★昨日の自分史で書いたように、中学校は明石から神戸一中に通った。
学校は六甲山系の摩耶山の麓あたり、灘駅からは『地獄坂』と称する坂道を上りつめたところにあった。
結構勾配のきつい坂道でいまどき灘駅から歩いて学校に行く人などは多分皆無であろう。
当時は学区制でなかったし、明石からも垂水あたりからも何人もの生徒が通っていた。
伝統のある学校だが、不思議な伝統もあった。
カバンは使わず、勉強道具を包むのは、白い風呂敷と言うか、四角の布であった。
弁当は運動場での立食だった。なぜ立食だったのかは知らない。
最近は立食パ―テイなども一般的なのであまり奇異には感じないかもしれぬが、当時は本当に不思議な伝統だと思ったものである。
弁当を食いながら、サッカーボールをけったりしていた。
★授業のレベルは特に英数、国語が中心だった気がする。
終戦直後で、歴史をどう教えるのか教える方が定まっていなかったのだろう、歴史の授業があった記憶がないのだが。
英語と数学の授業は相当に高度で進み方が早かったと思う。
Once upon a time,there lived an oldman and his wife. They treated the bird as tenderlly as if it were their child.
これは、1年生の夏休みに暗記してこいと出された、舌切雀の物語の冒頭の文章で、意味や文法など関係なく暗記したものである。
4月には間違いなく、This is a pen. から始まったのだが。
数学のテンポも速かった。
★3年生の初めからか? 県一女との共学になった。
この時点で、英語も数学も半年分ほどは、バックしたというか、追いつくまで待っていたのである。
県一女も優秀校だからそのレベルが低かったというわけではなくて、神戸一中のレベルが高すぎたのだろう。
これは学区制で明石高校に転校して、また味わった。
特に数学などは同じところを3度習ったので、そこまでは完ぺきだが、そこから先は逆に、皆目ダメなのである。
勉強しないクセが付いてしまって、新しいことを覚えるのが億劫であった。
特に理数は現実離れしていて、これは専門家が専門的にやればいいとそのころからそう思うようになったのである。
われわれの年代は、小学校も4年生からは男女別組だったので、男女共学には面食らった。
流石に、運動場での立食はMUSTではなくなったが、
昼休みじかんではなく、1時間前の『早食い』が一般的で、それも教室の窓際での立食だった。
★まだ、戦後の色濃い時代で、食糧事情も悪く、天皇陛下でも学校の教室に宿泊される時代だから、2.
修学旅行などはなかた。
そう言えば、私は修学旅行は一度も経験がない。
小学生時代は戦時中でそんなことは考えられなかった。
中学時代もダメだった。
高校の時は修学旅行はあったのだが、その時は野球部でその時期に中国地方への遠征試合を組んだので行けなかったのである。
★こんな中学時代であったが、一生懸命勉強をしたのは中学2年生、男女共学になる前までである。
それ以降は、野球は一生懸命やったが、勉強はほとんどしていない。
大学に至ってはほとんど教室に入ったことがない。教室に入らなくても単位だけは『可』ではあったが簡単に取れた。
商大を出ながら『簿記の単位』がないのは簿記は教室に出ないと試験が受からないのである。
簿記は出来ないが、バランスシートは実践的にちゃんと読めるし、売上高利益率よりは総資本利益率や回転を重視した経営が出来たのは、実戦の中でそれを覚えたからだと思う。
そういう意味では、会社に入ってからの方が勉強した。
そんなことで会社でも自分は中学2年卒の学歴だと思っていた。
『学卒』という学歴だけで高い給料をもらって理屈だけで仕事の出来ない連中よりも、高卒や学歴はないが『実力派』が好きだったのは、自分も実質『中学卒』だと思っていたからである。
★『質素剛健、自重自治』の校風であった。
校歌は、歌詞はこんなに難しいのだが、曲はどんな音痴でも歌えるような簡単もので、私は私の結婚式の披露宴で声高らかに歌った。
家内も、たまたまだが神戸高校卒業で、あの樺美智子さんと同期である。
何となく、歌いたくなって二番まで、歌詞はちゃんと覚えていた。
『1. ぐんらんいろは紫に 金波さ揺らぐちぬの浦 東大野をどうどうとと朝日このぼる曙や 希望の光輝けるわが世の春に似たるかな
2. 天の霊火を地に呼べば 意気の小胸の高鳴りや 自重と自治の旗しるく叱咤呼号の50年 ああ微笑みの誇らいの歴史の跡ぞ勇ましき』
平かなで書いたところは感じが難しすぎて、とても書けないのである。
学校は六甲山系の摩耶山の麓あたり、灘駅からは『地獄坂』と称する坂道を上りつめたところにあった。
結構勾配のきつい坂道でいまどき灘駅から歩いて学校に行く人などは多分皆無であろう。
当時は学区制でなかったし、明石からも垂水あたりからも何人もの生徒が通っていた。
伝統のある学校だが、不思議な伝統もあった。
カバンは使わず、勉強道具を包むのは、白い風呂敷と言うか、四角の布であった。
弁当は運動場での立食だった。なぜ立食だったのかは知らない。
最近は立食パ―テイなども一般的なのであまり奇異には感じないかもしれぬが、当時は本当に不思議な伝統だと思ったものである。
弁当を食いながら、サッカーボールをけったりしていた。
★授業のレベルは特に英数、国語が中心だった気がする。
終戦直後で、歴史をどう教えるのか教える方が定まっていなかったのだろう、歴史の授業があった記憶がないのだが。
英語と数学の授業は相当に高度で進み方が早かったと思う。
Once upon a time,there lived an oldman and his wife. They treated the bird as tenderlly as if it were their child.
