goo blog サービス終了のお知らせ 

大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

普通科高校の劣等生・3『転校生』

2021-11-10 06:16:30 | 自己紹介

イトノベルベスト 

 
普通科高校の劣等生
3『転校生』   




 うかつにも心を読んでしまった!

 正確には、読もうと思う前に飛び込んできた。

 二学期の始業式、担任の八重桜(ニックネーム)さんが、転校生を連れて教室に入ってきた。

 帰国子女で秋野美理という女生徒。お父さんが日本人で、お母さんがカナダ人というハーフ。で、ラノベのお約束のように可愛い。

 髪はブルネットとブロンドの間ぐらいで、それを頭のスィートスポット(顎と耳の延長線上で、一番ポニーテールが映える)でポニーテールにしている。スタイルもいいんだろう、制服が入学案内のパンフレットのように似合ってる。

 で、さすがは半分カナダ人。笑顔の振り向け方や、目線の配り方など堂に入ってて、まるで、ディズニーアニメの実写版。

「カナダのトロントから来ました……」

 なんと彼女は社会のM先生より上手い北米地図を描くと、五大湖をサラリと描き、オンタリオ湖の傍にトロントとワシントン、ニューヨークを描き入れバカでも分かる出身地を示した。

「トロントというのは、ヒュ-ロン族の言葉で「人の集まる場所」という意味で。あたしも人の集まる学校とかは好きです。名前は秋野美理と書くけどもこれは、英語のMillieを漢字にあてたもんで、どうか気楽にミリーって呼んでください」

 短くて的確、簡潔な自己紹介にみんな好感を持ったようで、拍手が沸き起こった。

 しかし、オレには読めてしまった。

――なんて、ボンヤリした連中! 評定5・6! ハア、こんな連中と一緒にやるわけ? カナダに居たら、この秋からは三年だってのに、なんで、二年なわけよ。制度か単位だか知らないけど、人間は、もっと実力で判断しなさいよね! ま、とにかく歳は言わないように。日本人には18で二年だなんて、落第としかとらないだろうからね――

 ミリーの表情と、中味が全然違うことに気づいてしまった。女が恐ろしいのは妹とお袋で良く分かってるけど、こんなに内側と外側の違うのは初めてだ。で、おまけに席が、オレの隣になってしまった。クラスのみんなの気持ちが押し寄せてきた。

――羨ましい~!――

 オレは、こういう多重人格者とは、あまり関わりになりたくなかったが、あくる日の英語の時間に、不可抗力で起こってしまった。

「夏休みの思い出を、英単語10個以上使って表現しなさい」

 という無理を先生が言う。

 オレは辞書を駆使して「二回目の二年生、しっかりがんばろうと蝉しぐれを聞きながら思い。宿題は半月でやり遂げました」という意味の英文をそつなく書いた。実際は、妹と宿題を折半してアンチョコ見ながらやっつけただけ。

「落葉くん、いい心がけね」

 と、お誉め頂いた。だが、ミリーの英作文に、英語の先生は(カナダの帰国子女とは気づかずに)ケチをつけた。

「秋野さん。高校二年になって、こんな間違いしちゃいけませんね」
「be動詞が抜けてるし、二人称の『U』は、なんなの。こんなの通じないわよ」
「普段は、ずっとそれで通してるんですけど」
「いけませんねえ。中学一年程度の間違いですよ……」
「じゃ、どう書けばいいんですか?」
「みんなも、見てらっしゃい。こんな風に……」

 と書きだしたら。ミリーが途中で笑い出した。

「何が、おかしいの!?」
「すみません。でもその文章はひどく……」
「なにが、ひどくなの?」
「古典的というか、文語的で、まるで大統領か総督に出してる手紙みたい……なんです」
「なんですって! あたしはね、これでも……」

「先生、『u』てのは、スラングで『YOU』のことなんです。チャットやってたら、みんなそんなんです(^_^;)」

 オレは、特にミリーの肩を持つつもりじゃなかった。ただ、不毛ないさかいが起こるのと、英語の先生がネイティブのミリーにズタズタにされるのが嫌だったからだ。どうも子供の頃の親同士のいさかいにゲンナリしたトラウマかもしれない。

 これが、思わぬ結果を生むんだよなあ……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホリーウォー・6[スグルのメモリーを集める・4]

2021-07-16 06:21:36 | 自己紹介

リーォー・6
[スグルのメモリーを集める・4]  




 子供でも容赦しない。

 絵里のパルス弾は、三人の子供の胸を打ち抜いた。子供たちは糸の切れたマリオネットのように、妙な具合に体をくねらせて倒れている。

 敵のアンドロイドの特徴である。

 思いもかけぬ方向に関節が曲がり、曲芸のような身のこなしで襲ってくる。カーボン繊維の骨格をしているので、体重も人間の半分ほどでしかなく、跳躍力や運動性能に優れている。

 この外見と運動性能はハワイ事件で経験済みだが、事件後の散発的な戦闘では、これに面食らった日本の戦闘員が数十人やられている。

 日本は、これに対しパルスガ銃での集中攻撃で対応したが、これでは敵をまるまる粉砕してしまい、破壊したアンドロイドからはなんのデータも回収することができなかった。

 そこで、絵里は破壊力では劣る一世代前のパルスガンを使った。

 技研の庄内に頼んで貫徹力だけを強くしてもらったもので、距離1000で、100ミリの鋼板に3ミリの穴を開ける。絵里は、この改造パルスガンを部下にも持たせ、胡同(フートン)と呼ばれる浙江省にあるシンラの拠点に奇襲をかけたのである。

「……お願い、助けて」

 小さな声が聞こえた。

 部下の一人が狙いを外し、ムーブメントを破壊し損ねたのである。

 部下は一瞬躊躇した。人間そっくり、それも幼い女の子の外形をし、涙を流しながら哀願するのである。人の心を残したサイボーグなら躊躇も無理はない。

「どけ!」

 絵里は、そう叫ぶと、パルスガンを連射した。

 ズボボボボボ!

「チ、電脳をぶち抜いてしまった。こいつの足をよく見て反省しろ」

 そのアンドロイドは、右足を信じられない角度で曲げて、指にレーザーナイフを構えていた。

「あたしが撃たなかったら、おまえ電脳とエネルギーコアの中継を切られてたとこだぞ」

「すみませんでした」

「優しさは捨てろ。この胡同の外郭にいるのは、100%アンドロイドだ。機械を壊すのに躊躇はいらない」

「隊長、こいつらの電脳情報で外郭の構造は、ほぼ分かりました。全員に送ります」

「送れ……一部クリアーじゃないな。内郭への進入路が三つもある。二つはブラフだぞ」

「どうも、こいつがキーロイドだったようですね」

 部下は、絵里が完全に破壊したアンドロイドの頭を蹴飛ばした。

「二つ目が正解だと思うぜ」

 そう言いながら、スグルの分隊が入ってきた。

「どうして二つ目?」

「経験と勘。うちの分隊でやる、時間かけてたらどんなブラフかけられっか分からんからな。じゃ、行くぞ!」

 それだけ言うと、なんの躊躇もなくスグルの分隊は胡同の奥に進んでいった。

 正解だったことは直ぐに分かった。情報を部隊全体リアルタイムで共有しているからだ。

「内殻は敵の数も多い。若干だが人間もわずかに混じっている。怪我をさせても殺すんじゃないぞ!」

 内郭は、四つのブロックとコアとに分かれていた。スグルたちの戦闘状況がリアルに共有された。スグルのアドレナリンが少し高めなのが気になったが。

 サブの本体が着くまでに四つのブロックは制圧。残すはコアだけとなった。
 
 四つのブロックのアンドロイドからコアの情報を得ようとしたが、ブラックボックスのように情報がなかった。さすがの絵里も躊躇した。

「側面二か所に穴を開ける。その間にデータを洗い直し正面ゲートを開錠、先に開いたところから突入。アンドロイドはムーブメントを狙え。ただし、身の危険を感じたら破壊もやむなし。かかれ!」

 5分で、側壁一か所と正面ゲートを開けた。

 同時に、絵里とスグル、そしてサブの本体がなだれ込む。

 三十秒で、5人の人間を確保、82体のアンドロイドのムーブメントを止め、6体を破壊した。

「や、止めてくれ! あんたたちが破壊した中には人間も混じっているんだぞ! そこの少佐(スグル三佐)この娘は身重だ、手を出すな。怪我をしている、助けてやってくれ!」

