★今でも毎日日記を付けている。
永年の習慣だから何ということはないのだが、最近になって昔のことを想いだすのによく旧い日記を読み返したりしている。
昔のことは覚えていることも多いのだが、やはりそれ以上に忘れてしまっていることも多くて、日記は貴重な存在なのである。
★ところで、日記を付けだしたのは、もうずっと旧くて70年も前の20歳の頃のことで、まだ大学の2回生の頃のことなのである。
秋のリーグ戦の頃から何となく体調がおかしくて、
リーグ戦が終ってから医者に診て貰ったら「肺浸潤」と言う診断で、
当時はまだ「結核」に掛かる人は多く「肺浸潤」はその一歩手前なのである。
明治以来、日本は結核に悩まされ続け、特に若い人がたくさん死に「国民病」と呼ばれるほどだったので、ひょっとしたら長くは生きられないかなと本当にそう思っていたのだが、
ちょうどそんな時期、朝日新聞に「蒋介石は30年間も日記をつけていて偉い」などと言う記事が出たものだから、
日記ぐらいなら「俺でも書ける」とその日から日記を付けだしたのである。
「肺浸潤でひょっとしたら長くは生きられない」と思ってたのと重なって、
何かこの世に残しておこうかと思ったのだと思う。
★ 突然の日記だったのでこんな大学ノートに書きだしたのである。
1953年(昭和28)11月8日から年末まで、大学2回生の20歳のころの事で、
よく続いているなと我ながら想うが、習慣になってしまうとそれほど大変でもないのである。

これはその第1日目の11月8日の日記だが、

このように記述している。
「昭和28年も早いものでもう霜月8日、この1年もこの月と師走を余すのみである。今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記を付けているとかの記事を読んだので、自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかという気になったのである。
先月の28日胸が悪いと医者に宣告されてからはや10日間の養生生活が続いている。・・・・大体生まれてこの方医者の手を借りることなしに20歳のこの年まで育ってきただけに自分の健康に自信を持ち過ぎたのが悪かったのである。好きな野球でこうなったのではどこに文句のもって行き処もない。まあ運命とでも諦めるほかはあるまい。・・・・」などと書いている。
実はこの年の夏の合宿の1日目に夏風邪をひいたのだが、
ちょっと熱もあったが練習を続けたし、そのまま秋のリーグ戦に入ったので、何となく体調が悪かったのである。
自分から医者に行ったのは初めてのことだったし、その結果が「肺浸潤」と言われて結構なショックだったのだと思う。
★「肺浸潤のまま」その後も野球は続けていたのだが、
運よく川崎航空機工業にも就職出来たが、その頃には「空洞」が出来ていて、診療所の先生には野球は禁じられていたのに、
先生にユニホーム姿を見つかって「結核療養所」に入院させられてしまうのである。
これが昭和35年10月のことなのだが、それから1年の療養生活で空洞も消えてすっかり完治して社会復帰したのである。
その昭和36年11月にはカワサキが二輪事業をスタートさせた時で、
私は初めて出来た「単車営業課」への復帰が実現したのである。
そんなことからの「二輪事業とのご縁」で、若し入院していなかったら、新事業の単車に行けたかどうかは解らないのである。
早死するかなと思ったら、90歳までも生きられて、
その間の日記があるお陰で、自分の人生を正確に振り返ってみることが出来るので、まさに「運のいい人生」だったと思っているのである。
これらが70年間の日記帳だが

最近は5年連用のものを使っているので、

あと1冊新しいものが買えたら大満足なのである。