雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

8月15日の思い出

2007-08-16 06:24:38 | 政治
1945年8月15日、終戦の日を私は当時の朝鮮京城市、いまのソウルで迎えた。

中学1年生の夏休みもほぼ半ばを過ぎて、
夏休みの宿題になっていた、「そもそもわが国の軍隊はーーーーー」で始まる長い長い「軍人勅諭」をぼちぼち覚えなければと思っていた矢先であった。

そんなことで、軍人勅諭はその最初のくだりしか覚えていない。

夏休みの午前中を学校のプールで過ごしていて、
12時に天皇陛下の玉音放送を校庭で聞いたが、よく聞こえなかった。
然し、戦争に負けたんだなということは解った。

当時、朝鮮は日本領ではあったが、空襲で爆弾が落とされるようなことは全くなく、食料事情なども戦時中というのに何の問題もなかった。


小学校の4,5年頃までは、南方にどんどん攻め込んで世界の白地図に日本が占領したところを赤く塗るようなことをやっていて、この調子なら世界がニッポンになってしまうのではないかと,子供心にそう思った。

ところが、今のインドネシアの半分位までいったのだが、
それ以降は負け戦の連続で、内地は空襲になるし、関釜連絡船が潜水艦に撃沈されたりして、夏休みの明石帰りも4年生の夏までであったと思う。

南方で母方の伯父が戦死したり、明石の空襲で叔母が亡くなったりしていて、この戦争は負けると思うようになった。

中学に進んだが、学校に行ったのは半分ぐらいで、後は学徒動員で丁度家の裏手の山で「松根油」をとるために毎日松の根を掘っていた。
この間にも,出征する先輩を駅にみんなで見送ることも多かった。あの人たちは無事帰還されたのであろうか。



直ぐ米軍の駐留が始まったが、
治安も安定しており、特に問題はなくその年の12月に引き上げるまでは平穏無事の生活であった。
ただ、近所の方で8月15日直前に今の北朝鮮に出張された人などはその後消息が途絶えてしまうというようなこともあった。

今でも不思議に思っているのは、当時の私有財産はみんな、どのようになったのかということである。
仮に売ってお金に換えても日本に持ち帰ることは一定額以上不可能であった。

たまたま、私の家は米軍の空軍関係の人が買ってくれた。
そのあとの話が面白いのだが、
「現金にしても、持って帰れないので金塊で支払う。
そして伊丹空港まで荷物一つと一緒に、飛行機で運んであげる。」と言うのである。
父はその荷物の中に金目のものを入れるように母に言っていたのを覚えている。
通訳を通じての話だから、アメリカの空軍の人が本当にそう言ったかどうかは不明で、当たり前の話だが、伊丹に飛行機などは来なかった。

私は、金の延べ棒にした1貫目ほどの金をその時はじめて見た。その後そんな金の塊など見たことも無い。



その後、ソウルオリンピックのときに、ジェットスキーのデモのため世界で一番行きたかったソウルに行けた。

そして子供のときに過ごした家もそのままの姿で残っていたのを見ることが出来た。

ある意味、ソウルは私の故郷である。だから韓国は懐かしいし好きである。
8月15日、校庭で聞いた玉音放送が懐かしい。


私にとって戦争の影響は引き上げてから、始まったと言っていい。
戦後、5年間ぐらい日本人は本当によく頑張ったと思う。食料事情も悪かったし何もかも大変であった。
そして、そんな努力がいまの平和な日本の繁栄に繋がっているのだと思う。

こんな、波乱に満ちた時代に生きれたことは、ある意味幸せであったと思う。
とても、経験できないことばかりであった。
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インターナショナルトレーディング ムラシマ

2007-08-15 05:55:22 | カワサキ単車の昔話
90年ごろ国内のジェットスキーの販売網を新しく設定していた。

日本ではじめての商品で、今までに専門に売る販売網はなかったのだが、
白紙に絵を書くように一つ一つ造り上げていった。
従来のボート屋さんとは完全に差別化した、遊びやレースもこなせる専門店網を目指したのである。

既にあった二輪の専門店の併売は認めず、あくまでもジェットスキー専門に拘ったのである。

こんなコンセプトで造り上げたジェットスキーの販売網の経営者は、若くて非常にユニークな人たちが多かった。
そんな経営者のなかのひとりが村島さんである。
91,92年ジェットスキーが無茶苦茶売れた時代が一段落した93年6月の話である。

