雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキレーススタート時代

2010-01-24 04:39:38 | カワサキワールド
20年ぶりにカワサキファクトリーもレースOB会が有馬であった。
当時のレース関係、時系列に纏めてみる。

1963年
63年はレースの近くにはいたが、直接担当はしていなかった。
ヨコからライダーたちを眺めていて、正直エライ人種だなと思っていた。
事務所の中では目立っていた。一言で言えば、やんちゃな集団のようであった。

★カワサキがモトクロスで初めて工場チームとして兵庫県青野ヶ原のレースに参戦したのが、公式にはそのスタートとされている。
それに直接関係されたのが高橋鉄郎さんであり、ライダーとして走ったのが飯原武志君である。私は営業にいて部長の小野助治さんの指示で、ちょっとだけ金銭面でお手伝いしただけである。そんなに実力はなかったのに雨で強豪のマシンがみんな止まって1位から6位までを独占したのである。1963年5月19日のことであった。

★私が50年も前、レースに関係することになったきっかけは、山本隆君と歳森康師君がBSと仮契約をしたという事件があって、その調整を頼まれたのがきっかけである。

『神戸木の実の主宰者の片山義美さん』と話してくれということで、私がレース界の方と最初に話をしたのは、当時もう世界的なライダーであった片山義美さんである。
いろんな文句もきつく言われたが、尤もだと思うことも多かった。
『じゃ、そのようにしましょう』と約束して、私はレースの世界に足を踏み入れることにのである。1963年末か64年の当初の頃のことだった。


1964年
この年から、レースに本格的に取り組んだ。当時の金で1億2千万円もの広告宣伝費を持っていて、とにかく裕福にレース活動が出来た時代であった。1964年からの3年間、この間レース担当であった。

★当時はカワサキコンバットと神戸木の実クラブの二つのチームがカワサキを支えていて、
今回出席のライダーの人たち関東は三橋、安良岡、岡部、金子、星野、加藤、神戸木の実は、山本、歳森、金谷に会社のテストライダーで飯原、清原などがいた時代である。

★64年、相馬が原の第1回MFJ全日本モトクロスでは惨敗したが、秋MCFAJの丸の山では4種目中3種目に優勝したりした。東京オリンピック開会式当日10月10日のことである。
そしてその年の11月8日、和歌山紀ノ川のレースで、ヤマハの荒井市次と接触して、指を骨折した岡部の代わりに星野が岡部の名前で初めてレース場を走ったのである。


1965年
レース担当2年目、厚木のカワサキコンバットには全国からライダーの卵たちが集まっていて賑やかであった。その中から頭角を現したのが星野である。今星野インパルの経営に当っている金子豊君などもこの中にいた。
この年からひょんなことで、ロードレースの分野にも、出場しだした。

★65年はMFJは名古屋東山で星野がトップで走りながらパンクでリタイヤ。125は歳森がぶっちぎっていたがプラグミス、1位から5位くらいまでカワサキのライダーが走りながら荒井市次に1週ごとに抜かれて結局2位。
4月13日朝霧のMCFAJのレースで星野初優勝。まだノービスの時代である。

★会社の中にレース委員会なる組織があって、技術は山田さん営業は苧野さんが長だった。そのメンバーのなかに今回出席の高橋、大槻、田崎さんたちもいて私が事務局を勤めていた。
まだモトクロスだけでロードレースはダメと言う時代に、山本隆君がどうしても出たいと言うので、モトクロスに出るとごまかしてマシンを2台創り上げ、モトクロスライダーの山本隆君が初めて鈴鹿を走ったのである。
このマシンを都合してくれたのが、当時生産部門にいた田崎さんである。

★これが予期せぬ3位入賞(65年5月3日)で翌月6月13日、鈴鹿の6時間耐久に、3台のマシンを揃えてこれは堂々とカワサキのロードレース正規エントリーであった。大槻監督、田崎副監督の布陣で、金谷が歳森と組んでカワサキでのレース初陣となったレースである。

★この年の7月田崎さんはアメリカへ、大槻さんはドイツ留学が決まって、
レースチームで送別会をしている。
レース監督は大槻さんから安藤吉朗さんに代わった。

★8月30日全日本125セニア 岡部優勝、
日本GP 安良岡の個人参加でなど、そんな時代であった。



1966年
レースも3年目で、いろいろと充実した期間でもあったのだが、ライダー契約を担当している身には春先の三橋実の転倒入院に始まって、気の休まることのない1年であった。
中でもマン島で藤井敏雄を亡くしたし、デグナーの転倒事故入院も大変な出来事であった。いいことと言えば、F21Mのデビュー、金谷の日本GPでの健闘はあったが、総じて辛い1年であった。


★1月藤井敏夫とマシン貸与契約、ヨーロッパを廻って帰国してから契約して欲しいとの本人の申し出でそんな契約だったのだが、8月27日マン島の予選で転倒、帰らぬ人となった。

★7月250ccMXマシン F21M 、松尾勇さんが手作りのパイプフレームで創り上げる。
フレームの設計図などなかった。パイプに砂を詰めてみんな手作りだった。
7月末青森岩木山全日本でデビュー、その後連戦連勝。


★9月26日、デグナーと契約
 9月29日、デグナーFISCOで転倒

★10月16日、FISCOで日本GP  GP7位 
250ccジュニア 金谷(2位、Gニクソン共に同タイムのコースレコード。
このレースが私のレース担当最後のレースになった。

レーススタート3年目にして、モトクロスでは確固たる地位を築き、山本隆、星野一義も日本を代表する選手に成長した。清原、従野などのほか岡山の西、大阪の木村など新人ライダーも多数カワサキに所属した。ロードレースはまだスタートしたばかり、清原まだモトクロスのライダー時代である。
ロードのマシンも赤タンクの時代である。


翌年からは、東北仙台への転勤が決まり、3年ちょっとのレース担当を終えたのである。
後を引き継いでくれたのが故岩崎茂樹君である。
この年で本社からの開発費も終わり、ロードの契約などは技術部門という現在のような形になっていったのである。



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コメント (2)
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