若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

「1日あたり74円 + 契約自由の原則の復権」を、1日あたり0.0027円で取り戻せるかも

2019年08月14日 | 政治
1日わずか130円の保険料でこの保障内容!
1日わずか186円でプロも認めるダイエット効果!
1日わずか72円で高血圧予防の薬膳茶が食卓に!


といった広告が、世の中には溢れています。

どれを選んでも良いんです。
こうした「1日わずか○○円」を1ヶ月契約、年間契約し、その商品やサービスを楽しむのも良いでしょう。
これらの誘惑を退けて、月数千円、年間数万円を貯めて、そのお金で旅行に行ったり年に1度の贅沢な食事をしたりしても良いでしょう。
年に1度の贅沢を我慢して貯蓄し、将来に向けて投資するのも良いでしょう。

満足は主観的なものであり、どれが一番良いかは各個人によって異なります。どれを利用するかは、各個人の自由な判断に委ねられるべきものです。人は常に最善の選択をすることができるとは限りませんが、それでも、自分のことは他人に委ねず自分で判断し選択することが長期で見れば一番マシでしょう。

さて。

N国党を応援しても取り戻せるのはMAX「1日74円」なり(しかもNHK見てない人限定)の巻


という記事を読みました。この記事では、
N国党がスクランブル放送を実現しても、1日あたりたった74円にすぎない
という趣旨のことを繰り返し述べています。

(ちなみに、NHKの受信料総額は7032億円です。(平成31年度予算額))


【契約自由の原則の大切さ】

冒頭に挙げた各種の契約と、NHKの契約。
金額にすると大差ありません。1日あたり数十円、月数千円、年数万円の契約は世の中に無数にあります。
では各種の契約とNHKの契約との違いはどこにあるかと言えば、契約締結が当事者の任意に委ねられているか、契約が法律によって強制されているかということです。これは大きな違いです。

たとえば、
「1日あたり50円で、世界の様々な紅茶を定期的にお届けします」
というサービスがあったとします。

紅茶好きにはたまらないでしょう。高い満足を得ることでしょう。紅茶好きにとっては、1日あたり50円を払うことでそれ以上の満足を得ることができます。だからこそ、この契約に合意するのです。
1日あたり50円払って50円以上の満足を得る、こうした不等価交換を繰り返すことによって人々の満足は増加し、以前よりも住み良く便利な社会が徐々に実現していきます。これを経済成長と呼んでも良いでしょう。

他方、紅茶嫌いな人にとっては、紅茶を送られてもどうしようもありません。送られた紅茶を飲まずに捨てるだけで終わるかもしれません。「1日50円、月1,500円も払って紅茶を貰うなんて無駄。」と思い、契約を拒むことでしょう。それでいいんです。

ここで、紅茶嫌いな人にこの契約を強制したらどうなるでしょう。
「1日あたり50円損しただけでしょ?大したことないでしょ」
という話で納得する人はそう多くはないはずです。
1日あたり50円ずつ生じる損失、送られた不要な物の処分の手間、契約を強制された不満、そして何よりも、1日あたり50円あれば出来たはずの他の方法で満足を得る機会を喪失します。

誰が、誰と、どのような内容の契約を締結するかは当事者間の意思に委ねられるべきという考え方を「契約自由の原則」と呼びますが、この原則を曲げても良い事なんてそうそう起きません。
強制的に締結させられた契約に基づくサービス、または強制的に徴収された税金で提供されるサービスが増えれば増えるほど、人々は自分でより良い商品やサービスを選ぶことができず、より高い満足を得る機会を失います。

テレビを置いたら契約義務という制度は、テレビ放送が始まった当初の時代の遺物です。任意で契約し受信料を払った人だけが見られるようにするスクランブル放送の仕組みを採用している放送事業者は多数いますが、NHKもこの仕組みで運営すれば良いのです。
これは単純に
「スクランブル化して戻ってくるのは1日あたりたった74円」
という話ではありません。契約自由の原則を大きく歪めている巨大な組織の在り方を是正できるかどうか、という話です。N国党がそこまで考えて主張しているのかどうかは分かりませんが。

