大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

タキさんの押しつけ映画評・15『最強の二人』

2012-08-31 21:44:38 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・15
『最強の二人』


 この映画評は、わたしの友人で映画評論家のタキさん(滝川浩一)が個人的に、仲間内に回しているものですが、面白くてもったいないので、タキさんの了解を得て、転載しているものです。

 久し振りのフランス映画、本作はフランス歴代3位の大ヒット作で、ドイツを始めヨーロッパ各国でもヒット。セザール賞主演男優賞を授与されている。
 パラグライダー事故で全身不随になった富豪フィリップが介護人の面接をしている。黒人ドリスはその面接を受けに来たのだが、端から採用される気はなく 失業保険金を受け取るための書類にサインが欲しいだけだった。しかし、数多い応募者の中から採用されたのはドリスだった。
 かくしてシニカルな富豪と、粗野で無教養な黒人青年のコンビが誕生、一切噛み合わないこの組み合わせがやがて奇跡を生み、二人は強い絆で結ばれていく……というストーリー。

 これは実話がベースであり(ドリスのモデルは黒人ではない) ご両人共に健在である。
 しみじみ人生を語る映画を撮らせればイタリア人がNo.1であり、人生を謳歌する映画はフランス人が上手い。本作は確かに名作であると思う、見ていて胸の真ん中がほんのり暖かくなってくる。ただ、パンフレットには「大爆笑」 「涙が溢れる」 などと最大級の讃辞が踊るが…ちょっと待った!
 
 各シーンは微笑ましくはあるが「大爆笑」には遠い、「涙が溢れる」どころか これじゃ泣けない。ヤバイ!俺の感性が鈍くてこの作品の良さが理解できないのだろうか……で、知り合いのフランス人に聞いてみた所、彼女も、その友人達も「良い映画だとは認めるが、何故ここまでヒットしたのかは理解の外だ」との返答。良かった、とりあえず私の感性だけがおかしい訳ではなさそうだ。
 では、どこに問題が有るのか…「最高の人生の見つけ方」をご覧に成っているだろうか。ジャック・ニコルソン(富豪)とモーガン・フリーマン(自動車工)は共に末期癌で余命短い。この全く境遇の違う二人が、それぞれ人生でやり残した事を命あるうちにやり尽くそうと旅に出る…っていう話で、本作のベース実話を参考にしたんじゃないかと思えるほどなのだが、この作品こそが「大爆笑」と「溢れる感動」というに相応しい。あなたが未見であるなら衷心から一度ご覧になることをオススメします。

 さて、フランス映画とハリウッド映画の間には、製作作法(哲学ともいえる)、映画文法に大きな隔たりが有る。また、フレンチとヤンキーの観客の好みも違う。ただ、この違いは昔から有るのだが、古くは「望郷」(ペペル・モコ/ジャン・ギャバン主演)や「ヘッドライト」から一連のフィルム・ノアール、「パリのめぐり逢い」などのクロード・ルルーシュ、最近ではリュック・ベッソン作品にはもっと観客を引きつける工夫がされている。本作はこれらとは系譜を異にする…いわば「潜水服は蝶の夢を見る」と同じジャンルと見るべきなのかもしれないが、各シーンの作りから判断するに「潜水服~」よりはハリウッド映画に近い作りになっている。 ならば、本物の感動実話をベースにしながら、この乾いた感覚は何なんだろうか。 要するに感情移入する一歩手前でシーンが切れているのだが、ハリウッド作品のように「感動の押し売りはしない」って事にしては、「ほんの後一歩」の所まで作り込んである。役者が巧すぎて演出意図以上に味わいが出てしまっているとも考えられる。 思うに、実在のモデル達をリスペクトするあまり、ドキュメンタリー性に拘り過ぎたかってのが、当たらずとも遠からずなんだと思う。ただ、作りは間違いなく輸出を意識しているので、ならば娯楽性にもう少し気を使った方が良かったんじゃないかと思われる。 この辺りに男優賞は取れても作品賞は逃がしている原因があるのだろう。

 こんな書き方をしておいて 今更の感はあるが、感動のお薦め作品である事は間違いない。 ここからは余談であるが、本作の原題は「INTOUCHABLS」 パンフレットにはなぜか英語で「UNTOUCHABLS」とある、いずれも形容詞で「触れてはならない」 「触れることが出来ない」と言った意味だが、フランス語の場合、この形容詞が複数形(語尾に“S”が付く/フランス語では主語が複数形だと それに掛かる形容詞も複数形になるらしい)になると、名詞扱いになって、いわゆる インドの「不可触民」を指す言葉となる。思えば英語のほうも、FBIエリオット・ネスのドラマのタイトルであり、マフィアを指す表現であり その裏には「穢れた奴ら」が隠喩として隠されている。 主人公二人に掛かる形容詞だから複数形であり、名詞形としてドリスとフィリップの階級(カーストに引っかけてある)を暗喩し、そして まさにこの二人の友情には何人たりとも触れるべからす、とまぁトリプルミーイングなタイトルなのだと考えるのは深読みのし過ぎだろうか。フランス人の間にも同じように考える人がいるそうである。余談でござる。 アッハ、ここまでお読みいただいたアナタ、長々とご苦労様でございましたぁ。
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タキさんの押しつけ映画評14・『プロメテウス』