 司祭のようなナリをしたリーダーが、腹の大きな娘をかばって言った。

「絵里、助けてやれ」

 一番近くにいた絵里の部下が二人、娘と、リーダーを助けにいった。

「安心して、人間には危害を加えないから……」

 絵里の部下が手を差し伸べた時、スグルは気づいた。

「どけ、トラップだ!」

 スグルとサブが同時に飛び込んで、絵里の部下二人とリーダーを助けた。

 スグルはアンドロイドだが、サブは生身の人間である。退避に0・2秒余計にかかった。

 娘は、人間の生体反応を極限までコピーした人型爆弾だった。スグルも爆弾が起動するまで気づかないほど精巧にできていた。

 ……サブは、この事故で両足を失ってしまった。

 絵里は、訓練の合間に、かいつまんで話してくれただけだ。しかし、ハワイとここの作戦二回立ち会っていたので十分伝わった。

 ヒナタは、いまだに義体化しないサブの頑固さとスグルの怒りを理解した……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライトノベルベスト『爺さん高校に通う』

2021-05-06 06:03:30 | 自己紹介

イトノベルベスト

『爺さん高校に通う』  




 最初は新しい校長先生かと、瑞穂は思った。

 府立S定時制高校の始業式である。
 定時制と言っても昔のように、中卒で苦労し、なんとか高卒の資格をとっておきたいという年配の者はほとんどいない。大概が、全日制にいったん入ったが、何らかの理由で中退せざるを得なかった過年度生が多く、瑞穂自身も三年前の秋に人間関係のこじれでA女学院を中退していた。
 学校に行かなくなってから、喫茶店のバイトをやり始め、今は、それが楽しく全日制を受け直す気にはならなかった。

 だから入学時のクラスは大半が16歳から、せいぜい18歳ぐらいまでで、成人の生徒というのは見かけない。それも四年生ともなると生徒の数は減ってしまい、一年の時23人いたクラスが15人しかいない。

 その爺ちゃんは、式服を着て、どこから見ても校長先生である。
 それが、なんと式場では、瑞穂の横に座っていた。

 実際の校長は、新任ではあったが、昼間の全日制と兼務で、話が長いだけの五十代半ばの貧相なオッサンだった。

「いやあ、定年で辞めてから二年になるんですけどね、ふと身辺整理をしてたら高校時代の成績表が出てきましてな。ほんなら、数三落としたままやいうことに気いつきましてなあ。必履修やないんで、そのままでもええんですけどね。なんや忘れもんに気いついたみたいで気色悪いんで、数学の時間だけ、みなさんとごいっしょさせてもらいます。須藤健一と言います、どうぞよろしく」
 爺さんの自己紹介は、過不足がなかった。それまでの人生やら、教訓めいたことは一切言わへん。みんなからは「須藤さん」と呼ばれた。むろん先生らも、そない呼ぶ。数三は週に2時間しかないんで、須藤爺ちゃんは週に二回だけくる。
 授業が終わっても、八時半の終業まで学校におって、先生やら生徒やらと楽しそうに話して帰る。

「いや、わし、数学大嫌いでな。毎年数学は落として、追試でとってた。三年の時ぐらいお情けで単位くれるかと思たんやけど、しっかり落とされてしもた。数学の先生きらいな奴でなあ。大学の入試と追試が重なってしもたこともあって、とうとう取らずじまいやった」
「今の姫ちゃんは?」
 姫ちゃんとは、今年赴任してきたばっかりの小野田姫乃先生のこと。口癖は「分かる?」
 単元が終わって「分かる?」 練習問題をやっては「分かる?」
「先生、ジジイのわしでも分かってるんやから、みんなも分かってると思いますよ」
 と助け船。
 微分積分なんか、正直あたしでも分からへん。
「かましません。みんなきちんとノートとって、説明も聞いてます。魚心に水心でいきましょ」
「そやけど、須藤さん……」
 すると須藤さんは、やにわに教壇に立って、黒板に『微分』『積分』と書いた。
「微分は、微かに分かる。積分は分かった積りて読みます。そんなとこでドガチャガで」
 これには、教室中から笑い声が起こった。

 連休過ぎに黒川君が学校にこんようになった。四年で辞める子は少ないけど、みんな、それぞれ事情がある。みんなの反応は「やっぱりなあ」でしまい。
 そんな黒川君が、中間テスト一週間前から来始めた。なんでも須藤さんが毎日のように家や職場に来て、うっとうしいから来ることにしたらしい。

 夏にはあたしがお世話になった。

 あたしは、店のお客さんからプロポーズされてた。明るうて面白い営業のお客さん。休みに映画とドライブに誘われて、三回目に六甲山で神戸の夜景見ながらプロポーズされた。
「あの男はやめとき」
 須藤さんの忠告を初めてうっとうしいと思うた。
「あの男は、他にも女がおる。離婚も一回やっとる。原因はあいつの素行とDVや。結婚したら豹変するタイプや、悪いことは言わん。やめとき」
「せやけど、あたし……」
「初めての男はええように見えるもんや。君らの年頃は恋愛の最後の練習期間や。勉強やったと思たら、なんでもない」

 須藤さんの言うてたことは、当たってた。二週間後、会社のお金使い込んで、ドロンしよった。あのままやったら、なけなしの貯金あげてたとこやった。

 二学期の始業式が傑作やった。

 須藤さんが、先生らの列の中にいてた!

「ええ、日本史の栗本先生が病気で当分お休みになられます。その間講師で須藤先生に入ってもらいます。須藤先生は、三年前まで府立高校の地歴公民の先生で……」
「校長さん、もうよろしい。みんな適当に知ってくれてますよってに。ほんなら、月曜と水曜は先生しにきますから、みんなよろしゅうに」

 こうして、須藤先生は、頭を掻きながら一礼。月水は日本史の先生、火木は生徒として教室にやってきた。
 卒業間近に分かったことやけど、校長先生は須藤さんが最初に担任した時の生徒やった(^_^;)。

 そのせいか、この一年間は校長先生の話は短くて、少しは内容のあるもんになってたです。はい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライトノベル・ベスト『UZAとお茶の空き缶』

2021-04-22 06:19:02 | 自己紹介

ライトノベル・ベスト
UZAお茶の空き缶
        


 

 UZA……って言われしまった。

「ウザイの……サブのそういうとこが」

 正確には、そう言った。

 でも、感じとしてはUZAだった。去り際に、もうヒトコト言おうとして息吸ったら、まるで、それを見抜いたように沙耶は、げんなり左向きに振り返って、そう言った。

 UZA……ぼくの心は、カビキラーをかけられたカビのようだった。最初にバシャッってかけられて、ショック。そして、ジワーっと心の奥まで染みこんでいく、浸透力のある言葉。そして、ぼくの心に残っていた沙耶への愛情は「痛い」というカタチのまま石灰化してしまった。

 自分で言うのもなんだけど、ぼくは人なつっこい。だから、元カノの沙耶が「ノート貸して」と言ってくれば「いいよ」とお気楽に貸しにいく。浩一なんかは、こういう。

「そういうとこが無節操てか、ケジメねーんだよ」

 で、ヘコンダまま駅のホームに立っている。ヘコンだ理由は、もう一つ、ウジウジ考えながら駅に向かったら、ホームに駆け上がった直後に電車が出てしまった。
 

 アチャー……

 オッサンみたいな声をあげて、ノッソリとベンチに座り込む。向かいのホームの待合室に、その姿が映る。
まるで、ヘコンで曲がったお茶の空き缶のようだった。我ながら嫌になって、時刻表を見る。見なくても登下校のダイヤぐらいは覚えてるんだけど、諦めがわるく見てしまう――ひょっとして、ぼくの記憶が間違っていて、次の快速は二十五分後ではないことを期待しながら……こういうところの記憶は正しく、自分の念の押し方がいじましく思われる。

