雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 雑感

2020-01-16 07:42:30 | カワサキ単車の昔話
★ごく最近、Facebook にこんなOgasaさんの記事が出た。
 
カワサキが1965年に、ロードレースで初めて頂いたトロフィーなのである。

  
   

 そのコメントの中で Ogasaさんが
このレースで入賞していなかったら、カワサキのロードレースチームが出来るのは、もっと遅れたのですか?』 というご質問だったので、 
纏めて書きますね。』とお約束したものだから、
 
当時のことを含めて、私なりに纏めてみたい。





★この当時、カワサキはレースに関しては結構一生懸命にやってはいたのだが、
それは『モトクロスの分野』に限ってのことだったのである。

ロード・レース』の分野にも、
いつかは出ていくことになったのだとは思うが、
山本隆さんが『鈴鹿のレースに出たい』と若し言わなければ、
そんなレースがあること自体も知らなかったので、
カワサキのロードレース分野への進出はもう少し後になったのかも知れない。

少なくとも、この翌月の6月に行われた『アマチュア6時間耐久レース』には出場していなかったような気がする。
なぜ山本隆さんが『ロード・レース』と言いだしたのかは、
この年の1月に当時のBSチームから、山本・歳森の引き抜き事件があって、
二人ともBSとの契約条件などを聞いているのだが、
その時BSからは『ロード・レースへの出場』もその『契約条件』に入っていたものだから、それを聞いて『ロード・レース出場』に関心があったのだと思うのである。

カワサキにとってはこの『移籍事件』は大きかったのだが、西海義治さんや片山義さんの判断もあって、二人とも『カワサキ残留』が決まったのである。
その件で、私はライダーと初めて話をしたのが『片山義美』さんだったのだが、
片山義美さんのカワサキのレース対応に対する指摘は厳しかったが、
仰ること』は納得できて、
この1件から『私自身がレースに関与』すると片山義美さんに約束したのである。
この件がなかったら、私自身のレース関与も、もっと後になったのかも知れない。

★当時のカワサキはレースは勿論、
二輪の世界にも『素人』ですべて『手探り』状態だったのだが、
それに比べてBSは旧トーハツのレース関係者がおやりだったので、
カワサキに比べたら『玄人』であったことは間違いないのである。

そんな状態の中での、山本隆さんの『ロード・レース』出場希望で、
新車を自分で買ってそれをチューニングだけレース職場に頼んで、
個人で出場する』積りだったのだが、
当時、生産部門にいてレース職場も担当していた田崎雅元さんが都合してくれて、
出場費用は『鈴鹿のモトクロス』に出場することにして、ことを進めたのである。


★このレースのことを『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と題して、
このブログをスタートした2006年の11月にこんなブログをアップしている。


その概略を転記してみる。

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。
当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。
メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある北陸の塩本にも出場を要請したのである。案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。
駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆はは、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,鈴木で、結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。
雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、チームマネージャーの川合さんから、5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助けとなった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参加を認めることになったのである。

約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤、飯原は決まったのだが、関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 
このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。
このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれた内田さん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。
こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
★このように書いているが、この時のマシンを作ってくれた松尾勇さんも、歳森も金谷も、梅津も岡部も逝ってしまった。
不思議なことに、このアマチュア6時間耐久レースのきっかけになった山本隆さん、
監督の大槻幸雄さん、田崎雅元さんと私はまだ健在なのである。

大槻幸雄さんは、『Z1開発の功績』で、昨年日本自動車工業会の殿堂入りを果たされた。
来る4月18・19日に、大槻さんの出身地の京都・綾部に Kawasaki Z1 Fan Club の人たちが集まって、そのお祝いをしようとの催しが進んでいるが、
その時 集まる山本隆・大槻幸雄・私に加えて、今田崎雅元さんにもお誘いを掛けているので、ひょっとしたら『カワサキのロードレース・スタート』のメンバー4人が顔を揃えることになるかも知れないのである。

 
   


★そんな想いでいっぱいの由緒あるトロフィーだが、
2月1日に神戸で開催される
片山義美さんを偲ぶ会』には、このトロフィーも会場に飾られることになっている。

片山義美さんご自身は、カワサキとは直接契約などはなかったのだが、
片山義美さんの神戸木の実クラブ』とはその傘下のライダーたち
歳森・山本・金谷・村上・星野・清原・和田などいろいろと関係があって、お世話になったのである。

いろいろとあったカワサキのレースの世界である。
このトロフィーが、その歴史の本格的なスタートになったと言えるのかも知れない。


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麻生大臣の発言    雑感

2020-01-15 05:52:25 | 発想$感想

★麻生さんの発言は、いつもいろんなところで問題になることが多い。

本音でずばずば言い過ぎる」ところがあるのだと思うが、
マスコミは、特に反政府サイドの朝日や毎日は文句をつけることが多い。
今回はこんな発言に朝日が文句をつけたらしい。

曰く、

麻生太郎財務大臣が地元の福岡県で開いた国政報告会で、ラグビー日本代表に様々な国の選手がいて世界のベスト8に残ったことに触れて「日本はインターナショナルになっているのは間違いない。それが力を生んでいる」と指摘しました。
そのうえで次のように述べました。
2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって一つの王朝が続いている国はここしかない」』


「日本という国はこのような国である」ことは間違いない。
何か問題があるのかな? と思ったら

去年5月に施行された「アイヌ民族支援法」では「アイヌ」を「先住民族」と明記していて、麻生大臣の発言は法律と矛盾しています。』
という指摘なのである。

それは、その通りだとしても、『これは言いがかり』だと言わざるを得ないが、
どうも、それでは『通らない』らしくて、『謝って、訂正している』のである。


   

   


★こんなのは、取り上げるほうが、おかしい。

『2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって一つの王朝が続いている国はここしかない』

という発言は、普通の日本人は、普通に受け入れて、
そうだな』と思う発言なのだが、
ここで敢えて『アイヌ民族』のことを持ち出すことの方が『異常』なのだろう。


この発言が出てくる前段が、
先日のラグビーの『ワンチーム』から来ていて
日本もインターナショナル』になったというのは、
自然なスピーチだと思うが、
こんなことに文句をつけるマスコミの方が馬鹿げている。


★ 一般の皆さんが、どのようの思ったのか、コメント欄を開いてみたら、
このような意見が並んでいた。

一般大衆は 『まともだな』と思って安心した。










 
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カワサキの後輩に送る言葉

2020-01-14 07:08:52 | カワサキワールド

★ 昨年の1月にあった「カワサキアーカイブスでの私のインタビュー」の最後に、

後輩に送る言葉と座右の銘は?』 という質問があったのだが、
その時、私は咄嗟に、

後輩に送る言葉』は、
Kawasaki Let the Good Times roll を残して欲しい』 と伝えたのである。




 1年経って、年が明けてKAZEの機関誌が送られてきて、
 私の念願通り、
 Kawasaki Let the Good Times roll が復活 していることが解って、
 新春早々、大いに気分を良くしているのである。

 これこそが60周年を迎えようとするカワサキの単車事業の中で、
 伝え続けられてきた『カワサキの単車事業の基本コンセプト』なのである。


★現役諸君たちも、その言葉自体はご存知だと思うが、
どのようにしてそれが生まれ、引き継がれてきたのか?
という詳しいことは多分ご存じないのではなかろうか。

この言葉がどのような形で生まれたのか?』
そのあたりの詳しい経緯は私も知らないのだが、
これは1974年(昭和49)あのカワサキZが世に出た年に、
アメリカのKMCで生まれた』のである。
  

   


当時はこんな『Kawasaki Good Times rollという歌』 も、アメリカで歌われていた。

 


   
★この当時、KMCと明石の単車事業部との合同ミーテングがあって、
その時、KMC浜脇洋二社長の『Good Times Concept』の説明を聞いて、
当時は私は国内担当でアメリカ市場とは直接関係はなかったのだが、
大いに感動したのを今でもはっきりと覚えている。

★この『Good Times Concept』は、Z1の時代には大いにアメリカで流行ったのだが、明石の単車事業本部には直接関係もなかったし、
その後何年かのうちに、いつの間にか消えてしまっていたのである。

  

それから15年以上の時が流れて、
1988年に私が国内市場の責任者としてカワサキオートバイ販売に復帰した時に、
カワサキの基本コンセプト』として『国内市場で復活』させたのである。


   

     
それを当時のカワ販の社長であり、単車事業本部長であった髙橋鐵郎さんが、
『単車事業本部の世界の基本コンセプト』に設定され、
   

     