二輪関係で当時機能別の販売網の設定を目指していたのだが、部品供給専門でやりたいと、突如村島さんから話があり7月にOKしている。
それ以来のお付き合いである。


つい先日、メールで暑中見舞いが届いた。
昨年も、突然ブログ見ていますと連絡があった。
神戸に墓参りに帰るので出来たらお会いしたいとあったが、そのままになっている。

今年も近況が書いてあった。

東京で全国を視野に部品専門店を開き、特にカワサキの逆輸入車関係の部品や旧型車の部品などを在庫して供給することで実績を上げ、私の現役時代で既に億単位の商売をしていたと思う。

りんごの木を買って委託栽培し、カワサキの「Kマーク入りのりんご」をお歳暮で送ってくれるなど仕事以外でもユニークであった。

本業の部品関係のホームページは、何故か二つあって、
一つはカワサキが主体のようで、
もう一つは、ヤマハ、スズキもある。



メールには次の二つが近況報告で、

一つは、国内で販売終了した部品を海外8カ国からかき集めて里帰り輸入をして販売しているというのである。
カワサキの旧い車は国内で特に人気が高いようで、こんなユーザーの方には大いに耳寄りな話である。
このブログの読者の方にも、そんなにクラブに所属されている方もいらっしゃるようなので、ニュースとしてご紹介しておきたい。

もう一つは、ラジコンの話である。
村島さんは、知らなかったが、子どもの頃からラジコンお宅であったとか。
いまはそれを商売にして5年ほど前から、世界のハイテク潜水艦や戦車などを揃え、国立大学や、企業の研究室などから注文も入っているようである。

毎月ラジコン雑誌に執筆もしているとか。
勿論一般のラジコンユーザーにも販売するのだろうが、ハイテクと言うだけあって値段も私などはビックリしてしまう水準である。

そんな中に、カワサキZ1の精密ダイキャストというのがあった。
8月8日大量入荷、即納とある。
値段は他のものに比べると格段安く、15750円とあった。


そんな具合で、面白い人である。経営者としても有能である。
さらに、ラジコンお宅とは。趣味で商売が出来るのは羨ましい限りである。
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カワサキ単車の昔話-71

2007-08-14 05:56:44 | カワサキ単車の昔話
海外出張


JALの御巣鷹山の航空事故からもう22年も経ったという。

お盆休みの前だった。
その翌日、JALに乗って高橋鉄郎さんと一緒にアメリカに出張している。
1985年8月13日である。

流石に飛行機はがらがらだった。
もう既に決まっていたので、「事故の翌日だから大丈夫だ」と変に理屈を作っての搭乗だったが、余り気分はよくなかった。

大庭本部長の3年目で、あの頃はめちゃくちゃ忙しい頃でお盆休みでみんなが休んでいるときに、わざわざ海外出張の日程を組んだのである。

KMCは田崎さん(現川重会長)リンカーンのKMMは佐伯さん(元川重副社長)の時代であった。
KMMへも行っている。リンカーンの夏はかロスと違って猛烈な暑さであった。

確か田崎さんの最後の年で、次期百合草体制の相談だったと思う。
佐伯さんは一番張り切っていた頃だった。
当時の日記に「KMMはよくやっている」と書いている。余り工場のことなど解らぬのだが、素人にもそんな風に見えたのだろう。

8月22日、無事帰国している。



飛行機と言えば、
もっと以前の話だがCKDの調査団でイランからタイに向かう飛行機の一番後ろのトイレでごみを捨てる箇所のふたに、突然指を吸い込まれて抜けなくなった。
真空状況になっていたのだと思う。

何人もの人が助けに来てくれて、指を幾らか切ってやっと抜くことが出来た。
アメリカの航空会社であったが機体はジャンボであった。


その時の状況はホントにアッと言う間の出来事で、話をしてもなかなか信じて貰えず、そんな仕様の機体にもその後出会わなかった。

その後何年かして、日本でJALのジャンボに乗ったったとき、同じ仕様のトイレを見つけて、同乗していた田崎さんに「これだよ」と一緒に見に行った。

確か、御巣鷹山に落ちたジャンボは後部の翼か何かが動かなくなり操縦不能になったとか。
ひょっとしたら,あんな風に真空状態になったのではと、勝手に想像したりした。
事故機がどんな機体であったのか、確認などはしていないので単なる想像だが。


