Mのイレギュラーマガジン
『一番手前の女学生』
ぼくは終戦の七年九カ月後に生まれた
ちょっと懐かしい言葉では「戦争を知らない子どもたち」の世代。
今の若い人たちだって戦争を知らない。
一見同じだけど、ちょっと違う。
今の若い人たちは、歴史としてしか戦争を知らない。周囲にも戦争を体験した人はいないだろう。戦争の痕なんかないだろう。
ぼくたちが若いころは、あたりまえのように戦争を体験した大人の人がいたし、戦争の名残があった。
社宅のお父さんたちは、みんな兵隊にいってた。
中学の担任は元海軍の下士官で乗っていた船が潜水艦にやられ、十数時間海を漂っていた。
幼馴染のお父さんは陸軍の兵隊なのに、なぜか航空母艦に乗っていた。
うどん屋のおっちゃんは陸軍で食事をつくる係り(烹炊)だった。
高校演劇研究会世話役の先生は沖縄戦の生き残りの下士官。
世界史の先生は第四師団司令部の兵隊で大阪大空襲を事前に知っていた。
大学の社会科教育法の先生は特攻隊の生き残りだった。
母は女子挺身隊で彦根で飛行機を作っていた。
駅や商店街に行けば、白衣の傷痍軍人の人たちがいた。
そんな人たちが当たり前にいた。
空襲で焼けたまま赤さびた鉄骨だけになった工場。爆撃の穴、機銃掃射の痕。
小学校の校舎は国民学校のままだった。
街の建物の半分ほどが戦争で焼け残ったものだった。
そんなものが、ごく普通に周りにあった。
戦時中の記録や記憶は、まだセピア色にはなっていなかった。
そんな記録や記憶の中で育ったので、DNAの中に戦争が刷り込まれている。
下の写真を見ていただけるだろうか。
原爆投下後一時間ほどしかたっていない広島の写真である。
初めて見たのは小学校の頃。
「ここに写っているいる人たちは何日もたたないうちに、みんな死にました」と教えられた。
いきなり大きく深い穴の縁に立たされたような恐怖、そいつが赤々と湧いてきたのを覚えている。
生まれる前の写真だけども、若い人が阪神大震災の記録を観るくらいの距離にある。
至近距離の記録と言っていい。
二十代の終わりごろに「徹子の部屋」に、この写真と共に五十前後の女の人がでていて、こう言った。
「一番手前の女学生がわたしです」
「え、ほんとですか!」徹子さんが驚いた。
周囲の建物と特徴のあるセーラー服の襟(後ろが三角になっている)で分かったのだそうだ。
亡くなったと言われていた親戚の女学生が生きていたような嬉しさと、ここまで生きてこられた苦難が想像されて目が熱くなった。
生きておられたら八十路の後半。
ぼくの至近距離の記憶の一つ。
『一番手前の女学生』
ぼくは終戦の七年九カ月後に生まれた
ちょっと懐かしい言葉では「戦争を知らない子どもたち」の世代。
今の若い人たちだって戦争を知らない。
一見同じだけど、ちょっと違う。
今の若い人たちは、歴史としてしか戦争を知らない。周囲にも戦争を体験した人はいないだろう。戦争の痕なんかないだろう。
ぼくたちが若いころは、あたりまえのように戦争を体験した大人の人がいたし、戦争の名残があった。
社宅のお父さんたちは、みんな兵隊にいってた。
中学の担任は元海軍の下士官で乗っていた船が潜水艦にやられ、十数時間海を漂っていた。
幼馴染のお父さんは陸軍の兵隊なのに、なぜか航空母艦に乗っていた。
うどん屋のおっちゃんは陸軍で食事をつくる係り(烹炊)だった。
高校演劇研究会世話役の先生は沖縄戦の生き残りの下士官。
世界史の先生は第四師団司令部の兵隊で大阪大空襲を事前に知っていた。
大学の社会科教育法の先生は特攻隊の生き残りだった。
母は女子挺身隊で彦根で飛行機を作っていた。
駅や商店街に行けば、白衣の傷痍軍人の人たちがいた。
そんな人たちが当たり前にいた。
空襲で焼けたまま赤さびた鉄骨だけになった工場。爆撃の穴、機銃掃射の痕。
小学校の校舎は国民学校のままだった。
街の建物の半分ほどが戦争で焼け残ったものだった。
そんなものが、ごく普通に周りにあった。
戦時中の記録や記憶は、まだセピア色にはなっていなかった。
そんな記録や記憶の中で育ったので、DNAの中に戦争が刷り込まれている。
下の写真を見ていただけるだろうか。
原爆投下後一時間ほどしかたっていない広島の写真である。
初めて見たのは小学校の頃。
「ここに写っているいる人たちは何日もたたないうちに、みんな死にました」と教えられた。
いきなり大きく深い穴の縁に立たされたような恐怖、そいつが赤々と湧いてきたのを覚えている。
生まれる前の写真だけども、若い人が阪神大震災の記録を観るくらいの距離にある。
至近距離の記録と言っていい。
二十代の終わりごろに「徹子の部屋」に、この写真と共に五十前後の女の人がでていて、こう言った。
「一番手前の女学生がわたしです」
「え、ほんとですか!」徹子さんが驚いた。
周囲の建物と特徴のあるセーラー服の襟(後ろが三角になっている)で分かったのだそうだ。
亡くなったと言われていた親戚の女学生が生きていたような嬉しさと、ここまで生きてこられた苦難が想像されて目が熱くなった。
生きておられたら八十路の後半。
ぼくの至近距離の記憶の一つ。