 未練たらしく、去りゆく快速のお尻を見たら、ホームの端に、もう一本お茶の空き缶が立っていた。でも、この空き缶は、ヘコミも曲がりもせずに、ぼくに軽く手を振った。

「田島くんよね?」

 空き缶が近寄って口をきいた。

「あ……碧(みどり)……さん」
「嬉し、覚えててくれたんや」
 この空き缶は、今日転校してきた、ナントカ碧だ。ぼくは、朝から沙耶のことばかり考えていて、朝のショートの時、担任が紹介したのも、この子の関西弁の自己紹介もほとんど聞いていない。ただ、すぐにクラスのみんなに馴染んで「ミドリちゃん」と呼ばれていたのと、碧って字が珍しくて記憶に残っている。
「L高の子らが『おーいお茶』て言うたんやけど、なんの意味?」
「あ、この制服」
「え……?」
「色が、そのお茶のボトルとか缶の色といっしょだろ」
「あ、ああ……あたしは、シックでええと思うけどなあ。ちょっと立ってみて」
 碧は遠慮無く、ぼくを立たせると、ホームの姿見に二人の姿を映した。
「うん、デザイン的にも男女のバランスええし、イケテルと思うよ」
 そう言うと、碧は遠慮無く、ぼくのベンチの真横に座った。そのとき碧のセミロングがフワっとして、ラベンダーの香りがした。そして何より近い! 近すぎる! 普通、転校したてだと、座るにしても、一人分ぐらいの距離を空けるだろう。ぼくは不覚にもドギマギしてしまった。人なつっこいぼくだけど。ほとんど初対面の人間への距離の取り方では無いと思った。

「田島くんは快速?」
「うん、たいてい今のか、もう一本前の快速……ってか、ぼくの名前覚えてくれてたんだ」
「フフ、渡り廊下に居てても聞こえてきたから」
「え……それって?」
「人からノート借りといて、UZAはないよねえ」
「聞いてたのか……」
「聞こえてきたの。二人とも声大きいし、あのトドメの一言はあかんなあ」
「ああ……UZAはないよなあ」
「ちゃうよ。UZAて言われて、呼び止めたらあかんわ」
「え、オレ呼び止めた?」
「うん、『沙耶あ!』て……覚えてへんのん?」
 ぼくは、ほんの二十分前のことを思い出した。で、碧が言ったことは、思い出さなかった。

 ホームの上を「アホー」と言いながら、カラスが一羽飛んでいく。

「あれえ、覚えてへんのん!?」
「うん……」

 ばつの悪い間が空いた。ぼくはお気楽なつもりでいたんだけど、実際は、みっともないほど未練たらしいようだった。その時、特急が凄い轟音とともに駅を通過していった。おかげでぼくのため息は、碧にも気づかれずにすんだようだ。
「その、みっともないため息のつきかた、ちょっとも変わってへんなあ……」
 そう言うと、碧は、カバンから手紙のようなものを取りだして、ゴミ箱のところにいくと、ビリビリに破って捨てた。ぼくの、ばつの悪さを見ない心遣いのようにも、何かに怒っているようにも見えた。その姿が、なんか懐かしい。
「あたしのこと、思い出さない?」
 碧は、ゴミ箱のところで、東京弁でそう言った。
「え? あ…………ああ!?」
 バグった頭が再起動した。
「みどりちゃん……吉田さんちのみどりちゃん?」
「やっと思い出したあ、ちょっと遅いけど。やっぱ、手紙じゃなく、直に思い出してくれんのが一番だよね」

 小さかったから、字までは覚えていなかった。みどりは碧と書いたんだ。小学校にあがる寸前に関西の方に引っ越していった、吉田みどりだった。

「今は、苗字変わってしまったから。わからなくても、仕方ないっちゃ仕方ないけど。あたしは、一目見て分かったよ、サブちゃん。改めて言っとくね。あたし羽座碧」
「ウザ……?」
「うん、結婚して、苗字変わっちゃたから」
「け、結婚!」
「ばか、お母さんよ。三回目だけどね」

――二番線、間もなくY行きの準急がまいります。白線の後ろまで下がっておまちください――向かいのホームのアナウンスが聞こえた。

「じゃ、あたし行くね、向こうの準急だから。それから『沙耶!』って叫んではなかった。ただ顔は、そういう顔してたけどね……ほな、さいなら!」
 
 そう言うと、碧は、走って跨道橋を渡って、向かいのホームに急いだ。同時に準急が入ってきて、すぐに発車した。前から三両目の窓で碧が小さく手を振っているのが見えた。
 ぼくのUZAに、新しいニュアンスが加わった……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・78『今様の事どものめづらしきを』

2021-04-20 07:05:09 | 自己紹介

わたしの然草・78
『今様の事どものめづらしきを』  

 

 

 今様の事どものめづらしきを、言ひひろめ、もてなすこそ、又うけられぬ。世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、ものの名など、心得たるどち、片端言ひかはし、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。

 訳すと、こんな感じでしょうか。

 最近流行のめずらしいあれこれを言い広め、得意げになっているのは感心しないぞ。そういうことは世間で言い尽くされてしまうまで、そんな事は知らずにいる人は奥ゆかしいものだ。新米の者がある時、こちら側で言い馴れている言い方、物の名前とかを、分かってる仲間同士で言葉の一部を省略して言い合って、目を見合わせて、笑ったりして、意味を知らない人に「え、なんのことだ?」と戸惑わせて悦に入ってるやつとか、世間のバカが必ずやる事だよな。

 

 兼好は、こう言いますが、流行りのものに飛びつくのは、心身が若い証拠でしょうね。

 わたしなど、いまだにスマホはおろかガラケーも触ったことがありません。

 だから、外出先で急に電話しなければならないことになって「あ、わたしのスマホ使ってください」と勧められてもかけ方が分かりません。

 パソコンは使いますので、キーボードの操作はできるのですが、スマホというやつは「アルファベット」とか「あかさたな……」とかが並んでいるだけです。タッチして上下左右にスライドさせるとか、タッチの回数で文字が変わるとかの操作が必要なんだそうで、わたしにはエニグマの暗号機を操作しろと言われているのとかわりません。

 たまたまの外出先で電話する必要ができたときは、ひたすら公衆電話を探します。

 この公衆電話が、近頃は見つけにくくなりました。

 ちょくちょく自転車で散歩に出かけるのですが、気が付くと十キロやそこら走ってしまって、帰りが遅くなることがあります。以前、六時間余りも走って帰ると「電話ぐらいしてちょうだい」とカミさんに叱られました。言外に――スマホぐらい持てよ!――という気持ちがあるのですが、わたしのスマホ嫌いはどうしようもないと観念しているので、せめて公衆電話からでも電話しろということなのです。

 自宅の八尾市を出て、東大阪市のど真ん中で思いつきましたが、やっと、公衆電話を見つけて電話できたのは守口市でした。

 しかし、公衆電話からの着信はうちの固定電話のディスプレーには『公衆電話』としか表示されません。

 不審な電話にはいっさい出ないカミさんは、なかなか受話器を取ってくれません。

 一分余りも呼び出し音が鳴って、やっと出てくれると無言です。

『あ、オレ。ちょっと遠出して守口市まで来てしもたから、ちょっと遅くなる……聞いてる?』

 十秒ほど空白があって「うん、分かった」と二秒もかからない返事。

 カミさんは、いちおう返事はしたものの、わたしが帰って確認するまでは半信半疑だったようです。

 カミさんのスマホに電話すればよかったのでしょうが、憶えている電話番号は自宅の固定電話だけです。

 いやはや……

 流行りのものに飛びつく浅はかさと、流行りのものに飛びつける心の若々しさは面白くも奥深いものがありますので、また改めて触れたいと思います。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・77『世の上の人は』

2021-04-19 06:52:16 | 自己紹介

わたしの然草・77
『世の上の人は』  



徒然草 第七十七段

 世中に、その比、人のもてあつかひぐさひ言い合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。


 簡単に言えば「世の中の人は、うわさ話が好き」だということを言っています。特に坊主なんぞというものは、お喋りでウワサ好き。ことの真偽も確かめず喋りまくるんだから、坊主には気を付けろと、坊主である兼好が言うのですからおもしろい。

「社会科は見てきたような嘘を言い」
 現職時代に、自嘲と自重の念から、よく言ったことばであります。
「皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った」だけではつまらないので、中大兄皇子が蹴鞠をしていてパスエラー、転がり出た鞠の先に中臣鎌足が居て、「実は、殿下……」「ふむ、そなたも、そう思うか……」などと実況風景風にやって、生徒の関心を引きながらやったものであります。

 むろんこの話は、言い伝えで事実ではりません。でも、見てきたように言います。

 シーザーが暗殺された下りでも、シェ-クスピアの嘘八百から引用して「プルータス、お、オマエもか……!」などと芝居気たっぷりにやります。

 人にものを伝える時は『印象付ける』ということが重要です。

 相手に興味を持ってもらわないと、ただ「伝えた」とか「説明した」というアリバイや自己満足しか残りません。

 手応えのある話し方を心がけました。

 たとえば、鎌倉仏教というのを一学期の終わりごろに『鎌倉文化』の中で教えます。

 それまでは、教義や修業が難しい密教が全盛で、その教義や修業が優しい鎌倉仏教が現れて、仏教は、一般庶民レベルにまで広がった。代表的なものが、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などである……と、教えますが、これでは、ただの記号です。

