KAZEとKSS
メーカーは技術力を駆使して作り上げたモノを売ることを本業にしている。
モーターサイクルもジェットスキーもそのようにして造り挙げられた商品である。
ただ、テレビや冷蔵庫などとは違って、
その商品を使ってどのように楽しむのか、物を売って後の 「遊びの世界が幾通りもある」 面白い商品なのである。
同じ自動車工業会に属する移動手段が機能の殆どである四輪車と比べても、
遊びの比重は二輪のほうが格段上のレベルにある。
そんな遊びの世界を本業として専門に開発して、
「ユーザーと一緒に遊ぼう」 というコンセプトで、
ソフト会社(株)ケイスポーツシステム(KSS)は89年4月1日に設立された。
ベースはバイクやジェットスキーのユーザーたちで、
88年末に、それまでもあったユーザー組織KAZEを発展的に解消して、新らしい組織造りに取り組んだ。
当時はHARTやYESSなど他社のユーザー組織も活発に活動をしていたが、
カワサキはソフト会社が専業でソフトを売ろうとするがゆえに、
他社にない新しいことを次々に継続して生み出すことを義務付けられたみたいなものだった。
まず、KAZEの会員証は業界ではじめてのJCBとの提携カードとし、会員には幾つもの恩典をつけた。
JCBのほうも若いユーザーがカードを作る場合、最初ののカードとなるケースが多くまたその上にバイクやジェットスキーのユーザーに絞られていることは、これはカード会社にとって非常に価値あることであったようである。
マーケッテング上で言えば、当初からユーザーのセグメンテーションが出来ているのである。
そんなことで当初から積極的に協力、優遇して頂いた。
当初2000人ほどでスタートしたKAZE会員は末端の販売店や担当営業の努力もあって最盛期5万人に達したのである。
5万人と一口に言うが甲子園を満員にする大きな数である。
ソフト会社としては大きな資産であったし、ハードの販売上でも大きな力となった。
その間、チームグリーンを中心にしたサテライトチームを含めたレース活動、一般のライダーたちが気楽に走れるSPA直入の開設。KAZE機関紙の発行、ショールームの開設、ユーザーツーリングへの支援、上手にバイクを運転できる安全運転活動、
各種イベントの実施などを矢継ぎ早に計画実施した。
ジェットスキー関係はJJSBAの組織の充実をベースに各地でのレースを開催、これも最盛期には年間1万台近い販売実績を挙げたりした。
今も業界でKAZEだけが残っているし、JJSBAの活動も堅実に続けられている。
こんな基盤は、この時期のKSSの活動によるところが大きいと思っている。
ゼファーも売れたし8耐にも優勝したり時代もよかったが、
この頃、誰も経験したことのないソフト会社KSSを担当して、
新しいことばかりを造り上げてくれた南昌吾君以下の当時のメンバーの努力が築いた実績だと思う。
ソフトの世界というのは不思議なもので、
あるレベルまでいくとどんどん新しいアイデアが湧いてくるのである。
四六時中絞り込んで考えている、KSSのメンバーからはどんどん新しいアイデアが出て、途切れることなく続いていった。
JJSBAのレース運営なども、数を重ねるたびに上手くなっていくのが目に見えたのである。
こんな昔の出来事を、
「人はコストではなくて、価値創造者である」
という服部吉伸さんの言葉を実感し懐かしく思い出す今日この頃なのである。
メーカーは技術力を駆使して作り上げたモノを売ることを本業にしている。
モーターサイクルもジェットスキーもそのようにして造り挙げられた商品である。
ただ、テレビや冷蔵庫などとは違って、
その商品を使ってどのように楽しむのか、物を売って後の 「遊びの世界が幾通りもある」 面白い商品なのである。
同じ自動車工業会に属する移動手段が機能の殆どである四輪車と比べても、
遊びの比重は二輪のほうが格段上のレベルにある。
そんな遊びの世界を本業として専門に開発して、
「ユーザーと一緒に遊ぼう」 というコンセプトで、
ソフト会社(株)ケイスポーツシステム(KSS)は89年4月1日に設立された。
ベースはバイクやジェットスキーのユーザーたちで、
88年末に、それまでもあったユーザー組織KAZEを発展的に解消して、新らしい組織造りに取り組んだ。
当時はHARTやYESSなど他社のユーザー組織も活発に活動をしていたが、
カワサキはソフト会社が専業でソフトを売ろうとするがゆえに、
他社にない新しいことを次々に継続して生み出すことを義務付けられたみたいなものだった。
まず、KAZEの会員証は業界ではじめてのJCBとの提携カードとし、会員には幾つもの恩典をつけた。
JCBのほうも若いユーザーがカードを作る場合、最初ののカードとなるケースが多くまたその上にバイクやジェットスキーのユーザーに絞られていることは、これはカード会社にとって非常に価値あることであったようである。
マーケッテング上で言えば、当初からユーザーのセグメンテーションが出来ているのである。
そんなことで当初から積極的に協力、優遇して頂いた。
当初2000人ほどでスタートしたKAZE会員は末端の販売店や担当営業の努力もあって最盛期5万人に達したのである。
5万人と一口に言うが甲子園を満員にする大きな数である。
ソフト会社としては大きな資産であったし、ハードの販売上でも大きな力となった。
その間、チームグリーンを中心にしたサテライトチームを含めたレース活動、一般のライダーたちが気楽に走れるSPA直入の開設。KAZE機関紙の発行、ショールームの開設、ユーザーツーリングへの支援、上手にバイクを運転できる安全運転活動、
各種イベントの実施などを矢継ぎ早に計画実施した。
ジェットスキー関係はJJSBAの組織の充実をベースに各地でのレースを開催、これも最盛期には年間1万台近い販売実績を挙げたりした。
今も業界でKAZEだけが残っているし、JJSBAの活動も堅実に続けられている。
こんな基盤は、この時期のKSSの活動によるところが大きいと思っている。
ゼファーも売れたし8耐にも優勝したり時代もよかったが、
この頃、誰も経験したことのないソフト会社KSSを担当して、
新しいことばかりを造り上げてくれた南昌吾君以下の当時のメンバーの努力が築いた実績だと思う。
ソフトの世界というのは不思議なもので、
あるレベルまでいくとどんどん新しいアイデアが湧いてくるのである。
四六時中絞り込んで考えている、KSSのメンバーからはどんどん新しいアイデアが出て、途切れることなく続いていった。
JJSBAのレース運営なども、数を重ねるたびに上手くなっていくのが目に見えたのである。
こんな昔の出来事を、
「人はコストではなくて、価値創造者である」
という服部吉伸さんの言葉を実感し懐かしく思い出す今日この頃なのである。