さらに、田崎雅元さんが川崎重工業の社長になられてからは、
川崎重工業の基本コンセプト』として20年の長きに亘って使われていたのだが、
 
     
   
   
  
ごく最近は、このように使われることが多かったので、
  
少なくとも単車事業関連では、このような長い歴史のある
Kawasaki Let the Good Times roll を復活して欲しいと、
昨年1月にあったカワサキアーカイブスの『後輩に送る言葉』の中でお願いしていたのである。


 


 これは昨秋行われたモーターショーの時の写真で、
 新春早々我が家に送られてきた『最新のKAZE機関誌』の中の写真なのだが、
 このように復活採用されているのである。

 これは本当によかったなと思っている。
 元々が、アメリカで創られたものだから、正式な日本語訳はないのだが、

 髙橋鐵郎さんは、いつもスピーチの中で、
カワサキに出会う人たちが、ハッピーになるような活動を、ワサキはずっと転がし続けます』 と言われていた。
 


 『カワサキに出会う人たち』 とは。
 カワサキのユーザーはもとより、カワサキの従業員も、販売店も、
 バイクは街の中も走り回るので、沢山の方たちに出会うのである。
 
 そんな一般の方たちにとっても、バイクが楽しくいいイメージを与えるような、
 『そんな活動になればいいな』と私は、思っているのである。





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イランのこと いろいろ 雑感

2020-01-13 07:43:19 | 発想$感想

★ 今年に入ってニュースを賑わしているのが『イラン』である。
 
アメリカがイランの英雄と言われていたソレイマニ司令官を殺害したことから、
イランのアメリカ軍基地攻撃などもあったのだが、
さらにイランがウクライナ旅客機撃墜を撃墜したりして、
今度はイラン各地で指導部に対する抗議デモが広がっている。 
などという展開になっている。

デモは首都テヘランをはじめ、南部シラーズ、中部イスファハなどで行われた
などという、
かって私が訪れたことのある都市の名前などが出てきたので、
もう50年以上も前のことだが、
イランのこと』を想いだして、日記をひっくり返して見てみたりしたのである。


★ 私は結構世界の各地を訪れているのだが、
イランは1回だけだが、1976年の6月に10日間も滞在していて、
そんなに長く滞在した国はアメリカ・タイに続いて3番目で、北から南まで市場調査で動き回ったので、今となっては懐かしい想い出の国なのである。

この時代はまだ『王政時代』で、カワサキと提携していたバイクの生産工場がサベイという町にあったのだが、
その時点でカワサキの『CKD事業展開』を今後どのように進めるべきかという市場調査の一環でイランを訪れることになったのである。

その時はタイ・マレーシア・インドネシアなどの諸国を同時に訪問したのだが、
そんな国の中でも『イランは飛びぬけておかしな国』という評判で、
調査団の人たちは『イランは行きたくない』と言う人が多かったのだが、
逆に私は『どんな国なのか?』非常に興味・関心があったのである。


★イランなど行かれた方は少ないとは思うが、こんなところにイランはある。

 

 

結構大きな国だが、10日間を掛けて北から南まで、結構広く動いたのである。
私たちが訪れた
『首都テヘラン、南部シラーズ、中部イスファハン』
はこんな位置にある都市である。

  


ご覧の通りの砂漠の国で、確かに一言で言うと『大変な国』である。

回教徒の国だから、会議をしていても突然お祈りを始めたりするし、
事業計画』など将来のことは『神様の分野だ』などと仰るし、
価格交渉なども価格を決めることよりも、『価格交渉をすること自体』を楽しんでいるようなところがある。

私も好奇心だけは人並み以上にあるので
ペルシャの市場』と言われる『BAZAR』にも独りで出かけてみたのだが、
一つものを買うのも大変で、『値切らない限り』無茶苦茶な値段のものを買わされることになるのである。

さらにびっくりしたのは、数字が『1,2,3,4・・・』ではなくて、
イランの数字』が特別にあって、我々にはとても読めないし分らない。
飛行機の座席も、ホテルの部屋も、二つの数字を交互に使って『1』の次の『2』の座席にはイラン数字が使われている。
領収証はイラン数字だから、貰っても役に立たなかった。
50年経った今でもそうなのかなと思ったりする。

砂漠の国だが、テヘランのまちには立派な緑があって、町の北にある湖から1日に何回か水を流して、大木を育てて立派な町に仕上げている。
シラズなども砂漠の中に突然『緑の洪水』かと思われるような美しいまちが現われるし、ホテルも日本以上に立派だった印象なのである。

最後に訪れた町中部のイスファハからは飛行機でテヘランに移動することになっていたのだが、
突如、飛行機が飛ばなくなって』それがどうなるのか、あとの予定が全然わからないのである。 
そのあたりは全く日本などと違うところで『神のみぞ知る』世界のような国で、
いくら聞いても埒があかないので、タクシー2台で、テヘランまで400キロを走って戻って来たりしたのである。 その間は殆ど砂漠で何もない。

石油だけが豊かに眠っている国なのかも知れない。


★こんな状況だから、『イラン人はおかしい』と言うのだが、
その時の日記に私はこう書いている。

『みんな「イラン人はおかしい」というけれど、1億人ほどしかいない日本人よりも回教徒の数は圧倒的に多い。
その人たちから見たら「日本人はおかしい」と思うのでは・・・どうも、日本人は客観的にモノを見ずに、「すべて自分のほうから発想する」ところがある。』
などと記していて、今思ってもそんなところがあるなと思ってしまうのである。


★当時はホンダさんなども工場をお持ちだったし、タイヤメーカーの工場なども立派に展開されていたのだが、
1979年だったか、イランの体制がいまのように変わってしまったので、
それ以降は関係がなくなってしまったのである。

  


イランがウクライナ機撃墜を認めたことを受け、首都テヘランで11日、犠牲者176人の追悼集会が抗議デモに発展した。保守系ファルス(Fars)通信が報じた。
ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領はツイッター(Twitter)で、デモを行うイラン国民の「味方」だと明言し、イラン政府が弾圧を行わないようくぎを刺した。


などというニュースも流れているのだが、

かってのように『アメリカとも仲良くできる昔のような体制』に、
もう一度戻るようなことはないのだろうか?


 
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2020年は カワサキ単車事業60周年   3

2020-01-12 07:08:13 | カワサキワールド

● アメリカ市場に進出した時代

★1960年に単車事業に進出したカワサキだが、当初はその市場は国内市場だけであった。
カワサキ明発が前身の『カワサキ自動車販売(現在のKMJ)』を通じて全国の代理店に対しての販売を続けていて、車種で言えば、M5ーB7ーB8ーB1-J1など、50cc~125ccの実用車がが中心で『実用車のカワサキ』の時代だったのである。

当時、ホンダは既にアメリカ市場に進出を果たしていて、
あのスーパーカブで『NICEST PEOPLE ON A HONDA』という一大キャンペーンを実施して、アメリカ市場での二輪のイメージ転換を図ったりしていたのである。


 

 

★明石の単車事業本部ではこの時期、国内市場への開発・生産・に集中し、前回取り上げた『レース運営委員会』でのレース対策などに集中していたのだが、
1965年にはそのレースも、モトクロスからロードレースへとその範囲を広げ、GPレーサーの開発も山田熙明技術部長を中心に大槻さんなども担当してその開発が進められていたのである。

その時期、川崎航空機本社企画の浜脇洋二さんを中心にしたアメリカ市場の調査が始まり、1965年7月には田崎雅元さんが明石事業本部サイドからの初めてのアメリカ市場派遣となり『サービス分野の担当』となるのである。


    


その間も『レース分野の活動』は推進されて、1966年10月16日にFISCOで開催された日本GPがカワサキとしては初めての『GP参加』となるのだが、
この時のチーム編成は以下の通りだったのである。
 
 チーム総責任者    山田熙明
 レース総監督     中村治道
 GPチーム監督     大槻幸雄
 ジュニアチーム監督   安藤佶郎
 チームマネジャー    古谷錬太郎



★この1966年度あたりまでが、カワサキの単車事業創生期と言える時期で、
この日本GPを終わって『レース運営委員会』は解散することになるのだが、
その後も、カワサキの単車事業の中枢をこのメンバーたちが担っていくことになるのである。

 

 
従来からの国内市場は、岩城本部長ご自身が販売会社社長を兼務され、
社名も『カワサキ自動車販売』から『カワサキオートバイ販売』「通称カワ販)となり、
実質、苧野専務が担当されて、川崎航空機籍の人たちは全員『カワ販出向』となって、私なども未だ係長にもなっていない時代に、広告宣伝課長になったりしていたのだが、
1967年からは国内最大市場であった東北6県の代理店を担当する『仙台事務』の新設を命じられて、仙台事務所長として異動することになるのである。