 密教の修業が、いかに厳しいかを延暦寺の千日回峰行の要素で示します。

 比叡山の偉い坊さん(阿闍梨とか)になるために、千日のあいだ、休むことなく比叡山のみならず、一部は京都市街にまで入り込んで30キロの道のりを真言を唱えながら走り回ります。30キロというと、大阪市内から京都までの距離になります。

 その様子を、実際に真言を唱えて教室の端から端を往復(約16メートル)して見せます。

 ノウマク・サラバタタ・ギャティビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン……

 教室の小さなモニターで動画を見せるより効果があります。

 こういう千日回峰行は、普通の人間ではできません。

 そこで、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経と唱えるだけで極楽往生できるという鎌倉仏教が受け入れられるようになったということを、これも実際に教壇で唱えて見せます。禅宗の座禅の姿も教卓の上でやって見せます。

 その差は一目瞭然で生徒たちに伝わります。他にも、親鸞や日蓮のエピソードを話していたりしますと、鎌倉仏教だけで三時間ぐらいかかってしまって、授業が先に進みません。

 まあ、手応えのある話し方もほどほどにということで、お茶を濁しておきます(^_^;)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・76『法師は人にうとくてありなん』

2021-04-18 06:04:21 | 自己紹介

わたしの然草・76
『法師は人にうとくてありなん』   

  

 

 徒然草 第七十六段

 世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
 さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。


 徒然草は、あまり真面目に読んではいけない。最初に本人が言っている、「徒然なるままに=思いついたことを勝手に書き散らしてるだけだから、マジな顔して読まないでくれる!?」
 実際、読んでみると矛盾したところがよく出てきます。この七十六段なんかは、その典型でしょう。
 この、たった三行のエッセーは「葬式なんかで、坊主が受付に並んでたりするのウザイよなあ、坊主ってのは、俗世間からは、離れてなくっちゃいけねえぜ」という気まぐれ。
 兼好自身が坊主で、世間の垢にまみれているのは、徒然草自体を読めばよく分かることです。
 だから、わたしは、兼好坊主の与太話に付き合うつもりぐらいの軽いノリで書いております。

 実は、わたしの親類は坊主だらけなのです。叔父と従兄弟二人が坊主で、五親等ぐらいたどればもっといます。
 十年前の2011年11月11日という分かり易い日に父が亡くなりました。生前から、ある葬儀会社の積み立てに加入していたので、すぐそこに連絡して葬儀の準備にかかりました。
「で……おかかりのお心づもりは(予算はどのくらいで、という意味)」と営業のオバサンがしめやかに聞いてきた。わたしは、黙って指一本を出した。これで通じる。葬儀が十万であがるわけでもなく、一千万もかけられるほどのブルジョアでないことは、わたしの風体・人相からでも明らかであり、百万であることはすぐにしれる。
 オバサンは、タブレットをチョイチョイと操作し、百三十万ほどの金額を提示してきた。その中に、坊主にかかる費用は入っていなかった。
「ボンサン呼んだら、いくらぐらいかかります?」
 オバサンは、黙って人差し指と中指を立てた。別にジャンケンのチョキを出したわけでも、ピースサインを出したわけでもない。相場が二十万ということである。葬儀費用と合算すれば百五十万を超え、予算を五十%もオーバーしてしまう。
 で、従兄弟の坊主を思い出し、気楽に電話した。商売慣れというのも変だが、二十分後には葬儀会館までやってきてくれました。

「直接言うてくれて正解。業者通したら四割ほどキックバックとられるとこや」

 わたしは、さらに値切って、相場の半額であげた。葬儀費用とつっこみで、百二十万ほどであげました。別になんでも値切り倒す大阪人根性からではありません。父が残した僅かな貯えで、身の丈にあった、葬儀や、それから何年も続く法要の費用まかなおうという思いからです。死んでまで息子に借金するようでは、親父も後生が悪いだろうと思いました。

 家は、代々浄土宗なのですが、従兄弟は仏光寺派の浄土真宗です。まあ親類のような宗旨でもあり、なにより気楽な宗派なので、あっさり改宗。法名(浄土真宗では戒名とは言わない)は釋善実と付けてもらいました。
 ついでに自分の法名を自分で考えてみました、釋睦夫(シャクボクフ)。本名を音読みしただけですが、なんとも長閑な音の響きが気に入っております。これで、わたしの葬儀費用から法名代が節約できる。

 浄土真宗のお気楽さは、年号を使わないところにも現れています。寺から頂くカレンダーは西暦で、本堂に行くと「護ろう憲法九条!」などのポスターが平気で貼ってあります。九条についての考え方は、わたしのそれとは大きく離れるのですが、そういうことを平気で貼ってあるところがいい。

 郷土の名士に今東光がいました。天台宗の坊主で瀬戸内寂聴の法名を付け、中尊寺の貫主を勤めたほどの偉い坊主で、文学者でありました。死ぬまで世俗の中にいた人で、編集者が原稿をもらいにいくと、座卓に向かい呻吟していて。編集者は、さぞかし難しい教典でも読んでいるのかと思えば、週刊誌のグラビアの女の子の見比べをやっていたそうです。今でもネットで検索すると、今東光和尚の法話などが出てきますが、とてもNHKの地上波や学校で生徒に言える内容のものではないのですが、面白くタメになる(ならないものもあります)のであります。
 坊主というのは、かくも世俗にまみれてこそのものである。兼好坊主の、この七十六段は、坊主として、いや大人として生きる人間へのパラドクス的な喝(かつ)であろうかと思いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草75『つれづれわぶる人は、いかなる心ならん』

2021-04-17 08:09:25 | 自己紹介

わたしの然草・75
『つれづれわぶる人は、いかなる心ならん』   

 

第七十五段

 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。

 智に働けば角が立つ情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 夏目漱石『草枕』冒頭の言葉の後に付けると似合いそうな段です。

 簡単に言えば「世の中、人と交わって生きるのは、ウザったくてむつかしいもんだ」ということであり、この七十五段は「だから一人で、居ようぜ!」という孤独の勧めのようです。

 

 府教委の強い指示で、学校行事には国旗の掲揚と国家の斉唱を実施すると言うことが提案さた時の事です。

 相変わらず教職員の間からは「軍国主義、侵略戦争の象徴」「外国籍の生徒への配慮に欠ける」「教育現場に持ち込むことではない」というような反対が為されました。

 言われっぱなしでは面白くないので、そろりと手を挙げて反論を試みました。

「侵略戦争の象徴と言われるならば、他にもいっぱいあります。東京都は、かつて東京府で、特別区は、まとめて東京市なっていましたが、戦時国策の遂行のため戦時中に今の特別区になりました。東京は、いまだに戦時体制なのです」

 なにそれ?

「電力会社や、ガス会社、私鉄などは寡占状態ですが、これも戦時中に国が統制しやすいようにまとめられたものがそのままになっています」

 そうなん?

「日本語を横書きにするときは、右から左に書きます。授業でも、そうやっていますし、この職員会議でも議事内容は右から左に書かれています」

 なにを当たり前なことを。

「これは、戦時中に南洋庁、南洋庁というのは、当時の日本が国際連盟から信託統治領として任されていた島々を収めるために作られた役所です。その南洋庁が『横書きの日本語が左書き右書きが混在していて、南洋の現地人には、とても読みにくいので、統一してほしい』という要望があって閣議決定で右から左に書く、今の形になっとものです。これも戦時政策の残滓どころか戦時政策そのものです」

 へえ……

「だから、そういう、明らかに戦時政策であるものが反対されずに、日の丸君が代だけを問題にするのはおかしいです」

 そんなん聞いたことないわ……

 会議室は、実に薄い反応しかなく、反論も返って来ません。

 けっきょくは、言いたい者が言いたいことを言って、校長が締めくくります。

「府教委からの指示通りに実施いたします」

 これでおしまいです。

 あとは「大橋は変な奴」「あいつは右翼」という空気だけが残って、とても気分の悪いものでした。

―― ああ、知に働けば角が立つというやつか ――

 と思いましたが、先輩がボソリと言ってくれました。

「いや、あんたは情に竿さしたんや」

 ああ、なるほど……

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・74『蟻の如くに集まりて』

2021-04-16 06:43:51 | 自己紹介

わたしの然草・74
『蟻の如くに集まりて』  

 