その時の怪我はタイの空軍病院で幾針か縫って貰った。
帰国したら「これはPLで訴えたら」と言ってくれた人もいたが、
直ぐファーストクラスに移してくれて,タイの病院の手配やらいろいろやってくれた日本人のスチュワーデスの対応と印象がよかったので何にもしなかった。

高橋鉄郎さんは、その後そのスチュワーデスに会われて当時の話をされたとか言われていた。

JALの事故22年ということを聞いて、こんな昔話を思い出した。


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山田錦ー2

2007-08-13 05:37:56 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
吉川まちづくり公社発行の山田錦物語からの抜粋である。

灘の酒が世に出されたのは300年も前だそうである。
灘の銘酒といわれるようになったのは、六甲山脈の北川で産出される酒米との結びつきがなかったなら、果たして灘の酒の繁栄があっただろうかと言っている。

「米を買うなら土地を見て買え」といわれる酒米は六甲山脈の北川の谷あいにある「棚田」で作られている。

三木市が山田錦生産量日本一を誇っているのは
主生産地の吉川町と合併したことが第一だが、

そのほかに、山田錦の生産に適した立地、風土環境に負うところが多い。
また、山田錦の生産供給の安定化を図るために、明治以来今も続いている、農家と酒造家との間で交わされている「村米制度」によろところにもあるようだ。



このほかにもいろんなことが書かれている。

山田錦と命名されたのは昭和11年のことで、もともと伊勢山田の近くで背が高く穂も大きい酒米を見つけ伊勢山田にちなんでずっと昔から「山田穂」と呼ばれていたようである。

山田錦は背丈が130cっもある長い穂で、10月の収穫のときには弓なりに垂れる。倒れやすく病気や害虫にも弱く、食べるお米に比べてとれる量も少ないので、米の値段は高くなる。

酒米は全国で83種類もあるが、兵庫県は山田錦の全国生産量の83%を占め圧倒的である。そして六甲山の北側の地域一帯で栽培されておりその中心が吉川である。

また全国日本酒コンクールに出品されているお酒に使われている原料米は圧倒的に山田錦が多く酒造りに向く最高のお米という評価を得ているとか。


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お盆休み

2007-08-11 06:04:10 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
世の中お盆休みが始まった。

この近所でも他県ナンバーのクルマがあちこちに止まっている。
最近、お盆や正月に見られる光景である。

30年も前は、その逆だった。
お盆や正月には、一家で帰省する人たちが多く、街全体が寂しくなったものである。

いまは、子供たちが孫を連れて、ここに戻ってくるそんな時代になった。
まあ言えば、おじいちゃん、おばあちゃんの住む街なのである。

孫たちが帰ってくるには、結構遊び場も多く良い場所だと思う。


我が家では、一足早くアメリカの孫たちが7月始めから1ヶ月も滞在していたが、今日アメリカに帰ることになっている。

伊丹まで送っていかねばならぬのだが、渋滞がどうかと心配である。


1ヶ月の間、面白かったと言ってくれている。
プールも、サッカーもできたし、映画も、待望の吉本興業も見ることが出来た。
川にも魚獲りに行ったし、何よりもカブト虫を30匹も捕まえたのは大喜びであった。

昨日は最後の1日、よかたんの温泉に行き、夜はすき焼き、アメリカで出来ないことで締めくくった。
すき焼きは、肉はいっぱいあるがすき焼き用の薄い肉がない、それに卵を生で食する習慣がないので、卵がないようである。


これで3年目になるが、家内は孫たちをアメリカまで送って、今から約1ヶ月の家内の夏休みが始まる。

私は独りで犬たちと留守番だが、お盆休みが始まるような気分でもある。


休み前の最後の仕事は、伊丹までの見送りである。
渋滞にならぬことばかりを願っている。
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三木景色

2007-08-10 05:49:38 | みっきぃふるさとふれあい公園
昨日、三木市のHPに「みっきいふるさとふれあい公園」がバナーで出ましたよと、親切に「みっきい@さるとる」さんから教えて頂いた。

このコンセプトにあるように三木を一つの公園と見たてて、立派な公園にするようにみんなで頑張ろうというコンセプトには大賛成である。

三木は 「日本一美しいまちをめざす」 に十分な自然環境だと思っている。
そんな三木の美しさを、微力ながら見つけていこうと、ブログの中に 「このカテゴリー」 を作ってもう1ヶ月半になる。

美しい自然だけでなく、そこで生活する人たちの生きる姿の美しさ、
旧いものと新しいもの、新興住宅地と旧い町さらには農村地域との調和の美しさなどが、
少しでも出ればと思っている。




