大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

タキさんの押しつけ映画評・5『ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略』

2012-06-24 07:16:28 | 評論
ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

 例によって原作ご存知でない向きにはあんまり楽しめないアニメであります。
 3部作で、本作は二作目とあってまだなんとも言えないのですが、今回は原作の説明など、やってみす。  舞台は……そう、我々の歴史で言えば中世終わり頃のヨーロッパ、イギリスとヨーロッパ大陸が地続きの世界を想像して頂ければ、大体この作品のバックグラウンド。
 主人公はガッツと言う名の戦士、戦場で吊された母から産まれ、傭兵に育てられて幼い頃から戦働きに出て、懸命に生き残ってきた。
 原作の冒頭は、妖精パックを道連れに、巨大な剣を駆使してこの世ならざる者達を狩って回っているガッツの物語から始まる。 本作は、青年(とはいえ10代後半)となったガッツがグリフィス率いる“鷹の団”と出会い“蝕”(後に彼がこの世ならざる者「使徒」を追うようになる原因)を生き残るまでを描く。
 
 この世界では、ミッドランドとチューダー王国の間で百年戦争が繰り広げられていた。ガッツとグリフィスは敵同士であったが、ガッの戦いぶりを気にいったグリフィスに入団を勧められる。一匹狼のガッツは即座に拒否するが、1対1の果たし合いに敗れ、以後 “鷹の団”の切り込み隊長となり、グリフィスにとってなくてはなら右腕と成って行く。しかし、グリフィスを知れば知る程 「この男とは対等でありたい」との想いが消しがたくなり、チューダーに対する戦勝を期に団から抜ける決意をする。止めるグリフィスを今度は果たし合いで破り、剣で奪われたものを剣で奪い返して一人旅立つ。
 グリフィスにとってガッツを失った事は考えられる以上の痛みをもたらし、彼は心の隙間を埋める為 王女を抱く。 これが王の知る所となり、グリフィスは投獄され容赦ない拷問を受ける事となる。鷹の団も国王の罠にかかるが 何とか逃亡し、野に在ってグリフィス奪還を目指す。
 旅の空で この事情を知ったガッツは鷹の団と合流、グリフィスを救出するが 時既に遅くグリフィスは不具者となり果てていた。絶望の内に団から離れようとするが、自由にならない身体ゆえ 浅い沼地で立ち往生してしまう。そこで無くした筈の“ベヘリット”と出会う。
 “ベヘリット”とは、御守りとして様々な人々が持っているのだが、実は「異界」の扉を開く鍵であり。一度手にすると、無くしても必ず持ち主の所に戻って来ると言われている。グリフィスのベヘリットは中でも特別な物で「覇王の卵」と呼ばれる。
 グリフィスの絶望に応えて異界が開き、4人の黒き天使が降臨し、「それでもお前の渇望が止まぬなら、命同様に大事な者を捧げるか、それとも亡者の列に加わるか」 と問う。折からグリフィスを案じて追って来ていた団のみんなの前で、グリフィスは言う『……げる』と。鷹の団に地獄が降りかかり、全ての団員に生け贄の烙印が刻まれ、一人また一人と使徒に喰われて行く。最後まで生き残ったのはガッツと女戦士キャスカ(グリフィス不在の鷹の団を統率してきた。この直前にガッツと結ばれる)
 グリフィスは5人目の黒き天使フェムト(翼ある者)として再生し、身動きできないガッツの目の前でキャスカを犯す。絶体絶命の窮地に、謎の剣士が“蝕”の中に乱入し二人を救い出す。蝕を逃れはしたものの、生け贄の烙印は消えず、二人は使徒に追われ、悪霊に付きまとわれる運命を背負う。精神に病んだキャスカは、ガッツの子を早産するが、その子供はフェムトの精を受けて魔物と成っており、何処かへと虚空に消える。助けてくれた謎の騎士から黒き天使と蝕の意味を教えられたガッツは、キャスカを 団の中で一人蝕を免れた少年兵リッケルトと世捨て人の鍛冶屋一家に預け、一人 黒き天使と使徒を求めて旅立つ。(今シリーズはここまで)
 現在は数々の戦いの末に見つけた仲間達と共に、キャスカの安住の地(と考えられる)パックの産まれ故郷であるエルフヘイムを目指している。(現在36巻) シリーズ1の時にも書いたが、コアなファン以外 映画館に通う必要はない。3作出揃ってディスクになったらレンタルするか、衛星放送に乗るのを待てば宜しかろう。
 
 これも(1)の時に書いたが、尺が足りずショートカットになっている。カットされた部分は今作の方が大きく、替わりにアニメオリジナルの場面が挿入されている。(1)ではそこまで感じなかったが、今作での変更は物語の中身を薄くしている。やはり、一本最低2時間とするか、90分4部作としなければ無理が出る。贅沢を言っているのは理解しているが、劇場用シリーズアニメでその程度の尺を持っている作品は現実に有るので出来ない事もなかろうと思うのだが……。
 これで終わるとあまりにも寂しい。そこで、ファンの皆様に朗報を一つ。旅に出たガッツがすれ違う馬車の中にパックの姿有り!
 と言うことは、今後“蝕”以後の「ベルセルク・サーガ」が映画化される可能性があるという事です。
 待てよ、本シリーズが不入りだとそんな企画は流れる……?!
 いかん!前言撤回! 皆さ~~ん!メッチャ面白いアニメですぅ! 今すぐ見に行って ディスク化されたら購入しましょう。ちなみにシリーズ第一作はもうディスクが販売されてます。宜しくお願いしま~~す。
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劇団往来『あした天使になあれ』

2012-06-24 00:16:03 | 評論
劇団往来『あした天使になあれ』

あっぱれ、やっつけ芝居!
 