【1日あたり74円と0.0027円】

さてさて。


N国党を応援しても取り戻せるのはMAX「1日74円」なり(しかもNHK見てない人限定)の巻


この記事では、タイトルにもあるとおり
N国党を応援しても1日あたりたった74円しか返ってこない(しかもNHK見てない人限定)
という趣旨の記述を繰り返しています。
並行して、
N国党の国会議員1人あたり1億円の税金が使われるのは妥当だろうか
という主張をしています。

ちょっと待ってください。
単位バラバラじゃありませんか?
ちょっと揃えてみましょうか。

N国党の国会議員一人に対しざっと1億円の税金が支払われます。計算を簡単にするために、国民1億人が等しく税負担しているとしたら、国民1人あたりが負担するのは1円です。

しかも。


よーく読んでください。これ、1年間の金額なんです。
国民1人が負担する金額は、1日あたりに換算すると1円÷365日≒0.0027円しかかからないんです。

あなたが単身世帯だとして、NHKのスクランブル化で返ってくるお金は1日あたり74円。
スクランブル化を国会で主張するための費用は1日あたり0.0027円。
1日あたり0.0027円でNHKの強制契約に対する不満を述べる代理人を雇い、うまくいけば1日あたり74円戻ってくる。
あなたがNHKスクランブル化を強く望む人であれば、これは割りのいい投資だと言えるでしょう。

【わたしはN国党には投票しなかった、けど】

N国党はあくまでワンイシューの党。NHKスクランブル化以外は多数派に従うと公言していたので、私はN国党には投票しませんでした。

しかし、他の事柄はとにかくNHKへの強い反感を抱き、NHKスクランブル化を求める人であれば、N国党に投票した価値は十分にあると思います。

少なくとも、
ポテトチップスの消費税8%、プロ野球チップスの消費税10%
という、誰がどう考えても愚かで無駄な、しかも外国でも弊害が指摘されていた「消費税の軽減税率」について
政党で唯一主張し、実現させました。
と公言する政党に投票するよりは、よっぽど賢明な選択だったと思います。

(しかし、ワンイシューの政党党首が崎陽軒に噛みつくのはどうかと思うよ・・・)

役所の芸術への関与と、表現の自由

2019年08月11日 | 政治
私人の表現行為に公権力が禁止や制限をする。
私人の表現行為に公権力が補助金を出す。
公権力が主催者となって表現行為を行う。

役所の芸術への関わり方を、いくつかの類型に分けて考えてみましょう。


【(1)私財による表現行為 vs 公権力】

私人(私的団体含む)が私費で製作運営する書籍、演劇、展示会に対し、役所が介入し、表現内容をチェックし、販売や上演の禁止やその態様の制限をするケースがこれに該当します。
これが表現の自由の本丸であり、当然ながら役所が販売や上演を禁止するのはダメです。

憲法上、検閲は明確に禁止されています。検閲すなわち「行政権が、表現物の内容を事前に審査し、一般的・網羅的に発表を禁止すること」は、表現の自由を侵害する代表例と言えましょう。
ざっくり言うと、憲法は政府の行為を制限し、これによって国民の自由を守ることを目的としています。検閲の定義を見てもわかるように、憲法によって保障されるのは「行政からの自由」であって、役所が特定の表現行為を優遇しその活動を支援する「行政による自由」は憲法の本来の役割からすれば傍流の、数ランク下の個別政策に過ぎません。

【(2)補助金交付を受けた表現行為 vs 公権力】

私人が国・都道府県・市町村に対し補助金申請をし、補助金の交付を受けて書籍販売や展示会実施をする場合があります。この場合も、役所が販売や実施の禁止をするのはダメです。

ただ、役所から補助金が出ています。補助金は、一定の目的を果たすために交付されるのが通例であり、また、交付に際しては条件を付されることもあります。補助金の一般論として、私人側が役所に対し

「○○をしたいから補助金を申請します」

と言った時に、役所側が

「この補助金は△△を目的としたものだから、○○だけではダメ。□□も加えて。あと■■はしないように。この条件を満たせないなら補助金を交付しない」

と対応することは容易に考えられます。内容を見た時に補助目的・条件に沿ったものでないことが事後に発覚した場合、補助金の返還も生じる可能性があります。

こうした補助金による条件づけ、補助不交付、補助金返還については、表現の自由とは直接関係がありません。表現行為自体は禁止も制限もされておらず、ただ補助金交付という特権的地位が認められなかったに過ぎません。補助金を受けられなかったとしても、他の表現行為と同じ土俵に立って表現行為をすることは当然可能です。