2012-08-26 07:05:34 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評14
『プロメテウス』


 これは悪友の滝川浩一氏が個人的に仲間内にながしている映画評ですが、もったいないので、本人の許諾を得て転載しているものです

 アッハッハッ こうりゃ 強烈に賛否が真っ二つになりますなぁ。
 あっと、その前に、リドリーには トニー・スコットのお悔やみを申し上げます。さぞや気落ちされておられるでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
 
 さて、映画ですが……う~ん、ちょっとストーリーに凝り過ぎましたねぇ。記念すべきエイリアンⅠの前段のエピソードになるので、矛盾しないように考え抜かれているようで、デカいミスが二つ(これは絶対容認しかねる)、 小さな疑問符のつくのが四つほどおます。さて、あなたのカウントだと幾つになるんでしょうねぇ。ただ、まぁええ根性してるなあとは思います。
 この映画、規模の割に全米での稼ぎがあまり良くなかったんですが、見ていて即判りました。本作は中西部及び南部の 所謂バイブルベルト地帯では上映出来ません。進化論を学校で教えただけで豚箱行きの州で、ハッキリ人類をつくったのは宇宙人だなんぞという映画を上映できる訳がない。こいつは端から全米公開出来ない前提で作られている。後は全世界公開でどれだけ稼ぐかですけど今のところ数字不明です。
 SF映画としてはええ線行ってるとは思いますが、先に書いたようにミスも有るんでそこが気に掛かる所。
 これから見る人の邪魔にならない程度に言うならば…まず、テクノロジーの進化度合いにチグハグがある。もっとも、エイリアンⅠは、ノストロモ号が貨物船だったので、ここまでのオーバーテクノロジーには無縁だったと言えそうです。しかし、Ⅱにおいては軍隊の出動に成っているので、この矛盾にはひっかかる。Ⅲは物語世界が先祖返りしているので無視するとして、会社がその後も存続しているので、人類起源か最終絶滅生物兵器エイリアンか、どちらを優先しているのかってえ問題が出てきます。こらあ、プロメテウスⅡかエイリアンⅤでも作らないと決着が着きません。
 私なんかはかえって今後どうなるのかワクワクするんですが、見た人みんながそう思ったかと言うと、結構怒っている人が多いんですよねぇ。何がそんなに気に入らんかったかって確認すると、これまたバラバラなんで…今更ながらSF映画ってなぁ難しいもんであります。この辺りを敢えて無視すれば、私なんかは良く出来た作品だとおもうんだよねぇ。  
 
 それにつけても3Dはどないかしてほしい。今日も字幕スーパーを見ようとしたら3Dしかなかった。未確認だが、本作は後からコンピューター処理で3Dにしてあるとおもわれる。こんな程度の画像を見せられて別料金を盗られるのは絶対に承服出来ない。ほんまにええ加減3Dはやめてほしい。バイオハザードⅤの3D予告をやっとりましたが、Ⅳの時と同じで「飛び出す映画」です。ほんまにええ加減にせえへんかったらスクリーンに火ィつけるよ!ガルルルル
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タキさんの押しつけ映画評13・『あなたへ』『るろうに剣心』

2012-08-25 17:51:16 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
『あなたへ』『るろうに剣心』


これは友人の映画評論家タキさんが、個人的に仲間内に流している映画評ですが、深さ、趣、面白さは、もったいなく、本人の了解を得て転載しているものです。


『あなたへ』
 高倉健さん、ええねぇ~80越えてるのに、立っているだけで絵になります。
 歩いている姿はヤッパリご老人なんだけど、黙って立っていたり座っているだけで「高倉健」です。
「単騎、千里を走る」がもう6年前なんですねぇ。後何回、この人の「いずまい」「佇まい」をみれるんでしょうねぇ。
 映画館は爺ちゃん婆ちゃんで満タンでした。今時の20代は「残侠伝」も「番外地」も知らんでしょうから仕方ないけど、我々年代も少なかった。60年安保から全共闘世代とお見受けする。「止めてくれるなおっ母さん、背中の桜が泣いている」の世代ですねぇ。ちゅうことは、これで正解なんですかねぇ、昭和28年生まれは所詮 学生運動乗り遅れ組ですからねぇ。
  映画 映画~ 正直、さほど感動的な内容じゃありません。というより、敢えてそういうバックシーンを切り捨ててあります。初老の刑務官と童謡歌手が結婚し、妻が先に死に その死後「遺骨を故郷の海に散骨してほしい」との遺書が届く。
 この夫婦が出逢うまで 彼らの人生に何があったか、ほんの僅かに言及されるだけ。15年の夫婦生活も 何げない風景が追憶されるだけである。夫は、極短いセンテンスの2通の遺書に込められた 妻の真意を測りかねながら、妻の故郷へと旅をする。
 ご想像通り 旅の途中で出逢う人々との交歓から 次第に理解の糸口を掴んでいく。身も蓋も無い言い方をすれば「人間、皆 別々な時間を生きている」ということで…さて健さんは それが判った上で 亡き妻と どう別れるんだろうか、という内容です。
 例によって健さんはあんまり芝居していません…というより、そのまんま「ドキュメンタリー高倉」です。それに合わせ脇役陣が演技するのですが、ビートたけしが、健さんの向こうを張ってノープラン芝居をしています(何ちゅう奴っちゃ) しかし、ここは脚本が先読みしていて絶妙なキャラクター設定にしてあり、観客には大受けでありました。(どんな設定かは教えね~) 佐藤浩市はもうちょっと老けないと設定上無理があるんですが、それだとバレてしまうので これはこれでええのかな?
 健さんが 大滝秀治さんの仕事をベタほめしているのですが、見ていて「なるほど」と納得、健さんより6歳年上ですが、全く違う道を来た二人が、ほんの短い台詞のやり取りで人生を演じきる、こういうシーンに出逢うと 本当に日本人で良かったなあと実感します。

