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私がまだ若かった1965年ごろ、もう40年も前のことになるのだが、
振り返って考えてみると、人生で一番自由に大きな金が使えた時期だったように思う。
カワサキの二輪車の市場もまだ国内だけで、単車事業をやるのかやらぬのかふらふらしていたのだが、
日本能率協会がいろんな調査をして二輪事業は『いける』という答申を出したのである。
そのきっかけになった理由の一つは、青野ヶ原のモトクロスの完勝で意気上がっていた現場の士気であった。
レポートに『現場のやる気』が明記されていた。
中村治道、高橋鉄郎さんなどの生産現場が動いたレースであった。
(カワサキワールドに飾られている記念写真、1~6位独占)
事業をやる条件に、『広告宣伝』を本格的にやることと言う条件があって、川崎航空機の中に初めて広告宣伝課が出来た。
未経験の分野だったが、それまでに償却計算のIBM化という会社でも日本でも珍しいことをやったという無鉄砲さを買われたのであろう、
『お前がやれ』と言うことになって、課は出来たが課長もおらず部長が課長を兼任で、まだ係長にもなっていなかったがその運営を任されたのである。
単車の売り上げが10億円、サラリーマンの年収が50万円の時代の1億2000万円は無茶苦茶大きな金であった。
これを3年間本社開発費で本社が予算をつけてくれたのである。
この広告宣伝のスタート時点の数ヶ月を手伝って教えてくれたのが、カワサキ自販の故小野田滋郎さんであった。
あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の弟さんである。
1年目は、ただうろうろして7000万円ほどしか使わぬうちに過ぎてしまって、本社の常務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られたりした。
これくらい大きな金になると使い切るのは大変である。
誰も経験者はいないし、広告代理店はああだこうだといってくるし、厚かましく自分ですべて判断して実行するクセはこの時期に身についたものである。
レースを担当したのもこの3年間である。
金は潤沢だったので、二十歳にもなったかならぬか解らぬライダーたちの契約金も結構弾んだ。当時のカワサキのトップライダーだった60おじさんには、確か120万円ほどの契約金だったと思う。
ヘリコプターも持っていた。当時明石でヘリはやっていて、下取りのヘリを広告宣伝費で購入して持っていたのである。
久しぶりに、60おじさんがブログをアップして、伊豆丸の山の全日本モトクロスでの写真や当時のレース界が紹介されているが、
これは丸の山の全日本にヘリでミスを運んで花束贈呈したときの写真である。
このヘリが『私の持ってたヘリコプター』なのである。
彼のブログには『当時すでに戸建ての家を持っていた』とあるが、確かに全日本で優勝したりはしていたが、優勝しだしたのはこの年からのはずである。
今から思えば、契約金など気前よくはずんだものだと思う。
みんな、本社開発費のお陰である。
ちなみに、丸の山の全日本の当日は東京オリンピックの開会式の当日である。
ヘリコプターはレースや、写真撮影や、営業の販促で地方に行ってお客さんを乗せたり、年中飛び回っていた。
私と一緒にレースもやってくれた大西健ちゃんの担当だった。
鳥取の砂丘の撮影に京都周りの夜行列車に乗って一晩掛けていったのに、帰りはヘリに乗せて貰ったら、明石まで1時間も掛からなかったりした。
他メーカーのライダーたちにヘリに乗せてと頼まれて、OKが言える立場はライダーたちと仲良くなる絶好のチャンスで当時のレース界のトップライダーたち久保和夫や小島松久クンたちと親しいのもヘリのお陰もあったのだと思っている。
ヘリコプターは、規定の飛行時間が来ると、車の車検のようなメンテナンスが必要である。
下取りのヘリだったので、購入価格は何百万であったが、そのメンテナンスは何千万の単位だったので流石に持ちきれず、このヘリを持っていた最後はFISCOの第1回の日本GPまでである。
GPレースをヘリで見たり、富士山を見に行こうかなどと、今思えば勝手なことをしていたものである。
私のレース担当も、本社の開発費もこの年までで、最高に金が自由に使えたウソみたいな3年間であった。
翌年からは、緊縮財政に戻って、私の後のレースを担当してくれたのが、故岩崎茂樹君である。
ライダーたちも歳森康師は4輪に転向したり、星野一義も彼の誘いで4輪の世界に移っていったのである。
金谷秀夫もカワサキからヤマハへ移ったのだが、みんなそれぞれ成功してよかったと思っている。
サーキットの上をカワサキで初めて走ったのは、山本隆だが、確かその1回だけであとは土や岩の上をカワサキだけで一筋に走り続けて、65歳になった今もまだ走っている、
