黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

由良四天王高橋丹波守開基・瑞龍山祥雲寺

2019-06-29 20:56:40 | 群馬県・東毛
ひめちゃんたちは、ノミダニ予防のお薬ネクスガードをもらいました。
ひめちゃんとののこねーちゃんは、そのまますぐに食べました。
小次郎パパとタバサねーちゃんは、用心して食べません。
七海ママはまだお散歩からかえっていませんでしたけど、3名様用のお薬は朝ご飯のドッグフードの上にトッピングしました。
しばらくして覗くと、みんな完食していました
獅子丸は養家から、首の後ろにさすフロントラインが届いています。
明日あたり、さしましょう





栃木の史跡に行くときは、よく県道67号線を利用します。
県境近くの境野(さかいの)で、祥雲寺の表示を何度も見ています。
開基が由良四天王の一人高橋丹波守ということで、いつかは訪れたいと思っていました。
先日、桐生市内で用事を済ませた後、訪れました。

平日の昼間と言うことで、境内は静まりかえっています。

桐生仏教会の公式サイトによると、

戦国時代も終わろうとする頃、高橋丹波守橘英元は父政種と弟正直と共に、丹波国から関東足利に下向し、由良氏に仕えていた。そして、由良氏の桐生占領後は、広沢村にも地を賜わっていた。その後、由良氏は小田原城で敗戦の後、常陸国牛久へ転封させられ、家臣の大部分は武士の身分を捨て土着を余儀なくされた。英元も長子泰種と共に武士の身分を捨てて、境野の原野に土着して開墾を始め農事に従うことになった。英元は慶長3年(1598)に仏堂を立て、家来を出家させて住まわせた。そして英元の孫種景が17歳で出家、広沢村の大雄院の牛室大和尚の弟子になり、後に英元の旧領地の堀口村の正雲寺を移転して祥雲寺と改めて伽藍を整え、師の牛室大和尚を開山に勧請したのが寺名の興りである。





山門です。
六ツ足門ともいわれるそうです。

境野峰とあります。





山門の向こうは、元気に明るい赤の世界のようです。




真っ赤な鐘楼堂が見えます。



まっすぐ進むと、俗世の重荷を落として行くようです


落ち着いた品の良い本堂です



本堂の裏の墓地に高橋丹波守の墓があるとか、どこかで聞いたような気がします。
本堂の裏に回って見ます。
それらしき表示もありません

古そうな宝篋印塔を見ましたけど、どうも違うようです。







まあ、仕方ないか


本堂前に戻ります。



いろいろ有る割に、落ち着いた本堂です


ご本尊様も垣間見る事ができました、合掌




鼎(かなえ?)の向こうに、鐘楼堂が映っています





高橋丹波神のお墓(供養塔)は見つかりませんでした

でも、元気な今を生きるお寺です
御朱印をと思ったのですけど、余りに静かで誰もいないので、声をかけそびれてしまいました
コメント
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