クラブはつらいよ 夏編三
夏マッサカリ! いかがお過ごしでしょうか? ごくまれに、この時期、地区で発表会をもたれているところもあるが、おおかたのクラブは開店休業。せいぜい合宿をやったり、地区の連盟主催の講習会。熱心なクラブは夏の全国大会を観にいっておられるかもしれない。しかし、自分たちの部活はほとんどやってない……というのが実情ではないだろうか。
最初に、おことわりしておくが、講習会や合宿を全否定するつもりはない。ただ、合宿にしろ講習会にしろ、「やった!」「参加した!」という精神的な充足感はあっても、即、実力には結びつかないと申し上げておく。
とくに合宿は、費用対効果の面で問題があるので「やめときなはれ」と、前回申し上げた。正直にみんなでワイワイやりたいのなら、合宿などという大義名分をかかげずに、ただのヴァケ-ションにしてしまったほうがいい。遊ぶときは遊ぶ。そこに国会議員さんの海外視察のような、変な名目はつけないほうがいい。
講習会に効果がない。と言うと、お叱りを受けるかもしれない。しかし「ほんまに、効果はうすいでっせ!」と言い切ります。講師の先生方は、その道のプロであったり、特別に技能優秀な顧問の先生であったりする。演技、演出、戯曲創作、道具、照明などの分野に分かれてワークショップのかたちで行われることが一般的であろう。講師の先生方は、たしかに熱心に教えてはくださる。そして、ここでコムツカシイ理屈ばかり覚えて、それを自分たちのクラブに持ちかえり、ハンパな理解のまま部活に反映させる。コンクールなどで、やたらと大仰な装置を持ちこんだり、コムツカシイ照明プランをもってきたりする。コンクールは多数の学校が一日に十公演近くやるのである。むつかしいプランや装置は、仕込みやリハに余計な時間と労力をとられるだけで、自他共に無駄で、迷惑なことである。演技、演出については言わずもがな。たった、数時間の講習で「わかった!」となれるほど生やさしいモノではない。わたしも、過去何度か講師をつとめたが、演技、演出、戯曲創作で実をむすんだことはない。 いくども、この「クラブはつらいよ」で触れてきたことであるが、部活は全国的に危機的な状況なのである。人と時間と金がない。演劇部もその例外ではなく。部員が五人以下というクラブがほとんどである。そこに優れているとはいえ、昔の(団塊の世代や、そのジュニアたちが現役であったころ)メソードは通用しない。だから、クラブはつらいのである。だからこそ、そのつらいクラブに合った、部活のメソードこそが、今必要なのである。
かつて、「演劇をとりまく環境が悪くって」とこぼした、アマチュア演劇の指導者に宇野重吉さん(わかりまへんやろなあ……寺尾明のお父さん。劇団民芸の創設者の一人。二年前に亡くなった「となりのトトロ」の、おばあちゃんの声をやった北林谷江の仲間……わからん人はネットで検索してください)が、こう言いました。「座敷一間ありゃ芝居なんてできるよ」 また実際、新派の大御所、島田省吾さん(緒方拳の師匠。わからない人はネットでどうぞ)は、マンションのリビングで一人芝居をやっておられました。
なにが言いたいかと言うと、この危機的な、つらいクラブの状況では、原点に立ち返らなければならないということである。演劇の原点とは、すなわち演劇の三要素。役者、脚本、観客の三つ。それゆえに、この「クラブはつらいよ」では、それ以外のことには、あえて触れない。しかし講習会で一つやって欲しいことがある。それは、芝居をやるときのマナーである。コンクールなどで、優秀な成績を残したクラブが案外マナーが悪くヒンシュクをかった例をたくさん見てきた。マナーについては後日余裕があれば触れたいと考えているので、ここではご容赦を。
この夏休み、私服を着て図書館にいき至福の時間を過ごし雌伏することができているであろうか? 四月からこっち、あなたは、きみは、もう何本、本が読めたであろうか? 何本芝居を観ることができたであろうか? 一度自分の頭の中で中間決算をしてみてはいかがであろうか。夏休みは、自分の頭の中の演劇という部屋の大掃除をやって、クローゼットの中味を増やす時である。