慈眼寺。  このお寺は、本当に美しいと思った。

写真にあるように、入る口の風情からは、とてもこの美しさを想像することは出来なかった。
旧い歴史と由緒ののあるお寺だが、ねずみ小僧次郎吉の墓があるというのは意外であった。

秋のもみじの時期には、是非もう一度訪ねてみたい。



道。  クルマの運転が好きで、道にはいたく関心がある。

東北や北海道で暮らしたこともあり、気分よく走れる道が好きである。
別に、真っ直ぐでなくてもいい。 カーブを走るのは運転の楽しみの一つである。

まだ、峠道や田舎道の写真が今のところないだけで、そのうちに峠道などご紹介したい。
三木周辺は、ツーリングには最高の道がいっぱいだと思っている。



雄岡山と雌岡山。
三木市内ではないが、三木の直ぐヨコ廣野ゴルフ倶楽部のウラに位置する。


余り大きくはないが、好きな山である。
毎朝、毎夕この二つの山の間の道を走って通勤した。
今、二つ並べて写真に撮れる場所を探している。
ヒラキから神出田井へ通じる道から見えるのではと、場所を教えて頂いたりした。



三木にはその中心を美嚢川が流れている。
幾つかの支流の流れを集めながら、やがて加古川に合流するのである


これは、
衝原湖ー呑吐ダムー志染川ー美嚢川と続く流れである。
途中には、めがね橋などもある。

呑吐という呼び名について、「kj」さんから、次のようなコメントを頂いた。
「衝原湖」なのになぜ「呑吐ダム」と言うのだろうと思っていた。


「神戸を離れてしまったのですが、懐かしい地名ですね。
三木市と神戸市を跨いでおり、神戸市側の地名が衝原だったと思います。
「呑吐」は建設前に存在した「呑吐の滝」から取られたものだそうですね。この滝が三木側にあったのかどうかは不明ですが。
私は神戸市西区民でしたが「ドント」と呼んでいました。名前のインパクトが強くて。
湖底に沈んだ村の、Don't dam.(堰き止めるな。)という声というのは深読みが過ぎるでしょうか? 」

2007/7/22(日) 午後 4:19 [ kj. ]
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カワサキ単車の昔話-70

2007-08-09 05:47:56 | ジェットスキー&KAZE
KAZEとショールーム-1

単車昔話も70回になった。
昔話もいろいろあるが、ケイスポーツシステムのメンバーたちと展開したユーザーサービスの事業化は、いろいろあって想い出も多い。

レースなどの動きのあるイベントにも力を入れたが、全国に展開したショールーム政策は、その後の業界の流れを造ったと自負している。

ずっとずっと昔、75年ごろ特約店政策を展開した頃から、
モーターサイクルは世界一の商品なのに、それを売っている販売店の店舗は所謂自転車屋さんの延長でお世辞にも綺麗とは言えない。

いつの日か世界一の商品に見合う店舗での販売をと夢見ていた。


販売店に頼っても費用の掛かることだし無理強いも出来ないので、ショールームとして自分たちでやってみるかとスタートしたのである。

金も掛かるし一挙には無理だったので、順次展開することにして、地方ではあったが当時考え方では一番進んでいた西日本地区からスタートした。



当時の西日本は山辺さんや谷沢君が中心に、
90年から新しくスタートさせた販売政策でも 「仕切り制度の導入」 などカワサキでは勿論、業界でもトップを走っていた。

新しいことは、リスクも大きいのでどちらかと言うと、小さい市場のほうがやり易いところはある。
そういう意味では、ホンダよりカワサキのほうがやり易いのである。
そんなことで、業界の目指す方向を先頭を切って走り続けた積りであった。

特約店制の実施のとき、部品の物流政策のときもそうだったが、全国一斉の導入は避けた。
出来るところからの順次展開は、 「弱者の戦略、カワサキのお家芸」 と思っていた。
ただ、その差別化のレベルは 「他の追随を許さない圧倒的なレベル」 での展開を目指したのである。

どんな政策でも、一斉にやろうとするとどうしても思い切った差別化にはなり難い。
どちらかと言うと、一番だめなレベルか、頑張っても平均のレベルに合わせることになってしまうのである。


ショールームも、最高のレベルのものを基本コンセプト通りに、業界の話題に上がるようなものを狙ってスタートした。
KSSの森君が担当して、西日本の連中と協力して岡山に第1号ショールームを開設したのである。