これは、1年生の夏休みに暗記してこいと出された、舌切雀の物語の冒頭の文章で、意味や文法など関係なく暗記したものである。
4月には間違いなく、This is a pen. から始まったのだが。
数学のテンポも速かった。
★3年生の初めからか? 県一女との共学になった。
この時点で、英語も数学も半年分ほどは、バックしたというか、追いつくまで待っていたのである。
県一女も優秀校だからそのレベルが低かったというわけではなくて、神戸一中のレベルが高すぎたのだろう。
これは学区制で明石高校に転校して、また味わった。
特に数学などは同じところを3度習ったので、そこまでは完ぺきだが、そこから先は逆に、皆目ダメなのである。
勉強しないクセが付いてしまって、新しいことを覚えるのが億劫であった。
特に理数は現実離れしていて、これは専門家が専門的にやればいいとそのころからそう思うようになったのである。
われわれの年代は、小学校も4年生からは男女別組だったので、男女共学には面食らった。
流石に、運動場での立食はMUSTではなくなったが、
昼休みじかんではなく、1時間前の『早食い』が一般的で、それも教室の窓際での立食だった。
★まだ、戦後の色濃い時代で、食糧事情も悪く、天皇陛下でも学校の教室に宿泊される時代だから、2.
修学旅行などはなかた。
そう言えば、私は修学旅行は一度も経験がない。
小学生時代は戦時中でそんなことは考えられなかった。
中学時代もダメだった。
高校の時は修学旅行はあったのだが、その時は野球部でその時期に中国地方への遠征試合を組んだので行けなかったのである。
★こんな中学時代であったが、一生懸命勉強をしたのは中学2年生、男女共学になる前までである。
それ以降は、野球は一生懸命やったが、勉強はほとんどしていない。
大学に至ってはほとんど教室に入ったことがない。教室に入らなくても単位だけは『可』ではあったが簡単に取れた。
商大を出ながら『簿記の単位』がないのは簿記は教室に出ないと試験が受からないのである。
簿記は出来ないが、バランスシートは実践的にちゃんと読めるし、売上高利益率よりは総資本利益率や回転を重視した経営が出来たのは、実戦の中でそれを覚えたからだと思う。
そういう意味では、会社に入ってからの方が勉強した。
そんなことで会社でも自分は中学2年卒の学歴だと思っていた。
『学卒』という学歴だけで高い給料をもらって理屈だけで仕事の出来ない連中よりも、高卒や学歴はないが『実力派』が好きだったのは、自分も実質『中学卒』だと思っていたからである。
★『質素剛健、自重自治』の校風であった。
校歌は、歌詞はこんなに難しいのだが、曲はどんな音痴でも歌えるような簡単もので、私は私の結婚式の披露宴で声高らかに歌った。
家内も、たまたまだが神戸高校卒業で、あの樺美智子さんと同期である。
何となく、歌いたくなって二番まで、歌詞はちゃんと覚えていた。
『1. ぐんらんいろは紫に 金波さ揺らぐちぬの浦 東大野をどうどうとと朝日このぼる曙や 希望の光輝けるわが世の春に似たるかな
2. 天の霊火を地に呼べば 意気の小胸の高鳴りや 自重と自治の旗しるく叱咤呼号の50年 ああ微笑みの誇らいの歴史の跡ぞ勇ましき』
平かなで書いたところは感じが難しすぎて、とても書けないのである。