【基礎練習】
今回は年齢や、性別による表現の訓練について考えてみたい。以前から、高校生が、自然に表現できる年齢の幅はプラスマイナス五歳程度だと言ってきた。しかし、そう制約してしまうと、やれる本は、かなり限られてしまう。そこで、わたしとしては反則なのであるが、年齢と性別を超えた演技を少し考えてみたいと思う。
(1)子どもを演じる。子どもといっても、もう幼児は無理……かもしれないが、あえて挑戦してみる。幼児や児童の時期は身体の準備運動期間である。公園や街で見かける子どもをよく観察してほしい。とんだり、はねたり、はたまた無意味に叫んでみたり。笑ってみたり。一見無意味にみえる行動だが、そこには子どもの心理がうらづけとしてあることを見抜いてほしい。
○横断歩道 子どもが四五人駆けてくる。二人渡ったところで、信号が変わる。残った子どもたちは、一瞬たじろいだり、悔しがったりする。渡りきった子どもたちと、横断歩道を隔ててなにか、会話がある。信号と、向こう側の仲間を交互に見る子。フライングしようとする子。それを止める子。そこから、じゃれ合いになったり、ケンカになったりもする。やや長い信号。待ちきれずに「待て!」といわれた子犬のようにチョロチョロし、やがて、信号が変わるやいなや、声をはりあげながら、横断歩道を渡る子どもたち。
以上の状況を、いろんな設定でやってみる。公園に遊びに行く途中。遠足の日に登校する途中であった。友だちの家に新しく子犬が来たので見に行く途中。先生が入院しているので、そのお見舞いにいく途中。みんなで遊んでいたのが、急に雨が降り始めたので、急いで帰る途中。道路で倒れている人を見つけたんで、急いで大人を呼びにいく途中。などなど、
○ダールマさんが、こーろんだ! むつかしくはない。子どものころ、だれでもやった遊びである。高校生なら、数年前までは、やっていたと思う。そのころの感覚を思い出して、自分の中にうかんでくる無邪気なドキドキやハラハラこみ上げてくる、わけわかんない嬉しさを、ほんのちょっと増幅してやってみよう。喜怒哀楽の表現にブレーキがかかって、なかなか演技に入りこめない役者志望のきみには、いい練習になるだろう。
(2)老人になってみる。 老人になれというと腰(正確には、背中)を曲げる人がいるが、まちがいである。腰は落ちるものである。股関節を軸に骨盤が後ろに傾き、それをおぎなうために、膝が前に出て背中が曲がるのである。これを「腰が落ちた」という。歩くときも、若い人は、足と同時に少しではあるが腰が前に出る。これを少し誇張すると外人さんらしくなり、さらに誇張するとモデルさんの歩き方になる。研究生だったころ、よく「腰で歩け」と言われたが、このことである。老人になると、この「腰」が前に出なくなる。骨盤が動かなくなり、「足で歩く」状態になる。若い人も疲れると、こういう歩き方になる。駅や街で、お年寄りをよく観察しよう。お年寄りといっても、近頃は多様で、一見若い人と変わらない人もいるが、やはりご年配の共通点がある。ほとんど無駄な動きはしないということに気づくと思う。高校生も子どもに較べると、それほどでもないがやはりガサゴソし、感情が、そのまま動きにシャープに反映されていることに気づくと思う。
○横断歩道 老人が四五人やってくる。最初の一人が渡ったときに信号が変わる。残されたうちの一人が「先にいけよ!」というが、渡りきった老人は耳が遠くて聞こえない。そのうち無駄と悟り沈黙になる。空を見上げる者(光が目に入りクシャミになる) じっと信号を見つめる者(ただ、途中でなぜ信号を見つめていたかは忘れてしまう) アメをしゃぶりだす者。嫁などの悪口をつぶやく者。そのうち信号が変わるがしばらくだれも気づかない。ややあって、信号の変わったことに気づき、あわてて横断歩道を渡る。これを、いろんなシュチュエーションでやってみる。