立地、広さ、店舗装飾などどれをとっても、当時の業界水準のはるかに上を行くレベルでの展開だった。
1990年4月17日にオープンしているが、身内の高橋鉄郎さんも見てビックリの立派なものだった。


ZEPHYRの「西からの風」と同じく、
新しい販売政策は「西からの風」となって先頭を走ると、当時の西日本の人たちは大いに張り切っていたのである。

もう昔の話だが、15年以上経った今も、岡山ショールームは十分に機能しているのではなかろうか。
現在は、二輪業界の大型店舗は本当に立派になった。

ファッション業界でも、いいものはいい店舗で売られている。
モータサイクルもある意味ファッションである。

世界一の商品に見合う店舗でと思い続けた夢は、いまは現実のものになっている。


そんなカワサキのショールーム1号店は岡山だった。

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夏祭り

2007-08-08 05:58:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
8月、全国どこでも夏祭りのシーズンである。

町内会の盆踊り、各地の花火大会大人も子どもも祭りに夢中になるシーズンである。

世界国中どこの国でも有名な祭りがある。
人間は元来祭り好きなのだと思う。
祭りの中心になってやるのと見るのとどちらが面白いのだろうか。

熱の入れ方などを見ると、やるほうが数段面白いのだと思う。
祭りの主演者たちの熱中度は、どの祭りでもハンパではない。
だから、来年もまたという気になり、延々と続いて伝統行事になっていくのだと思う。

祭りの主催の経験はないが、レースをはじめイベントは幾つも経験した。
イベントなども主催者はしんどいことも多いが、達成感があって主催者側も結構楽しいものである。
そんな、小さなイベントでもそうだから、有名な祭りの実行はこたえられない面白さがあるのだろう。


この時期、全国の至るところで夏祭りである。

若い頃、4年ほど東北にいたが、
「秋田の竿灯祭り」
「青森のねぶた祭り」
「山形の花笠まつり」
「仙台の七夕まつり」
と東北の祭りは、よそが簡単に真似られない伝統の技術や独特の文化があって、やはり最右翼に挙げられるのだろう。

他県から観光で訪れる人も多く、各県が上手く連動して4つの祭りが続けて見られるように日程も調整されている。

4年も仙台にいたのに、そして毎月出張で東北6県を飛び回っていたのに、
何故か地元の仙台の七夕以外は東北のこの有名な祭りを見たことがない。

宿が取りにくかったのか、
月初めで前月の実績集計などで忙しかったのかも知れない。
そういえば、二輪車にとっては7月が最盛期である。
そして、東北のような北国はこの祭りが済めば一気に秋の気配になる。
販売台数も8月中旬お盆までで一段落であった。

東北の祭りが終わったら,「今年も終ったな。」 
と気分的には翌年に備える準備に入っていたような気がする。



現役の最後、札幌にいた。
記録を見ていて気がついた。北海道には大きな夏祭りがないのである。

北海道の歴史が新しいからか。夏が快適過ぎるのか。
そういえば、北海道の祭りは「雪祭り」、「YOSAKOIソーラン祭り」など新しくかっこいいものが多い。


冒頭に、全国どこでも夏祭りと書いたが、
全国の夏祭り「除く北海道」かも知れない。
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ブログの写真

2007-08-07 06:26:45 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
この年になるまで、写真など殆ど関心がなかった。

カメラで写真を撮るなどは面倒であった。
写真を撮る、現像に出す、焼き増しする、人に配る、アルバムに整理をする。
いろんな手間が掛かりすぎると思っていたし事実そうだった。

とにかく,撮ってから、出来上がるまで時間が掛かりすぎて、せっかちの性分の私には合わなかった。
確かに、想い出に残る一瞬と言うような貴重な写真もあるのだが、どうも性に合わなかった。

社用で海外に出かけることも多かったが、カメラを持っていったことは一度もない。
「カメラなどに頼らず自分の目で、確りと見てくればいい」などと理屈をこねていたように思う。
いま家に沢山ある写真は自分で撮ったものではなくみんな頂いたものばかりである。

今年の春辺りまでは、そんな状況が続いていたのだが、
育てているバラの写真をブログに貼り付けたくて、ブログにどうすれば写真が貼れるのか、そればかりを思っていた。

seaz companyの登山さんに家まで来て頂いて教えて頂いた。
それから写真の貼付が始まったのだが、今でもはっきり解っている訳ではない。
ただ、ブログサービスによって、貼り方にだいぶ違いのあることは漸く解った段階である。

