タキさんの押しつけ読書感想
『白洲正子「西行」』
この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に流している読書感想ですが、もったいないので転載しました。
ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
まだ暫く正子ちゃん(白州正子)が続きそうです。正子ちゃんにしてみれば軽い読み物のおつもりでございましょうが、こちらにしてみれば毎回 我が古典教養の無さかげんを思い知らされるばかりです。
よく大学の学部を「文学部」かと聞かれるのですが、「経営学部」です!
何でかっちゅうと、当時は この古典ってのが限りなく「うっとおしかった」からです。バチ当たりでございました。ゴメンナサイ。
さて、「西行」って人は数多くの伝説に包まれた謎の人であります。それだけに断片的にはその業績(?)を知ってはいても西行本人の人生は知られていないんだと思います。
源平盛衰の時期の生き証人でもあり、後半生 旅の中にあった人ですから伝奇ミステリー作家にしてみれば格好の登場人物です。
「孔雀王伝奇」では、高野山修行中に死体をつなぎ合わせて反魂法を使って子供を作り、その子供が鬼のように育ち 義経と出会って弁慶に成る……なんてな扱い。雨月物語(だったよな)で崇徳院の大怨霊(日本一の大怨霊)と会ったりしていますから“反魂法”なんかお手のもの?
数多の歌が残っており、中には作法無視して吐き出したようなものが有るため 西行研究者の間でも解釈が分かれる歌が有ります。この激動の時代、旅に明け暮れた人ですから、その行動に政治的意図を読み取ろうとする研究者もいらっしゃいます。確かに坊主というのは、ある種身分が保証されるため行動の自由が担保され、古今 縦横家として生きたり、間者的役割をはたした人が大勢います。
しかし、西行に関して こういう見方は間違っていると正子さんはおっしゃっています。彼女は西行の足跡を時代を追って自ら歩き、彼の歌を 詠まれたその場所で味わってみる事を通して西行の人生に迫っていく。
元北面の武士が出家したわけですが、一途な修行者ではなく“数奇”の心を生涯無くす事は無かった。 待賢門院(たいけんもんいん)への恋情、崇徳院への憐情、桜へのこだわり、すべて個人的な“あはれ”“いとをし”の情に突き動かされての旅であった事が その歌を通して明らかにされて行く。
事あるごとに「仏門帰依」を勧めてはいますが仏教にとらわれるのではなく、その精神は自由です。
『白洲正子「西行」』
この春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に流している読書感想ですが、もったいないので転載しました。
ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
まだ暫く正子ちゃん(白州正子)が続きそうです。正子ちゃんにしてみれば軽い読み物のおつもりでございましょうが、こちらにしてみれば毎回 我が古典教養の無さかげんを思い知らされるばかりです。
よく大学の学部を「文学部」かと聞かれるのですが、「経営学部」です!
何でかっちゅうと、当時は この古典ってのが限りなく「うっとおしかった」からです。バチ当たりでございました。ゴメンナサイ。
さて、「西行」って人は数多くの伝説に包まれた謎の人であります。それだけに断片的にはその業績(?)を知ってはいても西行本人の人生は知られていないんだと思います。
源平盛衰の時期の生き証人でもあり、後半生 旅の中にあった人ですから伝奇ミステリー作家にしてみれば格好の登場人物です。
「孔雀王伝奇」では、高野山修行中に死体をつなぎ合わせて反魂法を使って子供を作り、その子供が鬼のように育ち 義経と出会って弁慶に成る……なんてな扱い。雨月物語(だったよな)で崇徳院の大怨霊(日本一の大怨霊)と会ったりしていますから“反魂法”なんかお手のもの?
数多の歌が残っており、中には作法無視して吐き出したようなものが有るため 西行研究者の間でも解釈が分かれる歌が有ります。この激動の時代、旅に明け暮れた人ですから、その行動に政治的意図を読み取ろうとする研究者もいらっしゃいます。確かに坊主というのは、ある種身分が保証されるため行動の自由が担保され、古今 縦横家として生きたり、間者的役割をはたした人が大勢います。
しかし、西行に関して こういう見方は間違っていると正子さんはおっしゃっています。彼女は西行の足跡を時代を追って自ら歩き、彼の歌を 詠まれたその場所で味わってみる事を通して西行の人生に迫っていく。
元北面の武士が出家したわけですが、一途な修行者ではなく“数奇”の心を生涯無くす事は無かった。 待賢門院(たいけんもんいん)への恋情、崇徳院への憐情、桜へのこだわり、すべて個人的な“あはれ”“いとをし”の情に突き動かされての旅であった事が その歌を通して明らかにされて行く。
事あるごとに「仏門帰依」を勧めてはいますが仏教にとらわれるのではなく、その精神は自由です。