【補助金による介入】


そもそも、予算には限りがあるため、団体Aの表現活動と団体Bの表現活動の両方に支援できないという場合もあります。そうなると、AとBの活動内容を見比べ、役所がどちらに補助金を出すか選別しなくてはなりません。補助金でなくコンテストによる賞金形式のものもありますが、これは役所による選別という色合いがより濃くなります。

このように、補助金の登場によって、私人の本来企図していた表現行為が、役所の意向から影響を受けるようになります。補助金を受けた私人は他の者よりも金銭面で有利な立場を得ることができますが、他方で、補助メニューが増えれば増えるほど、役所の顔色を窺う場面が増え、表現行為に対し役所が介入できる場面が増えることになります。

補助金を貰いたい、貰った補助金を返したくない、こうした思考方法に取り付かれると、役所の意向に逆らうことが難しくなります。こうした役所による介入、表現行為への役所の影響力増大を憂う立場から、私は憲法89条をもっと厳格に解釈して政府支出を制限すべきと思うのですが、世の中には

「役所の補助が無いと表現行為が立ち行かない。芸術家の生活が成り立たない」

なんて言う人もいるんですよね。困ったものです。

【思想の自由市場論】

補助金の目的は「役所が望ましいと考える一定の状態の実現」にあります。これは、裏を返すと「役所が望ましくないと考える一定の状態の冷遇、排除」につながります。

さて、表現行為に対し補助金を交付するとして、望ましい表現行為はどのように分かるのでしょうか。「役所が考える望ましい表現行為」は、そのまま住民が考える望ましい表現行為なのでしょうか。住民の多数が望ましいと考える表現行為が、少数住民にしか支持されない表現行為と比べて金銭面で優遇されるべき必要はあるのでしょうか。望ましい表現行為を役所が指定すること自体に問題はないのでしょうか。

表現したい人が表現行為をし、これを見聞きした人が評価や批評をし、あるいは対抗する側から別の表現行為が行われることで、結果として「あれは良い表現行為だった」と受け入れられ、あるいは「あれはくだらない表現行為だった」と分かるのであって、通常、事前に表現行為が望ましいものかどうかは分かりません。

各人の自発的な表現が総体として互いに他を説得しようと競い合い、その自由競争の過程で真理が発見され理想的なあり方が見えてくる、こうした考え方は「思想の自由市場」と呼ばれますが、これは思想のみならず表現行為一般に通じる考え方だと思います。

【(3)役所主催イベント vs イベント参加者】

補助金であれば、表現行為の主体はあくまでも私人です。役所は金銭面での援助をしたに過ぎず、表現行為を実施し続けるかどうかの判断は表現者自身に委ねられます。

ところが、役所が主催者となると事情は異なります。

役所は、予算事業として、役所自身が主催者となってイベントを実施することがあります。
予算、会場、期間、テーマ、動員目標、ゲスト、演者、展示作品、入場料設定、様々なものを主催者の責任において決定していきます。

こうなると、役所の介入どころではありません。役所の主催であり、全体としては役所の表現行為です。役所の意向に反した表現行為を企図している者はそもそも招かれません。

また、評判が良ければ隔年開催を毎年に変えたり、評判が悪ければ期間を短縮したり翌年度以降の開催を取りやめにしたり、表現行為を始めた後にその反響によって展示方法や時間を変更したり、場合によっては中止にすることもあるわけですが、その対応をする権限と責任は主催者すなわち役所にあります。

良い意味で反響が大きい場合に、会場を調整してイベント期間を延長するということもあるでしょう。逆に、悪い意味で反響が大きくて、脅迫電話が来た場合に新たな予算措置を講じて警備員を増員して強化するといったこともあるでしょう。客の入りが悪いから、展示内容を途中で変えるということもあるでしょう。
そういった判断の最終的な責任は主催者にあります。

イベント主催者と、イベントの参加者・出展者とは、契約によって関係が成立しています。
主催者が役所であろうが企業であろうが、この点は変わりません。

【「行政による表現」は「表現の自由」とは異なる】

さて。
津田大介という人物が関わった「あいちトリエンナーレ」というイベントでの騒動が話題になっています。



実行委員会(愛知県、名古屋市、新聞社、NHK、大学などから構成される団体)が主催者となり、イベントを開催しています。
この実行委員会というのが曲者で、開催費用をそれぞれの組織から持ち寄っているために資金の流れが不透明になり使途不明金が発生することもある問題のある方式なのですが、運営費や運営スタッフが役所の負担金や役所の職員で多くを占められていれば、それはほぼ行政と言えます。
運営主体が実行委員会すなわちほぼ行政であれば、全体としてみたときにこのイベントは行政による表現行為ということになります。

