雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その45 昭和49年(1974)

2017-03-25 06:13:24 | 自分史

★昭和49年(1974)私は42歳、3っ年下の長嶋茂雄さんが巨人軍を引退した年である。

未だオイルショックの影響で世界の景気はもう一つだったのだが、カワサキはZ1が世界的に好調で、単車事業本部の業容も急激に拡大して川崎重工業の中でも当時の造船と肩を並べるほどになりこの年の1月には発動機と単車が合併した発動機事業部となるのだが、その主力は単車となっていたのである。

元々川崎航空機時代は発動機のエンジンとジェットエンジンの二つの部門があり、二輪車のエンジンは数多くあるエンジンのほんの一部だったのだが、昭和36年(1961)に明石工場の中で一貫生産がスタートして発動機営業部の中に単車課が出来た時点から私は二輪事業に参画することになったのだが、その後、紆余曲折はあったものの、単車事業として独立しさらに発展して、拡大の一途をたどり特にZの生産・販売が始まってからは急激に伸長して、明石工場の生産体制も発動機よりも単車が大きくなるような経営環境となっていたのである。

この年からは川崎重工業の本社部門の中にも「単車委員会」が組織され二輪事業についての勉強会のような形で当時の本社若手理事だった大西・三宅さん(後お二人とも川重副社長)などのメンバーでスタートし、私などもカワ販企画部長の立場で参画していたのである。

一方明石工場の生産サイドでは、昭和55年までに100ccの小型車を中心に120万台生産構造を目指す『Cプロジェクト』などもスタートするなど、川重本社でも、明石の工場でも、大きな動きがスタートしたそんな年度だったのである。

 

★一方、市場開拓では、2月には英国に販売会社KMUKを、7月にはカナダにCKMを設立したり、フィリッピンのDELSA社の資本参加するなど、いよいよ世界展開が始まった年である。

 

      

 

これら販社の設立に直接関わって、KMUK初代社長になったのはメグロ出身で、カワサキオートバイ販売にいて、北陸や岡山の所長を歴任した『内田道男』さんである。

内田道男さんとはいろいろ国内でも関係があって、『カワサキが初めて鈴鹿を走った日http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63 のことはこんな旧いブログにも書いているのだが、この時のライダーがモトクロスの山本隆くんなのだが、もう一人北陸からロードレースを既にやってた塩本くんを乗せたのである。その塩本君を出してくれたのが『内田道男』さんで当時からレース大好きだったのである。

カワサキの初めてのロードレースは『ヤマ3 シオ8 セイコウカワ』と現地の川合さんから私宅に電報が届いて、山本3位、塩本8位の大成功の結果から、カワサキはロードレースの世界に本格的に入っていくのである。

このレースのマシン制作を手伝ってくれたのが田崎雅元さん、塩本を出してくれたのが内田道男さん、会社にこっそりとロードレースに参加させたのはで、その後もいろいろとカワサキの二輪事業の中枢で動く機会も多かったのだが『内田道男』さんは、当時販売の現場第1線をホントに経験した人は川崎重工には居なかったので彼はカワ販から川重に移籍して、このKMUK の設立からいろいろと活動したのである。

 

      

        Mr. Michio Uchida, managing director of Kawasaki Motors UK Ltd.

彼はその後もドイツの販社の設立やヨーロッパ市場の開拓に貢献したのだが、

ずっとのちヨーロッパのGPでカワサキがKR250/350で大活躍した時代にはそのヨーロッパのレース運営の本部はUKで『ケン鈴木さん』なども有名だが、その中心にいたのである。 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7237f568dd53b8f8aabf8159181f861a  こんなブログもアップしている。

そんな内田道男さんだったが、早く逝ってしまわれたのである。

 

★この年カワサキの二輪事業の最大の話題と言えば何と言っても、アメリカネブラスカ州のリンカーンに、自動車・二輪車業界初の米国現地生産工場をスタートさせたことだろう。

その規模は400,000㎡の広大な土地に、6000㎡の建屋でスタートしているのである。

 

  

 

   これは Google Map からの写真で、40年以上経った今は、こんな状態になっている。

 

    

 

     

      

  二輪車の生産から、ジェットスキーも、多分今は4輪バギー車の生産などもやっているのではなかろうか。

 

      

★私自身は、前年から本社管理部長としてカワ販本社に異動し、この年6月からは職制変更もあって企画部長として国内グループ全体の方向立案なども担当しているのだが、第1線の特約店制度推進の対応が大きな分野で、この年には九州・広島・岡山・北陸地域の特約店制度が実現し、最大の市場の関東圏対策としては神奈川県の検討をスタートさせているのである。