『るろうに剣心』
 アクションは確かに良く出来ていますが、こらぁ早回しの「香港カンフー」ですわいな。それもその筈、アクション監督/谷垣健治、この人が作ると全部そうなる。カンフー映画にハンドカメラを持ち込んで、変則方向から撮ったシーンを合成(ジェイソン・ボーンシリーズのあれですわ)したらこういう画になる。それなりに迫力はあるんですが、凄い映像・新しいアクションを見た…とは言えません。しかし、本作の問題点はここじゃない。
 大沢監督は「原作に忠実にではなく、誠実に作った」と言っている。この人が言うのならその通りなんだと思います。私、原作は未見ですが、本作の問題点は、総て原作に有ると断言しちまいます。
 世界観が薄っぺら過ぎるんです。原作者はあんまり歴史に敬意を払っていない…というより知りません。実在した斎藤ピンだとか山県UFOとか出てきますがおそらく名前を知っている程度でしょう。主人公の「不殺の誓い」の象徴として逆刃刀ってのが出てきますが……笑止!刃など無くとも日本刀で頭殴られたら即あの世行きです。
 いやいや、これは時代劇に良くある設定で そんな些末を言うとる訳ではないのです。つまり、一事が万事この調子 今時 少女漫画でも武器の扱い・設定には結構こだわりがあります。しかるに本作はまるで先祖返りの少女漫画。まぁ、絵柄と連載当時女の子のファンが多かったってあたり、さもありなんです。未読漫画が映画化されると、即 本屋で大人買いになるんですけど、今回はパ~スですわ。佐藤タケルンと武田エミリンのファンの方にはオススメいたしますです。
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高校演劇・驚異の第33回 高校・中学校軽音楽系クラブコンテスト

2012-08-15 23:10:58 | 評論
驚異の第33回高校・中学校軽音楽系クラブコンテスト

 この8月の10日から19日まで、松下IMPホールで第33回 高校・中学校軽音楽系クラブコンテストの予選が行われる。近畿一円から130校あまりの軽音楽系のクラブが集まって大盛況である。
 参加校数は、演劇部の近畿全体のそれを下回るが、大阪の高校に限って言えば、大阪府高等学校演劇連盟のコンクール参加校を僅かに上回る88校である。また平均部員数も、おそらく演劇部のそれを大幅に上回り、100人を超える軽音部も珍しくない。
 予選が行われた、松下IMPホールはキャパ800を超え、そのホールが9日間毎日満席になる。
 そして、本選に当たるグランプリ大会は、12月24日舞洲アリーナで行われる。舞洲アリーナの収容人数はよく分からないが、10000程はあるであろう。パンフを見ても16000人の軽音楽!!とうたってある。
 高校演劇の近畿大会はオフィシャルな発表はされていないが、観劇した印象では二日間で、延べ1000から1500の間と思われる。軽音のおおよそ1/10といったところであろう。

 高校生の身体表現文化は、明らかに演劇部などから離れ、軽音やダンス部に移行している顕著な現れだと思う。高校演劇連盟、なかんずく大阪の連盟は、考えるところに来ているように思える。高校・中学校軽音楽系クラブコンテストの参加校の大半は大阪の高校である。

 こういう反論が返ってくるかもしれない。 高校・中学校軽音楽系クラブコンテストの主催者は産経新聞と三木楽器である。手弁当の連盟とは比較にならない。
 しかし、逆に言えば、ここまで産経新聞と三木楽器を33年間にわたって主催たらしめた軽音楽にそれだけの魅力があると言える。

 もう一つ驚いたことは、審査基準がしっかりしていることである。
 テクニック面では、リズム、楽器アンサンブル、歌唱力、ボーカルアンサンブルに分けて配点。
 全体評価でも、プレゼンテーション、応援度、総合力に分け、総合計200点で点数化している。応援はともかく(上演中に応援されてはたまらない)高校演劇としても見習うべきものがあると思う。

