レンコンの部屋

日常の感じた事など

母との別れ

2015-02-08 11:10:30 | 日記
2月1日私は連絡がないからと盛岡の研修会場にいました

午前中の研修を終えて昼食を食べた後メールを確認したら妹から今から施設に行って来ますとただならぬ感じ

それからメールや、電話を入れても全く通じず、自宅に電話をしたら、たまたま母のお帰りの服を取りに戻った妹の旦那さんが出てくれて

状況を把握。午後の研修ごキャンセルし一緒に行った職場の同僚に事情を説明し猛スピードで自宅に戻り(高速道路ですから)

あわてて支度をし、万が一の時の喪服をたのんで息子に送ってもらい新幹線で一路施設に向かいました

5時間かからずに施設に着き、妹家族がすでに母のそばについていてくれました

その晩は妹と二人で付き添い、ソファベッドに横になりながら、今までの事を母に謝り、昔話をして一晩過ごしました

朝方から、呼吸も浅くなり、手も紫色になってきて、本当にもう駄目なんだと思っていたら

8時15分ずっと目を開けていたのに自分で目を閉じでもういいかなと思ったように呼吸が止まりそれが最後でした

静かな最後で、本当に眠っているようでした(呼吸してないだけ)


それからは、いろんなことがあったけど、言われたことを一つ一つこなして時間が過ぎていきました

遺影は私がいつもPCで見ていた、元気だったころの母の笑顔の写真にして

思い出の写真を8枚選んでくださいといわれ、写真好きの母が残してくれたアルバムを見て泣いたり笑ったり

母の小学卒業からのむかしのアルバムが出てきて、解説する当の本人がいないため、弔問に来てくれた母の幼馴染の友人に見てもらい

しばし、母のむかし話をしてもらいました

私たちの知らない母の人生

近所の方の弔問もありがたく、母がどのように思われていたかとてもよく伝わってきて

改めて母は幸せな人だったとそしてそれくらいまた人に尽くしていた人だったと思いました


人生最後の10年間は神経難病で辛かったと思うし、2年間は言葉もなく動くこともできなかったけど

施設に入っても、孫やひ孫に囲まれた写真、時々の面会、母が培ってきたことが凝縮している証しだと思いました

通夜・告別式も私の子供たちが家族で来てくれて

小さな子供たちが5人もいて賑やかだったけど、集まった親戚もそんな子供たちをにこにこしながら見ていてくれて

家族葬だったけど、とてもいいお葬式になりました

母の遺影の小さな写真をもらってきて、これからはその写真に向かって話をしていこうと思います