【まずは、自由主義者の視点から】
暴力による強制に否定的な古典派自由主義者・リバタリアン(ここでは総じて「自由主義者」と呼ぼう)は、議論や討論、熟議をあまり重んじない。どれだけ議論を重ねても、考え方の根本が違う複数の人間の意見を一致させることは無理であり、結局は
「少数派意見の排除と多数派意見の強制」
に陥る。
そう考えた時、議論を重ねて単一の結論を導くことよりも、議論と多数決によって決めたことを暴力で強制する領域(≒政治)を極力小さくすることが望ましいという結論になる。
自由主義者にとって大事なのは全体の意見の一致とそのプロセスではない。
大事なのは、個々の財産権であり、そして、これに基づく個人間の契約。
契約不履行の際に政府が履行を強制することの是非については自由主義者の中でも意見の分かれるところではあるが、契約内容そのものについて政府が事前に規制し、あるいは事後に介入することについては否定的だ。
「契約当事者が契約内容に合意して締結したのだから、これを尊重すべき。契約内容に政府が介入するのは個人の自由を侵害するものだ」
ということになろう。
こうしたことから、
「富裕層への課税を強化しろ」
「法律に基づく最低賃金を上げろ」
という主張に賛同する自由主義者はまず居ない。
課税は、最終的には暴力を背景に実施される財産権の侵害であり、いくら熟議を重ねたものであっても本質的には強盗と変わらない。
最低賃金法については、政府が一定の契約内容を禁止することを自由権の侵害として非難する。
また、最低賃金法には
「体が悪いけど、短時間なら簡単な作業に従事することができる。時給が安くても良いから、家にいるより働いた方が良い。」
という人を雇用の場から排除してしまう…という弊害がある。
自由主義者は、暴力による強制を嫌い、財産権の保護と個人の自由を重んじると共に、最低賃金法のような弱者保護のための法律がかえって弱者を困窮に追い込んでしまうことを危惧している。
【次に、民主主義者の視点から】
民主主義者がどう考えるかについては、私よりも民主主義に拘っている人の文章の方が判りやすいと思うので、まずこれを紹介しよう。○「民主主義は多数決とはイコールではない」と安倍政権の民主主義破壊を批判|LITERA/リテラ
======【引用ここから】======
「多数決だから正しいわけではありませんし、正当な手続きなわけでもありません。なぜ、民主主義において多数決という手段が使われるのか。それは多数の言っていることが正しいからではありません。熟議を繰り返した結果として多数の意見であるならば、少数の意見の人たちも納得するからです。少数意見の人たちも納得するための手段として多数決が使われるのです。少数意見を納得させようという意思もない多数決は、多数決の濫用です」
======【引用ここまで】======
これは立憲民主党の枝野氏の演説の一部だが、リベラル派の考える民主主義では、議論、熟議を重んじていることが分かる。
民主主義者は、結果として少数派の意見を排除してしまい、多数派の意見を強制することになったとしても、それが少数派を納得させようと熟議を繰り返したプロセスを経たものであれば正当化されると考えている。
これは、
「熟議しようがしまいが、強制は強制だろ。」
と考える自由主義者としては納得いかない結論だ。
けど、まぁ、民主主義を信奉するリベラル派がおおよそこのように考えていて、これを根拠に政府による課税や規制を正当化しようとしている、ということは一応理解しよう。
「富裕層への課税にしても、最低賃金法による規制にしても、課税や規制の対象となる少数派を説得しようと熟議を重ねることで、少数派も納得するはずだ。だから正当化されるのだ」
・・・というのが、民主主義のロジックである。
【民主主義から熟議を差し引くと、純粋な強盗になる】
富裕層への課税や、法律による最低賃金の引き上げ。これらは財産権や自由権の侵害であり許されない、と考える自由主義者。
少数派を説得しようと熟議を重ねることで少数派も納得する、そうなれば正当化される、と考える民主主義者。
ところが、このいずれにも属さず、
「熟議よりも攻撃が必要」
と開き直る人物が現れた。
藤田孝典さんのツイート:「最近NPOや社会的企業でも議論や討論、熟議に重きを置く人が増えているけれど、話し合いや対話で問題解決できる領域と違う領域があることを知った方がいい。貧困とか労働、差別問題の現場って、日常化した権利侵害なのだから、議論や熟議より、要求や攻撃、敵対が必要な場合が多数。」
このコメントは、
○カンニング竹山の土曜The NIGHT#41~田端信太郎VS藤田孝典公開討論!~ | 【AbemaTV(公式)】国内最大の無料インターネットテレビ局
という番組での公開討論でボロ負けした藤田氏に対し、田端氏寄りの人からの批判のみならず、藤田氏と思想的に近いはずのNPO・福祉関係者からも批判が上がったことで発せられたもの。
ある意味、開き直ってしまった感がある。
富裕層課税や最低賃金引き上げがテーマであれば、民主主義を重視する立場からは、反対する考えの人を説得し納得を得ようと議論を重ねるはずだ。
公開討論会というのは、その格好の場であったはずだ。
民主主義に基づく課税や規制が正当化されるのは、議論を重ね熟議を繰り返すからであって、一度の討論会でボロ負けしたからと言ってこれを放棄してしまう藤田氏の姿勢は、非常に浅はかであると言わざるを得ない。
課税や規制が権利侵害なのであって、これを許さないのが自由主義。
課税や規制は権利侵害なのだが、これを熟議による正当化を図るのが民主主義。
藤田氏の姿勢は、正当化のプロセスすら放棄した
「生身の権利侵害=強盗」
を推奨するものである。
民主主義から正当化を図る熟議の努力を差し引いたら、強盗と何も変わらない。
左翼思想家が段々と先鋭化し、暴力路線、最後は内ゲバ・・・
・・・という「いつか来た道」を現在進行形で見ているのかもしれない。
社会主義者の独善性、攻撃性ここに極まれり。
藤田氏が自腹で貧困者支援をするなら議論は要らない。
しかし、課税や規制といった政治権力を必要とする話題で
「熟議よりも攻撃」
なんて言ってしまうなんて、どこの独裁者かと。