 巨視的に見れば、高校生の身体表現文化がマスとしては大きくなってきており(軽音、ダンス、吹奏楽の隆盛)喜ばしいことなのであるが、高校演劇をお里とするわたしは危機を感じる。

 もう一度の繰り返しになるが、大阪の参加校数は、軽音が演劇を超えてしまった。
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タキさんの押しつけ映画評12・アベンジャーズ

2012-08-15 11:52:29 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評 
アベンジャーズ


 これは、悪友の映画評論家タキさんが個人的に仲間内に流している映画評ですが、視点と語りが面白く、もったいないので、本人の了承を得て転載したものです



 すみましねぇだ、おらぁアベンジャーズ みそこなってだよぉ。

 こんな東映マンガ祭り的ヒーロー大集合映画、古くは踊る狸御殿的スター総出演映画が面白ぇわきゃあねえ!って思っとりゃあしたわよ、はい~。
 いやぁ、面白かったでっせ。
 そらぁ、突っ込み所満載ですけど、ああた、そんな事一々言うとったらアメコミ映画なんざ観れまへん。てな訳で、メッチャ納得満足作品でありました。

 さすがの自他ともに認める漫画読みではありますが、アメコミまで網羅しちゃおりません。アメコミに詳しい知り合いに確認した所、アベンジャーズの初出は1963年だそうで、ちゅう事はもう50年になります。私ャ知りませんでしたが、アベンジャーズの最初の結成時には「シールド」は関係なかったようで、ちゅうかマーベルユニバースにシールドが登場するのは随分後に成ってからのようです。しかも、シールド長官のニック・フューリーは、始め白人キャラクターだったそうです(アッチョンブリケ!) も一つ言うと、今回の映画と同じメンバーの原作は無いようです。大変なんでしょうねぇ、ばらばらのヒーローストーリーを一つにして、矛盾の無いように再構成するのは結構高度なテクニックが必要だろうし、観客側にコンセンサスがないと理解し辛い。
 たとえ、これまでのキャラクター作品を全部見ていても、マーベルユニバースに通暁していないと理解不能な部分が幾つかあります。ましてや、ハルクなりキャプテン・アメリカなり、何か見ていない作品が有るとさらに辛くなります。 そんな時は、そう言うストーリーなんだと流してしまえば宜しい。なぁに、すぐに怒涛のアクションシーンが始まって、そんな事は気に成らなくなりますわい。とは言え、全面的に納得して見たい私としては不満なんですけど…取り敢えずこの件は忘れましょう。 こういう作品で気になるのは、数多ヒーロー登場の中で、さあ誰が一番強いのか?という事ですが、まぁ それぞれが能力に一長一短があるので、一概には言えないのでありますが、なんと「ハルク最強!」っちゅう結論になるようです(ヒェ~!)

 所で、実はそんなこんな、ど~でもええんどす。ブラックウィドウ/スカーレット・ヨハンセンがメッチャ綺麗! もうこれだけでこの映画百点満点の三百点ですわい。「アイランド」の時から綺麗な娘だなと思っとりましたが、「アイアンマン2」で魅力爆発、今作では少しふっくらして…もう、抵抗不能!殊にあの唇たるや……いやいや、この辺にしときます。

 ラストに次回作(そら絶対おまっしゃろ)のボスキャラらしき怪人が登場、このキャラ、サノスと名乗るタイタン人(当然宇宙人)で、悪役キャラとしてはかなり人気があるようですが、アタシャ存じ上げません。またもやイライラさせられそうですが、きっとスカーレットが救ってくれるでありましょう。
 
 最後に、エンドクレジットに成っても絶対席を立ってはいけません!最後の最後に必見シーン有り、これを見逃すと本作を見に来た意味が半分吹っ飛びますぞ。
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高校ライトノベル・嗚呼タソガレの携帯電話!?

2012-08-14 17:19:57 | エッセー
嗚呼タソガレの携帯電話!?

 二日前から、未発表、旧作を含めて、ある言葉を書き直した。
 
 携帯電話→スマホ  チョー→ガチ

 息子が、この春に高校生になったのを機に携帯電話を許可することにした。
 で、買ってきたのがスマホである。だから愚息は「携帯」とは言わずに「スマホ」と言う。聞いてみると、友だちの大半が、このスマホだそうで、携帯は少数派になりつつあるらしい。
 ちなみに、パソコンでSUMAHOと入力し変換すると「スマホ」が素直に出てくる。
 一昔前なら「須磨帆」と出てきたであろう。ちなみにスマホの普及率は、まだ20%に過ぎない。
 しかし、シンガポールでは60%を超えている。
 なぜシンガポールを引き合いに出したかというと、十年以上前の新聞にこうあった。
「進むシンガポール信号機のLED化」
 当時日本の信号機は、そのことごとくが、いわゆる電球であった。頻繁にメンテナンスしなければならず手間も経費もかかるものであった。しかし、日本の信号機のメンテナンスを生業とされている方もたくさんおられ、また、信号機の数も、シンガポールとは二桁以上の違いがあり、おいそれと切り替えられなかったようである。
 そこへいくとシンガポールは国家としての図体が小ぶりで、切り替えが容易であったようである。で、今の日本の信号機はおおむねLEDに切り替わった。

