか。インフレターゲットのレビュ結果を公表されても、多分私は理解できないだろう。高齢者なら尚更だ。
民主化することで是正できる可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。結局は専門家たる官僚の手に委ねられてしまうのではないか。
私は、官僚を信じない。同時に、民主制も信じない。自由と民主主義が共存可能だとは思えない。一番マシな答えを出してくれるのは市場だ。
なら、金融政策はどうすれば良いのか。
やはり貨幣発行自由化・・・と、無い物ねだりで終わらせようとする自分が嫌いだ。制限選挙制への復帰とか、貨幣発行自由化とか、政府を制限するネタは思いついても実現可能性が極めて少ない。非建設的だ。
さてさてさて。
冒頭の記事に出てくるIT長者、ピーター・シールは、既存の国家に見切りをつけたようだ。
彼を突き動かす原動力は「ITユートピア構想」だ。オンライン決済サービス、ペイパルの創業で、シールは税制や中央銀行の政策の縛りを超えたグローバル通貨の創設を目指した。フェースブックは彼にとって、国境を越えた自発的なコミュニティーを形成する一つの手段だった。
オフラインの世界では、シールは海上に法律の及ばない水上共同体を作ったり、宇宙開発を進めたりする非営利団体「シースティーディング(海上国家建造計画)」の中心的な支援者でもある。狙いは、海上や宇宙空間で新たな政治体系を作り上げること。
このシースティーディングって、あのミルトン・フリードマンの孫、パトリ・フリードマンがやってる事業・・のはず。既存の国家を自由主義の方向へ導く術を考えるよりも、別のどこかで自由を実現する方策を考える方が建設的なのかもしれない。