表現の自由が本来「行政からの自由」を指していたことを考えると、この騒動は滑稽です。
自ら行政主催のイベントに参画してその枠組みと資金を利用して表現行為をしておきながら、トラブルが起きると
「表現の不自由展、その後」だけを別会場に移し、厳格なボディチェックのシステムを設けたうえで再開するようなやり方
という税金支出が増える一方の特別扱いを求め、実行委員会が展示の中止を決定すると
現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画をその主催者が自ら弾圧することは、歴史的暴挙
などと反発したり。
表現の自由の本義が「行政からの自由」であることを考えると、表現の自由を守る視点に立って今回参加した作家達が採るべきだったのは
「行政による表現活動に参加しない、近寄らない。」
という姿勢です。

行政主催のイベントに自ら参画した開催側内部の契約関係のトラブルを「表現の自由の問題だー」と主張するのは、表現の自由が本来持っていた「行政からの自由」という効力を揺るがすものです。
そして、行政がすべきことは、税金を使ってイベントを開催し、左右の納税者から「税金の支出に問題がある」という苦情の声の板挟みに合うことではありません。税金を使った表現行為イベントをそもそも主催しないことが、行政がすべき最善策です。

議員って雇われの身分だったんだ知らなかったー(棒 ~れいわ新選組お手盛り騒動~

2019年08月02日 | 政治
議員は被用者ではなく、法的性質としては自営業者に近い存在です。
こうした観点から、議員年金は廃止されました。
議員は被用者でなく、従って事業主負担というのは存在し得ません。

本来存在しないはずの事業主負担を盛り込んだ議員専用の年金制度の復活は、議員がその権限を悪用して自己利益を図るお手盛りです。

参院選後に復活画策の議員年金 税金負担は300億円か|NEWSポストセブン
======【引用ここから】======
 簡単にいえば、地方議員は支給額の低い国民年金を脱会し、自治体職員と同じ地方公務員共済に加入させることで、年金保険料の半分を税金で負担して手厚い給付を受けられるようにする。対象の地方議員は3万3000人だ。ちなみに健康保険も国保から共済になるため、議員が払う毎月の健康保険料は半額に減る。こちらの税負担は年金とは別に100億円かかる。政治学者の後房雄・愛知大学教授が指摘する。

「会社勤めをしていない自営業者など一般の国民は国民年金でやっている。地方議員も被用者ではないから国民年金が当たり前。それを自分たちだけ特別扱いで共済に入れろというのは特権意識以外の何物でもない。しかも、制度を作るのは議員だから、お手盛りの法改正をしようとしている」

完全な特権復活だ。もちろん、国会議員たちが地方議員にだけ“うまい汁”を吸わせるはずがない。その先にあるのが国会議員年金の復活だ。

======【引用ここまで】======

議員は被用者ではない。
議員だけの年金を作るのは議員特権。
自分で自分のための制度を作るのはお手盛り。

これはある程度知ってる人であれば共通の認識だと思っていたのですが、世の中には色んな人がいるもので。

勝手に副業解禁の公務員(僧侶&司法書士)さんのツイート
======【引用ここから】======
松井大阪市長にはしっかり勉強してほしい。
厚労省の考えでは、重度障害者が働く際の介護費用については、その障害者が働くことで恩恵を得る雇用者(企業)が負担すべきとしている。
今回のれいわ2人の議員の雇用主は参議院(国)。参議院(国)が介護費用負担することは、厚労省の考え方にも合致しています

======【引用ここまで】======


この方は、れいわ新撰組二人の議員の雇用主が参議院(国)であることの根拠として

「議員年金が支給されていたこと、議員年金復活の議論がなされていること」
「特別職の国家公務員であること」

を挙げています。そして、れいわ新撰組の二人に対し参議院が重度訪問介護相当の費用を公費支出することを肯定しています。

勝手に副業解禁の公務員(僧侶&司法書士)さんのツイート
======【引用ここから】======
こういう反論をするバカは沢山いる。

しかし、過去の議員年金も現在復活が議論されている地方議員年金も、財源は議員本人の掛金と国や自治体が支出する公金。
会社員の保険料と同額を雇用者=企業が負担する厚生年金と同じで、議員の掛金に加えて、雇用者を国・地方自治体とみなし公金を支出する考え