 スマホは普及率こそ20%であるが、テレビのCMはスマホが携帯を追い越し始めている。数年後にはスマホが大勢を占め、携帯は「ケータイ」という言葉ごと絶滅していくのではないかと思っている。それで先を見込んで携帯をスマホに切り替えたのである。

 言葉もそうである。男前のことをイケメンと言う。一昔前はハンサムと言った。今は紳士服のノスタルジーなネーミングで、ハンサムスーツがあるくらいなものである。もう一昔前には「ソース顔」「しょうゆ顔」という細やかな言い分けもあった。イケメンの前半分は、イケテルで、これは明治時代から軍隊の隠語である「イカス」の転訛したものである。「イロケをつける」というのも、海軍で本来の意味から外れ、隠語となった言葉で、本来の機能や性能以上にイカシタ状態にしておくことで、今の海上自衛隊にも受け継がれている。護衛艦の艦内の信号旗や、各種ロープの芸術的と言ってもいいほどの美しいまとめ方がこれにあたる。
 「チョー」「マジ」という言葉がタソガレかけている。「チョーイケテル」「マジイケテル」は少数派になりつつあり、「ガチ」に置き換わりつつある。「ガチ、ガセ」とセットの言葉で、昔は怪しい情報などを「ガセネタ」と言ったが「ガチネタ」という言い回しは無かった。

 携帯情報端末機を「ケ-タイ」と言う世代は、近い将来「ええ、ケータイだって」と若者からいわれるかもしれない。
 そう言えば、AKB48の、わたしのオシメンである某嬢などは、メンバーから「昭和生まれのアイドルなんて考えられな~い」といじられていたが、意気軒昂でいる。彼女は先を見越しているように感じる。
「二十世紀生まれのアイドルなんて考えられな~い」
 その時代は、もうすぐそこに来ている。
 かく言う小生(古いでんなあ、男の一人称です)は、いまだに携帯電話も持たない原始人でアリマス。
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タキさんの押しつけ映画評11・トータルリコール

2012-08-13 15:54:29 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
トータルリコール


 面白い!そいつは保証、但し体調は整えてから見ていただきたい。兎に角アクションに次ぐアクション、特殊映像がド派手にブッ飛んで行きます。このジャンルは大好きだし見慣れているのですが…いやあ~疲れた、見終わってヘトヘトですわ。
 
 監督はレン・ワイズマン(ダイ・ハード4)、出演がコリン・ファレル(SWAT)ケイト・ベッキンセール(アンダーワールド)ジェシカ・ビール(Aチーム)と誰か一人でアクション映画が一本撮れる役者が勢揃いしている。これでド派手な映画に成らない訳がない。
 レン監督はディック原作のファンというよりは、ディック原作映画のファンらしい。本作は小説の再映画化ではなく、前作ポール・ヴァーホーベン/アーノルド・シュワルツェネッガー版のリメイク。
 設定が火星に行かず、地球上で終始する以外はほぼ同じ、前作では火星の大気改造というスペクタクルが有ったが、本作にはそれに代わる設定が用意されている。台詞も殆ど同じです。
 レン監督がディック原作映画のファンだというのは間違いない。本作の世界観には「ブレードランナー」や「マイノリティーリポート」が混ざっている。ディック原作映画のファンなら思わずほくそ笑むこと100%保証、小道具にしても、車はスピナーだし、ピストルはデッカードタイプ…いくつあるか探してみるのも面白い。 ディックは現実と虚構、記憶と自我をテーマに数多の作品を書いている。そのテーマは現代にいたるも普遍性を失わず先端を走っている。ただ表現内容は惜しいかな古い。だからタイトルとテーマだけを借りて内容は全く新作の映画になる。今作を見るにF/Xの進歩には今更ながらに驚かされる。だったら、そろそろ「高い城の男」や「逆転世界」なんてな長編の映画をみたああいなあ~。
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高校演劇・志忠屋亭主 雑口雑言3『桜の園・3』