この頃は、カメラがいいのだろう。自分でもビックリするほど綺麗な写真が撮れる。それがまた励みになる。



写真を撮り出してから、大げさに言えば生活が変わった。

外出する時にカメラを持っていくようになった。
写真を撮るために、それが目的で出かけることもあるようになった。
一番変ったのは、モノを見る目が変った。
これは、絵になるかどうか、写真に撮った場合の想像と言うか、そんな目で風景や街の様子を眺めるようになった。

そうすると、今まで気付かなかったことが沢山あることに気付いた。
例えば,オッコサンとメッコサンは二つ並んでいる直ぐ横の山だが、二つ一緒に写真に撮れるところが殆どないのである。
つまらぬことだが、今一生懸命二つの山を一緒に写せる場所を探している。

この辺りの、いいところ、美しいものなども私なりに発見した。歴史にも少し関心が出来た。


大したことではないが、私にとっては意外に新鮮である。
毎日写真つきのブログをアップすることが目標になっている。

私の生活がちょっと変った。 そんなブログの写真である。

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孫たちとの一日

2007-08-06 05:53:06 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

1ヶ月前からアメリカにいる娘と3人の孫たちが長いアメリカの夏休みを利用して遊びに来ている。

毎夏の定例行事になっている。
今年辺りは一番下が小学1年生になったので幾らか手が掛からなくなったが、男の子ばかりなので、その分よく食うようになって、我が家のエンゲル係数はこの時期跳ね上がる。

あと1週間でアメリカに戻るのだが、週末から鎌倉に居る息子夫婦と中学3年の孫と半年ほど前に家族に加わった自慢のアンを連れてやって来た。


土曜日男の子ばかり4人を連れて、カワサキワールドに行ってきた。
前回、独りで行ったときは昔懐かしい人たちに会って、館内は殆ど見ずに帰ってきたので今回は確りみてこようと思っていた。

行くまでは、「カワサキワールドって、面白いか?」と半信半疑であった孫たちも、やはり男の子である。
オートバイやジェットスキーの実物にまたがり、新幹線や、ヘリコプターにも興味いっぱい、特にシュミレーターのセスナの操縦やジェットスキーはゲームセンターと違って無料であることに大満足の様子であった。

私自身も今回は本当にじっくりと見せて頂いた。
特にオートバイコーナーのクルマには、殆ど何かの関連があって懐かしさもひとしおであったし、ジェットスキーは最初のJS400と最新鋭のULTRA250Xもあって、その商品の差にその間流れた長い年月を感じたのである。

写真も撮ったので、こんな雰囲気でした。


夜、夕食後普段は昼間にしか行かない「カブトムシ獲り」に近くの公園に。
孫たちの面倒見を神様が褒めてくださったのか,予想外の大収穫。
獲れすぎたので、今朝サッカーをしに行ったついでに放してしてやりました。

鎌倉の孫たちは夕方の便で帰ったので、少しは静かになったけどあと1週間賑やかな毎日が続くことと思う。

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東大総長小宮山さん

2007-08-05 06:29:52 | 発想$感想
つい先日、小泉さん時代の知恵袋竹中平蔵さんの参議院選挙の感想記事を読んだ。

たとえ話として「東大の民営化」の話が出ていた。
これなら賛否に別れ議論が解りやすいという理屈である。

確かに、例え話としても現実の議論としても面白いと思った。
象牙の塔と言われる東大などは、研究にだけ没頭する学者だけの集まりだとばかり思っていた。
民営化すれば何か違った形の東大像が描けるのではないかと思ったりした。



昨日の朝日のBe版、東京大学総長小宮山宏さんが特集されている。
この記事を読んで正直ビックリした。
こんな総長が現実に居られるのなら「東大の民営化」など必要ないと思った。

就任後直ぐに発表した、東大初のアクションプランの内容も、
140項目から成り立つ積極的なもので、それも「全てやる切るとの決意表明」をし、70%を既に実現した今も、「全てをやり切る」との旗は降ろしていない。

内容がユニーク、新鮮で学内や日本に止まらず、常に世界を見た発想がいい。
教授会を横断するヨコ展開の発想や、自らが陣頭に立ってリーダーシップを発揮する、そんなアプローチの方法もスタンスも心意気もいい。