この2年間、アメリカ駐在であった田崎雅元さんは、
1966年3月に部品センターAKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)をシカゴに設立されて、その後のアメリカの基盤を創られたのだが、
1967年からは安藤佶郎さんに引き継ぐことになるのである。


大槻さんは技術部に戻られて『市販車開発』に当たられるのだが、
最初に開発責任者として開発されたのが『マッハⅢ』だったのである。

     



★1965年から始まったカワサキのアメリカ市場対策は、66年のAKMという部品会社の設立から、68年には販売会社KMC設立となり、
そのカワサキ独特の『現地主義』というバイクに精通したアメリカ人達のノウハウと明石サイドの開発陣との協働から生まれた『250A1・マッハⅢ』など
独特のスポーツマシンの投入が功を奏して、
アメリカ市場でのシェア獲得が続いていくのである。

     当時の山田さん
  

当時のKMCからの要求で新しくスポーツ車の開発に当たったのは、
山田技術部長大槻幸雄さんだったし、
その生産を担当したのが中村治道・髙橋鐵郎さんだったので、
この時期アメリカ市場を支えた人たちは、
かっての『レース運営委員会』の方たちだったと言っていい。


★この時期、私自身は国内の東北市場を担当していたので、
直接はアメリカ市場とは関係はなかったのだが、『アメリカ市場対策』をされた方々が、かっての『レース委員会』の方たちだったので、その情報だけはいろいろと入っていたが、

ごく最近この1,2年に、田崎さんとのメールのやり取りがあって、
アメリカ市場スタートの頃の話と写真が送られてきているので、
一度このブログにもアップしたのだが、再度抜粋してご紹介してみよう。


当時のアメリカ市場でのスタートの状況が生々しく再現されている。
田崎さんの最初のアメリカ行きが決まったのは、1965年7月のことで、
その時は『レースチーム』から大槻幸雄さんがドイツに留学されるということもあって、お二人の送別会を明石デパートの屋上のビアホール行っている。

アメリカ市場開拓の旗を上げたのは当時の本社企画にいた浜脇洋二さんで、
アメリカ市場のトーハツにいた杉沼浩さんが加わっているのだが、
田崎さんは日本人としては4番目、明石工場の単車事業部としては、
初めての人材派遣だったのである。
  

以下は田﨑さんから送られてきた、写真とメールの抜粋である。

 1965年8月日本出発時の為替レートは、360円、9月に最初の渡米地シカゴで、渡邊さん、と二人の出張所を設けた。その後、種子島さんがやってきた。
全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要だという事になって、その後、黒田さんもやってきて翌年1966年3月に部品センターを設立した。
AKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)で、KMCの前身である。

『会社である以上、税務のこともあり経理屋さんが必要だと要請したら、久保勝平掛長がやってきた』 久保勝平さんは、私と同期だから田崎さんより1期上、この年係長になったばかりである。 

 
  

車で言うと、WIやA1 の時代だが、W1はアメリカ市場では通用しなかった。
アメリカで、カワサキが認知されだした最初のマシンはA1なのだろう。 

 
 

A1のテストは、百合草三佐雄さんが担当していたのだが、シカゴから南部へ向けてプロのライダーに走行して貰い、私が車のチェックをしたものです。
1966年1月の事で百合草さん、種子島さんも居たのですが、二人ともまだ車の運転ができなかったので、杉沼さんがライダーと契約し私が伴走車を運転しながらのテストだったと思います。

  
★当時のことを百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』の中で、
次のように書いている。
 
1965年、A1のテストをアメリカで実施した。各代理店を訪ねた時最大の要望は『故障しない』ことであった。広大なアメリカ大陸では『故障で止まること』は日本では想像もできない危険に遭遇する。砂漠の真ん中のハイウエイで故障したら大変である。夏では40度を超す猛暑、冬は零下になる。いずれの場合も生命に影響する。・・・・』

百合草さんは、昭和35年(1960)年入社で種子島さんとも同期、未だ入社5年目の若手だったのである。


★AKM はシカゴで、部品会社として設立されたのだが、これをベースに1968年にはカリフォルニアでKMCがスタートすることになるのである。

KMCの経営は、浜脇洋二さんが掲げた『現地主義』というカワサキ独特の方針から、現地アメリカ人のバイクに通じた優秀な人たちが多数参加することになるのだが、『アラン・マセック筆頭副社長との出逢い』を田崎さんはこのように書かれている。

1966年に種子島さんと一緒にネブラスカ、スコッツブラフのMASEK・AUTOを訪問した。
オーナーの息子のALAN・MASEKに カリフルニアで働かないかと打診した。
たまたま、フランスのソルボンヌ大卒のエリートの奥さんがこんなド田舎の生活はもう嫌だといって、喜んでカリフルニアに行きたい、と言っていたので、それを浜脇さんに伝えた。
このヘッドハンティングの成功が、後の浜脇社長ーALAN・MASEK販売担当筆頭副社長コンビのKMC長期政権の誕生となった。
ちなみに、ALANもハーバード大卒のエリートである。
 カリフルニアにもAKM支社が出来、安藤佶郎さんも出向してきた。

などと、当時のアメリカ市場開拓の状況を書かれている。

この写真は、いま現在制作中の『カワサキアーカイブス』の中で、
現在のアラン・マセックが当時を語っているのだが、
大槻幸雄さんは、常に『世界一』を目指していると言われているのである。

  


シカゴで部品会社を創られた田崎さんは、日本に戻られてからも、部品部門を担当されたのだが、当時では珍しい『部品の自動無人倉庫』など大きな仕事をされている。

髙橋鐵郎さんは69年には、カワサキオートバイ販売に出向され、『営業の第一線分』を経験されて、
この経験がその後の髙橋鐵郎さんの発想の原点になって、
カワサキ単車の経営を支えた』と言ってもいいと思っている。


★1968年には、アメリカ市場に販売会社KMCが設立されその初代社長は、
 岩城良三常務が兼務されて、スタートすることになるのである。


     

KMCスタート時のメンバ^-
右から3人目が岩城さん、その隣が浜脇さん、一番左が杉沼さん。


同時に日本では、1969年
川崎重工業・川崎航空機・川崎車両の3社合併で、『川崎重工業』がスタートし、
その単車事業本部の経営方針も『中大型スポーツのカワサキ』を指向して、
国内市場も『実用車市場の地方』から『東京・大阪などを中心市場』とするなどその販売方針も抜本的に変わって、1970年代の新時代展開へと入っていくのである。

戦後の日本の二輪事業は、1950年代には100社を超えるメーカーが存在したのだが、1960年代に入り、ホンダ・スズキ・ヤマハの浜松勢が業界をリードし、東発・富士重・三菱などの大企業もこの業界から撤退し、ブリジストンとカワサキの5社体制となるのだが、そのBSも撤退して、ひとりカワサキだけが浜松勢に伍してこの業界に留まることになるのだが、
それを可能にしたのが『アメリカ市場の好調』と、大量生産の50ccの小型車市場を捨てて『中大型スポーツ市場』に絞った経営・市場戦略にあったのだと思う。

カワサキの単車事業』は、経営的にも非常に厳しい時期のあった1960年代を乗り切って、次の10年に歩を進めることが出来たのである。







 




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ほっとした1日

2020-01-11 06:37:19 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日はなぜか『ほっとした1日』になった。

いつものように朝からジムには行って、筋トレもランニングも水泳もやって午前中は過ぎた。
1時間ほど昼寝をした。 ジムに行ってフルコースの水泳までやった日の日課みたいなものである。
何となく、ホッとしている。

昨日アメリカに戻った孫、『もう着いたよ』とネットで連絡はあった。

   


昨日は三宮のバス停まで送ってやったのが、夕方だったのだが、アメリカもそんなに遠くはない。
 家についてすぐ『ジムに行った』らしいから元気なものである。

『ほっとしてる』のは、この1ヶ月孫と付き合って、こちらも結構動き回ったからだと思う。

 毎年今頃は、冬薔薇の手入れをするのだが、それも出来ないままになっている。


★ 久しぶりに、庭の木の様子など写真に撮ってみた。

 春の木と書いて『椿』 その椿は今年はいっぱいの蕾をつけている。

   


 
これはちょっと変わった綺麗な花をつける椿だが・・・・

小さな鉢から育てて、もう15年にもなるかな。
  


 
もう、こんな蕾になっている木もある。





 
 いつもは庭いっぱいに赤い実をつける千両・万両なのに、何故か今年は実の付き方が悪かった。

 