徒然草 第七十四段

 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起る。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々間に止らず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。


 これは、兼好が、時々触れている。というか、落ち込んでいる無常観で、いささか始末が悪い。
 蟻のように生きたって、けっきょく死んじまうんだから、あくせくしたってしかたねえ。と、開き直っています。「生を貪り、利を求めて、止む時なし」それでも、けっきょくは、老いと死がまっているだけなんだぜ。というデカダンスと紙一重のように思えます。

 人生およそ八十年。
 だから、80-80=0

 この0の意味の取り方であると思います。お金に例えてみましょう。八十円を落っことせば0になる。インスタントラーメンを八十円で買えば、しばらく腹が持つ。八十円で切手をかえば、二十五グラム以内の重さの便りを誰かに送ることができる(いまは84円ですが(^_^;)。
 落っことした八十円は意味がありませんが、例えインスタントラーメンであっても、食べれば、一時お腹と心が暖まります。
 二十五グラムの便り、書く内容によっては、プロポーズが成功するかもしれず。エッセーの懸賞募集ならば、一等賞になって賞金五十万円ぐらいが手に入るかもしれない。
 要は、-80で何をしておくかによって答の0の意味が異なってくると思います。

 わたしの友人で、雅号というかハンドルネームというかを「朱夏」としている人がいます。朱夏とは人生の中年を指し、天命を知り、身を立て惑わずの時代であります。
 かみくだいて言うと、自分の人生のテーマを知り、モラトリアムの時代、すなわち親のスネかじりを止め、経済的にも精神的にも独立し「わたしの人生はコレデイイノダ!」と、惑わないことを表すことでしょう。
 この伝でいくと、わたしは朱夏の最後期で、惑っていてはいけない。おのが人生を顧みて、「コレデイイノダ!」と胸を張り、耳に従い、すなわち他人様のご意見に素直に聞く白秋の準備ができていなければならない。

 ところが、わたしは天命と心得た職を五十五で辞し、かろうじて出した過去の著作や、出版社が拾ってくださる駄文をもって、「嗚呼、我は、作家哉!」とやせ我慢の胸も張りかねております。戯曲、小説、エッセーと書くものも尻が定まらず。時たま「これを書こう!」と一念発起しても、「ああ、あれが分からん。これも知らんかった」と、ネットで検索したり、広辞苑を引いてみたり。朱夏はおろか「学を志す=青春」の先っちょにいるような気さえしてきます。
 惑わず=独立も怪しいもので、退職金の食いつぶしとカミサンの嘱託職員としての収入が頼りの毎日。実際、健康保険などはカミサンの扶養家族としてのそれであります。
 
 わたしの宗旨は仏光寺派の浄土真宗であります。この我が宗旨では開祖親鸞上人以来、人は死ねば、善人悪人にかかわらず、等しく御浄土に逝くことになっております。法名も勝手に決めて「釋睦夫(シャクボクフ)」と決めております。
 御浄土に逝くことは決まっているので、朱夏や白秋などと取り澄ますのは止しにしようと、最近は思います。分からんものは分からんと言い、嫌なものは嫌と言って残りの二十年を、生き恥と言われながら生きていこうと思う……と、思うところまでは開き直れてはおりません。
 毎日、ブログのアクセスを気にし、コメントやトラックバックにヒヤヒヤ。

 

 愚禿釋睦夫

(注)愚禿とは、親鸞上人を気取っているのではなく、見た目の通りであります(^_^;)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草73『多くは皆虚言なり』

2021-04-15 06:55:50 | 自己紹介

わたしの然草・73
『多くは皆虚言なり』   



徒然草 第七十三段

 世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
 あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の者の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。


 この七十三段は、もう少し長いのですが、要点は最初の一行。
「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり」につきるでしょう。
 意味はお分かりだろうと思いますが、蛇足で訳すとこうなります。
「世の中に伝わる話は、真実ではおもしろくないので、たいていは嘘である」
 と、実も蓋もありません。

 前世紀の終わり頃、イギリスだったかで、一夜のうちに麦畑が不思議な図形に踏み倒され、UFOのしわざだと、マスコミなどが騒いだ時期がありました。犯人はUFOなどではなく、そこらあたりのアンチャンたちが、夜中に麦畑に進入し、踏み板で麦をでたらめに踏み倒したドッキリで、当の御本人たちが笑って種明かしをしていた。ネス湖のネッシーの写真もほとんどは、この伝だすです。懐かしいところでは『ノストラダムスの大予言』というのがあった。この世は千九百九十九年の七の月に滅ぶというもので、「恐怖の大王」が降臨するとかのオマケまでついていて、少年雑誌ではヒットラーが宇宙人の助けをを得て再来するというものまでありました。

 最近では「地球温暖化」ではないでしょうか。確かに、わたしの六十年になる人生の中では「子どもの頃はもっと寒かった」という感覚はあります。しかし、たかが六十年です。人類の気象観測も十九世紀に始まり、その統計資料は二百年に満ちません。

 1906年から2005年の世界平均気温の上昇は0.74度に過ぎません。この0・74度の上昇の原因も大方の科学者は原因は分からないとしています。そして統計をとる段階で、この「原因は分からない」と答えた科学者の意見は、「地球は温暖化していないとは言えない」というややこしい分別をされ、結果的には、世界のほとんどの科学者が「地球は温暖化している。と言っている」ことになっているのであり。正確には「分からない」という意見がもっとも多いのだそうです。

 問題は、その原因が人間が排出している二酸化炭素に原因があるとされ、京都議定書やCOP15(第15回気候変動枠組条約締約国会議)では、二酸化炭素の排出規制が述べられ、アメリカ、中国、インドなどが入らないまま、既定事実として扱われていることでしょう。
 2009年9月22日 鳩山由紀夫首相がニューヨークの国連本部 で開かれた国連気候変動サミットにおける演説内で温室効果ガス25%削減を発言したことは忘れた方も多いのではと思いますが、日本はすでに二酸化炭素などの排出規制技術では先進国で、いわば絞りきった雑巾。とても実現できるしろものではありません。これが、単に鳩山元首相のタワゴトで済めばいいのですが、国際的な約束になってしまいました。で、ここで排出権の取引というきな臭い、うさん臭い話になります。つまり、日本が達成できなかったぶんを他国にお金を払って買い取って、その国が達成した分を日本の排出達成分とするわけです。

 こう言えば、お分かりいただけるでしょうか。

「町内の景気が悪いのは、町に悪い気が充満しているからであって、その悪い気を町全体で減らそう。そのためにはお祀りをせねばならず、その費用は、それぞれの家の収入に比例させよう」ということが町内会で決議され、うかつに戸主が、その話にのったようなもの。

 もう一つはこれです。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
 お馴染みの日本国憲法の前文です。小学生のころからお題目のように繰り返し覚えさせられた。だからわたし達「戦争を知らない子供たち」は世界市民やコスモポリタニズムなどという言葉を神聖な誓文のように思い、「戦争反対」とにこやかに叫んでいれば、自由と平和は保証されるように思ってきました。この場合の「あいなき=おもしろくない」は、アメリカにとって、おもしろくないことでありました。新憲法ができて数年後に、アメリカのおもしろいことは日本の再軍備になりました(朝鮮戦争のころ)ので、日本の再軍備を要求してきました。そのころの政府首脳は、アメリカのおもしろいことに付き合うのはおもしろくないと利口に考えて乗りませんでした。だから、その後の奇跡のような経済成長を成し遂げることができました。

 いわば方便であった憲法を、うまく利用してきたのですね。もう、そろそろ世界のまことに気づき(世界は公正でもなければ真義にも厚くない)考えても良い時期ではないでしょうか。

 最後は柔らかく。学校における女子の体操服と制服であります。

 昔は、制服のスカートは長く、体操服のアンダーはパンツと見まごうほどに短いブルマでありました。普段スカート丈にうるさい体育の教師が、体育祭では女生徒の嫌がるブルマを強制していました。
 最近は男女共通の膝丈のハーフパンツをもって体操服のアンダーとしていますが、股下数センチのスカートには寛大であります。
 しかし、女子にもおもしろい意見というか対策(虚言)があります。どうも見せパンというのがあって、万一観られても構わないものを身につけている者もいるようですが、スカートの中という点では同じ事で、わたしのように免疫のない世の男性には同じことであります。
 この見せパンをオーバーパンツと言い換えると、なんだか健康的になります。でも、世の男性を刺激するという点では、なんら変わりはない……ように思えます。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草72『賤しげなる物』