社内にはA・B・C の3つのプロジェクトがあって、

Aプロジェクト は首都圏対策で東京を中心とする首都圏という地域を一括に考える市場対策、

Bプロジェクト は明石の部品倉庫からの現地への宅急便による「直送システム」で、今では一般化している配送システムだが当時はカワサキ独自のシステムだった。

Cプロジェクトは、安全運転対策なのである。

当時急激な中大型スポーツ車ブームで、急激にユーザーも増えたのだが、同時に各地に『暴走族』が出現して、二輪業界も大変だったのである。中大型分野ではカワサキの比重も高く、事実『暴走族』にカワサキは大人気で、業界各社から『暴走族対策はカワサキさんですね』などと言われたりしていたのである。

特に『安全運転プロジェクト』は開発・生産が主力の明石の事業本部内には、全くそのような『意識さえ存在していない状況』からの対策だったのである。

開発・生産というハード主体の明石工場の中で、このような『ソフト対策』を講じるためには、理解協力者が必要で、この年の1月、カワ販からの出向を終えて事業部の技術部長に復帰されていた高橋鐵郎さんに安全問題の必要性を話し了解を頂いたのが、10月11日だった。

高橋さんの了解を得た上でご一緒に、谷岡事業本部長・今井副本部長にその基本理念と必要性を答申したのだが、不思議なほどスムースに承認を頂き、11月1日付で事業本部内に『安全運転推進本部』がスタートし堀江本部長でスタートすることになるのである。

11月1日には、カワ販内にも『安全運転部門』をスタートさせたのだが、そのソフト分野は東京にいた秋元さんが二輪業界でもトップレベルの見識を持っていて、それは業界でも認めて頂いていたのだが、カワサキの安全運転=秋元さん以外には何もない、全く白紙の状態からのスタートだったのである。

その具体的な展開のために、安全運転担当に推薦し抜擢したのは、当時大阪母店長だった平井稔男さんなのである。部下が何十人もいる大阪母店長から部下など殆どいない安全運転の分野を平井さんは担当してくれて、平井さんだからこそカワサキの安全運転体制は急速に充実していったのである。

その後カワサキの安全運転本部体制は堀江さんのあとの前田安全運転本部長時代に正門ヨコに安全運転コースが完成し、さらに私が引き継いで二輪専門の自動車学校にまでになったのだが、今はそれも無くなってしまっているのは少々寂しい限りなのである。

二輪車は社会の中を走り回る商品なのだから、それを開発・生産・販売するメーカーは、社会との共存があって初めて本物だと思っている。特に二輪業界をリードされた本田宗一郎さんの安全運転に懸ける想いは格別で、ホンダさんの安全運転に対する基本理念とその実践は素晴らしいと思っているのである。

 

★国内の販売会社カワサキオートバイ販売は、元メイハツを引き継いでカワサキ自動車販売と称していたのだが、岩城良三常務が社長を兼務されて、カワサキオートバイ販売と改称し当時の川崎航空機から多くの若手が出向していたのだが、この年にまでには高橋鐵郎さんも北村敏・岩崎茂樹・野田浩志・井川清次さんなどが次々に川重事業部に復帰していったのである。

これは事業本部自体が大きくなって、多くの人材が必要だったこともあるのだろうが、カワサキオートバイ販売自体は、昭和41年度に初めて定期採用者の採用を開始し、特に昭和42年度は大量の採用者がいて、この人たちが会社を支える中枢の存在に育ってきたこともあったのである。

現在も色濃くお付き合いのある渡部達也くんはその第1期生だし吉田純一・関初太郎・柏原久くんなどはその2期生なのである。

この年私が企画部担当だったが、そこにいたメンバーの中枢富永君は第1期生で後アメリカのKMC再建にも川重に逆出向して活躍したし、特約店制度の実施で現実に動いてくれた古石君は2期生だったのである。

この国内販社での営業部門の採用方針は、それなりに長所もいろいろあったとは思うのだが、日本流の親会社・子会社方式で、子会社の人は親会社の上層部になりにくい仕組みの中では、なかなかカワサキの中にマーケッテングが解る上層部が育ち難い欠点にもなっている。

当時のように、川重からカワ販に出向して若い時代に第1線のマーケットでの貴重な経験をすることができた人たちがいなくなってしまって、今は机の上でしか考えられないところに問題があるように思っている。ずっとのちカワ販が危機的な時期が続いて定期採用者をずっと中断していた時期があったのだが、それを再開しようかとの検討があった時期に定期採用1期生・2期生の人たちから『カワ販の採用復活』は止めて、『川重籍での採用にすべし』という意見もあったのだが、その時点では『定期採用の再開』の方向に動いたのだが、これは私自身の反省にもなっているのである。

この時期に、カワ販に出向していた人たちは、殆ど事業部のほうに戻ってしまって、かくいう私自身も翌年10月には事業部企画に復職することになるのである。

ただ私の場合は、国内市場とご縁があって、この後、2度の国内販社への出向があったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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