 いつも気が付かぬうちに、花芽をつけて春一番、一斉に花開く『あせび』だが、

 もうこんなになっている。

 



★ つる薔薇の整枝も未だ完全には、出来ていないし、
 木ばらの冬剪定も2月初旬までにはやらないといけない。


 また、全く自由な時間の取れる日々が戻ってきたので、
 今日あたりから、庭仕事も頑張ってみるか、などと思っている。


 
 

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2020年は カワサキ単車事業60周年   2

2020-01-10 07:31:02 | カワサキワールド

● カワサキの単車事業の『創成期のレース活動』について

★昭和35年(1960)に単車事業に本格的に進出するこ決まったのだが、この船出はなかなか大変ではあったのだが、数多くの周囲の方たちの支援や、何よりも不思議とも思えるほどの『好運』が重なって、カワサキの単車事業の今があるように思う。

    


前回に記述したように、最初に上市した125B7は散々だったのである。
大体、川﨑航空機の明石工場は元々がエンジン工場なので、エンジンの専門家はいたのだが、『バイクの専門家』などは居なくて当然だったのだが、そういう意味で単車のフレームなど解る人はいなかったのだと思う。
最初のB7はそのフレームの欠陥で返品が相次ぎ、工場は返却車で埋まったと言ってもいい状況だったのである。

   


★ そんなカワサキの単車事業のスタートを救ってくれたのは、すぐ続けて出した125B8だったのかなと思う。
B7は1年だけでやめてしまって、昭和36年秋のモータショーにはB8が出品され、
37年度から発売され始めたのだが、2機種目がこんなに早く出たのは、今思っても不思議なのである。
この125B8が、何となく評判が良くて、
単車事業が継続された第1の理由は,この『125B8』があったからだと言っていい。

もう一つ、こんなことを言うのは私だけかも知れぬが、
カワサキの二輪事業を救ってくれたのは、本田宗一郎さん』なのである。


鈴鹿サーキットが開場したのは、昭和37年(1962)のことなのだが、
この年の11月に日本で初めての本格的なロードレースが開催されて、
そのレースをカワサキの単車事業の生産部門の人たちが、バスを仕立てて見学に行って、そのレースを観て『燃え上がって』しまったのである。
このバスを仕立てたのは、兵庫メグロの西海義治社長だが、西海さんはそれだけには止まらず、カワサキもモトクロスをやろうと、子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に送り込んで、
翌年5月の『青野ヶ原モトクロス』の圧勝に繋がっていくのである。

全く不思議なご縁で、
鈴鹿サーキット』が出来なければ、その観戦もなかったし、
カワサキがモトクロスに出ることもなかったのである。

この時期『カワサキの単車事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会が調査をしていたのだが、この『青野ヶ原の圧勝』で現場の人たちの意気は燃え上がっていて、それが『単車事業続けるべし』という判断の一つになったのである。


★『125B8』は確かにカワサキの人たちの成果だが、
この『モトクロスの圧勝』は、鈴鹿サーキットを本田宗一郎さんがこの年に創らなかったら、なかった出来事なのである。

さらにカワサキが初めて出た青野ヶ原のモトクロスは1位から6位まで独占するというとんでもない成績だったのだが、その後もカワサキはレースでは健闘したが、こんな成績は後にも先にもこの1回だけなのである。

これはカワサキのマシンや、ライダーが速かったのではなくて、『運がよかった』だけだったのだと思う。
レース当日は雨上がりでコースの中は水貯まりばかりで、スズキやヤマハのマシンはみんな水に浸かって止まってしまったのだが、防水対策が完ぺきだったカワサキB8だけが、エンジンが止まらずに最後まで走り続けただけなのである。

私は現場には行っていないのだが、当日はヤマハで出場していた山本隆さんもマシンが止まってしまったらしい。 
この話は、山本隆さんの話の受け売りなのである。


  

 
兎に角、社内中大騒ぎになったのである。

この青野ヶ原のレースに関わった人たちである。

 

 
60年も前の話だから、既に亡くなられた方も多いし、みんな若かったなと思う。
この『青野ヶ原』のプロジェクトはこのようなメンバーで進められて、
その責任者が中村治道さん、副大将が髙橋鐵郎さん、川﨑正蔵さんのお孫さんか曾孫さんの川﨑芳夫さんなど、製造関係の方たちで、
髙橋鐵郎さんの右隣りが営業で私の下にいた川合寿一さんである。

その殆どが鈴鹿サーキットのレースを観に行った製造関係のメンバーなのだが、営業が絡んだのは、このレースは非公式だったので、会社からは金も残業料なども出ていなかったので、
当時の営業次長だった私の上司の小野助治さんが『パンでも買うなにがしかの金』を都合して、川合さんに渡たすように指示があったのである。


★これらの写真は、実は今カワサキが進めている『カワサキアーカイブス』という単車事業の歴史を語るという取り組みがあって、私もその一人として1時間ほど、
お話をしているのだが、その中からの写真なのである。


   

 
このインタビューの話は、なかなかオモシロいのだが、今のところすべてを公開することが出来ないので、その一部をお話ししているのである。


★そんな『いい運』が重なって、『カワサキの単車事業やるべし』という日本能率協会の判断に繋がっていくのだが、この能率協会が『事業存続の条件』の一つに挙げたのが『広告宣伝課を創ること』というのがあって、その広告宣伝課を、まだ係長にもなってもいない私が担当することになり、当時の本社の開発費として1億2000万円
もの予算が3年間支給されることになるのである。

私の年収が40万円ぐらいの時代だったから、この1億2000万円の予算がどれくらい大きかったか想像してみて欲しい。
突然こんな大きな額を任されても、1年目は7000万円ぐらいしか使えずに、本社の専務から「お前ら金をやってもよう使わん」と怒られたりする始末で、当時は国内市場だけだったし、その金で『レース』を集中してやろうということになるのである。


その『レース運営委員会』というのがこんなメンバーで構成されたのである。
これは間違いなく錚々たるメンバーで、その後のカワサキ単車事業も、川崎重工業の事業も引っ張ったメンバーだと言って間違いないだろう。

川﨑重工業の社長も、副社長が二人もおられるメンバーなのである。

 


このメンバーのことだけで、幾らでも書けると思うのだが、
この時期だけでなく、極端に言うとこののち何十年も『単車事業の中枢』で、密接な関係が続いたのである。

ただ、当時は皆さん若くて、
山田・苧野両委員長は兎も角、中村さん以下はまさに戦前の軍隊のような血気盛んな人たちばかりで、
当時の中村治道さんには、下の人は『モノが言えない』雰囲気をお持ちだったし、
髙橋鐵郎さんはまだ海軍兵学校の雰囲気が残っていてまさに軍人さんだったし、
技術部の大槻・安藤さんは、めちゃくちゃ怖かったのである。
メンバーすべてが技術屋さんで、その一番下が田崎雅元さんで、事務屋は私一人だったが、このうるさいメンバーを纏めていく事務局を仰せつかったのである。

こんなメンバーを相手に、私が何とかなったのは『1億2000万円の予算』を握っていて、レース運営費はここから支出していたからなのである。
更に、私にとってラッキーだったのは、この委員会のトップメンバーの山田・苧野・中さんが学校の先輩で、山田さんは神戸一中の先輩だったし、苧野・中村さんは石高校のOBだったので、何かと可愛がって頂いたのである。


★こんな広告宣伝課がなかったら、カワサキのレースが創成期から活発に動くことが出来なかったのは間違いないのである。
この当時のレース予算は潤沢だったので、今では考えられないようなことが出来たのである。

 
当時は厚木にカワサキコンバットというクラブを作って、これを軸に国内のレース展開をしていたのだが、当時はMFJ よりもMCFAJ 関係のレースが主流で、スズキは城北ライダース、ヤマハはスポーツライダースなどのクラブチーム主流での活動だったのだが、
 


カワサキはカワサキコンバットの運営に、
当時月20万円の領収書の不要な金を三橋実に運営費として渡していたのである。 
20万円は今の金で言うと200万円ぐらいの値打ちがあり、その金で厚木に家を借りて、全国から有望ライダーを集めて、ライダー育成に努めたのだが、メンバーも人数も、練習のやり方もすべて三橋実に任していたのである。
そんな中から育ったのが、星野一義であり、金子豊たちなのである。

関西では神戸木の実クラブ片山義美さんと密接に繋がり、
山本隆・歳森康師・金谷秀夫などさらには清原明彦・従野孝司などが育っていったのである。
みんな当時は無名のライダーだったから、大袈裟に言うと日本のレース界にも貢献したことになるのかも知れない。






