やくもあやかし物語・2
初めに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。
言語学の先生が言った。
聖書の最初に書いてある言葉らしい。聖書というからキリスト教なんだ。
わたしはクリスチャンじゃないから、きちんとは分からない。
でも、それは「言葉と云うのは大切なんだよ」という意味なんだろう。
「ちょっと意味が分かりません」
ルームメイトのネルが大胆なことを言う(^_^;)。
「はい、どんな風にわからないんですか、コーネリア・アサニエル?」
「わたしはエルフです。エルフはたいていシンパシーでコミニケーションをはかります。だから初めに言葉ありきにはなりません。言うなれば――伝えたい――というパッションではないかと思います」
そう言うと、クラスの何人かは――そうだね――という顔をした。
宗教染みた話は、民族とか国とかでいろいろアツレキとかがあるからね、簡単には踏み込めないよ。
「そうね、でも、考えてみて。シンパシーで通じた後はどうかしら?」
「後というと?」
「『お元気?』とか『どこへ行くの?』とか『お腹空いたぁ』とか、情報やら気持ちを伝えるでしょ、それって言葉、シンパシーにしても言葉に置き換えて理解、あるいは、次のコミニケーションに入らない?」
「え、あ……そうですね」
「人間は、感情を整理するにも、何かを伝えるにしろ言葉に寄らなければできないんですねえ」
「あ、分かりました」
完全には腑に落ちてないみたいなんだけど、そう返事する。
まあ、もっと先を聞いてみないとね。ちょっと早まって質問してしまったという気持ちもあるみたい。
「バベルの塔というのを知っていますか?」
わたしを含めて、みんなイエスと応える。
「天にも届こうかという塔を作ったんで、神さまが『こんな神をも畏れぬ塔を作ってしまって、神としては気分が悪い。よし、これは人間がみんな同じ言葉を喋っているからだ。これからは、人間の言葉をバラバラにしてやる!』と言いました。それ以来、バベルの塔も人間の言葉もバラバラになってしまいました」
うんうん、頷く者が大半。聖書では有名な話なんだろう。
えーと、でも、なんだかキリスト教の授業のようになってきた。
「しかし、言葉の中には神がバラバラにしたのにも関わらず、ほとんど同じ言葉が同じ意味で使われることがあるんです。言ってみれば神にも打ち勝った言葉ですね」
え? え? なんだろ?
「臓器移植で、臓器を提供する人をなんといいますか?」
ドナーです。
何人かが口をそろえて、残りのみんなも頷いた。
「そうですね、日本語でお寺にお金や品物を寄付する信者を、どう言うでしょうか?」
え、ええ?
みんな分からない。だよね、日本の仏教なんて、世界的規模で言えば完ぺきに少数派だもんね。
「ヤクモ・コイズミ、分かりますか?」
ヤバイ、フラれちゃった。
「えと……えと……」
うちは浄土真宗なんだけど、ちょっと分からないよ。
「ハズバンドのことを、ちょっと古い日本語で言ったら? 今でも、ママ友同士の会話では使われているわよ『うちの○○ったら、昔はいい男だったんだけど』とか」
「あ、ああ、亭主? あ、ダンナとも言います!」
「そうダンナ、漢字では、こう書きます」
旦那
う、わたしより字がきれいかも(;'∀')
「店の主人なども、この旦那といいました」
うんうん。
「で、元々は、お寺に寄付、つまり提供する人のことを旦那と言いました」
ああ!
みんな――分かった――というような顔をしている。
「元は、インドのサンスクリット語でお寺への提供者をダナーと言ったのが、3000年かけて地球を東西にグルーッと回って、それぞれドナーと旦那という原型を良くとどめた言葉として出会ったわけですね」
なるほどぉ
「つまり、神さまがバラバラにしたのにも関わらず、籠められた精神の大きさ強さによっては、そのまま残ることもあるんです」
そうかそうか
「言霊と言ってもいいでしょう、そういう言霊の強い言葉を繋いだものが呪文、あるいは魔法の詠唱になるというわけですが、それは魔法学のソフィー先生から教授してもらってください」
なるほど、こうやって先生たちは連携しているんだ。
「コーネリアが言う通り、まずは、パッションです。そしてシンパシーによっても伝わりますが、言葉に寄らなければ肝心のところは伝わりません。まずは言葉から始めようということで、次にいきますよぉ」
ちょっとだけ面白くなってきたかもしれない。
☆彡主な登場人物
- やくも 斎藤やくも ヤマセンブルグ王立民俗学校一年生
- ネル コーネリア・ナサニエル やくものルームメイト エルフ
- ヨリコ王女 ヤマセンブルグ王立民俗学学校総裁
- ソフィー ソフィア・ヒギンズ 魔法学講師
- メグ・キャリバーン 教頭先生
- カーナボン卿 校長先生
- 酒井 詩 コトハ 聴講生
- 同級生たち アーデルハイド メイソン・ヒル オリビア・トンプソン