金融機関からの資金で事業を考えているとか、金融機関からの東大の格付けが「トヨタと同じトリプルA」というのもはじめて知ったが、面白い。



21世紀の新しい大学モデルを示したい。「もう欧米の真似はしません。真似されたい」と思います、とインタビューの最後に仰っている。

そして記事は、
「日本の国立大は04年度から法人となり、運営の自由度はぐんと増した。お堅いイメージだった東大に経営者タイプの総長が登場したのも時代の流れなのかも知れない。」と締めくくられている。



この記事を書くきっかけとなった、慶応の教授であった竹中さんも、
政治の世界で大学の先生とはとても思えない目覚しい活躍をされた。

総務省のお役人だった樋渡啓祐さんも、佐賀県武雄市の市長として、官僚あがりというイメージを払拭する活躍振りである。

東大の総長の小宮山さんも、こんな驚きの発想と行動力。


みんなに共通しているのは、「高い想い」があることだと思う。
そして、ご自分の「想い」に真正面から取り組む「発想」と「行動力」をお持ちである。

新しい時代のリーダーは、
是非このような「高邁な理念」と、
それを具体化する「発想」と「行動力」を持ち、
そして、それを実現できる「最高のシステム、仕組み」で対応して欲しい。


私たちが知らないだけで、世の中には立派な人は沢山いるのである。

国を引っ張る政治の世界にこそ、この人たちに負けない先見性のあるリーダーの出現を願いたいものであると思う。







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ワーホリ

2007-08-04 08:18:41 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
「ワーホリ」ってご存知ですか?
私は知りませんでした。ワーキングホリデイを略して「ワーホリ」と言うそうです。

「日本ワーキングホリデイ協会」とか「ワーキングホリデイ同窓会」「ワーキングホリデイ情報ワーホリネット」などもあってびっくりした。

さらにその説明を読むと、
「この制度は」とある。ちゃんとした二国間で交わされた制度なのである。

「二国間の協定に基ずく制度で、最長1年間異なった文化の中で、休暇を楽しみながらその費用を補うために就労を認める特別な制度である。
相互に受け容れることによって国際的な視野を持った青少年を育成することを目的としているのである。その年齢資格は18歳から30歳である。」


いい制度だと思うが、異国に行くということは当然言葉の壁を乗り越えることも必要だし、そのための「語学留学」や「ホームステイ」での生活習慣の違いに慣れることも必要なのである。

そんなことでよりスムースに目的を達成するために、
「ある仕組みの提案」をしているところがある。
正式の「ワーホリ」前に、ワーホリよりも安い費用(49800円 渡航費別)のフィジーへ「語学留学」しませんか、というのである。

サウスパシフィックフリーバード」と名付けれれたこのシステムの詳細は、こちらをご覧下さい。

この中に、ホームステイの具体的な種類や内容、フィジーの最新ニュース、何故フィジーなのかを8つの理由を挙げたりしながら、詳しく丁寧に説明されている。


世界にはいろんな国がある。
私自身は二輪車という国際的な商品に関係していたので、駐在の経験はないが、先進国も開発途上国もいろんな文化、風習などに触れる経験が出来た。

いろんなところを若いときに経験することはいいことである。

そんな国際的な経験を援助する「ワーホリ」という制度があることも知らなかったし、
それをより効果的に運用するための「後押しのシステム」があるのも知らなかった。


世の中は、どんどん進むものである。
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ウエブの時代

2007-08-04 05:42:49 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
パソコンを始めたのはそんなに前ではない。
現役時代は、一切パソコンは触らなかった。

会社には当然パソコンはあったし、殆どの人がパソコンを持っていたが、
食わず嫌いの典型みたいなもので、全ての報告書なども手書きで、どうしても必要な場合は誰かに打ってもらったりしていた。


ふとしたことからパソコンを買い、情報検索などを中心に使っていたが、
今の世の中の流れを見ていると、よくぞパソコンを扱うようになっていて良かったと実感している。

昨年9月から、ブログをやりだしてからいろんなことを覚えた。
大体、ウエブという言葉の意味が何となく理解が出来て、何となく解っている程度だが、若しパソコンをやっていなかったら皆目見当がつかないだろうと思う。


今日の新聞にも、アメリカでの話であるが、新聞を読まぬ人が60%を越えて、印刷の時代は終わりが近づいた。新聞の時代の終焉を予測している。
そしてそれはニューヨークタイムズといった名門にも避けて通れない方向だと報じている。

