旅行会社の宿泊施設の広告に《憧れの》という枕言葉のような形容詞が使われることがある。洞爺湖のウィンザーホテルと石川県和倉温泉の加賀屋だ。
昔、「憧れのハワイ航路」という歌謡曲がヒットしたことがある(昭和23年)。当時は、ハワイ旅行は制度的にも金銭的にも手が届かない存在だったから、「憧れのハワイ航路」と煽られてもハワイへバケーションに行こうなどと思う人はいなかった(そもそも、「ハワイ航路」そのものが存在しなかった)。だから、この場合の《憧れの》という表現は適切である。
では、現在のウィンザーホテルと加賀屋はどうか。料金を調べてみると、ウィンザーホテルは朝食つきで25,000円(税別)、加賀屋は2食つき税込みで35,000円。確かに、標準的水準よりは高いが、われわれ庶民でも払えない金額ではない。しかし、コストと期待満足度を秤にかけて、バカバカしいからやめておくだけだ。
私はウィンザーホテルに泊ったことはないが、加賀屋にはツアーに参加して泊まったことがある。確かに加賀屋の満足度はかなり高いが、《憧れの》旅館に宿泊したというほどの高揚感はなかった。
端的にいって、《憧れの》には、「当社のツアーに参加すれば、貴方のような庶民でも宿泊することができますよ」という意味が込められているように感じる。それにつられて参加する素直(?)な人もいるだろうが、私のように庶民を見下していると受け取るヘソ曲がりもいるのではないか。
《憧れの》に違和感を抱いているところに、それに輪をかけるようなケースに出会った。それは、読売旅行の《憧れの新幹線グリーン車の旅》*。東京―大阪間の新幹線グリーン車はこだまで片道1,500円増、のぞみとひかりは2,400円増でしかない。
それで《憧れの》とは、いくらなんでも庶民をバカにしているのではないか。《憧れの》対象はずいぶんレベルが低くなったものだ。
終
*(注)その新聞広告は10日ほど前に見たが、今ネットで探しても見当たらない.