冒頭に書いた、鈴鹿のロードレースの250㏄優勝者が三橋実350㏄優勝者が片山義美で当時は二人ともヤマハとの契約だったのだが、
三橋実はカワサキが引っこ抜いてカワサキコンバットを任したし、
片山義美さんは神戸だったのでその傘下の山本隆・歳森康師・金谷秀夫などが
創成期のカワサキのレースライダーとして、全く無名の段階から育っていくことになるのである。

当時カワサキの単車事業は競合他社に肩を並べられるものは皆無で、ひとりレース関係だけが、『気を吐いて』いたのだが、その根底には潤沢な広告宣伝費があったので、それが可能だったのである。


★ところで、『レース運営委員会』を創るように指示されたのは、当時の事業本部長の岩城良三さんで川﨑航空機工業の常務取締役でもあったのだが、
その訓示では常に
隣国の兵は大なり、その武勇は優れたり、その武器は豊なり、然れども指揮の一点譲るべからず
から始まるリーダーシップ満点の方だったのである。

前述の1億2000万円の広告宣伝費の使用については、係長にもなっていない私に任されていたのだが、その報告先は職制上の上司ではなくて、直接岩城本部長に私が報告することになっていて、
レース運営委員会』の報告も、私から岩城本部長に報告していたのである。

そういう意味では、今では考えられないようなことだが、
同じような時期にアメリカ市場では浜脇洋二さん(係長)が頑張っていたし、
そのアメリカ市場で、シカゴで部品会社を創ったのは、私より年次では1年下の田崎雅元さんで、当時の若手は大きな仕事を任されていたのである。

       
★ こんな岩城総務部長、塚本人事課長時代のお若い頃の写真があるのだが、
実はこの写真は、私のアーカイブスのインタビュー記事の中に、私が川崎航空機に入社した時の話があって、その時の面接の時に、第一声で『君は成績悪いねえ』と言われたのが塚本さんなのである。

     

 
確かに大学の成績は優などは5つしかなくて、それも体育理論・体育実技という運動部の選手はみんな優、中国語1・2のどなたにも優をくれる中国人の先生の科目と、もう一つは野球部の部長もしておられた先生の科目だけだったのだが・・

私は物怖じなど全然せずに、『成績は悪いかも知れぬが会社の仕事などなら間違いなく他人には負けずにやり切れます』と言い切ったのだが、この一言は私の現役時代ずっと私の心の中に残っていて、忘れずに頑張ったのである。
この面接で途中から、『ところで君は野球をやってたな』と話題を変えて頂いたのが岩城総務部長で野球の話などで和やかになって、私は当時の砂野仁社長のコネでの入社だったのだが、砂野さんからは『君は面接だけはよかったよ』などと言って頂いたりしたのだが、現役時代は不思議なほど、その時々のTOPの方から直接指示されることが、40年間続いた不思議な現役生活だったのである。

当時の川﨑航空機も自由な雰囲気のあるいい会社だったと思うが、特に創成期の単車事業はそれぞれの若手が、自ら率先してやらないと、上からの指示などなかなか降りてこなかった、そんな時代でもあったのである。



         
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孫・門野真也との1ヶ月

2020-01-09 05:53:16 | 発想$感想

★孫・門野真也がアメリカからやってきたのは、昨年の12月5日のことである。
あっという間の1ヶ月だった。 
今夜、関空からの便でアメリカに戻る。

アメリカに行ったのは小学校2年生の夏だったので、アメリカでの生活のほうが長くなってしまったが、
小学校時代の日本の友達もいて、この1ヶ月の日本の休みを十分に堪能したものと思われる。

昨日は、そんな幼馴染の『しゅんちゃん』を誘って、滞在中3度目の『焼き肉こさる』を楽しんだ。

  



真也に限らず、孫たちにも息子にも評判のいい『こさる』で、
ここで『焼き肉』を食ことが、三木に来る楽しみにもなっているようだ。
旨くて『安い』のがいい。

  

 
 
これはこの年末に息子がやってきたときだし、

こちらは末弟・門野哲也と 息子の方の孫・古谷仁
昨年の夏やってきたときの写真である。

 


かっては私たち夫婦でもよく行っていたが、
最近は孫が来た時にしか行かなくなったので、
次回はこの春に日本にやって来るという娘と一緒に来ることになるのかも・・・ 


ただ真也が来ると、焼き肉の量は圧倒的に増えて、
店の人がびっくりして『笑ってしまう』ほどの量を食う。
これが昨日の『昼食った』焼き肉だが、私も最後まで付き合った。


  
  
  


 これらは『サービスランチ』を頼んだほかに注文したもので、
 普通の人の一人前の他に、さらにこれだけ頼んで、
 最後に、コレで締めくくった。

 


アメリカ人の間でも、真也がよく食ことは定評があって、
これは『父親譲り』かも知れないが、
娘も私に似たのか、細いくせに結構よく食うのである。
兎に角、門野家の食事の量は、一般家庭の倍ほどの量なのである。
食費の安い、アメリカでよかった。




★ただ、2年前に来た時と、全く違っているのは、よく食うのは変わらないのだが、ちゃんとカロリー計算が出来ていて、その消費カロリーも半端ではないのである。

トレーニングの姿勢』も、
毎朝5時から2時間以上のジム・トレーニングは欠かさなかったし、


     


体調管理で腕に付けている fitbitの記録を聞いてみると、
1月7日の記録では

 走った歩数     32,738歩     
 その距離      31,600m     
 消費カロリー    5210カロリー    
 アクテイブ時間   270分       

と、マラソン選手のような距離を走るし、消費カロリーは普通の人の2倍以上で、
これは流石に『プロ・サッカー選手』のオフの過ごし方なのか、
2年前の学生時代とは全く異なっている。

子どもの頃から、何故か4人の孫たちの中で真也とは、魚取りやカブトムシなど、
一番数多く付き合った私だが、
今回も新年早々、一緒に初日の出を拝んだし、

 


 彼のサッカーには昼も夜も一緒に付き合ったりしたのである。

    
    



★子どもの頃はこんな体型だったのだが、

   

 
今はこの二人、こんなアスリートに変身しているのは不思議である。
   


特に真也は『努力』でここまで来たのは間違いなくて、
サッカーの名門 Strikers FCには『デブはダメ』と断られて、
2年間減量してやっと14歳の時に入れて貰えたのだが、
3年後はチームの主力になりキャプテンも任され、名門Berkeleyへの入学が『サッカー推薦』で実現したのである。
さらに大学では4回生では、長い歴史の中で初めての日本人キャプテンを任され、秋のシーズンには『リーグ得点王』に輝いて、念願のプロ入りが実現したのである。


★運動選手としての『天性の才能』などがあったとは、とても思えないのだが、
小学生時代から兎に角真面目な性格で、
小学生時代のサッカーの師匠であった息子の言うことは、こと細かくノートに記録して、それを反復していたようだが、
現在のジムの筋トレも同じように、そのやり方などノートに詳しく記録されていて、その通りにやっているようである。

昨年度プロになってからも、体力測定ではチームでダントツだったようだが、
この1ヶ月でさらに進歩したと自分でも言っていた。

今年はプロ2年目になるのだが、高校・大学時代は常に下から這い上がってきて頂点を極めたのだが、プロの世界はそんなに甘くはないと思うが、2月にはシーズンも始まるので『2年目』がどんなことになるのか楽しみである。

世界は狭くなって、アメリカのサッカーリーグのテレビ実況が、三木でも同時に見ることが出来る環境のようなので、余計に楽しみなのである。
 

★今日午後には、三宮まではクルマで送ってやろうと思っているのだが、 
この1ヶ月、私自身にとってもなかなか楽しい『実のある1ヶ月』だったと思う。

特に、真也が『教えてくれて』いまは私の腕にも巻かれているfitbitは、真也がくれた『最高のお土産』だったような気がする。

  


お蔭様で、私の健康管理もより高いレベルで、今年は推移することになるだろう。
  
 
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川﨑航空機の 同期入社の人たち    雑感

2020-01-08 07:21:08 | 発想$感想

★私は、昭和32年(1957)神武景気の時に川崎航空機に入社したので同期の会は『神武会』と称したりしいる。
同期入社した方たちも亡くなった方もおられて、もうこの会も開催されなくなってしまったが、
今年の新年に、同期の『鈴木啓司さん』からこんな年賀のメールを頂いた。

   

いつ頃からか、こんな絵を画きだして、そんな絵が添えられていたが、
突然Facebook を始められたようで、Facebookにはこんな絵がアップされている。

   