60おじさんはやはりエライのかなと、最近また見直しているのである。
私がまだ若かった1965年ごろ、もう40年も前のことになるのだが、
振り返って考えてみると、人生で一番自由に大きな金が使えた時期だったように思う。
カワサキの二輪車の市場もまだ国内だけで、単車事業をやるのかやらぬのかふらふらしていたのだが、
日本能率協会がいろんな調査をして二輪事業は『いける』という答申を出したのである。
そのきっかけになった理由の一つは、青野ヶ原のモトクロスの完勝で意気上がっていた現場の士気であった。
レポートに『現場のやる気』が明記されていた。
中村治道、高橋鉄郎さんなどの生産現場が動いたレースであった。
(カワサキワールドに飾られている記念写真、1~6位独占)
事業をやる条件に、『広告宣伝』を本格的にやることと言う条件があって、川崎航空機の中に初めて広告宣伝課が出来た。
未経験の分野だったが、それまでに償却計算のIBM化という会社でも日本でも珍しいことをやったという無鉄砲さを買われたのであろう、
『お前がやれ』と言うことになって、課は出来たが課長もおらず部長が課長を兼任で、まだ係長にもなっていなかったがその運営を任されたのである。
単車の売り上げが10億円、サラリーマンの年収が50万円の時代の1億2000万円は無茶苦茶大きな金であった。
これを3年間本社開発費で本社が予算をつけてくれたのである。
この広告宣伝のスタート時点の数ヶ月を手伝って教えてくれたのが、カワサキ自販の故小野田滋郎さんであった。
あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の弟さんである。
1年目は、ただうろうろして7000万円ほどしか使わぬうちに過ぎてしまって、本社の常務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られたりした。
これくらい大きな金になると使い切るのは大変である。
誰も経験者はいないし、広告代理店はああだこうだといってくるし、厚かましく自分ですべて判断して実行するクセはこの時期に身についたものである。
レースを担当したのもこの3年間である。
金は潤沢だったので、二十歳にもなったかならぬか解らぬライダーたちの契約金も結構弾んだ。当時のカワサキのトップライダーだった60おじさんには、確か120万円ほどの契約金だったと思う。
ヘリコプターも持っていた。当時明石でヘリはやっていて、下取りのヘリを広告宣伝費で購入して持っていたのである。
久しぶりに、60おじさんがブログをアップして、伊豆丸の山の全日本モトクロスでの写真や当時のレース界が紹介されているが、
これは丸の山の全日本にヘリでミスを運んで花束贈呈したときの写真である。
このヘリが『私の持ってたヘリコプター』なのである。
彼のブログには『当時すでに戸建ての家を持っていた』とあるが、確かに全日本で優勝したりはしていたが、優勝しだしたのはこの年からのはずである。
今から思えば、契約金など気前よくはずんだものだと思う。
みんな、本社開発費のお陰である。
ちなみに、丸の山の全日本の当日は東京オリンピックの開会式の当日である。
ヘリコプターはレースや、写真撮影や、営業の販促で地方に行ってお客さんを乗せたり、年中飛び回っていた。
私と一緒にレースもやってくれた大西健ちゃんの担当だった。
鳥取の砂丘の撮影に京都周りの夜行列車に乗って一晩掛けていったのに、帰りはヘリに乗せて貰ったら、明石まで1時間も掛からなかったりした。
他メーカーのライダーたちにヘリに乗せてと頼まれて、OKが言える立場はライダーたちと仲良くなる絶好のチャンスで当時のレース界のトップライダーたち久保和夫や小島松久クンたちと親しいのもヘリのお陰もあったのだと思っている。
ヘリコプターは、規定の飛行時間が来ると、車の車検のようなメンテナンスが必要である。
下取りのヘリだったので、購入価格は何百万であったが、そのメンテナンスは何千万の単位だったので流石に持ちきれず、このヘリを持っていた最後はFISCOの第1回の日本GPまでである。
GPレースをヘリで見たり、富士山を見に行こうかなどと、今思えば勝手なことをしていたものである。
私のレース担当も、本社の開発費もこの年までで、最高に金が自由に使えたウソみたいな3年間であった。
翌年からは、緊縮財政に戻って、私の後のレースを担当してくれたのが、故岩崎茂樹君である。
ライダーたちも歳森康師は4輪に転向したり、星野一義も彼の誘いで4輪の世界に移っていったのである。
金谷秀夫もカワサキからヤマハへ移ったのだが、みんなそれぞれ成功してよかったと思っている。
サーキットの上をカワサキで初めて走ったのは、山本隆だが、確かその1回だけであとは土や岩の上をカワサキだけで一筋に走り続けて、65歳になった今もまだ走っている、
60おじさんはやはりエライのかなと、最近また見直しているのである。