 一週間ほど前に、往来の演出家鈴木君と共通の友人である映画評論家のタキさんから聞いていた。
「往来の台本、まだ決定稿できてへんらしいで」
「ほんまかいな!?」

 で、どうなんだろうと思いながら京橋駅から、会場の「大阪ビジネスパーク円形ホール」に向かった。
 ツゥイン21の双子ビルを抜け、会場に入ると旧知の劇団員が場内案内に立っていた。
「なんや、今度は、本あがるの、遅かったそうですなあ」
 その劇団員は、アンチョコで宿題をやった生徒が、先生に見とがめられるように答えた。
「そうですねん、本あがったん、三日前ですわ」
「ハハ、それは大変でしたなあ」
 軽く会釈して席に着いて気がついた。

――三日前ちゅうことは、初日の前の日か……!?

 普通、こういうことを関係者は、アケスケには言わないものである。
 わたしも、礼儀上書かないつもりでいた。
 一ベルが鳴ると、ベテラン俳優の乃木さんが舞台に現れた。上演前に関係者が観客に言う、お決まりの挨拶を兼ねた注意事項かと思った。
「ええ、音の出る携帯電話なんかのスイッチ……」から始まった。
「演出効果のため、非常灯は消します。万が一異常が有った場合はご安心ください。まっさきに役者が逃げます。みなさんは、その後につづいて……」と、笑わせてくれる。そして、言ってしまった!
「えー、実は、このお芝居の本は、本番の前日にできあがりまして……」

 で、わたしは、正直に書いている。あっぱれやっつけ芝居!

 この芝居は、同名の映画とのコラボ作品である。映画の方は鋭意制作中であるそうな。舞台劇の映画化も映画の舞台化も多いが、両方同時進行というのは珍しい。

 中味は、大阪にあるミュージカルを主体としたアマチュア劇団「アップルパンチ」の劇団員と、その周囲の人たちの、どこか抜けた明るくもおかしい、人間のオモチャ箱のようなコメディーミュージカルである。
 劇団の代表者は、芸名と同じ要冷蔵(かなめれいぞう、と読む)は、劇団員の恋やイザコザに振り回され「劇団内の恋愛は御法度!」
 と、言いながら、劇団員の看護婦……看護師に心を寄せている。看護師も憎からず思っているが、こちらもなかなか言い出せないでいる。
 その間に、劇団員三人が東京のオーディションに受かり、大地真央と共演できることになり、勇んで東京に向かうが、これが真っ赤な詐欺。詐欺にあったとも言えず、スゴスゴと大阪にもどってきた三人は、みんなに合わす顔もなく、夜の稽古場に戻ってくる。そこには、若い劇団員のカップルが稽古場をラブホ代わりに使おうとしていたり、三人を詐欺にかけたペテン師がドロボウにはいろうとしたりして鉢合わせ。
 他にも、劇団員の家庭問題、職場の問題、ミス花子氏が大将……オーナーシェフをやっている「まんぷく亭」などが出てきて、中味はまさにまんぷくの二時間半である。
 
 そう、二時間半の尺の長さである。
 ここに、この本の第一の苦しさがある。普通二時間半ならば中入りが入るが、ぶっ通し。おそらく本番の直前まで、芝居の長さも分からなかったのであろう。わたしも本書きのハシクレなので分かるのだが、本の刈り込みが出来ていない。エピソードは、劇中の劇団員の病院の産婦人科の患者二人のエピソード、職場の体験学習に来る子供たち。院長のシンポジウム、これが笑いがいかに健康に良いかと笑わせてくれた後に、子ども二人の漫才、ミス花子氏のソロ、デュエット、カルテット、クィンテット、コーラス、それにダンスがついててんこ盛り。
 ヤマが三カ所ほどあり、その都度、観客はフィナーレと思い拍手しかけるが、「まだかいな」とばかり話が続く。やっぱり刈り込んで、せめて二時間以内に収めるべきであったろう。

 十数行前に「どこか抜けた明るくもおかしい」と書いたが、役者の芝居がまさに、これであった。
 場面によって、出来にバラツキがあり、演技としてどこか抜けている。ダンドリ芝居や引き出し演技になっているところも多々あり、芝居が空回りして、観客に伝わりきっていない。
 しかし、芝居は「これでもか、これでもか」と、しつこいくらいに明るく、押しつけがましい。
 で、それが不快に感じられないところが、往来のオモシロサである。
 ラストは、この強引なしつこさに観客は飲み込まれ、舞台の役者に合わせて満場の手拍子。観客席を見ると、心から喜んでの手拍子、「かなんなあ」と思いながら、その強引さが楽しくて拍手している人。
 いやはや、あっぱれな、やっつけ芝居であった。

 並の劇団が、これをやると、観客は引いてしまうだろう。しかし往来という劇団は、ヌケヌケとそれをやってしまう。こういう強引さは、わたしは好きである。

 帰りにツィンビルの中を通ると、高校生とおぼしき若者たちがビッグバンドジャズをやっていた。素人のわたしが聞いても上手いのだが、会場は、あまり温もっていなかった。ジャズであるのにスゥイングできていないのである。映画『スゥイングガールズ』の中で、彼女たちは、立派にスゥイングしていた。わたしは、この作品が好きで、彼女たちの「ラストコンサート」のDVDも持っている。時に音を外したりするが、観ている観客はスタンディングオベーション。椅子がないので立っているが、気持ちはスタンディングオベーションである。
 彼女たちのスゥイングのノリと同質のものを感じた好演であった。
 しかし、次回は、きちんと本を書き上げ、時間をかけて稽古した芝居を見せていただきたいものである。 