ウエブでニュースを読む時間もだんだん増えて、将来はそれがニュース報道の主力になるのだろう。
そんな流れは間違いない。

新聞をはじめとして、従来の情報収集は有料が普通であった。
民放TVが無料で見れる番組を流すようになって久しいが、印刷による情報は有料が常識であった。

それが、ウエブの時代になると無料の方向である。
全てが民放のように広告料で賄われる、そんな時代になりつつある。



この1ヶ月ほど前から、アメリカにいる孫たちが夏休みで家に来ている。
パソコンを貸せという。まだ、小学生なのにそれこそウエブの次代に育った子供たちのパソコンの使い方はいろいろあって面白い。

その中で、「YouTube」というのを覚えた。
いろんな映像が収録されていて
、子供たちは自分の見たい私など余り興味のないものを楽しそうにみているが。

私など、中村俊輔のいろんな映像、バース、掛布、岡田の三連発、田中角栄など
見たいものを入れると何でも出てくる。

本当にビックリするウエブ時代なのである。


パソコンをやっていて、本当に良かったと思う。
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今朝のブログ解析

2007-08-03 05:54:07 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
毎朝、ブログ解析を見ることから一日が始まっている。

ブログの読者が、どんな風に反応しているだろうか? 
そんなマーケットの動きに似たようなものに興味があるのである。

現役のときも、毎朝何百通と来る愛情者カードの葉書を見ることから一日が始まっていたのとよく似ている。


解析の中味は、ブログサービスによって若干異なるのだと思うが、
gooの場合は、「閲覧数」 「閲覧者数」 「ページ毎アクセス数」 「アクセス元URL」 「検索ワード」 「プラウザ」から成り立っている。

閲覧に関しては、24時間を通じて1時間毎にいつ何人が、ということが解るようになっている。
最近のデーターでは、閲覧数が700~900、閲覧者数が260~320人位で安定している。

ダートヌポーツや人気ブログの武雄市長物語などでブログの内容が紹介されたりすると、一挙に100人以上も増えたりする。

24時間、どの時間も0ということは全くない。
夜中でも起きている人は、世の中には沢山いるのである。


検索ワードも面白い。
よく「歳森康師」の検索ワードでアクセスされることがある。
ご存知ない方が殆どであろうが、カワサキの初期のライダーで星野一義の先輩である。
星野より先に4輪に転向し歳森の紹介で星野は4輪に転向したのである。

天才肌のライダーだったが、芽が出る前怪我で引退した。
彼のことも何度か書いているのだが、検索ワードとしてはは、特に有名ではなく且つその世界では関心のある人の名前が検索ワードとしては効果的のようである。
ライダーで言えば「安良岡健」もよく出てくる。
星野一義には何度も触れているが、検索ワードには出てこない。

「カワサキワールド」だけでは、一般的で「雑感日記」などは表われないが、
「カワサキワールド 田崎」 で検索すると、雑感日記がトップに現れたりする。

こんなことは、普通余り興味を持たれないのかも知れぬが、末端での動きとかその仕組みがが解って、私には非常に興味のある関心事なのである。



ところで、今朝のブログ解析で思わぬことに出くわした。

閲覧者は263人とそんなに多くないのに、ページの閲覧数は1064と非常に多いのである。ある1時間の閲覧数が500ページに近いのである。
推測するにどなたかが、殆ど全てのページに目を通されたようである。
そうでないないとこんな数値は出てこない筈である。

読者の立場での私自身の経験では、
武雄市長の樋渡さんのブログの約2年間分を全て目を通したことがある。 面白かったが、大変であった。

それと同じようなことをして頂いているのである。

これは感激であり、心から嬉しかった。 
こんなことがあるとまた頑張ろうという気持になる。



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参議院選挙の結果

2007-08-02 05:40:54 | 政治
いろんな人がいろんな風に論評している。

この余波はまだまだ続きそうである。

先日、川重の相信会のスタートの挨拶でも、
高橋さん(相信会会長)も、大橋さん(社長)も、田崎さん(会長)も参議院選挙の結果に言及された。
そんな予想もしなかった、放っておけない大きな出来事だったのである。

田崎さんは、相い信じる会、にかけて政府と有権者の信頼が崩れたと話されたが、選挙前にあった幾つもの出来事が重なって、お互いの信頼感がなくなったというのは当たっていると思う。


武雄の樋渡さんも簡単に論評しておられるが、その通りだと思う。


私も何回か感想をまとめている。まさに感想である。

安倍さんの続投に思うこと

選挙の結果


そして、政局論評、これは田中秀征氏の論評である。


やはり、政治の経験者で今、評論家の田中秀征氏の論評は鋭いと思った。
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