円空仏の寺・松源寺と禅桂寺は、昨年9月にも訪問しています。
そのころ、ひめちゃんは、原則的に七海ママとお散歩していました。
ミニドッグランでママと遊んでから、お散歩にでることが多かったです。
ランのフエンスを飛び越えて居間に突進すると、十分遊んだサインでした。
円空仏は、本来は松龍寺が兼務している禅桂寺にあったものだそうです。
松龍寺のあと、大間々町浅原にある禅桂寺に寄りました。
円空仏が、こちらにあった名残があります。
大間々町誌棋士資料「大間々の社寺」によれば、
藤生氏の先祖である藤生丹波守善寿(藤生院善翁浄桂居士)は、由良五十人番頭の一人で、小田原城で戦死したと伝える。その四代目の子孫である金右衛門は、元和元年六月十四日に花輪の祥禅寺から開山家叟殊全を招き、藤生丹波守を開基として、その供養のために創建された。藤生の姓にちなんで藤生山の山号を持つ。昔は武士を開基とするだけあって立派な伽藍を誇っていたが、現本堂は近代的なコンクリート建築に変わっている。
藤生山と山号があります。
本堂の脇に円空仏の説明板がありました。
円空は江戸時代初期の美濃の国の生まれと伝えられる僧で、諸国を遍歴行脚して布教の傍ら仏像を刻んでいる。上野国(群馬県)を訪れたのは、延宝九年(1681)のころで、貫前神社に滞在した後各地で造像、大間々を経由して日光へ向かっている。~中略~寛政四年(1792)の同寺の過去帳には、「円空作薬師如来一体、施主富治郎母」とあり、この像を薬師如来と考えていたことが知られる。
円空仏はお寺に置いていったものではなく、藤生富治郎母がお寺に奉納したものということです
円空さんは、富治郎さんちに寄って円空仏を刻んだということになります
大間々町には、円空仏が二体あって、もう一体も禅桂寺と同じ道筋にあるようです。
この道筋は小平の鍾乳洞のある道です。
日光に行けるのかな?
近代的な本堂と、赤いおがけの六地蔵です。
裏手に墓地が見えます。
りっぱな宝篋印塔がいくつも見えます。
山門にもどると、脇のこの方が寂しそうに見えました。
禅桂寺前の道は、この先にパワースポットがいくつかありました
菅原神社、小平の鍾乳洞、小平の大杉、岩穴観音など行きました
そのうち、この付近も総集篇でまとめておいた方が良さそうです
そのころ、ひめちゃんは、原則的に七海ママとお散歩していました。
ミニドッグランでママと遊んでから、お散歩にでることが多かったです。
ランのフエンスを飛び越えて居間に突進すると、十分遊んだサインでした。
円空仏は、本来は松龍寺が兼務している禅桂寺にあったものだそうです。
松龍寺のあと、大間々町浅原にある禅桂寺に寄りました。
円空仏が、こちらにあった名残があります。
大間々町誌棋士資料「大間々の社寺」によれば、
藤生氏の先祖である藤生丹波守善寿(藤生院善翁浄桂居士)は、由良五十人番頭の一人で、小田原城で戦死したと伝える。その四代目の子孫である金右衛門は、元和元年六月十四日に花輪の祥禅寺から開山家叟殊全を招き、藤生丹波守を開基として、その供養のために創建された。藤生の姓にちなんで藤生山の山号を持つ。昔は武士を開基とするだけあって立派な伽藍を誇っていたが、現本堂は近代的なコンクリート建築に変わっている。
藤生山と山号があります。
本堂の脇に円空仏の説明板がありました。
円空は江戸時代初期の美濃の国の生まれと伝えられる僧で、諸国を遍歴行脚して布教の傍ら仏像を刻んでいる。上野国(群馬県)を訪れたのは、延宝九年(1681)のころで、貫前神社に滞在した後各地で造像、大間々を経由して日光へ向かっている。~中略~寛政四年(1792)の同寺の過去帳には、「円空作薬師如来一体、施主富治郎母」とあり、この像を薬師如来と考えていたことが知られる。
円空仏はお寺に置いていったものではなく、藤生富治郎母がお寺に奉納したものということです
円空さんは、富治郎さんちに寄って円空仏を刻んだということになります
大間々町には、円空仏が二体あって、もう一体も禅桂寺と同じ道筋にあるようです。
この道筋は小平の鍾乳洞のある道です。
日光に行けるのかな?
近代的な本堂と、赤いおがけの六地蔵です。
裏手に墓地が見えます。
りっぱな宝篋印塔がいくつも見えます。
山門にもどると、脇のこの方が寂しそうに見えました。
禅桂寺前の道は、この先にパワースポットがいくつかありました
菅原神社、小平の鍾乳洞、小平の大杉、岩穴観音など行きました
そのうち、この付近も総集篇でまとめておいた方が良さそうです