『魏志倭人伝の陰謀』(竹田日恵著 日本文芸社 平成12年)によれば、邪馬台国は架空の国で、陳寿の作り話だという。竹田氏は次のように述べる。
魏蜀呉が鼎立した三国時代、覇者となったのは魏であるが、その後ろ盾となったのは大韓国で、遼東半島以東、現在の吉林、黒竜から朝鮮半島一帯を領土とする広大な国だった。景初二年(238年)に魏は呉と通謀して公孫氏を破ったが、その論功行賞の際に大韓国に対し「親魏倭王」の金印を贈った。これは大韓国を見下すものだったから、大韓国は怒って両国の間に深い溝が生まれ、韓魏大戦争が勃発した。 (韓王に贈ったのであれば、「親魏韓王」であるべきだが、なぜそれが倭王になったのか? 池澤康)
その戦争は大韓国の勝利に終わったが、中華思想を信奉する陳寿は魏(三国志を編纂したときは晋になっていた)が韓国の助けを借りて天下を統一したことを屈辱と受け止め、史実を歪曲することにした。そこで、三国志において大韓国を抹殺し、いくつもの弱小国家群に分割して、隣国の史実を倭国という架空の国の出来事に変えたのである。
倭国は架空の国であるから、邪馬台国も架空である。いくら日本国内で邪馬台国の場所を探してもわからないのは、架空の国だから。そして陳寿は『魏志倭人伝』には大韓国を呪う言葉を散りばめた。陰陽説を知らない人には記述の裏の意味がわかないが、知る人が見ればわかるのだ。例えば、『魏志倭人伝』に出てくる狗邪韓国とは「犬のようにつまらない邪(よこしま)な韓国」である。 (『魏志倭人伝の陰謀』には、中国の占いによる裏の意味を読み取る方法は延々と述べられているが、ここでは省略するー池澤)。
日本では、『倭人伝』に出てくる対馬国、一大国、末蘆国などはいかにも日本の一部であるかのような解釈が行われているが、たまたま日本の地名に似ているだけのことである。例えば「対馬」とは、「対象」を「韓国(馬韓)」にするという意味である。『倭人伝』にあるように、「倭国は絶海の孤島にある」貧しい国とする一方、陳寿が編纂した『韓記』によれば、「韓国は南で倭国と接し、繁栄している国」と表現している。
また、「韓記」によれば韓国の男王は「優呼」であり、これが陽である。一方、対する邪馬台国の王は陰を表すものであるから女王でなくてはならず、その名も「卑弥呼」という卑しい名前にしたのである。
陳寿は易学と漢字の神髄を勉強する段階で、在野の賢人からスメラミコトが 統治した超古代における理想世界の存在を知った。すなわち、全世界を統治していたのは日本のスメラミコトで、すべての国々は日本を親国として敬い、スメラミコトを中心とした平和でかつ高度に文明化された地上の天国だった㊟。しかし、その後いろいろな宗教が勃興し、神のもとに万民は平等であるという思想が生まれたことによって、人々は直接神に繋がることを欲したため、地上の秩序は崩壊した。権力者たちは王権を天から与えられたと主張し、自国独自の史書を作りあげた。
日本が世界の中心で人類の母国であることを知り、陳寿は自分が編纂した『三国志』が邪悪の書であることを悟った。そこで彼は『三国志』が世に出ぬように図ったが、彼の死後に公表され正史となり、中華思想の源になった。
倭国は架空の国であったが、倭国を日本であるかのように印象づけたのは、范曄が表した『後漢書』である。その『後漢書』の思想はさらに『宋書』に引き継がれ、高句麗の王であった讃・珍・済・興・武を倭王として、宋に朝貢したように見せかけた。つまり、「倭の五王」は大和朝廷の天皇ではなかった。
『倭人伝』には「倭人は帯方の東南海中にあり」という記述がある。『三国志』が書かれた当時、帯方は遼東半島にあった。有名な好太王の碑にも、「楽浪は高句麗の西にある」と書かれており、帯方は楽浪の南にあったのだから、遼東半島に存在したことは間違いない。しかし、後世の中国史家は中国の版図を大きく見せるために、朝鮮半島の中部にあったごとくに改竄した。
なお、山形明郷氏もその著書『卑弥呼の正体』において、帯方郡が遼東半島にあったと主張している(2010年11月9日投稿「邪馬台国は朝鮮にあった」参照)。
下の地図は『魏志倭人伝の陰謀』から収録したもの。
竹田氏の説はビックリ仰天である。「邪馬台国架空説」にはそれなりの論拠が示されているが、「古代日本が世界の親国」だったとなると、とてもついていけない。信憑性はまったくないように思うが、竹田氏が大マジメで主張している以上、世の中にはこういう思想もあると知っておくべきだろう。
㊟この「真実の歴史」を記したのは『竹内文書』で、神代文字で書かれた文書を仮名まじりの漢字に翻訳したのが平群真鳥である(武烈天皇の頃)。それから2百年後に渡来人の太安万侶が歪曲した歴史を記した『日本書紀』を編纂した。
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