タバサねーちゃんは、いつもわりと落ち着いてにこやかに行動しています。
ところが意外なものに強く反応しました
「不審者じゃー、とっとと失せろ!」と言わんばかりに、吠えまくります
同行している小次郎パパは、まったく反応していません。
タバねーちゃんは、古びたマネキンに向かって吠えています。
おそらく、下に見える落花生を鳥から守る為に、設置されたのでしょう。
同じ場所を、ひめちゃんと獅子丸も通りましたけど、まったく気にしていません
平将門は、天慶2年(989)12月上野国府を襲い、その時現れた八幡大菩薩の使いを名乗る巫女の神託により、新皇を称しました。
この上野国府推定地・宮鍋神社のあたりは、今年の1月3日に訪れました。
宮鍋神社の記事だけだとちょっと寂しいので、この日廻った所も一緒にちょっと紹介します
この日の第一の目的地は榛名山南麓の白岩山長谷寺(ちょうこくじ)でした。
大渡橋(おおわたりばし)を渡ってひたすら西に行き、箕輪城(みのわじょう)付近の南を行きます。
ごったがえしてはいないけれど、それなりの人出です。
境内にはいってまもなく、「金峯山(きんぷせん)修験本宗白岩山長谷寺(ちょうこくじ)とあります
聞いたことない宗派です。
総本山は吉野山金峯山(きんぷせん)寺、修験道のお寺です。
隣にある白山神社も、お参りです
けっこう賑わっていました
帰りは、ひたすら東に向かいます。
関越自動車道をくぐって、南に進路を変えます。
化粧薬師に寄りました
次は総社神社です。
こちらは大変な人出でした
律令制下、任命された国司は任国内の神社に詣でることになっていたけれど面倒なので、まとめたのが総社神社ということです。
総社神社の後は、宮鍋神社に向かいます。
細い路地を入りますが、なんとか車で行けました 。
ちょっと路上駐車で失礼します。
こちらは誰もいません
鳥居の奥が本殿でしょうか?
上野国府正庁推定復原図があります。
上野国府の正確な位置はまだ確定されていないようです。
ここ宮鍋神社が、上野正庁跡と推定されているようです。
由緒書があります。
人皇十代崇神天皇の第一王子豊城入命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。
これは総社神社の創建の話です。
総社神社は、初めは此処に創建されたのですね。
実際に説明板(由緒書)の左に、上野国総社跡という大きな碑があります。
「建武の中興の時に、長尾忠房が、国府を城郭化し蒼海城と称し、総社神社は現在の場所に移されたようだ」ということのようです。
そうすると、総社神社は長尾忠房が蒼海城を築くまで、ずーとここにあったことになります
奈良、平安時代のみならず、鎌倉時代もここにあったことになります
総社神社と国府正庁とが同居することは、まずないと思うのですけど
昨年行った多賀城の陸奥総社宮(むつそうじゃぐう)も、多賀城政庁跡から、少し歩きました
「宮鍋は宮之辺が変化したのではない。総社神社移転の跡地の東に、鋳物を行とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆?神を合祀して宮鍋神社と称したのであろう。」
ということのようです
国府の政庁はどこにあったのでしょうか?
天慶2年(939)12月、平将門(たいらのまさかど)は上野国府を襲いました。
そのとき、八幡大菩薩の使いを名乗る巫女が現れその神託によって、新皇を称しました。
上野国府は、平将門が新皇宣言をした場所なのです。
では、その将門はどこからやって来たのでしょう?
将門の故郷が気になります
ところが意外なものに強く反応しました
「不審者じゃー、とっとと失せろ!」と言わんばかりに、吠えまくります
同行している小次郎パパは、まったく反応していません。
タバねーちゃんは、古びたマネキンに向かって吠えています。
おそらく、下に見える落花生を鳥から守る為に、設置されたのでしょう。
同じ場所を、ひめちゃんと獅子丸も通りましたけど、まったく気にしていません
平将門は、天慶2年(989)12月上野国府を襲い、その時現れた八幡大菩薩の使いを名乗る巫女の神託により、新皇を称しました。
この上野国府推定地・宮鍋神社のあたりは、今年の1月3日に訪れました。
宮鍋神社の記事だけだとちょっと寂しいので、この日廻った所も一緒にちょっと紹介します
この日の第一の目的地は榛名山南麓の白岩山長谷寺(ちょうこくじ)でした。
大渡橋(おおわたりばし)を渡ってひたすら西に行き、箕輪城(みのわじょう)付近の南を行きます。
ごったがえしてはいないけれど、それなりの人出です。
境内にはいってまもなく、「金峯山(きんぷせん)修験本宗白岩山長谷寺(ちょうこくじ)とあります
聞いたことない宗派です。
総本山は吉野山金峯山(きんぷせん)寺、修験道のお寺です。
隣にある白山神社も、お参りです
けっこう賑わっていました
帰りは、ひたすら東に向かいます。
関越自動車道をくぐって、南に進路を変えます。
化粧薬師に寄りました
次は総社神社です。
こちらは大変な人出でした
律令制下、任命された国司は任国内の神社に詣でることになっていたけれど面倒なので、まとめたのが総社神社ということです。
総社神社の後は、宮鍋神社に向かいます。
細い路地を入りますが、なんとか車で行けました 。
ちょっと路上駐車で失礼します。
こちらは誰もいません
鳥居の奥が本殿でしょうか?
上野国府正庁推定復原図があります。
上野国府の正確な位置はまだ確定されていないようです。
ここ宮鍋神社が、上野正庁跡と推定されているようです。
由緒書があります。
人皇十代崇神天皇の第一王子豊城入命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。
これは総社神社の創建の話です。
総社神社は、初めは此処に創建されたのですね。
実際に説明板(由緒書)の左に、上野国総社跡という大きな碑があります。
「建武の中興の時に、長尾忠房が、国府を城郭化し蒼海城と称し、総社神社は現在の場所に移されたようだ」ということのようです。
そうすると、総社神社は長尾忠房が蒼海城を築くまで、ずーとここにあったことになります
奈良、平安時代のみならず、鎌倉時代もここにあったことになります
総社神社と国府正庁とが同居することは、まずないと思うのですけど
昨年行った多賀城の陸奥総社宮(むつそうじゃぐう)も、多賀城政庁跡から、少し歩きました
「宮鍋は宮之辺が変化したのではない。総社神社移転の跡地の東に、鋳物を行とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆?神を合祀して宮鍋神社と称したのであろう。」
ということのようです
国府の政庁はどこにあったのでしょうか?
天慶2年(939)12月、平将門(たいらのまさかど)は上野国府を襲いました。
そのとき、八幡大菩薩の使いを名乗る巫女が現れその神託によって、新皇を称しました。
上野国府は、平将門が新皇宣言をした場所なのです。
では、その将門はどこからやって来たのでしょう?
将門の故郷が気になります