★『昭和に輝いたモータースポーツ関係者とファンによる片山義美を偲ぶ会』
が2月1日、神戸で開催されることになっている。
まだまだ先のことだと思っていたが、今週の土曜日に迫ってきた。
1960年代にカワサキの二輪事業はスタートするのだが、
あの鈴鹿サーキットがオープンしたのが1962年で、
その年の11月に開催された日本で初めての本格的なロードレースで
250ccクラス優勝が三橋実、350ccクラスに優勝したのが片山義美で、
当時はお二人ともヤマハとの契約だった。
全く不思議なご縁なのだが、カワサキは翌年の1963年に、
関東には三橋実が主宰するカワサキコンバットを立ち上げ、
関西では片山義美の『神戸木の実クラブ』から傘下の歳森康師・山本隆と契約し、
コンバットの三橋・安良岡・梅津・岡部と共に
6人の体制でのモトクロスからのスタートとなるのである。
1965年の5月に開催された『鈴鹿ジュニアロードレース』に
山本隆がどうしても出場したいと言い出して、
会社には内緒でこっそりと出場するのだが、
初出場で思いもかけぬホンダに次いでの『3位入賞』という結果になるのである。
その時現場の川合さんから私宅に届いた電文が
『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』なのである。
忠孝松本さんが『片山義美を偲ぶ会』で、
こんなフォトカードを創って、出席者の皆さんにお配りするそうである。
松本さんからは、写真と共に、こんなご連絡を頂いたのである。
『片山義美さんを偲ぶ会ですが、 私にとっては金谷さんを偲ぶ会でもあります。
そこで、皆さんにお持ち帰り頂くお土産の中に、 1枚のフォトカードを入れる事にしました。 例の電報の電文の入った鈴鹿の写真です。
皆さんに金谷さんの事も偲んで頂ければと思い、 全員分を用意しました。 』
なぜ山本隆の3位入賞と金谷秀夫が繋がっているのかというと、
この5月のジュニア・ロードレースは非公式なレース出場だったのだが、
思わぬ『3位入賞』で、
本格的に『ロードレースの分野に進出』しようということになるのである。
翌月6月に開催された『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』に、
テストライダーチーム・カワサキコンバット・神戸木の実クラブで、
3台のマシンを出場させることになるのだが、
山本隆がジュニアの資格を取ってしまったので出場資格がなく、
歳森康師が相棒として連れてきたのが『金谷秀夫』なのである。
そんなことで、山本隆のロードレース3位入賞は、
『世界の金谷秀夫のデビュー』のきっかけとなったのである。
★片山義美さんとは直接カワサキとの契約はなかったのだが、
特にロード関係の金谷秀夫はその秘蔵っ子弟子で、
彼のことなどでもいろんな関係があったので、
私は特に親しくさせて頂いたのである。
金谷が司会をした『片山義美の引退パーテイー』では、
スズキ・マツダさんを差し置いてカワサキの私が皮切りのご挨拶をさせて頂いたし、
神戸木の実の解散パーテイーには、メンバーでもないのに、
特別にお招き頂いたりしたのである。
神戸木の実で、カワサキに関係のあったメンバーたちである。
★『片山義美を偲ぶ会』には、かっての日本のレース界を背負った方たちがお集りのようで久しぶりに『いろんな方たち』とお会いできるのが楽しみである。
発起人に名を連ねておられる
小嶋松久・吉村太一・星野一義・村上力さんとは久しぶりだし、山本隆・清原明彦さんとはしょっちゅうお会いする機会もある。
カワサキ関係では大槻幸雄さんも、吉田純一さんも、ご出席のようである。
そんな期待いっぱいの会合も、すぐそこなのである。
私は カワサキのロードレース・スタートの契機となった
こんな『山本隆の3位入賞』トロフィーと一緒に参加することになっている。
ところで、片山義美さんは『三木のご出身』で、
晩年は三木にお店を構えてお過ごしだったのである。
これは三木で開催された4輪・2輪の展示会の時だが、
三木の有名人と一緒の片山義美さんである。
私がシャッターを押したのだが、この時が片山義美さんとの最後になってしまった。
いろいろと関係のあった片山さんだが 逝くのが早すぎたな と思っている。