 ささいなことであるが、劇中「女性警官」のことを「婦人警官」と呼んでいた。これは非難では無い。わたしは「女性警官」よりも「婦人警官」の呼び方に親しみを感じる……と言えばお叱りをいただくだろうか。「看護師」も、どうも耳になじまない。ちなみにパソコンで変換すると「看護し」しか出てこない「看護婦」は一発で変換できる。「看護婦さん」も素直に一発変換……と、ラストは、パソコンの変換機能の話でしめくくり。
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タキさんの押しつけ映画評『SNOW WHITE & 愛と誠』

2012-06-17 21:58:05 | 評論
タキさんの押しつけ映画評5『SNOW WHITE & 愛と誠』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


SNOW WHITE
 画像綺麗し、ドラマチックで見応えあるんですが、はっきり言わしてもろて失敗作です。
 ナンジャカンジャ詰め込み過ぎて焦点が絞り込めていない。
 
 最も要らない持ち込みが「ジェンダー」
 
 一瞬監督は女か?と思った位。お伽話をフェミニズム視線で語らないで頂きたい。
 監督はCM畑の人で劇場版長編は初めて。アイデア豊富な人だとは判るが、 取捨選択が出来ない、乃至理解していない。
 それと影響を受けた作品からパクって来ているのが丸分かりで、こいつは洒落にならない。原作はグリム童話だが、映画のタッチはトールキン(指輪物語)である。 原作(初期の“童話”と言うより“民間伝承”に近い物)の中の「ドイツ的」なるものは、悉く「イギリス的」なるものに置き換えられている。見ていてまずここが居心地悪い。ドイツ民話に付き物の「黒き森」はまるで「指輪物語」の“障気の沼”か…漫画「ベルセルク」の幽界の入り口の森。いやいや、有り得ない話じゃない。この人「もののけ姫」からパクっているし、他にも漫画で見たシーンが散見できる。「ベルセルク」を読んでいる可能性は90%以上と見た。
「黒き森」を抜けて、妖精の住まう聖域から「白き森」に至るシーンでは、まるでドイツからイギリスにテレポートしたかの如く。
 ここから一気に舞台はイギリスに成ってしまう。 アーサー王伝奇やら六王朝時代のイングランド伝説、果てはギリシャ神話設定にエリザベート・パトリ(処女の血に浸かるのが不老の方法だと信じていた異常者)、 トドメはジャンヌダルクと来たもんだ! これだけ節操が無いと見ていてなんとも落ち着かないし、何だかしんどい。
 トドメが三点。
 まず、シャリーズ・セロン(女王)が予告編やスティールを見ている限りでは美人なのだが、本編を見ているとまるでオバサン、一応理由は有るのだが、やはり女王は美人でないと説得力が無い。これはこれで良いのかもしれないが、映画のあちこちで引っ掛かるので、せめて…と思う次第、私がシャリーズ・セロンのファンだからではない(ギクゥ!)。
 第二点、白雪姫がクリステン・ステュワートだから余計にそう思うのだろうが、初め、白雪姫を追い、後 守護者になるエリック(クリス・ヘムズワース)と“トワイライトサーガ”の狼男が重なって見える…こんな設定までパクっている。
 第三点、ラストが気に入らない。せっかく魔女を倒したのに、変わって女王についた白雪姫が、形は違うだろうが、女として魔女の怨みを引き継いだんじゃないかと思わせるイメージが有る事。
 以上、余計な事を考えず見ていれば、そこそこ見られる映画かな? と、思わないでもないが、それでも何か乗りにくい作品であることに変わりは無いと思う。見てきて反論の有る方は、教えていただきたい。

愛と誠
 あっあ愛とまま誠ォ~~! あっはっはははははははぎゃあっははははひはははひ~~ひ~~ くっ苦しい~!勘弁して~~~~~!
 久方振りに映画を見ながら腹筋を鍛えさせてもらいましたワイ! この企画建てたん一体誰? この仕上がり
でOK出したん誰だんねん。見ていて途中から笑うのさえ忘れましたわいな。359度歪んで、もしかしたら面白いの? シュールリアリズム作品なんか? 武井咲ちゃん、カワユス~、演技?…あっは!学芸会以下ですわいな。確かにショックではありましたわいな、初めてエド・ウッドの映画を見て以来のね。あっはっはは はぁ~
 ぷすん……。
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劇団大阪『イノセント・ピープル』

2012-06-17 16:26:51 | 評論
劇団大阪『イノセント・ピープル』6月17日11時

 谷町ビルというのだろうか……。

 下駄履きの公団住宅の、下駄の部分に、劇団大阪の谷町劇場がある。一階のそのドアを開けると、フラットな黒で統一された夢の空間が、そこにある。
 三十坪ほどの黒の空間は、入り口を入った右側が演技空間。左側が五段のひな壇になった、100席ほどの観客席。一番遠い席でも、役者との距離が八メートル以上になることが無く、とても集中して芝居の世界に入れる小劇場になっている。

 さて、『イノセントピープル』である。
 この芝居は、ロスアラモスの女子高生、シェリル・ウッドがポップスにあわせてノリノリで踊っているシーンで始まり、そのシェリルが日本人のタカハシと結婚し、シェリル・タカハシとしての彼女の広島での葬儀で終わる。
 その五十年あまりの、シェリルの家族、知人の人生が、前後しながら描写される。

