若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

木村剛 vs 小倉秀夫 ~ 経済学と法学 ~

2009年02月04日 | 政治
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大学で法学をかじり、独学で経済学をかじる者としては、
この著名な二人のやりとりは面白かった。


以下、やりとりを眺めていて思いついたことの書き殴り。


法学では、見えている問題に対し、法律の運用や解釈・立法を通じて、
その解消を図ろうとする。
政府は目の前にいる弱者に救いの手を差し伸べる守護者となるべきであり、
法律はそのために企業を掣肘する刃であり鎖であるべきだ、と考える。

小倉氏が、
企業が派遣労働者を簡単に切り捨て政府もこれを見捨てる政策に変更を迫るためには水元公園では不十分であって、マスメディアの目に触れやすい地を選ぶ必要があった
と述べたのは、見えている問題しか対処できない法学の一側面を表している。

見えている問題を解決するには、コストがかかる。
コストは、パッと見では分からないことが多い。
政府が税金で問題を解決するとなれば、
発生するコストを、誰が、いくら負担するのか?等がうやむやになり、
ますます見えにくくなる。
見えにくいこのコストを見えるようにする必要があるが、
法学はそのための手法を持ち合わせていない。

誰がいくら負担し、誰がいくら利益を得るのかが曖昧な領域では、
そこに官僚の利権・天下り・渡りやらの入り込む余地が生まれる。
政府の経済的規制、再配分といった手法を認めることは、
官僚に付け入る隙を与えるのと同義だ。
これに対し、法学は
「精神的自由が保障されていれば、政府の問題は民主的過程において解決できる」
と極めて楽観的に回答するだろう。

こうした精神的自由の偏重が、法学において「二重の基準」を生み出した。
精神的自由と経済的自由という自由の両輪のうち、精神的自由を偏重し、
経済的自由に対する規制については政府に大きな裁量を認めている。
「明白性の原則」なんて、政府に白紙委任状を与えたようなもの。
片手落ちもいいところだ。

経済的自由は精神的自由と同等に重要だ。
当事者間で契約内容を決める自由があればこそ、
初回30分5000円。30分で終わらない場合は、30分ごとに1万円を加算。
という相談料をとることができるのだ。
「単位時間当たりの収入格差の是正」という趣旨の下、
「相談料は1時間1500円を超えてはならない」なんて規制をかけられたら、
おそらく小倉氏は反対するだろう。

こうした経済的自由への規制は、契約相手の能力をどう評価するかという
精神的活動に対する制約となるのだ。
精神的自由と経済的自由とは、ともに人間の本質的な部分に深く根ざしている。
コメント
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