○だ~るまさんが、こ~ろんだ。 子ども編でやった「だるまさんがころんだ」を、老人版でやってみる。詳しくは書かない。きみたちの観察力と想像力でやってみよう。
(3)性別を替えてみよう。本番としてはともかく、基礎練習では、一度やってみてもいいと思う。とくに、あなた、きみが演出をやるのだったら、恥ずかしがらずにやってもらいたい。異性の服装をしただけで「あ、こんなにちがうのか!?」と気づくことが多い。服の打ち合わせが男女では逆である。まるで、右利きの人が左手でご飯を食べるような違和感があるだろう。女の子なら、ズボンをはいてみよう。今の女の子はズボンにはあまり抵抗がないだろう、日常的にはく機会があるから。しかし自分が男と想定して男装してみると感覚が違う。女子校が、ときに女子に男役をやらせることがある。いやらしくはないが、どこか男になりきれず、違和感がのこる。宝塚の男役は、男が見ても男らしい。彼女たちは、宝塚音楽学校のころから、男役、娘役に分けられ、訓練されている。なにも宝塚をやれというわけではないが、一度、戯曲の一部か、わたしのコントのような短いもので試してみるといい。案外むつかしいことや、男役への向き不向きがわかる。男の子も一度スカートをはいてもらいたい。内股が直接接触する感覚に驚くと思う。「女っちゅうのは、こんな感覚で生きとるんか!?」という発見がある。男女共学校なら、『ロミオとジュリエット』の第二幕第二場など男女を入れ替えてやってみるのもお勧めである。机を四つほどくっつけてバルコニーとし、そこに男のジュリエットを立たせ、床をキャピュレット家の庭に見立てて女のロミオをひざまずかせ、世界で最高の愛の語らいをやってみよう。異性を演ずるのは、まさに演技である。地ではできない。「演ずるということ」を、演るほうも、観るほうもイヤでも感じなくてはならない。また、演出する者としては、演出することの意味 を、これまたイヤでも感じなくてはならなくなるだろう。役の入れ替えの効能は他にもあるのだが、紙幅の制限があるので、別の機会に述べることにする。
今月のコント【始まらない授業】
先生(老人) なんだ、みんなどこへいったんだ(教室や、廊下を見わたす)友子(児童) 先生、なにやってんの?
先生 ああ、友子か。他の子たちはどうしたんだ?
友子 ああ、体育の授業の後かたづけやってるよ。
先生 また、中井先生か。どうも今の若い先生は……おっと、先生の悪口じゃ ないよ。
友子 悪口じゃないの?
先生 ああ、中井先生は熱心な先生だ。そう言おうとしたんだよ。
友子 フフ ほんとかなあ?
先生 友子はどうしたんだ、また体育休んだのか?
友子 おなかが痛かったから。ほんとだよ。
先生 いつも体育やすんでるんじゃないか。
友子 そんなことないよ。
先生 先週は頭イタだったな。
友子 ちがうよ、めまいだもん。
先生 ほら、やっぱり休んだんだ。
友子 あ……
先生 ハハハ、友子はうそのつけない子だ。先生は、友子のそういうところが 好きだよ。
友子 ウフフ、先生って、ほめてくれるのうまいね。
先生 本当のことをいってるだけさ。
友子 ほめてくれたから、これあげる。
先生 なんだ、アメチャンか。
友子 ほんとは持ってきちゃいけないんだよね。
先生 そうだよ、でも、これは友子の真心だから(ポケットにしまおうとする)
友子 今食べてくんなきゃ、やだ。
先生 でも、もうすぐ授業だから。
友子 ちっこいアメだから、大丈夫だよ。いざとなったらガリってかめばいい よ。
先生 ハハ、そうだな(アメを食べる)
友子 わたし黒板ふくね。
先生 正確には、ホワイトボードだけどな。
友子 そうだね。でも黒板っていったほうが好きだ。
先生 先生もだよ。やっぱり教室には緑色の黒板でなきゃなあ。
友子 ミドリ色なのに、どうして黒板ていうの?
