レンコンの部屋

日常の感じた事など

家族って、親って

2015-02-14 11:37:17 | 日記
私にはもう両親がこの世にはいなくなってしまいました

56歳でまだ両親が健在な方もいれば、もう片親しかいないという人や、私と同じ人もいますよね

この年齢になると、出会う人より別れる人の数の方が多くなるような気がしています

そんななかで、自分にとっての家族の存在って、やっぱり大きいですよね

子供4人は成人して、長男家族とは同居していますが、まずは仕事をして自立しています

他の子供たちも末の子を除けば家庭を持ち自立しています

末の子もしっかりと自分の生活を自分の責任で生きていいてくれます

でも、いざとなると今回の私の母の葬儀の時のように、全員が(長男は仕事で来れませんでしたが、葬儀の夜に来てくれました)

集まってくれます

孫が亡くなった時もさっと集まってくれました

そして、誰も、その空気を乱すことなく、粛々と葬儀が進み葬儀が終わると帰って行きました

帰ってからも、誰も疲れたーという愚痴も言わずに、娘たちは本当にいい旦那様に出合えたのだと思いました

来月の49日の納骨の時は、幼稚園の卒業式だったり、前の週に出かける用事があり、連日の旅行は負担になるということで

全員参加にはなりませんが、それでも来れる人は、わざわざ横須賀まで行こうと考えてくれる

ありがたい話です


妹家族も同様で、平凡だけど、暖かい家族だなって

世の中には骨肉の争いとか、家庭崩壊とか、幼児虐待など家族に関するいろいろな問題があります

根本原因はそれぞれだとは思いますが、家庭生活は各々が自分のやりたいようにしていては絶対に壊れて行きますよね

やっぱり、家族のために我慢したり、家族の誰かのために力を貸したり助けたり・・・

そんなことの積み重ね、年月が家族を作っていく、まさに絆が生まれるのだと思います


母には本当に、小学生の時から生意気なことを言ってよく泣かせていました

私が言って、本当に悔しくて母が泣いてしまうと、あわててごめんと謝っても母は許してくれませんでした

そんなこと、何回繰り返したんでしょうか

不良少女にはならなかったけど、勉強はまじめで成績もそこそこだったけど、でも、子供の時はそんなに両親が大好きってことななかった

大人になり、家庭を持ち、初めて親の存在の大きさに自分が包まれていたんだと感じて、幸せだった

そして、親孝行、出来たかどうかは自信がありませんが、母親を看取って、改めて

親が子どもに残せることは、人生の先輩として、どうやって生きて死んでいったかを見せること

それを反面教師とするか、手本とするかは本人次第


母を亡くして寂しくて、悲しくて、でも、独り言のように母に話しかけたり

なんか包まれている感じがするから、きっとそばにいてくれて頑張っているのを応援してくれているって

考えるようにしました

そう考えると、少し、気持が楽になってきました

来月、納骨に行って、また妹と話をして来ようと思っています







一日一日

2015-02-11 19:50:41 | 日記
仕事に復帰して二日。

たった二日ですが、私にとってはすごく長くて、意味が深かった。

初日から、仲間の暖かさに出合い、そして、私がいない間に起こった色々なトラブルに関して、意見を求められ

そして、スタッフもストレスでかなり精神的に辛くなって来ているということで

業務分担で考慮したり、話を聞いたり、声をかけたり

自分の事は、さておき、まずは病棟のスタッフがつぶれてしまわないように

基本的に明るくて、ムードメーカーって言われてきたので

少しでもみんなが前向きでやって行けるように考えて過ごしました

勿論、患者さんに関しても、死を意識しながら、一日一日を生きている

接する時は緊張します、今まで以上に


私たちは、自分の今の精神状態を患者さんや家族にはまず言いません

私は母を亡くしたばかりです、なんて言いません

だけど、私は亡くしたばかりで気持ちがとても繊細になっているから

きっと、今まで以上に話を聞くときもいつもよりうなずきが大きかったり、表情もやさしかったりしているかもしれません


母を看取った家族として、一番理解できる人だと思います

安らかに逝っても、家族は後悔する。もっと何かできたかもって・・・

そんなものです、一生懸命ってことは・・・


こうして毎日仕事にいくことで、きっと私は心を癒され、自分の事として考えたりして、時が過ぎて行くんだと思います

本当にありがたいです

患者さん、ご家族に、そして、職場の仲間に支えられていられるんだと感謝しています

この仕事をしていて、本当によかった!!

