CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

GET BACK TO WHERE YOU ONCE BELONG、“戻っといでよ、もといた場所に。”

2015年09月08日 | BEATLES-BADFINGER関連
何事も行き詰まることがあれば、原点回帰でやり直すのも一つの方法。果たしてうまく困難を回避出来たのでしょうか?

1969年 1月
⎡ポール:ちょっとみんな聞いてくれよ。俺たちは、ライブ・アクトからスタートしたバンドじゃないか。1965年8月のキャンドル・スティック・パークでのコンサート以来ライブからは完全に遠ざかっている。ここらで、気分転換としてライブ復活したらどうかな?と思ってさ。別にアリーナでの公演みたいな大掛かりなものでなくていいのさ。アイデアとしては、ドキュメンタリー仕立ての映像を制作してみたいんだ。 つまりジャム・セッションやリハーサルの状態から撮影を開始し、最終的にバンドのライブ公演に至る過程をフイルムに収めるのさ。⎦

ミュージシャンであれば誰しも自身の歌唱なり演奏をファンの前で披露し、その反応を確かめてみたいと思う気持ちがある。アイドル扱いによって、過去、ライブでの演奏音が聞こえないほどの黄色い声援には辟易としていたと思われる彼らだが、音楽の再生メディアを出すことだけでは汲み取ることの出来ない、つまりライブに於けるファンから直接受ける熱気や声援を、今一度感じたかったのではないだろうか?

1965年にライブツアーから完全撤退し 、スタジオに於いてオーバー・ダブや効果音の使用など機械的な編集を加えた最新且つ複雑な楽曲を数多く制作してきたため、当然それらの楽曲を4人でライブに於いて再現することはは困難であった。

⎡ジョン:ポールが新しいレコード作るっていう時期に来たと言うのなら従うし、それに楽しいセッションで、すばらしいロックが生まれるなら、特に異論はないね。⎦

当初は、航行する客船内で撮影するというアイデアもあったようだが、最終的にトゥイッケナムにスタジオを設置しスタートしたのがゲット・バック・セッションであった。

⎡ジョージ・マーチン:エンジニアのジェフ・エメリックが戻ってきて、グリン・ジョンズも新たに雇ったみたいなので、新しいプロデューサーで何かをやるのかな と思ったのだが、彼らからはその辺ことはなんとも言ってこない。

しかし新曲でライブのアルバムを制作したとは言ってきた。まあ、これは素晴らしいアイデアだったんだが、冬のイングランドで大勢の観衆を動員するために屋外でコンサートを開催できるような適当な場所は思いあたらなかったし、またアメリカのカリフォルニアのようなところで興行をするのであれば巨額の資金調達が必要で、実現には少し時間がかかるのではと思っていたところ、トゥイッケナムでリハーサルが始まったのだよ。

それで彼らに同行してみたものの、そこで繰り広げられた光景は、バンドとしてまとまりがなく、喧嘩ばかりでとても新作を作るためのリハーサルとは思えなかったね。⎦

2 週間のトゥイッケナムでのセッションは不毛に終わり、これを機にバンドの崩壊の速度が加速したのであった。

場所を変えて、1969年1月にロンドンにてあのルーフ・トップ・コンサートが行われ、同年4月と翌年の1月にもアビーロード・スタジオで セッションが継続された。この時のキー・パーソンは何と言ってもビリー・プレストンであろう。

⎡ジョージ:多分1962年にハンブルグで彼を見たことがあったと思う。(1962年、ブライアン・エプスタインがプロモートしたリトル・リチャードのリバプールでの公演でビートルズがビリー・プレストンにあったとの記述もある。) その後、ビリーがレイ・チャールズのワールド・ツアーにバックとして参加していて、1968年にロンドンで行われた彼らのコンサートにエリックと一緒に行った時に彼を思い出したわけさ。それですぐに、アップル・レーベルとの契約を勧誘したのさ。

以前ホワイト・アルバムの制作でエリックがゲストでリードを弾いた時のように、ビリーのゲット・バック・セッション参加は、彼のキーボードによる演奏のサポート以外に、彼の素晴らしいキャラクターを持ってバンドの内部の争いを緩和させるのに効果があったと思うよ。それにライブでの演奏となれば、サポートのキーボード・プレーヤーは曲によっては必ず必要だからね。⎦

⎡リンゴ:俺は特にそうは思わなかったけどね。セッションの内容がよく、素晴らしい曲ができればすべてうまく行くものさ。GET BACK とDON’T LET ME DOWNなんて最高の出来さ。俺なんかBACK OFF BOOGALOO作った時参考にさせてもらったぜ。⎦

⎡ジョージ・マーチン:GET BACK における彼の貢献度から考えて、確かに、彼はそこにいるべき存在だと思ったね。それに、そこにいるだけでバンド内の摩擦を和らげる潤滑剤のような存在でもあったよ。⎦

ビリー・プレストンのゴスペル、R&Bそしてソウルなどに精通したキーボードはイギリス人奏者には真似のできないアメリカの音を、ビートルズの楽曲に吹き込んだのであった。アップルが経営破綻に追い込まれるまで、ジョージ、エリック、リンゴそしてストーンズのキースら助けでアルバムを2枚出したのである。なかなか良いアルバムだったが大ヒットには至らず、ビリーが大ブレイクするのは次のレーベル、A&Mで出すアルバムまで待たねばならなかった。

ビリーのアップル・レーベル第1作、ジョージ、エリック、ストーンズのキースとジンジャー・ベイカーが参加

ビリーのアップル・レーベル第2作、ジョージ、リンゴ、クラウス・ブーアマンらが参加

一方、ホワイト・アルバム制作時でもあったような、ごたごた続きのバンドの状態では、ジョージ・マーチンに丸投げでプロデュースしてもらうのも気恥ずかしかったのか、ポールはグリン・ジョンズにプロデュースの仕事を任せたようだった。しかしながら、ビートルズの作品をプロデュースするには役者不足で、大胆なミックスを施すのを躊躇したのか、制作されたテスト盤はブートのクオリティーに毛が生えた程度のような出来でお蔵入りとなった 。

お蔵入りとなったアルバム、GET BACK

そこで白羽の矢が立ったのは、ウォール・サウンド構築で著名であったベテラン・プロデューサーのフィル・スペクターであった。彼は再編集の仕事を1970年の3月23日から4月1日までの、約1週間でやってのけたのである。

再プロデュースで完成したアルバム、LET IT BE

ちなみにアビー・ロードがビートルズの最終のアルバムと言われているが、実は最後のレコーディングは1970年1月にジョン抜きで行われた、ジョージ の作品FOR YOU BLUEだったので、LET IT BEが名実ともに彼らの最終作品と言える。

出来上がったアルバムは、アビー・ロードに並ぶようなレベルの出来ではないし、またストリングスのオーバー・ダブにおいてポールが不満を持っていたが、個人的には、よく短期間に商品化されるのに問題ならないレベルまで引き上げられたと感心する。フィル・スペクター恐るべし。その後、彼は殺人の容疑で有罪となり、現在もある施設において収監中とのこと。別の意味でも恐ろしい。

ライブ公演を最終目標として始まった原点回帰の試みは消化不良となりバンドの解散を早めたわけだが、心機一転でアビー・ロードも出せたわけだし、その後に各人がそれぞれ特徴を生かしたソロ・アルバムを出し続け、それぞれ成功を収めたわけだから、結果オーライ。

やり直すことが大変なこの人生、結果オーライで十分じゃね~ 結果オーライでいいから、何かいいことないかな~

尚、上記に示された会話が実際あったかどうかは定かではない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