 ちなみにイノセントとは、無実の、潔白、潔癖な、無邪気な、などを現す形容動詞である。
 このイノセントな人々は、みな人生のどこかで、原爆(核)に関わっている。
 ロスアラモスは、ご存じの方も多いと思うが、戦時中から、アメリカが核兵器の開発、実験、製造を行った街である。
 シェリルの父は、この原爆の開発に携わった、科学者の一人である。友人や知人もみなそうで、彼らを指してイノセントピープルと、作者は呼んでいるようだ。日本語にせず英語のイノセントの方が多義的で、タイトルとしての含蓄が深く、さすがだなと思った。
 登場人物のあるものは、核兵器に罪悪感を持ち、あるものは、正当な武器使用であったと思い。正当であったと思った海兵隊の退役准将は、息子をイラクとの戦争で、米軍が使用した劣化ウラン弾の影響で若死にさせてしまう。
 シェリルは、大学でタカハシという日本人と平和活動を通じて知り合い結婚、親や身内の大変な反対を受けながら、結婚、生涯を広島で過ごし、六十代で短い生涯を閉じる。

 この芝居、一見シェリルの身の回りの人々の戦後史で、部分的にはドラマとして成立している。シェリルの父や、その同僚たちの苦悩、シエリルの兄が海兵隊を志願し、ベトナム戦争で、下半身マヒの傷痍軍人として帰国、聴衆の前でスピーチするが、おりからのベトナム反戦に出会い、苦悩。彼の身の回りの世話をするヘルパーは、ナバホ族の血が混じっていて、彼女の祖父の世代は硫黄島の戦いで勇戦したこと(たしか映画であった) また、彼女の祖父、父は、居住地からウランが発見され、その放射線で若死にしたこと、などなど盛りだくさん。しかし、後述するが、この芝居の主軸に絡むことがなく、ご都合で持ってきたエピソードでしかない。
 
 そして、肝心のシェリルの人生が描写されていない。
 1960年代に日本人と結婚することがどれだけ困難なことであったか。「愛してるの」を数回言わせるだけでスルーしてしまっている。婚約者のタカハシは、仮面を被り、台詞が終盤まで、まるでない。
 平和運動への参加への動機も分からない。母の葬儀に顔を出すが、母が入院する最後の日まで自分の部屋の手入れをしてくれたことに涙する描写があって、あとは印象としては、広島での病死になってしまう。
 やはり、シェリルの人生、その苦悩と葛藤、自分の人生への誇り、喜びなどがドラマの主軸として表現されなければ完成された戯曲とは言えない。また、シェリルの身内のドラマが、シェリルの人生にほとんど絡んでこないことにも、ドラマ構造の弱さを感じてしまう。

 日本人が、アメリカ人を演じることは難しい。表情や、ちょっとした身体表現が日本人とはまるで違う。特に上半身(それも肩の使い方)の動きが、また、顔の表情筋の使い方が違う(例えば、日本人の大半はウィンクができない) 全員がアメリカ人ならばそれでもいいが、日本人が出てくるので、その差別化はやっておかなければならないだろう。
 また、日本人が、後半タカハシの例外を除いて仮面というのも異様である。アメリカ人から見た日本人という表現なのだろうけども、もっと日本人を人間として表現して欲しかった。仮面を被っている間は台詞が無い。不気味さが先になって、シェリルが好きになった人間として共感が持てない。それ以上に、日本人の人間としての描き方に共感できない。
 シェルリの葬儀で、タカハシが仮面をとって喋る言葉が、ほとんどシェリルの父への、ほとんど糾弾といっていい台詞なのには、思わずうつむいてしまった。こういう糾弾調の言葉は、実生活でも、舞台表現としても、わたしは前世紀で食傷気味である。同席している無言の日本人たち、体を使っての感情表現はできているのだが、どうも非人間的な印象が拭いきれない。黒澤明の『八月の狂詩曲』のような、井上ひさしの『父と暮らせば』などと比べると、知識先行でドラマ性希薄な糾弾劇になってしまったことが惜しまれる。

 わたし個人の趣味かもしれないが、シェリルは炒りたてのポップコーンのように元気で、かつクレバーな女性だと思う。最初のポップスで踊っているところなど、まさにポップコーンになっていなければならない。タカハシとの結婚の決意や、平和運動に身を挺するところなど、もっと力強いクレバーさが欲しかった。しかし、けして元気が無く、バカに見えたということではない。いささか日本人的情緒表現になってしまったことが惜しまれるのである。アン・ハサウェーなど、いい見本になると思う。

 ラストで、シェリルの娘はるかが、明るい笑顔で臨月に近いお腹を抱えて現れる。これで、未来への希望と和解のシンボルとしたことはよく分かったが、それ以前のタカハシの糾弾(お願い)の始末がつかないままの登場であったのが、フィナーレとしては、やや唐突であった。

 原爆の死者を20万人としているが、これは日本側の数字で、アメリカは、この数字をとっているのだろうか。日本の記録でも、一度の爆撃で、最大の死者を出したのは東京大空襲の8万3793人であると思う。

 宴曲な表現では通じないので、あからさまになって申し訳ないが、本が、プロットの段階で、未整理なままカタチにしてしまっていることに最大の問題を感じた。
 しかし、作家も演出も、原爆とロスアラモスをよく勉強されていて、その博識ぶりはよく分かる。
 
 ロスアラモスについて、とっておきの情報を紹介。
 ロスアラモスの研究施設と工場は、空から見ても分からないようにカモフラージュ。そのカモフラージュがふるっている。ディズニープロダクションのスタッフの指導で、屋根の上に街のセットを作った。いかにもアメリカらしく、わたしがロスアラモスを取り上げるなら、この線から迫る。『天空の街・ロスアラモス』なんかどうだろう。
 