 Facebookは始めたばかりで、私の記事にコメンなど記号で寄せて頂いてはいるのだが、まだどのように対応すべきかもう一つ解っていない、そんな新人の時期なのである。
 
鈴木啓司さんは、浜脇洋二さん(のちKMC社長)が本社企画の時、単車のアメリカ市場の調査をスタートされたころは、その下にいたのだが、単車には来られずに発動機の方に行かれたのである。
 入社当時から、親しくして頂いた『啓ちゃん』なので、Facebook の私の友達の皆さん、よかったら『トモダチ申請』してあげて下さい。
 私もトモダチ申請して、承認頂いたので、それくらいは大丈夫だと思います。
  

★同期のメンバーで絵を画く人には、山辺昂さんがいて、こちらは入社当時から個展を開いたりしていたので、この世界では有名人で、ネットで『山辺昂』と検索すると
こんな絵が現われたりするのである。

   

 現役当時、オランダにあった、カワサキのヨーロッパ各社への部品補給会社などに行かれてたのだが、そんなヨーロッパの絵かなと思ったりする。

山辺さんは、入社試験の時は私の隣の席で、私は回答に四苦八苦してたのだが、さっさと仕上げてしまって悠然としていた。 
私よりはちょっと年上だったのだが、90歳になられたのだろうか?
西神にお住まいなのだが、最近はお会いしていない。


★同期の方もいろいろおられるのだが、もうお一人ユニークな人を上げるなら、
 藤川哲三さんである。

 Facebook もおやりで、トモダチになっておられる方も多いのだが、ご本人は最近は何もしていない。

ずっと以前に、私が書いたブログに、大津信さんが反応してくれて、
こんな風にアップして頂いた。
 

 大津さんの技術部時代の上司だったので、いろいろあったらしい。
私は大津さんが私の記事を取り上げてくれたので、
こんなコメントでお礼を述べている。

『大津さん、いろいろと有難うございます。藤川さん間違いなく変わってますよ。私は変わっている人好きですから、藤川さんも好きな一人です。理事室の隣の席でしたから、電話の度にずっと怒ってたのを私がヨコから茶化していたのを思いだします。技術的なことは全然解りませんが、ジェットスキーの国内、欧州展開の時、福井くんを出してくれていなかったら、カワサキのジェットスキー展開もこんなにスムースにいかなかったと思っています。そう言う意味で感謝です。
逆にX-11は、藤川さんに頼まれて、結構お金使いました。藤川さんFB参加してるけど殆ど見ないので、このコメントも、あなたのコメントも見ないかもしれません。
私のはともかく、大津さんのは見て欲しいですね。』


★ 私も今年は87歳になる。
 同期の連中と、そんな歳になって幾らかでも関係があるのは嬉しいことである。
 
 前回、いつだったか垂水で集まったのだが、そんな幹事役は藤川さんがやってくれないと集まらないのである。
 この記事も Facebookに載るので、藤川さんそれを見たら動いてくれたらいいのだが・・・
 そんなことを想いながら書いている。


 藤川さんとこの前会ったのはこの相信会の時で、もう2年も経ってるかな?


  

 右から藤川さん・金花川重社長・田崎前社長・私
 実は、1月7日 昨日は相信会だったのだが、私は欠席だった。
 
 田崎さんも、藤川さんも行ったのかな?


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  
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2020年は カワサキ単車事業60周年   1

2020-01-07 07:17:42 | カワサキワールド
● カワサキ単車事業のスタート

★カワサキが当時の川崎航空機工業の明石工場で単車の一貫生産をスタートさせたのは昭和35年(1960)のことだから、
今年はその60周年に当たる。

私は昭和32年(1957)川崎航空機工業入社で、
昭和36年(1961)に初めて営業に単車課が創られてそこに配属されたので、
今となっては当時の状況を知っている数少ない一人なのである。
60周年を機に私なりに何回かに分けて、『カワサキ単車事業』なるものを振り返ってみたいと思っている。


★川崎航空機工業は戦後7年間の空白があって事業が再開されたのは昭和27年(1952)のことで、空白期間に分散されていた川崎機械という疎開会社の各工場から明石工場に集まった新しい会社だったのである。

戦前の川崎航空機工業は文字通り航空機の製造会社で明石と岐阜に工場があり、
明石はエンジン工場、岐阜が機体工場だったので、戦後は明石工場関係は農業発動機のエンジンなどを井関農機に、歯車・ミッションなどを東洋工業やいすゞ自動車などに納入しており、単車のエンジンもその一つとして開発・製造されていたのである。

更に当時は東洋でただ一つの米空軍のジェットエンジンのオーバーホール工場があって、米軍が駐在していたし、当時既にIBMでの器械管理がなされていたし、アメリカ空軍の最先端の生産管理方式が採用されていて、新しい会社だったから『自由な雰囲気』がいっぱいだったし、実際の事業展開も新しい発想で展開されていたように思う。


★ こんな写真がネットの中にあった。

 確かに、川崎航空機が再開された昭和27年から、『二輪車エンジン』の販売がなされたことは間違いないのだろう。
 私が入社した昭和32年には『メイハツ工業』に対してエンジンが販売されていて、それをメイハツ号として販売されていたのである。

 


確かに、1949年頃には二輪車エンジンの開発を手掛けていたようで、
当時高槻工場におられた髙橋鐵郎さん(後の単車事業本部長)はその設計を担当されていたと、私はご本人から聞いたことがある。


★私が川崎航空機に入社した昭和32年(1957)当時、会社がどのような道を歩もうとしたのかはよく解ってはいないのだが、何かの最終商品のメーカーを目指していたことは間違いなくて、実現はしなかったが4輪車の開発も進められていたのである。

  


この4輪車のエンジン開発を担当していたのが、後Zのエンジンの開発者の稲村暁一さん(私の1年あと昭和33年入社)だったのである。
そんなことで、稲村さんは4サイクルエンジン専門の開発担当などと言われているのである。

当時の単車はヤマハ・スズキもカワサキもみんな2サイクルばかりで、逆にホンダは4サイクルオンリーで2サイクルは持っていなかった。
その後、カワサキだけはメグロを吸収合併して4サイクルも持つことになるのである。

カワサキの場合は、確かに『エンジンの専門家』集団ではあったのだが、当初は『輪車』について解っている人は殆どいなくて、『販売』に関しても全く解っていなかった『素人集団』だったのに、振り返ってみると『よくやったな』と正直そう思ったりするのである。

それを何とか乗り越えられたのは、販売網ではメイハツ、車体設計ではメグロなどの方たちの協力があったからだし、何事にもチャレンジする川崎航空機の会社自体の若さがあったのだと思っている。


★ 1961年にカワサキメイハツを吸収して『カワサキ自動車販売』という会社を新たに設立しているのだが、この社名が『自動車』となっているのは、ホントに自動車を売るつもりだったのかも知れないが、カワサキの軽4輪車は陽の目を見ることはなかったのである。

そしてこの年の11月に川崎航空機工業の営業部の中にも『単車課』が新しく創られて、私はそこに配属されることになるのだが、この単車課の販売先は『カワサキ自動車販売』で、そこから日本全国にあった二輪代理店に販売されていたのである。
そしてその『カワサキ自動車販売』の社長は川崎航空機の専務が兼任されたが、実際に活動されていたのは、元メイハツや元メグロの方ばかりだったのである。

今のKMJの前身で、当時は神田岩本町に本社があったのだが、その事務所を知っているのは、今では私だけになってしまったのである。


★ネットの中に、こんな懐かしい写真が載っていた。
 当時はまだ、ヘリコプターは明石工場でやっていて、そのヘリをバックに、私が営業に配属されて、初めて売っていたバイクがこの2機種なのである。

 M5というモペットと、125B7である。

  

 
このB7がカワサキの初めてのバイクなのだが、エンジンは兎も角、車体の欠陥で今でいうなら『リコール』で、どんどん工場に戻ってくるのである。

とうとう1962年1月には出荷数より返却された台数の方が多くて、生産台数が確か16台か17台、マイナスになってしまったのである。

そんなこともあって、カワサキの単車事業はスタートから大混乱で、この事業を本当に続けるべきかどうかが上層部で検討され、日本能率協会にその調査を依頼することになったりしたのである。

兎に角、スタートは散々だったのである。
それが何とか乗り切れたのは、努力もあったが、いろんな『いい運』に支えられて、カワサキの単車事業の今日があるのだと思うのだが、『そんないい運』を呼び寄せるのは、一途な熱っぽさと努力かなと思ったりもするのである。

 



