● カワサキ単車事業のスタート
★カワサキが当時の川崎航空機工業の明石工場で単車の一貫生産をスタートさせたのは昭和35年(1960)のことだから、
今年はその60周年に当たる。
私は昭和32年(1957)川崎航空機工業入社で、
昭和36年(1961)に初めて営業に単車課が創られてそこに配属されたので、
今となっては当時の状況を知っている数少ない一人なのである。
60周年を機に私なりに何回かに分けて、『カワサキ単車事業』なるものを振り返ってみたいと思っている。
★川崎航空機工業は戦後7年間の空白があって事業が再開されたのは昭和27年(1952)のことで、空白期間に分散されていた川崎機械という疎開会社の各工場から明石工場に集まった新しい会社だったのである。
戦前の川崎航空機工業は文字通り航空機の製造会社で明石と岐阜に工場があり、
明石はエンジン工場、岐阜が機体工場だったので、戦後は明石工場関係は農業発動機のエンジンなどを井関農機に、歯車・ミッションなどを東洋工業やいすゞ自動車などに納入しており、単車のエンジンもその一つとして開発・製造されていたのである。
更に当時は東洋でただ一つの米空軍のジェットエンジンのオーバーホール工場があって、米軍が駐在していたし、当時既にIBMでの器械管理がなされていたし、アメリカ空軍の最先端の生産管理方式が採用されていて、新しい会社だったから『自由な雰囲気』がいっぱいだったし、実際の事業展開も新しい発想で展開されていたように思う。
★ こんな写真がネットの中にあった。
確かに、川崎航空機が再開された昭和27年から、『二輪車エンジン』の販売がなされたことは間違いないのだろう。
私が入社した昭和32年には『メイハツ工業』に対してエンジンが販売されていて、それをメイハツ号として販売されていたのである。
確かに、1949年頃には二輪車エンジンの開発を手掛けていたようで、
当時高槻工場におられた髙橋鐵郎さん(後の単車事業本部長)はその設計を担当されていたと、私はご本人から聞いたことがある。
★私が川崎航空機に入社した昭和32年(1957)当時、会社がどのような道を歩もうとしたのかはよく解ってはいないのだが、何かの最終商品のメーカーを目指していたことは間違いなくて、実現はしなかったが4輪車の開発も進められていたのである。
この4輪車のエンジン開発を担当していたのが、後Zのエンジンの開発者の稲村暁一さん(私の1年あと昭和33年入社)だったのである。
そんなことで、稲村さんは4サイクルエンジン専門の開発担当などと言われているのである。
当時の単車はヤマハ・スズキもカワサキもみんな2サイクルばかりで、逆にホンダは4サイクルオンリーで2サイクルは持っていなかった。
その後、カワサキだけはメグロを吸収合併して4サイクルも持つことになるのである。
カワサキの場合は、確かに『エンジンの専門家』集団ではあったのだが、当初は『二輪車』について解っている人は殆どいなくて、『販売』に関しても全く解っていなかった『素人集団』だったのに、振り返ってみると『よくやったな』と正直そう思ったりするのである。
それを何とか乗り越えられたのは、販売網ではメイハツ、車体設計ではメグロなどの方たちの協力があったからだし、何事にもチャレンジする川崎航空機の会社自体の若さがあったのだと思っている。
★ 1961年にカワサキメイハツを吸収して『カワサキ自動車販売』という会社を新たに設立しているのだが、この社名が『自動車』となっているのは、ホントに自動車を売るつもりだったのかも知れないが、カワサキの軽4輪車は陽の目を見ることはなかったのである。
そしてこの年の11月に川崎航空機工業の営業部の中にも『単車課』が新しく創られて、私はそこに配属されることになるのだが、この単車課の販売先は『カワサキ自動車販売』で、そこから日本全国にあった二輪代理店に販売されていたのである。
そしてその『カワサキ自動車販売』の社長は川崎航空機の専務が兼任されたが、実際に活動されていたのは、元メイハツや元メグロの方ばかりだったのである。
今のKMJの前身で、当時は神田岩本町に本社があったのだが、その事務所を知っているのは、今では私だけになってしまったのである。
★ネットの中に、こんな懐かしい写真が載っていた。
当時はまだ、ヘリコプターは明石工場でやっていて、そのヘリをバックに、私が営業に配属されて、初めて売っていたバイクがこの2機種なのである。
M5というモペットと、125B7である。
このB7がカワサキの初めてのバイクなのだが、エンジンは兎も角、車体の欠陥で今でいうなら『リコール』で、どんどん工場に戻ってくるのである。
とうとう1962年1月には出荷数より返却された台数の方が多くて、生産台数が確か16台か17台、マイナスになってしまったのである。
そんなこともあって、カワサキの単車事業はスタートから大混乱で、この事業を本当に続けるべきかどうかが上層部で検討され、日本能率協会にその調査を依頼することになったりしたのである。
兎に角、スタートは散々だったのである。
それが何とか乗り切れたのは、努力もあったが、いろんな『いい運』に支えられて、カワサキの単車事業の今日があるのだと思うのだが、『そんないい運』を呼び寄せるのは、一途な熱っぽさと努力かなと思ったりもするのである。