先生 ああ、昔はほんとうに黒かったからさ。先生が子どものころは、ほんと うに黒板だった。
友子 ああ、ここんとこどうしても消えないよ。
先生 ホワイトボードってやつは時間がたつと消えにくくなるんだ。どうれ、 先生がやってみよう……ううん、こりゃ雑巾で水拭きしなきゃだめだなあ。 友子すまんが、ぬれ雑巾もってきてくれないか。
友子 はいはい。
先生 はいは一回だけ。
友子 はーい(退場)
先生 こりゃ、英語の授業だなあ……まったく、小学校から英語教えるなんて、 文部省はなにを考えてんだか、ええ邪魔なIDカードだ。教師は犬じゃない んだからな、なんでこんな鑑札みたいなもんぶらさげなきゃならないんだ! ほんとに今の若い教師は……体育も、英語も、時間はまもらん、黒板は消さ ん。暇さえあれば、パソコンの前に座っとる。もっと子どもと……どうも歳 かな、疲れやすくて……
先生机につっぷして、眠る。そこへ友子が、雑巾の入ったバケツを 持ってもどってくる。
友子 先生……寝ちゃった(スカートのポケットから携帯を出す)友子です。 先生、あ、佐藤さんまた会議室にきてます。ええ、眠らせてあります。ヘル プ願います。先生にとっちゃ、いつまでも小学校三年の友子……びっくりし ましたよ、初めてここに配属になったときは……今度、ほんとの黒板置いて もらえるように、所長にかけあっときますね……あ、ヒグラシ。もう夏も終 わりかなあ……林間で先生教えてくれましたよね。ヒグラシが鳴くともう秋 が近いんだって。もう、秋か……
介護士の亜紀が車いすを押してやってくる。
亜紀 ごくろうさま。
友子 おねがいします。
二人 よっこらしょっ……と!
亜紀 やっぱ、友子ちゃん、移動?
友子 ええ、しかたないです。人が足りないのここだけじゃないし。
亜紀 その小学生のなりも、板に付いてきたのにね。
友子 もう、からかわないでくださいよ。これでも一級の介護士なんですから。亜紀 ケアマネになったら、少し楽になるよ。
友子 ええ、先生の授業が始まったら、考えます。
亜紀 ハハ、佐藤さんも、いい教え子もったもんだ。わたしは、新任の女先生 ってとこでやってみるかな。
友子 先生のことよろしくお願いします。
亜紀 まかしときな。
友子 じゃあ、先生、部屋におつれしにいきます(退場)
亜紀 うん、ここの片づけはやっとくからね……授業が始まったらね。か…… もう少しうまいしゃれ言いなよ。ね、ヒグラシの諸君。君たちが小学生にな って……無理か……ね!
ヒグラシの鳴き声ひとしきり。幕。
夏マッサカリ! いかがお過ごしでしょうか? ごくまれに、この時期、地区で発表会をもたれているところもあるが、おおかたのクラブは開店休業。せいぜい合宿をやったり、地区の連盟主催の講習会。熱心なクラブは夏の全国大会を観にいっておられるかもしれない。しかし、自分たちの部活はほとんどやってない……というのが実情ではないだろうか。
最初に、おことわりしておくが、講習会や合宿を全否定するつもりはない。ただ、合宿にしろ講習会にしろ、「やった!」「参加した!」という精神的な充足感はあっても、即、実力には結びつかないと申し上げておく。
とくに合宿は、費用対効果の面で問題があるので「やめときなはれ」と、前回申し上げた。正直にみんなでワイワイやりたいのなら、合宿などという大義名分をかかげずに、ただのヴァケ-ションにしてしまったほうがいい。遊ぶときは遊ぶ。そこに国会議員さんの海外視察のような、変な名目はつけないほうがいい。
講習会に効果がない。と言うと、お叱りを受けるかもしれない。しかし「ほんまに、効果はうすいでっせ!」と言い切ります。講師の先生方は、その道のプロであったり、特別に技能優秀な顧問の先生であったりする。演技、演出、戯曲創作、道具、照明などの分野に分かれてワークショップのかたちで行われることが一般的であろう。講師の先生方は、たしかに熱心に教えてはくださる。そして、ここでコムツカシイ理屈ばかり覚えて、それを自分たちのクラブに持ちかえり、ハンパな理解のまま部活に反映させる。コンクールなどで、やたらと大仰な装置を持ちこんだり、コムツカシイ照明プランをもってきたりする。コンクールは多数の学校が一日に十公演近くやるのである。むつかしいプランや装置は、仕込みやリハに余計な時間と労力をとられるだけで、自他共に無駄で、迷惑なことである。