 ホリゾントの、グラフィックの作りは、さすがに劇団大阪さんのセンスと技術の高さを感じた。在阪のアマチュア劇団で、これほどの人的、技術的財産をお持ちの劇団は、ちょっと見あたらない。
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大阪放送劇団・月の上の夜

2012-06-09 19:54:09 | 評論
大阪放送劇団・月の上の夜

作:渡辺えり 演出:端田宏三

☆一風変わったレクイエム
 明治後半の生まれであろう……ということは、主人公は百歳を超えてしまうが、この作品は1980年代の後半に書かれた芝居なので仕方がない。
 この年代の女性は、竹久夢二に代表される大正ロマンの中で思春期、青年期を過ごし、我が子を多く戦争で失い、戦後は帰らぬ夫を待ち、戦後復興の礎となってきた人たち。作者の祖母の世代にあたるであろう。
 そういう女性達への、一風変わった、そして、見事なレクイエムであると思うのだが、的はずれであろうか。
 山形に生まれた主人公時子は、臨終にさいして、現実と夢の間を行き来する。乙女が乙女に恋する『花物語』(吉屋信子・作)を下敷に、現実と夢とを交錯させながら、このレクイエムは展開していく。
 軽井沢に女学生姿のバラ子とユリ子との三人でピクニックをするところから、この芝居は始まる。そして、病室、バラ子の別荘。現実に父が管理人をしている別荘などと、何度も、夢と現実の間を行ったり来たり。
 現実の時子は、幼くして家を出され、学校も満足に行けず、別荘のお嬢さんからもらった『花物語』の中のお姫さまに恋してしまう。このお姫さまは、時子が湖底で眠りにつくことによって、目覚めることができる。
 何度かの暗示のあとに、ラストで、時子の死によって、お姫さまが蘇り、一際大きなお月様に収まるところなど圧巻に……したかったんだろうな。と思った。
 思ったというのは、ラストが明確なカタルシスになりきらず、観客は「え……ラストシーン?」とシーンとし、一瞬の間があって拍手が来た。
 これは、観客にシグナルとしての芝居は通じたが、共感しながら、のめり込むところまで芝居が完成していないせいであろうと思った。

☆笑い三年、泣き八年
 などと、役者の世界では言うが、この芝居は、軽井沢の花畑から始まる。緞帳は開きっぱなしで始まる。
 なにやら、チューリップがカミシモ二列に並んで、祭壇のようにしか見えなかったが、芝居が始まって二三分で、お花畑であることが分かる。

 で、この芝居は、無人のまま始まるが、始まってすぐにバラ子とユリ子の陰の笑い声がする。この笑い声で、役者は、観客を夢の世界に連れて行かなければならない。
 で、この笑い声が冷めている。プロの方を相手に口幅ったいが、きちんと笑えていない。登場したバラ子とユリ子の目が輝いていない。役としてエンジンが暖まらないうちに出てきてしまった……と、思った。
 しかし、お芝居全編で役者が、おおかた冷めている。
 台詞も、相手に届いていないので、注意しないと、舞台で行われていることが分からなくなってしまう。芝居とは分からせるものでは無く、感じさせるものである。僭越ではあるが、役者として、今少しのご精進をと思った。
 劇中に出てくる山形弁は、作者のソウルでもあり、演技的にもいいアクセントになるが、惜しくも、この山形弁が、もう一つ。
 主役の時子は好演ではあったが、歌とダンスになると、少し苦しい。
立ち回りが何度かあったが、もう少しきちんと殺陣をやってもらいたかった。茂男が「刀反対だけど」と、刀を収める役者に言うが、トチリのカバーなのかギャグなのかよく分からない。トチリのカバーなら秀逸な出来。
 劇団新感線などと比べると、夢としての芝居が弱い。もっと強引に観客を夢の世界にたたき込んでもらいたかった。夢の入り口までは連れて行ってもらえた。

☆一文字のアール・ヌーヴォー
 席に着いたときから気になっていたのだが、ホリ前の一文字幕が唐破風のように湾曲していた。ホリに月が照らされて分かった。文字幕に月がかかってしまうので、中央を引き上げてある。それがアール・ヌーヴォー風の味わいになり、舞台をキレイに縁取って、ラストシーンなどでは、非常に効果的であった。

☆この芝居に取り組んだすばらしさ
 こういう戦争体験者の世代の人生や死をとりあつかうと、なんとも陰惨、場合によっては思想的な背景を感じてイヤミなものであるが、渡辺えりという人は、それをファンタジーと笑いと、早変わり、殺陣、歌などを入れることで、エンタメにした。その点は、演出も役者も十分に理解している。好感の持てる取り組みで、観劇後、爽やかな感じで、劇場を後にできた。いっそう精進され、再演されることを期待!

☆個人的希望
 希望なので、言葉をあらためます。インジの『ピクニック』を演っていただけないでしょうか。昔、五期会が、旗揚げで好演されました。あの、人生、人間を大きく、肯定的に表現した「生きててよかった!」と感じられる芝居を、放送劇団の中堅、ベテランの方を交えて見てみたいと思いました。
 泉希衣子さんと、平口泰司さんのコンビで『にんじん』……ちょっと古いでしょうか?
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タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

2012-06-06 21:24:17 | 評論
タキさんの押しつけ映画評4『外事警察』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。
 