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私の今年の目標は

2020-01-06 06:49:30 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ いつの間にか1月5日になった。
日曜日はいつもは休息日にしていて、じっくり休養することにしているのだが、年末年始の長い休みがあったという感覚だったので、
私なりに『仕事はじめ』の日として、今年初めての『ジム』に行った。


8時半の開店早々に行ったら、『一番のり』だったのは、気分が良かった。
鏡に映っているのを撮ったので『鏡に注意』の張り紙なども写っている。

   


体育館のランニング・コースが、剣道大会のため使えなかったので、10時までは筋トレをして、帰りに協同学苑によって30分ほどスロージョッギングとダッシュをして戻ってきた。

『私の仕事はじめ』みたいなものである。



★365日すべてが『自分の時間』のような生活だから、
極めて自由で文字通り自分の意思通りに使える『定年後の生活』は最高にいい。

こんな生活が『退屈』などいう人は、現役時代も『退屈』だったに違いない。
この10年の生活の変化をみても、毎年『新しいパターン』が何か加わっていて、
それは端的に言うと、まだまだ『好奇心旺盛』ということだろう。

昨年からの相違点を上げるなら、私の腕にはfitbit が巻かれている

  

 

自分の行動パターンが具体的な数値で記録されるのは、素晴らしいことで、
体調管理』が目的だから、健康に過ごすためには、非常に効果的である。

昨年末、孫が日本に来てから、孫に教えられて買ったもので、もうすぐ1ヶ月になる。
手元に1か月間の数値の記録が残っていて、
86年生きてきたが、こんな記録があるのは、今年が初めてのことなのである。


 



こんな項目が自然に記録されるのだが、
歩数は文字通り、今日今までに歩いた歩数で、この2週間こんな歩数になっていて、1万歩をとっぱすると★印がついたりする。


     


★『歩数記録』は大したことでもないが、
私が一番目標にしているのは、『アクテイブ・タイム』で、これは自分の意思でチャレンジしない限り記録されない。
単なる散歩では記録されないが、スロージョギングや、ダッシュなど『運動をした時間記録』で、1日30分以上やると目標達成なのである。

これは意識してやらない限りダメで、『やろう』という自らの意志が必要である。
歳をとると、どうしても動かないから体力低下を招くので、ジムで筋トレをしたり、走ったりすると、それなりに体力向上が見られるから不思議である。

以下はこの1ヶ月近い記録だが、殆ど毎日記録達成されていて、自分でもなかなかのものだと思っている。




    



★ 今年はこの『アクテイブ・タイム30分以上』を1日の行動の目標にしたいが、果たしてどれくらいできるだろうか?
300日以上』になれば、まずまずかと思うが、果たしてどうなるか?

これ簡単なようでなかなかムツカシイ。 ジムで筋トレをしても記録されないし、自転車を漕いで汗を流してもダメなのである。
水泳などの時間も大丈夫なのだとは思うが、プールにつけて入ることが許可されないのではと思ったりするので、兎に角『走らないと』ダメなのである。

今朝も体育館のランニング・コースが使えなかったのだが、帰りに協同学苑に立ち寄ったのは30分の『アクテイブ・タイム』を記録しようと思ったからなのである。


★毎日やることが『今の仕事』みたいなものだから、この10年間何となく続けてはきたが、今年はそれを具体的な数値で残せるようにしたい。

今年の第1目標は『アクテイブタイム・30分以上』をできる限る続けること
もう一つは『このブログを確り書く』ということにしたいと思っている。

ブログを書くのも、『確り書く』ためには、データーを調べたりするなど、会社での『レポート作成』のように結構『アタマも使う』ことになるので、この二つができたら『体とアタマ』が使えているので、『健康な生活』と言えるだろう。




 
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人の好き嫌い   雑感

2020-01-05 07:50:21 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『人の好き嫌い』などは、
 感覚的なものであまり理由などはないのかも知れない。

私自身は『人の好き嫌い』は、本来はっきりしていると思ったりもするのだが、
会社勤めをしていた現役時代は意識して『八方美人』で通していた。

組織の中で仕事をする場合『』など創らぬほうが、
現実に上手く事が運ぶと思っていたからで、
現実に『あまり好きではない人』と何度も組織上組まされたこともあるのだが、
何の問題もなくことは運んだのである。


★一般の人たちは兎も角、
大きな権限を持った公人に対しては、結構好き嫌いを明確にしているのだが、
今年になって突然大きなニュースになったのが
ゴーンさんの国外逃亡』である。


   


そのゴーンさんについて、
好きか嫌いか?』と問われたら、『好き』な部類に入ると思うし、
前社長の西川さんは、この事件がスタートした時から『好きにはなれなかった

潰れかかった日産を再建したのは間違いなくゴーンさんだが、そんな実績や『好き嫌い』とは別の司法問題が絡んでいるので、これは、なかなかムツカシイ問題ではある。

この事件が発生した2018年11月21日のブログには、

概略このように書いていて、今でも殆ど変わらぬ感想を持っている。

昨日は『日産カルロス・ゴーン会長逮捕』が終日マスコミを賑わした。・・・
羽田空港にゴーンさんの乗ったプライベート・ジェットが到着したのが4時半ごろのことである。・・・飛行場で任意同行を求めたと同時に、日産本社と自宅の家宅捜査が同時進行し、て6時43分には『ゴーン会長を解任』10時には『日産社長が記者会見』という手際よさなのである。
この事件は日産の『内部通報』からスタートしている。
 
★この事件は、一体どういうことなのか?
潰れかかった日産をV字回復させて、ここまで建て直した功労者は『ゴーンさん』であることは間違いない。
ワンマン・経営者で『煙たかった』ことはよく解る。
世界でも稀に見る『辣腕経営者』であることは間違いない。・・・・

今後の日産のTOPは、ホントに今後上手く舵取りが出来るのだろうか?
今の社長さんがやり切れるのかな? むしろそのほうが心配なのである。 ・・・

 

西川社長』さんでは、予想通り乗り切れなかったのである。

本来は日産社内の問題なのに、こんな裁判沙汰にしてしまったのは、やはり間違っていたのでは? と思ったりするが、
それがさらに『ややこしいこと』になってしまって、
これからの日産の対応は大変なことになるのだろう。
ゴーンさんは日本から離れたが、これからどんな展開になるのか?

『プライベート・ジェット』で来日して逮捕され、
プライベート・ジェット』で国外逃亡したというのも、オモシロい。

世の中には、現実に考えられないようなことが起こるのものである。



★『政治家の好き嫌い』で言えば、
 『トランプさんは好き』だし、『オバマさんは好きになれなかった』のである。

 どちらかと言えば、世の中の一般の評価は反対なのかも知れないが、

  


トランプさんの独特の実行力にたいして、
オバマさんは確かに『理論派』だが、具体的に『何をしたのか』がよく解らない。

 


日本の大会社や、官僚の世界では、
エリート』と言われる理論派が社会的な地位が上がることが多いのだが、
何をしたのか』よく解らない
オバマさんや西川さん型』の方が多いのかなと思ったりする。


今年はアメリカの大統領選挙だが『トランプさんの再選』はあるのだろうか?
アメリカの人たちが、この4年間のトランプ政権をどう評価するのか、興味がある。


★『好き嫌い』などは感覚的なもので、
特に『嫌い』だと思う人に対する理由などを探すこと自体がムツカシイのだろう。

テレビに出てくるタレントでも、スポーツ選手でも、
会って話もしたことがない人に対しても、
何となく『好き嫌い』などと思うから不思議なのである。


正月早々、映画の話のような『ゴーンさんの逃亡劇』があったのだが、
一般の方は、本音でどう思っているのだろうか?