演技、演出については言わずもがな。たった、数時間の講習で「わかった!」となれるほど生やさしいモノではない。わたしも、過去何度か講師をつとめたが、演技、演出、戯曲創作で実をむすんだことはない。 いくども、この「クラブはつらいよ」で触れてきたことであるが、部活は全国的に危機的な状況なのである。人と時間と金がない。演劇部もその例外ではなく。部員が五人以下というクラブがほとんどである。そこに優れているとはいえ、昔の(団塊の世代や、そのジュニアたちが現役であったころ)メソードは通用しない。だから、クラブはつらいのである。だからこそ、そのつらいクラブに合った、部活のメソードこそが、今必要なのである。
かつて、「演劇をとりまく環境が悪くって」とこぼした、アマチュア演劇の指導者に宇野重吉さん(わかりまへんやろなあ……寺尾明のお父さん。劇団民芸の創設者の一人。二年前に亡くなった「となりのトトロ」の、おばあちゃんの声をやった北林谷江の仲間……わからん人はネットで検索してください)が、こう言いました。「座敷一間ありゃ芝居なんてできるよ」 また実際、新派の大御所、島田省吾さん(緒方拳の師匠。わからない人はネットでどうぞ)は、マンションのリビングで一人芝居をやっておられました。
なにが言いたいかと言うと、この危機的な、つらいクラブの状況では、原点に立ち返らなければならないということである。演劇の原点とは、すなわち演劇の三要素。役者、脚本、観客の三つ。それゆえに、この「クラブはつらいよ」では、それ以外のことには、あえて触れない。しかし講習会で一つやって欲しいことがある。それは、芝居をやるときのマナーである。コンクールなどで、優秀な成績を残したクラブが案外マナーが悪くヒンシュクをかった例をたくさん見てきた。マナーについては後日余裕があれば触れたいと考えているので、ここではご容赦を。
この夏休み、私服を着て図書館にいき至福の時間を過ごし雌伏することができているであろうか? 四月からこっち、あなたは、きみは、もう何本、本が読めたであろうか? 何本芝居を観ることができたであろうか? 一度自分の頭の中で中間決算をしてみてはいかがであろうか。夏休みは、自分の頭の中の演劇という部屋の大掃除をやって、クローゼットの中味を増やす時である。
【基礎練習】
今回は年齢や、性別による表現の訓練について考えてみたい。以前から、高校生が、自然に表現できる年齢の幅はプラスマイナス五歳程度だと言ってきた。しかし、そう制約してしまうと、やれる本は、かなり限られてしまう。そこで、わたしとしては反則なのであるが、年齢と性別を超えた演技を少し考えてみたいと思う。
(1)子どもを演じる。子どもといっても、もう幼児は無理……かもしれないが、あえて挑戦してみる。幼児や児童の時期は身体の準備運動期間である。公園や街で見かける子どもをよく観察してほしい。とんだり、はねたり、はたまた無意味に叫んでみたり。笑ってみたり。一見無意味にみえる行動だが、そこには子どもの心理がうらづけとしてあることを見抜いてほしい。
○横断歩道 子どもが四五人駆けてくる。二人渡ったところで、信号が変わる。残った子どもたちは、一瞬たじろいだり、悔しがったりする。渡りきった子どもたちと、横断歩道を隔ててなにか、会話がある。信号と、向こう側の仲間を交互に見る子。フライングしようとする子。それを止める子。そこから、じゃれ合いになったり、ケンカになったりもする。やや長い信号。待ちきれずに「待て!」といわれた子犬のようにチョロチョロし、やがて、信号が変わるやいなや、声をはりあげながら、横断歩道を渡る子どもたち。
以上の状況を、いろんな設定でやってみる。公園に遊びに行く途中。遠足の日に登校する途中であった。友だちの家に新しく子犬が来たので見に行く途中。先生が入院しているので、そのお見舞いにいく途中。みんなで遊んでいたのが、急に雨が降り始めたので、急いで帰る途中。道路で倒れている人を見つけたんで、急いで大人を呼びにいく途中。などなど、
○ダールマさんが、こーろんだ! むつかしくはない。子どものころ、だれでもやった遊びである。高校生なら、数年前までは、やっていたと思う。そのころの感覚を思い出して、自分の中にうかんでくる無邪気なドキドキやハラハラこみ上げてくる、わけわかんない嬉しさを、ほんのちょっと増幅してやってみよう。喜怒哀楽の表現にブレーキがかかって、なかなか演技に入りこめない役者志望のきみには、いい練習になるだろう。