 ヤバイ、論評しにくい映画を見ちまいました。
 面白かったんです。
 100‰お薦めで~す。

 さぁ! 見に行こう! おしまい。

見て来た? よっしゃ、ほんなら始めますか。
 
 原案は麻生幾の「外事警察」、元作は2009年のNHKドラマです。どちらも未見、真っ白で見に行きましたが…メッチャ面白かった。
 テレビドラマの映画化は元作を見ていないと半分判らない作品が多いのですが、本作にそういう弱点は有馬線(?)、導入部にさらっと流れる説明で物語の外郭が理解できる形に成っています。
 監督は「ハゲタカ」に引き続き堀切園健太郎、進行編集はさすがです…ただ、この人アップが好きなのは変わりませんなぁ~。なんか全編の1/2がアップ(そんな事もないが)じゃねえかくらいの印象があります。田中ミンさんの、それでなくとも痩せているのに、更に10キロ減量して、更に眼光鋭くなった顔がアップになると 背筋が思わずゾクッとします。
 この田中演じる徐(元在日外国人の原子力学者)と渡部篤郎の外事警察官/住本とのやり取りが本作の背骨です。
 全編、嘘、嘘、嘘、嘘の連続、その中にたった一つだけ 最初から最後までを貫いて存在する真実がある。それが何か?を……考えながら見るのがこの映画の醍醐味であります。
 そして、この緊張感は渡部/田中の演技力が生んだ奇跡と言っても言い過ぎじゃありません。
 今回改めて感じたのは、こういったアジアクライムシーンの映画に出演する韓国人俳優の上手さです。現実に未だ北と交戦中の国(朝鮮戦争は終わっていません、今は単に休戦中)の俳優さん、北との危機感・緊張感は本物。殊に、キム・ガンウのリアルな存在感は抜群であります。
 日本人では真木よう子さんをベタボメしたい。これまで彼女の演技は上手いのか下手なのか判断しかねていたのですが、本作の身体も心もバラバラに引き裂かれた女の役を見事に演じ切っている。彼女の周りも嘘だらけで何が真実なのか判らない。その中の何を彼女は信じたのか、あるいは信じたかったのか。彼女の中に真実はあったのか、いや 見つけたのか…これも本作の肝です。
 映画館の中は集中感がみなぎり、観客が一言の台詞も聞き逃すまいとしている。サスペンス映画として大成功している証拠です。
 不満と言えば……まぁこれはNHKエンターブライズの製作であるからやむなしですかね。
 映像も、殊に暗部の表現が素晴らしく、ただ塗りつぶすのではなく 微かに何かが映っている。冒頭、闇の中弱く光る徐の瞳。この瞳の奥にどんな想いが隠されているのかを追う作品であった事を思えば、いかにこのシーンが重いものであったかに気付く。
 邦画で此処までノアール感にどっぷり浸かれる映画もそうはない。映画を見る前にこれを読んでしまったアナタ。極力内容に触れないよう気を使って書きました。後は劇場で確認してください。 私は、取り敢えず本屋で原作を探して、それからテレビドラマのディスクを探しに行きます。
 
 蛇足: 昨日「海老蔵」というチャンコ屋さんで晩飯を食べました。JR長瀬の近くなんですが、メッチャ旨かったです。こんだけ旨いチャンコはメッタに有馬線。ただ、食べるのに必死で会話が弾まないきらいは有りますがね。 以上
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タキさんの押しつけ映画&演劇評3

2012-06-04 21:14:02 | エッセー
タキさんの押しつけ映画&演劇評3

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画・演劇評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


(1)「テルマエ・ロマエ」
  結構楽しめましたよ。イタリア製の映画を吹き替えで見ている感覚です。
 本作は原作を知らない方が楽しめます。漫画を読むなら、映画を見てからにしてください。映像は正直 チープなんですが、出演者が皆さん真剣にやってます…まぁ、下手くそで見ちゃおれん人もいらっしゃいますがね、そらまぁご愛嬌ってことで見逃してあげましょう。
 上戸彩とその家族が原作とは違う扱いになっているのと、ケイオニウスがほんまに単なる女好きにされとりますが…許せる範囲です。多少の事は、阿部寛のルシウスが余りに嵌っているので、それでええんじゃないかいなと思います。
 平たい顔の一族としては古代ローマ人の驕りを笑って許してやるくらいの気持ちでゆったりと見てあげましょう。「平たい顔の一族」ってぇと、風呂に入っている爺さん達が素人エキストラかと思っていたのですが、よくよく見れば皆さんプロの役者さんです。程よく力の抜けた、ほんまに銭湯にきているおっちゃん達、この老優さん達にも拍手ですわい。
 パンフレットも良く出来とります。古代ローマと日本の風呂事情の比較、歴史等 面白い読み物になっています。一読オススメであります。