2012-08-06 06:32:17 | エッセー
●●志忠屋亭主 雑口雑言●● ☆☆滝川浩一☆☆

●亭主、更に観劇す 「桜の園」(3)
●いよいよ芝居が始まった。原作通りの台詞が交わされる、総ての台詞を覚えているわけではないが、違和感は無い。ところが、この導入部からしてそこはかとなく可笑しい。台詞のニュアンスが変わっている、殊更ギャグを挿入せずとも、それだけで笑いが起こる。
●「泣き」の芝居と違って、「笑い」には注釈が必要である。100年前には笑えた状況も、現代人には意味不明である事が多い、よって、現代的に台詞を変えたりギャグを挿入する必要がある……と、早速エピホードフ(高木渉)にいかにもテレビバラエティー的なギャグが…「これはやり過ぎ?」と思うも会場の反応は温かい、そしてまた原作通りのやりとりに戻って行く。
●見ていて感心したのが、このシーンに出ている人々の人間関係がすんなり理解出来る事。ロシア戯曲のネックは、まず人名に馴染みが無いこと、またやたらと重々しく演じられる為、台詞に込められた意味になかなか到達できない、だから、当然の帰結として人間関係の把握に時間がかかる。だが、笑いを導入する事によって、見事にこの呪縛が外されている。私だけなら、過去の経験から判るのだろうと言われそうだが、一緒に行った友人が本作初見にも関わらず、頭から全部判ったと言っている。
●以後、これは挿入ギャグだなと思う台詞もあるが、基本、元のテキストのまま、チェーホフが本作を喜劇として書いたのだと確信、三谷の読み解き方は間違ってはいない。
●以降、次々と登場する人物達が各々少しずつズレており、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
●筆頭は、やはりラネーフスカヤ(浅丘ルリ子)だろう、この人は“絶品”である。天然の貴族夫人の可笑しさ
、それ故の悲しみ、しかし本人は自覚も後悔もしていない、と言うより理解していない。今や、世界はその様相を変えようとしている。その激動の時代の荒波を、木っ端のように、全く無防備に前世紀の遺物が渡って行く……このイメージ、そこにラネーフスカヤの悲劇があるのだが、浅丘はそれこそ自然体でさらりと演じている。まるでラネーフスカヤその人がそこに佇むようである。
●次いで、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ(大和田美帆)とトロフィーモフ(藤井隆)がフレッシュだった。殊に藤井は出色の出来と言って良い。もとより彼を単なるコメディアンと見た事はなかったが、今回の舞台には驚かされた。
●三谷は「桜の園」を何から何まで笑いに変えたわけではない。三幕ラスト、桜の園が競売に賦されたその後、ロパーヒン(市川しんぺー)が「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままである。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこの台詞の残酷さが浮かび上がる。
●ロパーヒンは、この物語の冒頭からラストまでほぼ出ずっぱりの役、彼一人だけが事態を正しく把握しており、終始状況打破の為に説得するのだが全く受け入れられない。市川は、この役を極めて誠実に演じていたが、この日は疲れが出たのか声を飛ばして(喉を潰して)いた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違った演技だっただろうと思われる。
●他にも何人か、声を飛ばしている役者がいたが、ナマモノの舞台としては、こういう日も避けがたい。
●阿南健次(没落地主ピーシク)は、いかなる役にも飄々と入っていく人なのだが、今一乗り切れていないように見えた。あるいは旧来の「悲劇」作法に引きずられたか?
●旧来の作り方にこだわりが有りそうなのは神野美鈴(ワーリャ)もそうなのだが、しかし彼女は三谷演出に添うべく努力しているのが良く判る。今後、この舞台で大化けする人がいるとすれば彼女に違いない。
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高校演劇●●志忠屋亭主、雑口雑言・2●●

2012-08-05 06:44:24 | エッセー
●●志忠屋亭主、雑口雑言・2●●☆☆滝川浩一☆☆
●亭主、更に観劇す 「桜の園」(2)
●「桜の園」という芝居がたどった歴史経緯はお判りいただけただろうか。近年、チェーホフの研究が進歩し、少なくとも、代表作の内、「かもめ」と「桜の園」は喜劇として書かれており、彼はドラマと喜劇を厳格に分けて考えていた事がはっきりした。
●事が混乱したのには、翻訳の問題もある。“コメディ”という単語は、単に「喜劇」をのみ指すのではなく、広く「芝居」そのものを指す言葉である。ただ、文脈の前後を読めば、チェーホフの言う“コメディ”とは、喜劇以外のなんでもない。長年意図的に読み違えられてきただけである。
●これに気付いていた宇野重吉は、「桜の園」を喜劇として演じようとしたのだが、(1)でも書いたように、名にし負う「劇団・民芸」、 座員達のかなりが彼の演出通りに動かなかったのは、想像に難くない。当時、この舞台を見たが、やはり「悲劇・桜の園」であった。 ●宇野の演出ノート「桜の園について」(麦秋社刊)を読むと、喜劇として演じることにこだわりがあったのが良くわかる。今回の舞台と、宇野が目指した物の間には隔たりがあるだろうとは思う。しかし、もし、宇野翁存命で、この舞台を見たとしたら……きっと、膝を叩いて大喜びし、彼独特の笑い声が劇場に響いたものと確信する。
●今回、「桜の園」が三谷演出で喜劇として上演される事が、「桜の園」にとってもチェーホフにとっても、どれくらい得難く、エポックメーキングであることか。きっと、天国のチェーホフもカッポレ踊って(な、訳はないか。ちゅうか、我ながら古いなぁ、カッポレ?)喜んでおじゃるでありませう。
●マイナーな舞台で、あるいは喜劇として上演された事も有ったかもしれないが、メジャーな舞台はこれが初めて。以後、この公演の演出が、一つの指標になるのは間違いない。
●三谷は、「笑いの大学」ロシア公演の時に、向こうの劇場でチェーホフのオムニバスを見に行き、観客が良く笑っていたのが新鮮だったと述べている。彼自身、「桜の園」を観て、悲劇なのだと感じていた。私とは、大体同年代なので、恐らく同じ民芸の芝居を観たのだろう、ロシアから帰国後、改めて「桜の園」を読んでみるに、これが「まごうことなき“喜劇”である」と確信。更に、VTRで確認してみると「なるほど、こうすればこのシーンから笑いを除けるのか」と、かえって新鮮な驚きがあったそうである。それと共に、「ならば喜劇作家の自分が“桜の園”を喜劇として再構築してみたいと考えるようになった」と述べている。
●さて、漸く今回の芝居についてである。
●見事な芝居だった。第一の興味は、三谷がどれだけテキストレジをして、原作に無いギャグを何ヶ所放り込んだのか、という事だったが、これが少々意外な結果となっている。
●それはさて置き、まず導入である。三谷は開演前に、青木さやかにヴォードビルを演じさせ、「今日の“桜の園”は喜劇だよ~」と、アピールする。三谷の観客は、兎に角笑いに来ている人が大多数。されど、演目が、あの「桜の園」である。芝居を良く観ている人ほど身構えている、これを適度にほぐす。大爆笑にはならないが(青木の悪口ではありませぬ)、確実に空気が軽くなる。
●続いて、上演前の館内アナウンスが入るのだが、これが二カ国語になっていて、まずロシア語が流れ、次いで日本語訳が流れる。初めは「携帯の電源はお切り下さい」とか、真面目に放送されるのだが……その内、ロシア語の中に“ピロシキ”という単語が聞こえる。「うん?“ピロシキ”?」と思っていると、「ピロシキには二種類ございます」と来たものだから場内は大爆笑、「本当に今日の芝居は、あんたらの知ってるのとは違うよ~」と二重の念押し、これは、最近彼がよく使う仕掛けらしい(「笑いの大学」の時には無かったと思う)、 これで劇場は完全に喜劇モードに切り替わった。
●場内灯が消え、舞台に灯りが入ると、そこは桜の園の屋敷、子供部屋である。女主人・ラネーフスカヤのパリからの帰郷を待つ人々。従来の「桜の園」の冒頭、そのままであるのだが……
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高校演劇●●志忠屋亭主、雑口雑言・1●●