(2)老人になってみる。 老人になれというと腰(正確には、背中)を曲げる人がいるが、まちがいである。腰は落ちるものである。股関節を軸に骨盤が後ろに傾き、それをおぎなうために、膝が前に出て背中が曲がるのである。これを「腰が落ちた」という。歩くときも、若い人は、足と同時に少しではあるが腰が前に出る。これを少し誇張すると外人さんらしくなり、さらに誇張するとモデルさんの歩き方になる。研究生だったころ、よく「腰で歩け」と言われたが、このことである。老人になると、この「腰」が前に出なくなる。骨盤が動かなくなり、「足で歩く」状態になる。若い人も疲れると、こういう歩き方になる。駅や街で、お年寄りをよく観察しよう。お年寄りといっても、近頃は多様で、一見若い人と変わらない人もいるが、やはりご年配の共通点がある。ほとんど無駄な動きはしないということに気づくと思う。高校生も子どもに較べると、それほどでもないがやはりガサゴソし、感情が、そのまま動きにシャープに反映されていることに気づくと思う。
○横断歩道 老人が四五人やってくる。最初の一人が渡ったときに信号が変わる。残されたうちの一人が「先にいけよ!」というが、渡りきった老人は耳が遠くて聞こえない。そのうち無駄と悟り沈黙になる。空を見上げる者(光が目に入りクシャミになる) じっと信号を見つめる者(ただ、途中でなぜ信号を見つめていたかは忘れてしまう) アメをしゃぶりだす者。嫁などの悪口をつぶやく者。そのうち信号が変わるがしばらくだれも気づかない。ややあって、信号の変わったことに気づき、あわてて横断歩道を渡る。これを、いろんなシュチュエーションでやってみる。
○だ~るまさんが、こ~ろんだ。 子ども編でやった「だるまさんがころんだ」を、老人版でやってみる。詳しくは書かない。きみたちの観察力と想像力でやってみよう。
(3)性別を替えてみよう。本番としてはともかく、基礎練習では、一度やってみてもいいと思う。とくに、あなた、きみが演出をやるのだったら、恥ずかしがらずにやってもらいたい。異性の服装をしただけで「あ、こんなにちがうのか!?」と気づくことが多い。服の打ち合わせが男女では逆である。まるで、右利きの人が左手でご飯を食べるような違和感があるだろう。女の子なら、ズボンをはいてみよう。今の女の子はズボンにはあまり抵抗がないだろう、日常的にはく機会があるから。しかし自分が男と想定して男装してみると感覚が違う。女子校が、ときに女子に男役をやらせることがある。いやらしくはないが、どこか男になりきれず、違和感がのこる。宝塚の男役は、男が見ても男らしい。彼女たちは、宝塚音楽学校のころから、男役、娘役に分けられ、訓練されている。なにも宝塚をやれというわけではないが、一度、戯曲の一部か、わたしのコントのような短いもので試してみるといい。案外むつかしいことや、男役への向き不向きがわかる。男の子も一度スカートをはいてもらいたい。内股が直接接触する感覚に驚くと思う。「女っちゅうのは、こんな感覚で生きとるんか!?」という発見がある。男女共学校なら、『ロミオとジュリエット』の第二幕第二場など男女を入れ替えてやってみるのもお勧めである。机を四つほどくっつけてバルコニーとし、そこに男のジュリエットを立たせ、床をキャピュレット家の庭に見立てて女のロミオをひざまずかせ、世界で最高の愛の語らいをやってみよう。異性を演ずるのは、まさに演技である。地ではできない。「演ずるということ」を、演るほうも、観るほうもイヤでも感じなくてはならない。また、演出する者としては、演出することの意味 を、これまたイヤでも感じなくてはならなくなるだろう。役の入れ替えの効能は他にもあるのだが、紙幅の制限があるので、別の機会に述べることにする。
今月のコント【始まらない授業】
先生(老人) なんだ、みんなどこへいったんだ(教室や、廊下を見わたす)友子(児童) 先生、なにやってんの?
先生 ああ、友子か。他の子たちはどうしたんだ?
友子 ああ、体育の授業の後かたづけやってるよ。
先生 また、中井先生か。どうも今の若い先生は……おっと、先生の悪口じゃ ないよ。
友子 悪口じゃないの?