(2) 劇団 新感線「シレンとラギ」 梅田芸術劇場
 実は、前日に見た人から酷評を聞いていたので「ゲゲゲ」と思って見に行ったのですが…と言うのが、この所新感線には失望させられる事が多かったんですよね。まずクドカンの脚本だと、全く新感線の良さを引き出せない(今回は中島君の本です)。
  新感線歌舞伎は、この2年程 方向性を変化させているのですが、未だ試行錯誤中で、演出も役者も乗り切れていない舞台を見せられたりもしたもんで、少々身構えてしまいました。
  結論から言うと、私の感想としては「いいんじゃな~い」 って所です。同時に酷評した友人の言い分も100%理解できました。彼女曰わく「誰が悪いと言うんじゃなく、お話が嫌!感動せえへんかった」 との事、ハイハイよ~お解りますです。
 タイトル「シレンとラギ」は主人公の名前です。芝居が始まって暫くは、いつ頃のどこが舞台なのか良く解りません。またぞろ「楼蘭族の殺し屋」なんてのが登場するんで、「中国?」とか思うのですが、「北の国、南の国、ゴダイ、モロナオ、ギセン」などの名前から、日本の南北朝…太平記が下敷きだなと見当が付きます。もう一つの伏線は、ソフォクレスの「オイディプス」で、これも第一幕の半分位の所で解ります。  これまではシェークスピアを下敷きに、オセロやリア王のストーリーを比較的丁寧になぞる芝居が多かったんですが、路線変更後はそれがギリシャ悲劇になっています。ギリシャ悲劇ってのは、陰惨な話が殆どなので、新感線の底抜けの明るさにそぐわないのですが、脚本家・中島、演出・井上の努力で飲み込みつつあるようです。後は役者達がどう肉体化するかにかかるんだと思うのですが…
 芝居は「ナマモノ」です。生きていて日々変化します。一日二公演だと、昼と夜で微妙にテイストが変わります。私が見た回は、酷評された前日の舞台とは変化していまし
た(見ていずとも明確)。 本作は「オイディプス」が下敷きなので、どうしても陰惨な進行に成りますし、南北朝は後醍醐天皇の怨念の時代です。そりゃあ どうしたって暗く成ります。橋本じゅんと古田新太のコンビが笑わしてくれるのですが、まだ大爆笑には届かない。東京で練習して大阪に凱旋して来いってんです! 大阪の劇団やんけ!…と思うんやけどねぇ。ただ、ゲキ×シネは東京公演の記録になるので、どう変化しているか楽しみでもあります。もっと役者が軽く飛び回る所が見られる筈です。
 さて、感動という点ですが、これはシレン(永作博美)の最後の台詞にかかっています。「蛮幽鬼」ラスト、稲森いずみの「この国を…」という台詞が、たった一言で観客の涙を絞ったように、シレンの一言が、どれだけ観客を痺れさせるかにかかっているのです。私の見た28日ソワレでは、それなりに感動的でしたが、感涙を絞るまでには至っていません。今暫く熟成に時間がいりそうです。こいつは客席とのやりとりの中から掴む以外にありません。
 公演前の練習で90%以上は完成出来ますが、最後の仕上げは客席との一体化からしか出来ません。幸福な例だと、第一日目、幕開け以降 次々に積み重なってどんどん完成して行くのですが、これは極一部の誠に幸福な例です。 28日の観客は温かで、よく反応していました。これも本作を一歩進めたのだと思います。
 新感線の芝居も高くなりまして、今回は13500円です。それだけ払って下手な芝居を見せられるんじゃたまったもんじゃありませんが、井上・中島コンビは、そろそろ掴みかけていると思えます。後、プロデュースゲストもいいのですが、劇団生え抜きのスターがみんなオッサン、オバハンになって、後継者がいないのも問題です。若手を育てる事にも神経を使っていかないといかんのやないでしょうかねぇ。
 話は変わりますが、7月に三谷幸喜が「桜の園」を演出します。チェーホフは脚本の扉に「三幕の喜劇」と記していますが、「喜劇としての桜の園」なんて見た事は有馬線。今までは「喜劇」の表記に対する考察が、左翼的なものでしかなく、文字通りの「喜劇」とは捉えられませんでした。民芸の宇野重吉が「喜劇・桜の園」を作ろうとした事がありましたが、劇団員が真っ赤(?)だった為、途中で失速してしまいました。今度は「笑劇の巨匠」の演出です。さて、どんな芝居になるのでしょうか、楽しみです。
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タキさんの押しつけ映画評2

2012-06-04 09:23:57 | 評論
タキさんの押しつけ映画評2

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。





(1)ダークシャドウ
  一切文句抜き、面白いのは100%保証、映画館に急げ~!
  元作は66年~71年の5年間放送されたソープ・オペラだそうで1200以上のエピソードがあるとか……当初、コリンズ家にやって来た家庭教師ヴィクトリアが主人公のミステリアスメロドラマであったが、徐々に幽霊や魔女が出てくるゴシックホラーとなり、コリンズ家のご先祖様・吸血鬼のバーナバス(ナーバスの組み換え?BAが一つ邪魔ですねえ、英語に詳しい方、解るなら教えて下さい。
 BARNABASがフルスペルです)が主人公となるや人気爆発、ストーリーはホラー・SF何でも有りの大暴走であったらしく、言ってみれば「スタートレック」「シービュー号」なんかのホラー版と考えれば良さそうです。 ティム・バートンの“さぁすがぁ~”と唸らされる所は、荒唐無稽ながら大真面目だった(らしい)元作をコメディタッチでリメイクしている所、元作を知らなくとも、その雰囲気が伝わってくるから不思議です。 コリンズ家の次期当主バーナバスは小間使いの女に手を付けて捨てる。所が、この女がとんでもない力を持っていて……バーナバスは鉄の棺桶に閉じ込められる羽目に……。
 200年後、ひょんな事から解き放たれて屋敷へと戻って来る。一族は没落していて、彼は家業を立て直そうと奮闘する。子孫たちと屋敷にいる面々はそれぞれ問題を抱えており、町にはまさかの(当然?) の存在も……という映画。一々荒唐無稽なエピソードの積み重ねながら、無理なく納得して見ていられる。久々に見た後「面白ェ~」と大満足出来る作品でした。
  キャストも文句無し、ジョニー・デップの怪演作として間違いなくNo.1、現当主エリザベス・コリンズのミシェル・ファイファーは必見!(いろんな意味で…個人的にはアカデミー助演女優賞を献上したい)。 エリザベスの娘・キャロリンのクロエ・グレース・モリッツもさすがの怪演、ただ これだけ怪作続きだとストレートプレイが出来なく成るんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまう。 とんでもない小間使い・アンジェリークのエヴァ・グリーンはこれまでキャラクターに恵まれず、今作が最高アピール作、間違いない演技力に裏打ちされているので怪演にも余裕有り。 ヘレナ・ボナム・カーター、お可愛そうに またこれですか……いや、見て確かめて頂きたい。
 傑作なのはクリストファー・リーが出演している事で、どんな役かはお楽しみ。他には元作の出演者が出ているらしいがこればかりは誰が誰やらサッパリですけどね。バーナバスが戻って来るのは1972年、丁度元作が終わったころで、今から40年前の風俗も懐かしい。ティム・バートンの異形ファンタジーも此処に極まる。今後、これ以上の作品が出来るのか…楽しみなような、不安なような、次回作を見るのが怖い。