心の整理・・・

2015-02-09 09:45:07 | 日記


岩手に帰ってきて2日。でもすごく長く感じます。

溜まっていたことを淡々とこなして、溜まっていたテレビ番組も明らかコメディのもの以外を順に見て

今日まで休みなので、洗濯掃除と終わってこれから用足しに出かけようと思います

家族葬ということもあり、母の事は自宅に帰ってきてから親しい友人にメールで連絡しました

次に会った時に話してもよかったんだけど、自分のためておけない性格で

今の私の気持ちを少しでも知ってもらって、声をかけて欲しかったから

基本甘えん坊なところがあるんですよね

自分で抱えきれなくなると、友人や子供たちにすぐ吐き出してしまう

それでも足りなくて、憂鬱気分から抜け出せない

親を亡くしたんだから当然だよって言われるけど、明日からちゃんと仕事できるのかなって心配

妹は今日からだったから、夕べメールしたら、同じことを考えていたみたい

2人姉妹は体質も病気も(喘息)声も似ていて、離れているけど、持ってるものも同じでした

すごーく仲良しってほどベタベタはしていないけど、普通に価値観は似ているかな

喧嘩もよくしたし、だから、今まで実家にいる時は、話ができたからそんなに感じなかったのかもしれません

岩手に帰ってきたら、私と同じ思いをしている人はいないから、やっぱり孤独感なのかも

息子も嫁さんも、来月に迫るお産の事が次にイベントになっているから

勿論私もお産の準備できてるのと声をかけ、今日あたり買い物に行ったみたい

素直でいいのですが・・・・


1日1日過ぎていく中で、気持が落ち着いていくんでしょうか

好きなビールを飲んでも全く酔えず、だからと言って飲む気にもなれず

大好きな歌を歌う気にもなれず

明け方には目が覚め、まさに中途覚醒そして眠れず・・・

これって、抑うつ状態だよね・・・

抜け出せるのかな・・・

なんだかすごく不安です・・・

心が壊れてしまうのではないかって・・・

こんな状態母は望んでなかったよね、きっと

母の死に関して、何の心残りも無かったはずなのに、ただ単にいなくなってしまったことが寂しくて

夢でもいいから会いたい、会って話がしたいって思います

母との別れ

2015-02-08 11:10:30 | 日記
2月1日私は連絡がないからと盛岡の研修会場にいました

午前中の研修を終えて昼食を食べた後メールを確認したら妹から今から施設に行って来ますとただならぬ感じ

それからメールや、電話を入れても全く通じず、自宅に電話をしたら、たまたま母のお帰りの服を取りに戻った妹の旦那さんが出てくれて

状況を把握。午後の研修ごキャンセルし一緒に行った職場の同僚に事情を説明し猛スピードで自宅に戻り(高速道路ですから)

あわてて支度をし、万が一の時の喪服をたのんで息子に送ってもらい新幹線で一路施設に向かいました

5時間かからずに施設に着き、妹家族がすでに母のそばについていてくれました

その晩は妹と二人で付き添い、ソファベッドに横になりながら、今までの事を母に謝り、昔話をして一晩過ごしました

朝方から、呼吸も浅くなり、手も紫色になってきて、本当にもう駄目なんだと思っていたら

8時15分ずっと目を開けていたのに自分で目を閉じでもういいかなと思ったように呼吸が止まりそれが最後でした

静かな最後で、本当に眠っているようでした(呼吸してないだけ)


それからは、いろんなことがあったけど、言われたことを一つ一つこなして時間が過ぎていきました

遺影は私がいつもPCで見ていた、元気だったころの母の笑顔の写真にして

思い出の写真を8枚選んでくださいといわれ、写真好きの母が残してくれたアルバムを見て泣いたり笑ったり

母の小学卒業からのむかしのアルバムが出てきて、解説する当の本人がいないため、弔問に来てくれた母の幼馴染の友人に見てもらい

しばし、母のむかし話をしてもらいました

私たちの知らない母の人生

近所の方の弔問もありがたく、母がどのように思われていたかとてもよく伝わってきて

改めて母は幸せな人だったとそしてそれくらいまた人に尽くしていた人だったと思いました


人生最後の10年間は神経難病で辛かったと思うし、2年間は言葉もなく動くこともできなかったけど

施設に入っても、孫やひ孫に囲まれた写真、時々の面会、母が培ってきたことが凝縮している証しだと思いました

通夜・告別式も私の子供たちが家族で来てくれて

小さな子供たちが5人もいて賑やかだったけど、集まった親戚もそんな子供たちをにこにこしながら見ていてくれて

家族葬だったけど、とてもいいお葬式になりました

母の遺影の小さな写真をもらってきて、これからはその写真に向かって話をしていこうと思います