2021-04-14 06:34:35 | 自己紹介

わたしの然草・72
『賤しげなる物』    

 



徒然草 第七十二段

 賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
 多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。


 徒然草は、清少納言の枕草子を意識していると時に言われますが、この七十二段などは枕草子のスタイルそのものですね。清少納言も四百年の後のオッサンのエッセーのモチーフになるとは思わなかったでしょう。しかし鴨長明と並んで日本三大随筆になるんだから、やはり兼好というおっさんは偉いのでしょう。

 わたしも時々AKB48のタイトルや、歌詞をモチーフに小話を書きますが、やっぱグレードがちがいます(^_^;)。
 この『わたしの徒然草』は兼好が十四世紀にものしたもののモジリであります。
 ちなみに「わたしの徒然草」で検索すると二百六十万件も出てきます。兼好のおっさんにあやかっている人はかなりおられるようである。ちなみに、わたしの『わたしの徒然草』は第九位……いささか前フリが長いです(;^_^A。

 正直、この段を読むと、わたし自身のことを「賤しげなる者」と非難されているような気がします。原文は「賤しげなる物」で「者」ではなく「物」であり、状態を賤しげであると言っているに過ぎず、人格である「者」を否定しているわけではないようです。

 ガラクタが多いのはいかんと兼好は言い切ります。同じことをカミサンも言います。
 カミサンは物離れのいいたちで、暇さえあれば家の中を片づけ、捨てています。テレビが地デジになったとき、カミサンは家中のアナログテレビを「捨てる!」と宣言しました。わたしは「もったいない、モニターとしては、まだ使える」と主張しました。で、その場は収まりましたが、折に触れて「捨てろ!」と言われ続けています。あるとき「なに言うてんねん、これなんかテレビデオやねんぞ。これ捨てたらビデオが観られんようになる」と抗弁。
「ほんなら、溜まったビデオごと捨ててしまい!」
 やぶ蛇でありました。カミサンはとうに数百本のビデオを惜しげもなく捨てておりました。テレビデオごときものを捨てるのになんの躊躇もありません。

 で、わたしは、この埃の被ったビデオを鑑賞しているのかと言えば、もう二十年以上観ていないものばかりであります。
「三年間、一度も使わなければ、それは不要品である」
 という理屈があるらしい。このデンでいくと、わたしの持ち物の九十パーセントは不要品であります。十二台もあるゲーム機、と、それに見合ったゲームソフトやゲーム関連の小物、十一領のヨロイ、二百あまりのプラモデル、劇団をやっていた頃の衣装、小道具、数千冊の本……書き出してみると、カミサンの小言もむべなるかなではあります。

 解せないのは子孫(こまご)の多さであります。

 兼好の時代は子孫が多くて当たり前の時代です。あらゆることに平衡感覚に秀でた人ではありますが、この段のこの部分は、やや異様。ひょっとしたら、兼好自身が生涯独身であったことと関係しているのかもしれませんね。

 人にあひて詞の多き……巧言令色少なし仁である。

 これは、少し耳が痛い。現職中は「男のオバサン」と言われるぐらい喋るオッサンでありました。
 人を相手にする仕事をしていたので、相手が単数であれ複数であれ、その場の空気を読んで、会話に間が開かないように気をつかい、時に「気をつかうレベルを超えて」喋っておりました。

 ただ、これだけは言えます。場の空気や人の気持ちに心を配り話ができる人は極めて少ない。わたしの浅い経験則ですが、職場での地位の高い人間ほど、その傾向が強い。そういう地位の人は、もともとそうであったのか、地位がそうさせてしまったのか見極めがつきません。おそらくは複合的な問題ではあるのだろうけど、幾人かの首長さんや首相経験者に顕著に「人にあひて詞の多き」人がいます。地位が高いぶん、社会的な影響力、もっと直裁に言えば害毒のある人々で、歴史用語ではデマゴーグといいます。
 逆に、話の名手がいます。むろん面識はありませんが、いずれも故人の司馬遼太郎・小松左京・桂米朝のお三方で、企んだわけではありませんが、お三方とも大阪の人間であります。歴史的には吉田松陰・羽柴と名乗っていたころまでの秀吉などがこれにあたるでしょう。

 わたしの少し上の全共闘世代もよく喋った人々でありましたが、戦時中の軍人のよう雄弁で、エキセントリックでした。酒性度や揮発性の高い言葉を使い、よく自分自身の言葉に酩酊しておられました。
 今でも、こと言葉や会話について、自分は発展途上人であると思っていますが深入りはしません。

 多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。

 前半は、よく分かります。わたしなどは、図書館や書店に並んでいる本を見ているだけで心が豊かになっていくような気がします。気がするだけであって、大方は錯覚なのですが(^_^;)。その錯覚が、わたしの本棚の大半を占めていて、最近、自分の本棚に限っては自己嫌悪の対象になり果てております。

 後半の塵塚の塵は分かりにくいかもしれません。

 日本は、前世紀までは、あちこちにゴミの不法投棄がありました。子どもの頃は、不法投棄されたゴミは宝の山で、怪しげなものを拾ってきては親に叱られたものです。ある時などは不法投棄されたバッテリーを分解して、中の硫酸でやけどをしたこともありました。
 

 この項、書き出したらきりがありませんので、いずれ改めて続きを書きたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草71『名を聞くより』

2021-04-13 06:09:06 | 自己紹介

わたしの然草・71
『名を聞くより』   

 



徒然草 第七十一段

 名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。
 また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。


 この段は、思索的ですね。

 兼好は三つのことを言っています。

 第一は、名前を聞いただけで「ああ、こんな感じの人か」と思うけど、当たったためしがない。思い込みの不確かさを述べています。ごく当たり前なことなのですが、かみしめると味わいがあります。

「かおる」という名前がある。源氏物語にも出てくるユカシイ名前ですね。わたしの旧友に、咲〇かおるという宝塚の女優さんのような名前の女の子がいました。この人は会ってみると、めずらしく名前のとおりの可愛い女子高生でありました。しかし、長じて、わたしの劇団に入って分かりました。自他への規律心が強く、ラノベ風に言いますと明るい目の「委員長」タイプ。大分類すると元AKB48の高橋みなみに似ているかもしれません。
 しかし、一般に「かおる」というのは、名前だけでは男女の区別がむつかしいですね。
 ちょっと兼好の意図からは外れるかもしれませんが、名は体を表さないが、時代と、その空気を表すものがかなりある、という話をしたいと思います。

 子どもの頃の年寄りの名前は単純でした。女性に限って言っても、くめ・とら・よね・ちず・はな・とめ・よし・しま……など二音の名前が多かったように思います。人が呼ぶ場合、頭に「お」お尻に「ちゃん」が付く。例えば「よね」は「およねちゃん」で。安物の時代劇で、「名はなんと申す」と聞かれ「はい、およねでございます」ときたら、もう嘘です。自称では「よね」である。で、こういう命名は明治の中頃までであるように感じます。

 その後、女性の名前は「~子」が流行りになります。古来、女性の名前に「子」が付いたのはお公家さんちの娘だけであり、庶民が付けることはありませんでした。明治も中頃過ぎになると遠慮もなくなり、まずお金持ちの娘たちに付き始め、大正頃からは庶民も遠慮無く付け始め、長らく女性の名前の定番になりました。昭和三十三年・三十四年生まれの女性に「美智子」が多いのも時代的な背景がありますね。言うまでもなく、今の上皇后陛下のお名前にあやかったもので、「美智子」は、人柄はともかく時代はよく分かります。親日国で有名なトルコでも、この年代生まれの女性に「MICHIKO」多いそうです。
 昭和の終わり頃から、お人形さんや、タレントさん、アニメの主人公のような名前が流行りました。「真央」や「みなみ」「ゆうな」「りか」などが、その代表でしょうか。
 今の時代は、昭和二十年代生まれのわたしには、とっさに思いつかないキラキラ名前が主流でしょうか。

 キラキラネームでググると本気(マジ)とか姫星(キティ)なんてものがありました(^_^;)