先生 ああ、中井先生は熱心な先生だ。そう言おうとしたんだよ。
友子 フフ ほんとかなあ?
先生 友子はどうしたんだ、また体育休んだのか?
友子 おなかが痛かったから。ほんとだよ。
先生 いつも体育やすんでるんじゃないか。
友子 そんなことないよ。
先生 先週は頭イタだったな。
友子 ちがうよ、めまいだもん。
先生 ほら、やっぱり休んだんだ。
友子 あ……
先生 ハハハ、友子はうそのつけない子だ。先生は、友子のそういうところが 好きだよ。
友子 ウフフ、先生って、ほめてくれるのうまいね。
先生 本当のことをいってるだけさ。
友子 ほめてくれたから、これあげる。
先生 なんだ、アメチャンか。
友子 ほんとは持ってきちゃいけないんだよね。
先生 そうだよ、でも、これは友子の真心だから(ポケットにしまおうとする)
友子 今食べてくんなきゃ、やだ。
先生 でも、もうすぐ授業だから。
友子 ちっこいアメだから、大丈夫だよ。いざとなったらガリってかめばいい よ。
先生 ハハ、そうだな(アメを食べる)
友子 わたし黒板ふくね。
先生 正確には、ホワイトボードだけどな。
友子 そうだね。でも黒板っていったほうが好きだ。
先生 先生もだよ。やっぱり教室には緑色の黒板でなきゃなあ。
友子 ミドリ色なのに、どうして黒板ていうの?
先生 ああ、昔はほんとうに黒かったからさ。先生が子どものころは、ほんと うに黒板だった。
友子 ああ、ここんとこどうしても消えないよ。
先生 ホワイトボードってやつは時間がたつと消えにくくなるんだ。どうれ、 先生がやってみよう……ううん、こりゃ雑巾で水拭きしなきゃだめだなあ。 友子すまんが、ぬれ雑巾もってきてくれないか。
友子 はいはい。
先生 はいは一回だけ。
友子 はーい(退場)
先生 こりゃ、英語の授業だなあ……まったく、小学校から英語教えるなんて、 文部省はなにを考えてんだか、ええ邪魔なIDカードだ。教師は犬じゃない んだからな、なんでこんな鑑札みたいなもんぶらさげなきゃならないんだ! ほんとに今の若い教師は……体育も、英語も、時間はまもらん、黒板は消さ ん。暇さえあれば、パソコンの前に座っとる。もっと子どもと……どうも歳 かな、疲れやすくて……
先生机につっぷして、眠る。そこへ友子が、雑巾の入ったバケツを 持ってもどってくる。
友子 先生……寝ちゃった(スカートのポケットから携帯を出す)友子です。 先生、あ、佐藤さんまた会議室にきてます。ええ、眠らせてあります。ヘル プ願います。先生にとっちゃ、いつまでも小学校三年の友子……びっくりし ましたよ、初めてここに配属になったときは……今度、ほんとの黒板置いて もらえるように、所長にかけあっときますね……あ、ヒグラシ。もう夏も終 わりかなあ……林間で先生教えてくれましたよね。ヒグラシが鳴くともう秋 が近いんだって。もう、秋か……
介護士の亜紀が車いすを押してやってくる。
亜紀 ごくろうさま。
友子 おねがいします。
二人 よっこらしょっ……と!
亜紀 やっぱ、友子ちゃん、移動?
友子 ええ、しかたないです。人が足りないのここだけじゃないし。
亜紀 その小学生のなりも、板に付いてきたのにね。
友子 もう、からかわないでくださいよ。これでも一級の介護士なんですから。亜紀 ケアマネになったら、少し楽になるよ。
友子 ええ、先生の授業が始まったら、考えます。
亜紀 ハハ、佐藤さんも、いい教え子もったもんだ。わたしは、新任の女先生 ってとこでやってみるかな。
友子 先生のことよろしくお願いします。
亜紀 まかしときな。
友子 じゃあ、先生、部屋におつれしにいきます(退場)
亜紀 うん、ここの片づけはやっとくからね……授業が始まったらね。か…… もう少しうまいしゃれ言いなよ。ね、ヒグラシの諸君。君たちが小学生にな って……無理か……ね!
ヒグラシの鳴き声ひとしきり。幕。