2012-08-04 06:37:36 | エッセー

●●志忠屋亭主、雑口雑言●●☆☆滝川浩一☆☆

悪友滝川の、演劇評です。仲間内に回っているものですが、含蓄が深いので本人了解の上転載したものであります。

●亭主、更に観劇す。「桜の園」(1)
●映画評と分けて、別にこのコーナーを劇評の頁にするつもりではないのだが、何やら感じ入ったことを書こうとしたら、たまたま芝居が二本引っ掛かってしまった。個人的な事情を言わせて貰うと、先頃、漸く八尾の実家に引っ越して、現在、口の開いた段ボール箱に囲まれており、店で仕事をしているか、家で掃除・片付けをしているか、どちらかの日常。なんとか時間を作って映画に行き、更にヤリクリして芝居を観に行くのが精一杯。こんな日常でも、色々と面白い事は起こるのだが、いかんせん、じっくり考える時間が無い。

●と、まぁ言い訳しておいて、芝居の話である。今回観てきたのは、パルコプロデュース、三谷幸喜演出、「桜の園」である。三谷が初めて自作以外の本を演出する。しかも、かのチェーホフの名作「悲劇・桜の園」を喜劇として上演する。これは事件である。何をおいても観に行かねばならない。これを見逃しては、地下の(天上の?)チェーホフに申し訳が立たない。
●と、ここまで言うにはちょっとした、これまた事情がある。本編感想に行く前に、少々(?)ウザウザにお付き合い願いたい。
●チェーホフは、日本では一般に悲劇作家だと思われている。演劇に少しでも足を突っ込んだ事のある人ならば、彼が喜劇作家でもある事をご存知であろうし、「桜の園」の表紙を開くと、「四幕の喜劇」と書かれている事もご存知であろう。しかし、喜劇として演じられた「桜の園」を見た事のある者は一人もいない。かつて、民芸の宇野重吉(寺尾あきらのオトッツァマである)が喜劇として演ろうとしたが、ことごとく左翼座員に足を引っ張られ、潰されてしまった。左翼にあらずんば演劇人にあらずという時代でもあったし、これには歴史的経緯が付いてまわるのである。
●「桜の園」はチェーホフの遺作である。彼は結核療養の為、モスクワを離れており、その保養先で本作を書き上げた。モスクワ芸術座の為の喜劇を書こうと、かねがねモチーフを持っていたが、色々な人々との出会いに刺激されてこれを書き上げ、モスクワに送った。即、モスクワのスタニスラフスキー(演出)から「名作だ!感動した!」との返信が来た。このスタニスラフスキーというオヤジは、近代演劇界においては、神とも崇められる人なのだが、チェーホフとは、作品解釈、演出の仕方で再三大モメにモメる人でもあった。
●この人、殊更に何でも悲劇的ドラマに仕立てる癖があり、チェーホフが喜劇のつもりで書いた「カモメ」を悲劇として上演した前科持ちである。今回も、チェーホフは喜劇を書いたのだが、テーマの主軸に「没落貴族の悲劇」があったので、喜劇として演じられるのか不安になり、病身をおしてモスクワに戻った。公開直前の練習を覗くと、これがまごうことなき大悲劇として演出されており、抗議はしたものの、今更変更出来る時点では無かった。
●チェーホフの幸運は、同時代に、モスクワ芸術座という優れた演劇集団が在った事だが、背中合わせの悲劇は、そこに、スタニスラフスキーという天才演出がいた事であり、更に彼とは多くの点で意見の一致を見なかった事である。
●「喜劇・桜の園」にとっては悲運な事に、このスタニスラフスキー演出が大絶賛され、以後、「桜の園」は喜劇としては封印される事となり、チェーホフも、この公演の4ヶ月後にはこの世を去っている。かくして、作者の意志を無視したままに歴史は回って行く事となるのである。
●恐らく次回も劇評までは行かない。グダグダはまだまだ続くであろう。