======【引用ここまで】======

勝手に副業解禁の公務員(僧侶&司法書士)さんのツイート
======【引用ここから】======
特別国家公務員な。
======【引用ここまで】======

以下、この論拠について見ていきましょう。

【議員年金は廃止された議員特権】

まず、議員年金については上述のとおり。「被用者でないにも関わらず事業主負担のような公費負担を投じて議員専用の年金制度を設けているのは議員特権でありお手盛りだ」との批判を受けて廃止されたものです。

なので、議員年金が支給されていたから議員は国を雇用主とする被用者だ、という理屈は(少なくとも今は)成り立ちません。
むしろ、重度訪問介護を議員年金とを並べたことで、
「公費で重度訪問介護相当の費用を議員活動中も支給することは、議員年金と同様の議員特権であり議員のお手盛りだ」
という思いを強くしました。

【特別職の国家公務員】

次に、特別職の国家公務員についてです。

まず前提として、公務員は厳密には雇用関係ではありません。任用とか任命といった呼ばれ方をします。ただ、一般職の公務員については、国家公務員法や地方公務員法の規定によって労働条件(とほぼ同じもの)が定められ、職務上の義務や雇用主の指揮命令に関する規定が置かれています。公務員には雇用保険が無い、等の差異も若干残っていますが、公務員と民間の被用者とはほぼ同じと考えて良いと思います。

他方、特別職の国家公務員についてですが、この特別職は「一般職ではない」という位置づけを示すものでしかなく、その性質は職ごとにバラバラです。身分保障や指揮命令系統も多様であり、個別の法律等を見ていかないと内容や性質は分かりません。なので、「特別職の国家公務員だから国と雇用関係にある」というのは短絡的です。参議院議員が特別職の国家公務員というのはそうなのですが、そのことが即「議員と国の雇用関係」を証明するものではありません。

通常、雇用関係においては、雇用主と被用者との間の職務上の指揮命令関係が存在します。さて、国と参議院議員との間に、雇用関係と言えるような明確な指揮命令関係が存在するでしょうか。議員に国家公務員法の適用はありません。選挙を終えた後の任期中について議員には広範な自由裁量が認められていることから、雇用契約と言うのは無理があるように思います。強いて言えば、国民との間の委任契約と呼んだ方が多少は近いような気がします。

【議員は最後でしょ?高給取りなんだから】

障害者に対し、誰が、どのような形で支援をするか。いろいろな形があるでしょう。私は、これを公費・税金ですることが最善とは思いません。
仮に、障害者に対し公費で支援をするにしても、その対象、順序、金額は十分に議論すべきです。

何かについて公費で支出する際、その支出を正当化する理屈付けの1つとして「所得再分配、格差是正」があります。高額所得者から徴収し低所得者へ支給することで、格差を縮めようとするものです。

高額所得者から低所得者への所得配分の観点に基づき、今回のような「障害者の就労中でも重度訪問介護を適用しよう」という議論が起きたとしても、これをOKとするなら、所得制限を設けてまずは収入の少ない障害者の就労から適用し、高額所得を得る障害者に適用するのは後回しという考え方があるはずです。

こうした議論をしてからの「参議院議員への重度訪問介護相当の公費支出」を認めるのであれば(納得・了承はしませんが)筋は一応通っていると思います。しかし、今回そうした議論がなされず、他の低所得の障害者を差し置いて、世界一の議員歳費を受け取る参議院議員が最初に、(当面とは言え)重度訪問介護相当の費用を公費から受け取ることになったのです。これをどう正当化すれば良いのでしょう。低所得の納税者からも徴収した税金で、高額所得者たる国会議員への新たな公費支出メニューを作り逆進性を強めたわけです。

ねぇ、参議院議院運営委員会の与党側の筆頭理事、大家敏志さん?やっぱり自民党はお手盛り大好きなの?
ねぇ、参議院議員運営委員会の野党側の筆頭理事、白眞勲さん?立憲民主党は熟議の民主主義じゃなかったの?