 しかし、いずれにせよ、名は体を表さないのは、兼好の時代も、今も同じではあるのでしょう。

 第二、第三は、今昔の違いはありますが、見たり聞いたりしたことに思いをいたすということであります。

一昔前、落語ブームがありました。わたしもそのブームに乗った一人で、米朝さんの古典落語全集を持っている。

「天狗さばき」という古典があります。

 ある男が、おもしろい夢を見て目覚めます。よほどおもしろかったのでしょう。寝ながらケタケタと笑っていました。で、目覚めてカミサンに聞かれます「どんな夢みてたん?」 

 ところが男は、夢の中味は忘れてしまって説明ができない。「そんな、わてにも言えんような夢みてたんかいな!」と叱られます。同じ長屋の男が間に入り、「まあまあ……で、どんな夢みたんや?」 男は答えることができず、次々に大物が仲裁に入ってきます。大家が、町奉行の奉行が、そして最後に鞍馬の天狗まで出てきて、「で……どんな夢を見たんじゃ?」になり、答えられず天狗に懲らしめられているところで、カミサンに起こされ「えらいうなされて、あんた、どんな夢見たん?」と落ちになります。
 そして、この落語に接したものは、アハハと笑いながらも「そういうことってあるよな」と、自分に引き込んで感じてしまいます。
 今の芸人さんたちにも、わずかに、こういう人は存在するが、大半は相方や客をいじるか、極端にキャラを誇張して、笑いをとる。そこには場合によってはイジメのタネになりそうなスラプスティックなギャグも多く。昭和生まれのわたしは笑えないことが多くあります。
 昔、石原裕次郎や加山雄三の映画を観たアンチャンたちは、映画館を出てくる時には、なんだか、目の配り方や、姿勢までもが、石原裕次郎、加山雄三になって映画館から出てきました。
 今、映画館から出てくる人は、感動はしているが「カメラワークがどうたら……脇の弱さは制作費が……」などと評論しながら映画館から出てきます。

 第三は、今目にしたこと、聞いたことが「同じようなことがあったよなあ」というデジャブ=既視感(きしかん)であります。デジャブなのですが、これはまた章を改めて触れたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・70『菊亭大臣(きくていのおとど)』

2021-04-12 06:01:20 | 自己紹介

わたしの然草・70
『菊亭大臣(きくていのおとど)』    

 



徒然草 第七十段

 元応の清暑堂の御遊に、玄上は失せにし比、菊亭大臣、牧場を弾じ給ひけるに、座に著きて、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供の参る程によく干て、事故なかりけり。
 いかなる意趣かありけん。物見ける衣被の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。



 元応というのは1319年から、1320年までの元号で、後醍醐天皇の即位を祝ってつけられました。
 で、その後醍醐さんの即位を祝うパーティーで、菊亭大臣という琵琶の名人が玄上という国宝級の琵琶が無くなったので、代わりに牧場という琵琶の名器を演奏することになりました。
 菊亭大臣という人は、なかなかの人で、事前に、天下の名器と言われる牧場をチェック。すると柱というパーツが外れていることに気づき、持ち合わせていた補修道具の中から接着剤を出して、くっつけ、本番に支障が出ることはなかったという内容です。

 これには、二つの意味があります。

 一つは、天下の名器といえども、故障することがある。「いかなる意趣かありけん」とあるので、誰かが、悪意をもってやったことなのかもしれません。しかし、そういうことも含めて故障や事故の可能性はあるものであると述べています。
 もう一つは、天下の名人というのは、いかなる状況にも備えておくものである。という心構えの大切さであります。

 徳川家康という、いろんな意味で名人だった人は、戦に行くとき、薬と鎧(よろい)の補修道具を欠かさなかったと言われています。自分や供回りの者たちが体調を崩したり、戦の最中に鎧が壊れても(鎧というのは、頑丈そうで、案外壊れやすい。紐一本切れても、場所によっては一発で使い物にならなくなります)すぐに手当ができるようにしていた。
 わたしも、現役で芝居をやっていたころ、裁縫セットと、クレパスを必ずガチ袋(道具係の腰袋)に忍ばせておりました。裁縫セットは、衣装に故障が出た時や、道具の補修のため。
 クレパスは、道具を立て込んだ時に、傷や汚れが付いたとき。あるいはコントラストが弱く書き割りの絵に弱さを感じたときに、補正をしたり、立体感を強調したいときに使います。
 教師でいたときは、担任をしている生徒の記録のル-ズリーフを常に携帯していました。ルーズリーフは便利なもので、必要に応じてページが増やせます。連絡や、問題の多い生徒のページはすぐに増えます。このルーズリーフには、生徒の連絡先(家庭、保護者の職場など)から、毎日の出欠、考査・科目ごとの成績、本人や保護者と連絡をとったときの記録。立ち話程度の指導にいたるまで記録してあり。生徒や保護者、管理職を始めとした同僚と話をするとき、絶対に「ちょっと待ってください」と言わないためであります。
 放課後は、必要のある生徒の記録を更新します。

 ある年、担任をしていた生徒が「人身事故を起こした!」と、管理職から自宅に電話があり、帰宅して、そのことを家人に伝えられ、学校にとって返したことがあります。
 学校に戻ると、「死によった」と言われ、もう一方の管理職からは「バイクの安全指導はやってたんやろな!?」と糾弾するように聞かれました。死んだ生徒への想いはカケラもありません。しかし、担任であるわたしが来るまでに、府教委や、新聞社から、しつこく安全指導について聞かれていたのです。無理もないと言えるのですが、「これが、学校か……」とも思いました。そのとき、このルーズリーフが大いに役に立ちました。
 今は、個人情報の管理がうるさく、教師が個人的に、このような記録をとることは許されないかもしれません。

 国旗国歌に関わる法律ができたころのことです。

 府教委が、国旗の会場掲揚、国歌の斉唱を通達してきて。かなりの人数の教師が、これに抗議し、胸に青いリボンを付け、校門前で、国旗掲揚、国歌斉唱に反対するビラを配りました。
 開式の時間になっても半分以上の教職員が会場に居ませんでした。開式直前に、講堂の照明が一つも点いていないことに気がつきました。白地に赤の日の丸は見えますが、校旗は背景の幕に溶けて判然としません。壇上に校長が上がっても表情が見えません。大あわてで、舞台ソデの配電盤に行きましたが、体育の道具でいっぱい。式服のまま、かき分けるようにして配電盤に行き、館内と舞台の照明を点けました。
 別に、体育館や舞台が薄暗かろうが、府教委、学校としては構いません。
 日の丸が掲揚され、国歌が斉唱されればいいのです。
 わたしは、けして、何事につけても名人ではありません。けれど、卒業式が薄暗い中で行われて良いと思えるほど、無神経でもありません。

 卒業式ついでに。卒業式で「仰げば尊し」を唄う学校は、かなり少なく、公立の学校では、その年々に生徒にアンケートをとり、その時々に流行っている「卒業ソング」を唄うことがほとんどです。
「卒業ソング」には、桜・友だち・旅立ち・未来・果てしない道・思い出・かみしめて、などの単語は出てくるのですが、わたしが知っている限り「先生」「師」という単語は出てきません。
 日本人というのは、集団としても個としても、かなりの「名人」であると思うのですが、名人必携の何かが欠落しているように思えるのですが、考えすぎでしょうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草・69『豆の殻を焚きて豆を煮ける』

2021-04-11 06:29:15 | 自己紹介

わたしの然草・69
『豆の殻を焚きて豆を煮ける』    


 徒然草 第六十九段

 書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえる。


 書写山円教寺の性空上人は偉いお坊さんで、六根清浄の悟りにいたり……ちとムツカシイ。分かり易く言うと、第六感が働くようになり、ある時旅路の途中、ある宿に泊まったとき、こんなことがあったそうです。

 宿の台所で、豆が煮られていました。

 その豆を煮るために、下のかまどでは、豆ガラが焚かれてています。
 で、まず豆がボヤきます。
「元々は同じ豆なのに、なんで、お前ら豆殻に焚かれなきゃなんねえんだ」
 次に、そのバチバチと焚かれる豆殻がボヤきます。
「焚きたくて焚いてんじゃねえよ。オイラたち豆殻なんだからよ、火ぃつけられちゃ、どうしもねえんだよ。頼むから怨まねえでくれよ」

 わたしには、幸か不幸か、そういう第六感が無いので、豆の恨み言などは聞こえません。ただ、三か月で間引かれた妹が、いつまでたっても高校生の姿で現れてグチっていくのには閉口しています。そのことは拙著『わたしの中に住み着いた少女』に詳しく書いてあるので、タイトルをコピーし、検索の枠に貼り付け検索していただければと思います。URLを貼り付ける操作が分かりませんので……いやはや(^_^;)