(2)ファミリーツリー
 さすがアカデミー脚色賞…と褒めたい所ながら、ちょっと待った!
  原題THE DESCENDANTSは「子孫」と言う意味、原作は未読だが、映画を見ていて、単に家族再生の映画だとは思え無い。家族再生を縦糸だとすると、主人公の一族がハワイに持っている土地の処分が横糸。恐らく原作は人間が生きる環境と商業主義への批判が最重要テーマだと思われる。
 邦題を「ファミリーツリー」なんぞと付けて、さも家族再生の作品だとコマーシャルするから見る側の焦点がぼけてしまう。
 ジョージ・クルーニーの等身大の父親という初めての役柄は見応えあったが、恐らく、これが上手すぎてメインテーマが霞んでいる。
 ラストシーン 子供二人に挟まれてテレビを見ている画は感動的なのだが、今一胸に迫って来ない。原作を読まないと確答できないが、脚色も家族愛に偏重しているのだと思われる。パンフレットもそちら側の評価しかしていない。試写会に行って「家族を抱きしめたく成った」と書いた人がいたが、私にはそんな感慨は浮かばなかった。
 あるいは私の見方が間違っているかもしれないが。
 だとするとこれは映画としては失敗作だと言わざる得ない。構成が中途半端で、焦点の合わせようが無い。残念
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タキさんの押しつけ映画評1

2012-06-03 22:10:32 | 評論
タキさんの押しつけ映画評1

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

(1)ミッドナイト イン パリ
ウッディ・アレン最高!最上級の大人のメルヘン(メーフィェンと言うべきか?) 主人公の興奮がストレートに伝わって来ます。
 実にたわいのない話ですが、W・アレンの夢が詰まっていて(元々パリが大好きな人ですから) 創っていて監督本人が一番興奮していたんだろうなぁと想像出来る。
 ギル(主人公であると共に監督の分身、演じるオーウェン・ウィルソンが段々W・アレンに見えてくる)は売れっ子のシナリオライター、婚約者のイネズ及びその父母とパリに来ている。彼は1920年代のパリに憧れが有り、パリに暮らして小説家に成りたい。対して、イネズとその家族は典型的な俗物ヤンキーで、そもそもこの二人が婚約者だというのが不思議(まぁ、そう言う設定ですわ) ある夜、深夜道に迷ったギルは年代物のプジョーに乗った男女からパーティーに誘われる。
 着いた所は20年代のカフェで、そこではコール・ポーターが弾き語りをしており、彼をパーティーに誘ってくれたのはフィッツジェラルド夫妻だった。
 そこでヘミングウェイにも出会い、翌日には自身の小説を持ってガートルード・スタインのサロンに赴く、そこにはピカソと愛人アドリアナがいた。
……と、およそ作家・芸術家ならめくるめく、失神してしまいそうな興奮の体験をする。
 ってなストーリー、現代のアメリカ人はみんな俗物に描かれていて、こりゃあカンヌで大受けしたはずですわ。フィッツジェラルドは妻ゼルダに振り回されてるわ、ヘミングウェイは暑苦しいオッサンだわ、etc etc…ギルはダリの絵画のモデルになったり、ルイス・ブニュエルに映画のアイデアを語ったり、まさにアレンの想像、夢がこれでもかと詰まっていて、それがこちらに伝わって見ている観客も一緒に興奮してしまう。 このままだとギルは勿論、観客も20年代のパリから抜け出られなくなる…と思いきや、もう一つの仕掛けで、ちゃんと現代に帰って来る。ここがアカデミー脚本賞の真骨頂、唸らせてもらった。別段、この時代の知識などなくとも、本作の楽しさは減じるものではない。ギルの興奮をそのまま受け入れれば良い。
 キャスティングも実に豪華で、特にアドリアナを演じるマリオン・コティアールに恋しない男はいない。エイドリアン・ブロディのダリもそっくりだし、アリソン・ピルのゼルダはまさにこんな女(ひと)だったのだろうと思わせる。 五夜のタイムスリップの結果、ギルは多くを失うが、最後に素敵なプレゼントが待っている。兎に角、ユーモア・ウィット・優しさ満載の作品です。全身全霊をこめて鑑賞をお薦め。

(2)メン イン ブラック3
 アッハヒハヒハ、ようやる!! 全3作中 最高作です。但し!!! タイムパラドックスの細かい決まり事を一切考えてはならない!それを言い出すと最初から最後まで引っかかりまくる。 一切問答無用で受け入れなければならない。このルールさえ守れば、至極楽しめる作品であると保証します。SFのそこいらに拘りをお持ちの方は鑑賞をお止めになられた方が無難であります。
 ウィル・スミスはいつものウィル、あまりにも歳を取らないので、彼こそがエイリアンじゃないのかと思うほどです。K(T・L・ジョーンズ)の40年前を演じたジョッシュ・ブローリンがこれまた嵌り役で傑作です。小難しい理屈抜きに楽しんでいただきたい。
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