この稿つづく
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高校ライトノベル・息子の宿題、そのつぶやきの意味

2012-08-01 09:33:50 | エッセー
息子の宿題、そのつぶやきの意味

「まだ、やってへんのん!?」
「そやかて、三時間も掛かるねんもん」

 夏休みの宿題の山を目にした、カミサンと息子の会話である。
 可もなく不可もない息子は、この春から、それなりの高校に進学した。

 で、高校生としての、最初の夏休み。七月の最終日まで、ほとんど手を付けていなかった。
「あんた、どこまで出来てんのん?」
 カミサンが、職業的勘で聞いた。その結果が、最初の二行の単純な会話になった。
 母親としての心配といら立ち。
 息子の幼い、中途半端な反抗的いいわけ。

 宿題は、「新聞のコラムを写しなさい」という単純なもの。
「コラムてなんやねん……」
 頭を掻きながらの、ボヤキでわたしも、カミサンも気はついていた。
 新聞のコラムを写せという宿題は、夏休みの宿題の定番だからである。
 そこで、息子は、余計なことを聞いてきた。
「これも、コラムとちゃうのん?」
 息子が示したそれは、いわゆるコラムよりも短い、海外支局のトピックスで、コラムよりも五十字ばかり少ない。その五十字の少なさに目を付け、その思いつきの裏付けが欲しいために、気弱な息子は聞いてきたのである。

 息子の思いつきは、広義的には間違っていない。コラムとは、小さな囲み記事を指し。厳密な定義はない。
 しかし、一般には、新聞の一面の隅や下にある。新聞社としての看板をしょった囲み記事を指す。
 朝日なら「天声人語」 サンケイなら「産経抄」のことであり、出題した先生も、そういう意味で出題されていることは、明らかである。
 コラムの意味を知っているわたしは正直「うまいこと考えよったなあ」と、セコイながら、息子のコラム解釈に賛同してやりたい気持ちもあった。
 しかし、息子の動機は不純である。たった五十字余りの書き写しを嫌がっての屁理屈である。で、普段ブログや、ネット雑誌で「屁理屈をこねまわしている」ように見えるわたしに、遠回しに賛意を得ようとしたのである。

「そんなもん三十分もあったらできるわ」
 わたしは、横から余計なことを言った。
「そんなこと言われても、ぼくは三時間かかるねん!」
「開き直りな! 三時間かかってもやりなさい!」
 息子は、カミサンから面を取られた。

 ここまでは、どこの家庭でも見かける、親子の他愛ない会話である。
 しかし、息子の次の一言が、わたしにはイギリスに独立を認めさせたアメリカのような感動を与えた。
「そやかて、ボクは作家とはちゃうねん」

 カミサンは気づかないようだったが、わたしには、まさに記念すべき一言であった。
 わたしは、五十五歳で教師を辞め、それまで二足のわらじであったのを、一足にした。
 辞めるにについては、親の介護や、ついて行けない職場の変化など、いろいろあったが、どうしても定年前の敵前逃亡の後ろめたさがついてまわった。
 だから、ことさらに、自分は作家なんだと言い聞かせ。ブログのプロフにも名刺にも、著述業、日本劇作家協会会員と書き込んである。
 思春期の息子は、そんなわたしを、どこか脱落者を見るような目で見てきた。

 わたしは、自称作家ではあるが、経済的には、とても胸を張って言えるような状況ではない。過去、百六十あまりの拙作の上演は、そのほとんどが高校生である。一部プロの方が取り上げてくださったが、作家としての収入は二百万ほどである。念のため、年収ではなく、三十年ほどの間の総収入である。
 印税は、現物支給。上演料は、一回五千円というのが大半。ネット雑誌の記事はノーギャラである。

 そんな息子が、とっさの言い訳とは言え、父を作家として認めたのである。

 聞き直すことはしていない。聞き直せば、思春期特有の辛辣な返答が返ってくることが分かっているからである。
 密かに、家庭内においては、この息子のつぶやきの意味が、わたしには独立宣言への認知であると思っている。
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