 

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アクテイブに幕開けした2020年

2020-01-04 07:08:10 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★新春『寝正月』などという言葉もあるが、結構元気に動けた2020年の幕開けだった。

元旦は、初日の出を拝みに、朝の暗いうちから防災公園を走ったし、
2日は、午前中は墓参りなどに行ったのだが、午後は協同学苑でスロージョッギングなどやって、スタートから1日30分以上の『アクテイブな時間』が過ごせたのである。

3日目も『いい天気』に恵まれて、
午前中は孫がトレーニングをするというので、それに付き合った。
昨日はフットサルを3時間もやったとかで、足がちょっと張ってるとか言いながら、
念入りにアップをして軽く仕上げていた。



  

 
上は大学時代のバークレーのユニフォーム、
下は昨年後半所属したプロのチームのユニフォームだった。
若いから、それが当然かも知れないが、服装には不思議なほど拘る。
三木に遊びに来てもう1ヶ月近くにもなるのだが、毎日身に付けているものが違う。

同じ兄弟なのに、兄貴の力也は全くそんなことには無関心で、東京からやってきたのだが、正月だというのに、着替えの服などは持ってこずにずっと同じスタイルで通していた。


私は彼がサッカーをしている間に公園の周回路を2周して、7000歩ぐらいになっていたのだが、午後からは同じ公園で、全国女子高校サッカー大会をやってるのを見に行ったりしたら、1万歩を今年初めてクリアした。

   

 


★最近は、1日の歩数にも、アクテイブな時間にも至極関心がある。

今年は東京オリンピックもある。
東京オリンピックが決まった時は、『果たして見れるのかな』と思ったりしたのだが、
特別なことが起こらぬ限り『観ること』が出来そうである。

今年は3月になると87歳なのだが、こんな歳になってこんなに動けているのは自分でも不思議である。
それまでもいろいろと動いてはいたが、ジムに通いだして『今年は3年目』になる。
それ以来、間違いなく体の芯というか体幹が確りしたし、上半身も下半身も大きくなったし、自分では『背が伸びた』ような感覚なのである。

そんな時期に、孫・門野真也がやってきて、fitbit なども新しく腕に巻いて、

         


従来以上に『体を動かす』ことに関心も出来たし、毎日こんな画面を見て喜んでいるのである。


 
 

 これは間違いなく、この1年続くだろうし、
アクテイブに幕開けした2020年』と言えるのである。
いつまで続くのかは、よく解らないが、せめて『あと3年
90歳までは、同じレベルを維持することを目標にしたいなと思っている。

  
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1月2日、父の命日に想ったこと

2020-01-03 06:50:58 | 私の生き方、考え方&意見

★ 1933年3月に明石上ノ丸で生まれて今年で87年の人生は、なかなかオモシロくて、特に不満などもないのだが、
ただ一つあるとすれば、
高校を卒業する年の1月2日に、父が52歳の若さで亡くなってしまったことである。

もう少し生きていたら、私は大学などには行かずに社会に出ていたと思うので、
父は私を大学に行かせるために1月2日に死んでしまったのでは』と思ったりするのである。

そんな1月2日は、『父の命日』なので、毎年新年には明石に墓参りに行くのだが、
昨日はなぜか、久しぶりに生まれ育った明石のまちを見たいと思って、独りで出かけてみたのである。
 
お彼岸・お盆の墓参りには、花を買って行くのだが、毎年正月だけは、花などは買わずに『庭の千両と万両』の赤い実のついた房などを持っていくことにしているのだが、何故か今年は実が少なかったので、珍しく正月まで咲いていた『ばら』など持って出かけた。

年始の墓参りというよりは、『父の命日の墓参り』だと思っていて、昨日も『父と話をしてきた』のである。

   


 
父が亡くなったのは1952年だから、もう70年近くも前のことである。
私は19才だったが、生前あまり話もすることなく逝ってしまった父なのだが、私は何となく好きだった。

父と一緒の写真などは、手元になくて、
唯一こんな子供の頃の写真だけが残っている。


   
 

父は、書と絵が趣味で、
書を習ったという橋本海関さんのお墓もあるのでお参りしてきた。
この墓標の字は、父が絵を習ったという橋本関雪さんが書かれたとか。   
   
 

 

★墓参の後、生まれ故郷の『明石市上ノ』を久しぶりに訪ねてみた。
 この辺りはかっての武家屋敷跡で、道は曲がりくねって、こんなに狭いのである。
 子どもの頃はそんなに狭いとも思わなかったが、町全体の道が立派になった今ではホントに狭いなと思ってしまうが、よく歩いた懐かしい道である。

 このおうちは昔から、お住まいだったのだが、
 

 
本家の辺りは、戦後上ノ丸に来られたおうちばかりが、かっての本家の敷地内にいっぱい建ってしまっていて、

 


私が生まれた頃のこんな静かな風情は全く感じられないようになってしまった。
当時の写真などは残っていないのだが、

 

これは、私が生まれた時にはもうこの世にはいなかった祖父と、
伯父・父はまだ学生時代か、祖母と叔母の家族5人の珍しい写真なのである。

 

★ 私が生きた87年の間に、日本の様子も一変したといっていい。

 戦後、明石に引き揚げてきたときは、明石は爆弾と焼夷弾でこの上ノ丸あたりも焼き尽くされていて、家など建っていなかったのである。

その頃、疎開していたのが、今は街に変貌している『伊川谷』で、
その白水という湧き水の出るすぐ横の『お稲荷さん』があるお宅の隣がその疎開先だったのだが、

  

 
そこを訪ねてみると今も『お稲荷さん』は昔の儘に祀られていて、その向こうに見える黄色い壁のおうちが当時は平屋だったが疎開先だったのである。

私が中学1年生の頃は、ここから田舎の細い田んぼ道を歩いて明石駅まで、
そして灘からまた『地獄坂』を上って通っていたのだが、今思うととても考えられないのである。

旧制中学の最後の年で、名門神戸一中に何故か私は無試験で入学したのだが、
父に
お前は無試験で入れたのだから、他人に負けぬようにちゃんと勉強するように
と言われて、中学生の2年間だけは、ホントによく勉強したものである。
その2年間の自信』みたいなものが、『私の一生の自信』となっている。

そんな神戸一中に通った、田んぼの細い道が、今はこんなに立派になっている。
  

 
伊川谷に限らず、そのさらに奥の西神も山が街に変わったし、
いま住んでいる三木の緑が丘もかっては山か丘だった。
兎に角、世の中の様子はこの何十年かの間に一変しているのである。


★そんな日本の変貌を身近に観ながら生きてきた人生だが、
令和』という新しい時代を迎えて、
不思議に今年は『父を想いだし』独りで墓参りもし、
昔の想い出のまちも訪ねてみようと思ったのである。

それはなぜなのかは、よく解らない。
ふとそんな風に思っただけなのだが、
思ったことはすぐ実行する性質なのである。

新しく始まる『令和の時代』を私なりに『ちゃんと生きる』と
昨日は、父に話してきたのである。
 



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2020年幕開けの1日

2020-01-02 07:23:41 | 発想$感想

★三木総合防災公園で『初日の出の写真』を撮ろうと、朝まだ暗いうちに私はクルマで出かけたが、孫・門野真也はさらに早く家から走って公園に向かっていた。

明るくなるまでは公園の周回路を走っていて、 孫は15000歩、私は5000歩を記録することが出来た。
fitbitでいう『アクテイブな時間』で、2020年のスタートを健康的に切ることが出来てよかったなと思っている。


 こんな初日の出の写真が撮れた。
   神戸丹生山の麓に上る初日の出である。
  
 


 『初日の出』を拝んだのは、前回はいつだったのかと調べてみたら、
2009年にこの時も、孫・古谷仁と一緒に、かっての『グリーンピア三木の展望塔』から撮っているので、10年ぶりのことである。

同じ丹生山から昇る『日の出』だが・・・・・
撮った場所がちょっと北なので顔を出す場所が違っている。

  

 
孫と一緒でないと、独りでは『初日の出』など拝みには行かないということなのか? 

こちらは、今回一緒だった、孫・門野真也との2ショット。
 

 




★ そんなスタートを切った2020年、令和2年の元旦だが、
  今年は孫・二人が遊びに来てるので、おせちも、4人前。

    

  
ちょっと張り込んで『北海道の素材』を使って、有名シェフの調理によるものだとか。




  これは、なかなかのものだった。 
 



★ それは、兎も角、今年は年初から、何となく『いい運』に恵まれそうである。

朝、防災公園まで家から5つの信号があるのだが、何故かすべてが『青信号』だったし、初めて打ったパンダ碁も圧勝して、気分が良かったのだが、

昼からあったサッカーの天皇杯決勝は、『ヴィッセル神戸』が球団創設以来初めての優勝を飾ったのである。



   

  


   


ヴィッセル神戸』は何となくご縁があって、Kawasakiがスポンサーをしているし、
オーナーの三木谷浩史さんは、私と同じ明石高校のOBなのである。

新装なった国立競技場での『球団創設以来』もいいし『令和初』もいい。
是非、アジアカップ優勝も狙って頑張って欲しいものである。


 ★Facebook には、このブログからの転写で、こんな新年のご挨拶を掲載したのだが、ホントに沢山の方から、ご挨拶を頂いて、勿論昔からの旧友の方もおられるのだが、その殆どは、定年後ネットをスタートしてからの方々で、単にネット上だけではなくて、実際にお会いして、面識がある方が多いのには、改めて驚いているのである。

  


 
今年も、そんな新しい仲間の方が、一人でも多くなるような1年になればいいなと思っている。 

 いいスタートが切れた『2020年幕開けの1日』だった。

  
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