数週間前、書店でたまたま『メディアの驕り』(広淵升彦著、新潮新書)を見つけ、題名につられて購入した。著者はテレビ朝日のロンドン支局長とニューヨーク支局長を務めただけあって、英国・米国のメディア界のエピソードが数多く綴られている。
「題名につられ」とは、私はかねてよりメディアの偏向報道は「驕り」に起因するのではないかと思っていたからである。その点で本書は私の期待に十分応えるものであった。そのエッセンスというべき記述は次の通り。
記者たる者は、ただ事実を伝えるだけでは足りない。大衆に対して「正しい道」を解き明かす使命があるというのが、マスコミ各社の精神的「芯」の部分を占めているのである。だが、この意識はいまやまぎれもなく有害と化しつつある。…使命感が昂じると、独善に陥り、自分の好みに合わせて報道する危険が増すものだ。
その通りだが、最近のメディアの報道態度は、使命感といった高尚な哲学によるものだけではなく、発行部数を伸ばすためとか、視聴率を上げるためといった功利的動機に基づく部分が大きいように感じる。
さて、最近になって気付いたことだが、桜井よしこ氏が本書を絶賛している。彼女が絶賛する理由については下記を開けて頂きたいが、要するに彼女がメディア出身者であるために共感する部分が多かったのだろう。
http://yoshiko-sakurai.jp/2017/08/10/6967
『メディアの驕り』に関係ない部分のうちで、私が共感したのは次の記述である。
毎年夏、終戦記念日の前後になると、ニュース・報道番組・ドキュメンタリー番組だけでなく、テレビドラマの中でも「平和の大切さ」「戦争の悲惨さ」が語られる。もちろん、今の日本で平和の尊さについて異論を挟む人はいないだろう。二度と戦争をしてはならないと主人公が言えば、多くの視聴者は共感する。
しかしまことに危険だと思うのは、こうした平和願望がきわめて情緒的なことだ。戦争を引き起こしてはいけないと登場人物は言い、ナレーションもそう言っている。では戦争が起こらないようにする具体的な策というのは、一体どういうものなのか。こちらが戦争をしたくないと心から願っても、他国が日本の工業技術を欲しがったり、より広い領海を求めて日本に攻め込んできた場合に、どうすべきかについてはまず語られない。
日本が戦争を仕掛ける危険について、野党はたびたび警鐘を鳴らすが、それはきわめて可能性が薄い話である。…それよりも戦争を仕掛けられた場合にどうすべきかは、「近未来に起こりえる差し迫った恐怖」なのだ。この恐怖の近未来にどう対処すべきなのか。野党の責任ある立場の人間が、その対策について話すのを聞いたことがない。…
外国に長く居住したことがある人なら、だれでも同じように感じるのではないか。その理由は、日本国内では性善説が基本的規範であるが、外国に住むとそれでは生きていけないことに気付くからである。私も同様である。