若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

平成の統帥権干犯論争

2010年11月21日 | 政治
○NHK教育 司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 ~ 何が魔法をかけたのか ~
(番組放送27分頃から)
(軍部が暴走した「魔法の森」の昭和は)いつから始まったのか。明治憲法を取り出して読みますとですね、そんなに変なことはない。そして天皇制という言葉を使いますが、天皇制という言葉で使うと便利いいんですけど、カイゼルではないわけですね。天皇の責任はあるかといったら、明治憲法によると天皇は行動がほとんどできない。政治的な行動はほとんどできない。いわゆる国務大臣、内閣総理大臣も明治憲法では国務大臣の一人ですが、が最終責任を負うということになっていますから、どうも明治憲法というのはちょっと古臭い憲法ですけれども、あれなりに運営しても太平洋戦争や、あるいはその前の満州侵略といったようなものは、あるいは中国侵略というものは、ノモンハンの惨烈さといったものは、そして国民へのしめつけというものは起こらないわけです。信教の自由は認められておりますし、信書の秘密は認められておりますし、私有財産も認められておりますし、要するにナポレオンがナポレオン法典を作ってフランス革命の精神を民法に盛り上げました。それらの回り回った影響、むろんドイツ経由の影響ですが、明治憲法には現れました。それなりに近代憲法でありました。ですからそんな変なことは憲法からは出てこない。結局、統帥権、統帥権というこんな変なものが、どうも学問的には大正の初めころに言った人があるという話ですが、実際に統帥権が魔物になってやってくるのは昭和になってからです。

統帥権、みなさんにとって聞きなれない言葉ですけど、我々を酷い目に遭わせたのはこの三文字につきるんじゃないかと。ただこの言葉で魔法の森がとけるわけじゃないんですけどね。明治憲法でも三権分立でした。議会が立法し、国務大臣が、総理大臣以下国務大臣が行政をし、そして、司法があり、要するに三権分立でした。その上に超越的な権力、権能といいますか、いうものが統帥権でした。どこから憲法解釈しても出てこない話ですが、だけど「陸海軍は天皇がこれを統帥する」という一条を大きく解釈しますとですね、統帥権というインチキの理論論争を、なんといいますか、持ち出すことができる。立法、司法、行政という三権の上に超越しましてですね、軍人だけが統帥権を持っています。そして、軍人の中で陸軍大臣は持っていません。参謀本部の総長および参謀本部が持っています。



引用が非常に長くなってしまったが、以下、私なりにまとめ。

明治憲法の当初の解釈においては、天皇個人に政治的な意思決定を行う権限は持たされておらず、陸海軍は国務大臣の権限と責任において指揮監督(統帥)されていた。ところが、大正期に始まった明治憲法の曲解、インチキ解釈によって、統帥権が立法・司法・行政を超越し、国務大臣の権限と責任から外れ、参謀本部の手に委ねられてしまった。そのことが、大陸侵略につながった・・・と。

陸海軍の行動を決定する権限は国務大臣にある。権限のあるところに責任がある。この明治憲法の本来の形を崩したのが、統帥権論争だ。「統帥権独立」という大義名分により、大臣の権限・責任に基づく指揮監督という制約から陸海軍の行動が外れ、参謀本部の自律に委ねられてしまった。

そんな、司馬遼太郎の考える統帥権の構図と、どうも似ている・・・と私が思ったのが、↓こちら。


○政治職・執行職…「仙谷用語」で国交相擁護(2010年11月12日09時26分 読売新聞)
 中国漁船衝突事件の映像を海上保安官が流出させた問題で、野党が海上保安庁を所管する馬淵国土交通相の引責辞任を求める姿勢を強めていることに対し、仙谷官房長官は11日の記者会見で、「政治職と執行職では(責任の)レベル、次元が違う」と語った。
 10日にも同様の発言をしており、国土交通相の所管の一つとして海上保安庁にかかわる馬淵氏と、同庁を実質的に指揮する鈴木久泰長官とでは責任の重さが違うと強調することで、馬淵氏の辞任要求をはね返すのが狙いだ。
 仙谷氏は記者会見で、「執行職」を警察、検察庁、海上保安庁のほか、国税庁や自衛隊など「ある種の強制権限を持った執行機関」の所属者と定義づけ、「権限に応じて管理も自律的に行われなければならない」と持論を展開した。
 しかし、総務省や内閣総務官室によると、「政治職」「執行職」という言葉は法令上、規定されておらず、「あまり聞いたことがない」という。


○尖閣映像流出:海保長官辞任は不可避の見方…政府・与党 毎日新聞 2010年11月10日 20時40分
 仙谷由人官房長官は10日の記者会見で、中国漁船衝突事件のビデオ映像の流出問題に関し、「強制力を持った執行部門は、政治からの影響力を排除する相対的な独立性がある。独立性、自立性に応じた責任は当然出てくる。強い権限がある代わりに強く重い責任を負う」と述べ、鈴木久泰海上保安庁長官の責任は免れないとの考えを示した。


警察、検察庁、海上保安庁、国税庁、自衛隊における管理の自律性を強調し、国務大臣の責任軽減を主張する仙石官房長官。権限と責任は比例する。責任のない所に権限はない。権限の少ない者には大きな責任はない。国務大臣の責任を軽減することで、国務大臣からの指揮監督が及びにくくなる。

「自衛隊の活動は自律的に行われなければならない。国務大臣は重い責任を負わない。」

これを、弁護士出身の官房長官が言ったのだが、この発言が自衛隊の側から、

「自衛隊の活動は自律的に行われなければならない。責任なき国務大臣の指揮監督は受けない」

という形で主張されるようになると、まさに平成版・統帥権干犯問題となる。明治憲法にインチキ解釈を施して統帥権独立の理論を打ち立てたのは、仙石みたいな姑息な輩だったのだろう。

ちなみに、現行の日本国憲法には、自衛隊の根拠規定はない。自衛隊の合憲性が、憲法の文言の素直な解釈からだいぶ離れた所にある、綱渡りのような解釈によって辛うじて成り立っている状態だ。その自衛隊の管理・監督については、憲法上何も規定されていない。何も規定されていない状態で、時の官房長官が自衛隊の自律性を強調するのは危険だと言わざるを得ない。

昭和の頃は、犬養毅や鳩山一郎(野党の政友会)が、時の与党を揺さぶるために統帥権干犯で政府を責め立てた。現代の平成では、官房長官が野党の追及を回避するために執行部門の自律性を強調した。

少々立場が違うとはいえ、歴史は繰り返してしまうのだろうか。繰り返さないためには、流出させた海保職員をきちんと処分するとともに、国土交通大臣が辞職することで「責任の所在は内閣にあり」ということを示す必要があろう。
コメント
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