 その身から出たものに苦しめられるということは、世の中に、まま有ることですね。現場にいたころ、よく、こういう目にあいました。いわゆる校内暴力で、こづかれ、足払いをかけられたり、シバキ倒されたり。そういうことは、どなたでも容易に想像がつくと思いますが、そんなステレオタイプの話ではありません。

 わたしは、社会科なので、現代社会や政治経済で、市民として行政などの社会権力に働きかける方法を教えていました。裁判における控訴や上告、再審請求。あるいはリコール、請願、そして、その前提になる署名活動など。

 有る年の、ある学年の四月にそれは起こりました。

 クラス編成に不満があるということで、クラスの再編成を求めて生徒たちが署名活動を始めたのです。

 最初は、どこにでもある不満からでした。

「ダレソレと同じクラスになるのはイヤだ!」と言い出した生徒がいました。それに、同調する生徒が続々と現れ、一週間で百名あまりの署名を集め、われわれ教師が知るところになり、「学校いうのは、そういうとことちゃうねん。多少気に入らん奴が居っても、合わせていくのも勉強のうちや」と説得にかかりました。
 百名の署名は、力です。リーダーの生徒たちは、容易には納得しません。
 最後は、こう言いました。
「先生らかて、好きで勤務する学校は選ばれへん。府教委に言われた学校に行って、そこが、自分の愛すべき学校になるように努力してるんや」
 生徒たちには、こういう、人間としてストレートな言葉の方が効き目があります。
「ほんなら、センセも、この学校嫌いやったんか?」
「うん、最初はな。百何十ある府立高校で、なんでオレはこんな学校に来さされてんやろ。て、悩んだもんや。けど一生懸命仕事して、今は、この学校好きやねんで!」

「ほんま?」

「……好きが60%、しんどいが40%」

「しんどいが40%……」

「正直に言うとな……最初は120%しんどいやった」

 で、生徒は納得してくれました。

 この説得が功を奏したのには、日頃の学校生活で生徒の信頼を得ていることが大前提です。常日頃、仕事の文句や学校への不満を言い、怠惰な勤務をしていては、生徒は説得できません。
 かつて、自分が高校生であったころの教師は、おおむね手を抜いていました。自由出退勤とか自宅研修権とか言っては、遅く出勤し、早く退勤していました。一時間目と六時間目に授業を入れられることを、たいていの教師が嫌がりました。非常勤講師になったとき、勤務時間に注文をつけなかったので、週十数時間の授業の全て一時間目、六時間目に入れられて笑ってしまいました。
 学校が好きだったので、特別に文句を言ったりしませんでしたが、今になって思うとたいがいな教師集団ではありました。

 こういうことも耳にしました。

「文化祭、体育祭は勤務日です。せめて出勤簿を押しに出勤はしてください」

 会議室の横を通ったとき、職員会議で、校長が教職員にお願いしているのを聞いてしまったのです。だから、あのころの生徒は、めったなことでは教師の言うことを聞きません。

 それで、自分が教師になったときは、その生徒であったころの経験を頭に置いて仕事をしました。学校に不満があっても、生徒には言わず、生徒より一時間は早く出勤。二時間は遅くまで学校にいました。簡単には焚かれない豆になりました。

 しかし、世の中には性空上人のような人物は少なく、豆たちの声が聞こえず、生徒のイジメや問題行動は減らず。教師のアリバイ研修や仕事は増える一方。
 で、この不況の時代に、教員志望学生の減少に歯止めが効きません。小学校の教員採用試験の倍率は三倍を切っているそうです。

 逆に、早期中途退職者は増加の傾向にあります。かく言うわたしも、その一人ではありますが。

 豆殻のタワゴトでありました……。 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らいと古典・わたしの徒然草68『土大根』

2021-04-10 06:40:35 | 自己紹介

わたしの然草・68
『土大根』      




第六十八段『土大根』

 筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
 或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。
 深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

 筑紫=九州の北っぽ。の横領使(領外の官で地方の警察長官みたいなもの)が、健康のためにと強く思いこみ、毎日、土大根を焼いて食べていました。
 ある時、館の人数が少なくなってきたときに、その隙を狙って盗賊の一団が進入してきました。落ちぶれ果てたとは言え、警察長官の館を襲おうというのだから、気合いの入った盗賊であります。で、危うく盗賊たちにイカレコレにされそうになったとき、どこからともなく二人の兵(つわもの)が現れて、盗賊たちをやっつけてしまいました。

「君達は、どこの兵なんだね!?」
 横領使が、感極まって聞いてみると、こう答えた。
「我らは、あなたが毎日お食べになっている土大根でござる」
 と、告げて消えてしまった。
 なにごとも、深く信じて行えばええことがある!

 そういう話であります。


 要は、健康にいいと思いながらも、好きな食べ物に助けられたというファンタジーなんですね。
 土大根が、どんな大根かは分かりませんが、日に二本とはかなりのものです。
 ただ、こんな言い回しが昔からありました。令和の時代「大根足」と、ご婦人に言えば張り倒されます。
 しかし、昔は誉め言葉でありました「大根のようなおみ足」と言えば、白魚が美しい指のシンボルであったことと並んで、細くてカッコイイ足を示していました。
 そう、昔の大根は小振りでほっそりしたものであったのです。今ス-パーで堂々と並んでいるタクマシイものではなかったのです。今時の大根は、とても日に二本は食べられません。

 土大根は、ハッピーフードなのですね。

 今の時代、こういう感覚は持ちにくいようです。現代日本人は、たいていの食べ物に慣れてしまっています。わたしの息子など、わたしが作った料理など口にしません。
 わたしは、四十歳まで独身でいたので、料理は苦手ではありません。チャーハン、カレー、鍋物、みそ汁、卵料理など、そこらへんの主婦のみなさんに負けない自信がありました。それを息子は食べない。これは、血族としての親子の関係の大きな絆の一本を拒否していることと同じであり、由々しき問題なのですが、別の段で触れることにします。

 ハッピーフードと言えば、ポパイのほうれん草があります。あのマンガ(昔はアニメなどとは言わなかった)を観て以来、苦手なほうれん草を進んで食べるようになりました。
 パパパン、パッパパーンのファンファーレとともに、筋肉ムキムキになり悪漢をやっつけられると信じたものであります。大人になって、あれはほうれん草の缶詰会社の宣伝が元であることを知りガックリきた記憶があります。おまけに腎臓結石を煩って以来、医者からほうれん草は禁じられてしまいました。

 ポパイのほうれん草ほどではなくとも、匂いを嗅いだだけでハッピーになれる食べ物が、我々、アラ還世代以上の者にはあります。え、若い者だって? いえいえ、こと食べ物の「好き」は、それ以後の「飽食の世代」には解らないハッピネスであります。
 カレー、玉子焼き、お好み焼き、タコ焼き、もんじゃ焼きなどなど。スペシャルなものとしては、焼き肉、すき焼き……こういうものは、お正月などの特別な思い出と共に、記憶の奥底に焼き付いています。肉は霜降りなどであってはならない。潔く白身と赤身に分かれ、口中に含めば、百回ぐらい咀嚼しなければ飲み下せないほどの牛肉魂に溢れたものでなければならず。長じて霜降り肉のすき焼きに出会ったとき、それはショックでした。肉が肉であることを自己否定したようなタヨリナイものでありました。

 こんなものを食っているから、今の若者=アラ還以下の世代の顔は小顔で、顎が未発達なのです。マンガを見れば明らかであります。鉄腕アトム、鉄人28号の正太郎君、リボンの騎士などはマルマッチク、たくましい顎をしています。作者自身がアラ還以上の作者であれば、アンパンマン、ゲゲゲの鬼太郎、のび太くんなど皆そうです。それ以下の世代によって描かれたキャラクターは、そのほとんどが顎が尖ってキャシャです。うなづけば、そのまま顎が、胸に刺さりそうなほどに鋭利でさえあります。

 他にも、初めて魚肉ではないソーセージを食べた時の感動。コーラを初めて飲んだときの爆発的な戸惑い。こういう感動は、今の若者には解らないでしょう。解ってたまるか! という自負心すら湧いてきます。
 気まぐれに、息子に自作のタコ焼きを勧めました。息子は路傍の虫が鳴いたほどの興味も示さず、冷凍庫から南極の昭和基地に置き忘れられたような冷凍ピザを出して、レンジでチンしおりました。

 願わくば、臨終に望んで、わたしは、懐かしのすき焼きの百回咀嚼の牛肉を口に含んで枕教のチンをしてもらいたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする