黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

大胡氏時代の大胡城(大胡神社)

2020-11-23 20:12:23 | 群馬県・旧勢多郡

朝、ひめちゃんと小次郎パパがお散歩に出ると、西の空に虹です

それも二重です

ひめちゃんたちは、あの虹の右の袂を目指します。

外側の虹はまもなく消えてしまいました。

後から架かった虹も、途中だんだん薄くなります。

岩神沼に着くころには、もうすっかり消えてしまいました。

でも、朝から虹に逢えました。

こんな朝は、摩崖仏に寄って行きましょう。

静かに人々を見守っています。

ひめちゃんは、ちょっと心配顔

でも大丈夫だよ、今日は祝日、子供達は来ないよ

何かいいことあるかな

 

 

大胡氏時代の大胡城は、現在の大胡神社のあたりだということです。

縄張り図の近戸出丸に、大胡神社はあります。

大胡神社も、『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

(11月20日)近戸出丸の坂道を上り回り込んで、神社の駐車場に到着です。

 

紅葉のいい雰囲気です

ひとまず、一の鳥居まで階段を降ります。

階段の脇には、大きく大胡神社とあります。

ウィキペディアによれば、

大胡城の守りとして城の北側に位置する。明治中期まで近戸神社(ちかとじんじゃ)と称したが、明治中期に近隣の神社を統合して現在の形となった。

 

近戸神社があったので、近戸曲輪(近戸郭、近戸出丸)なのですね。

近戸の意味はよく分かりませんけど、「霊山赤城山への入り口」の意味という説もあります。

神社の脇を走る県道16号線を登ると、三夜沢(みよさわ)赤城神社に行き着き、更につづら折りの山道を登ると、赤城小沼に着きます。

最近、三夜沢赤城神社の脇を登り、県道16号線で赤城小沼に行ってきました

 

崩壊危険区域の表示です。

主要地方道大胡赤城線が県道16号線です。

 

石の鳥居をくぐり、階段を登ります。

思ったほど大変ではありませんでした。

日頃ひめちゃんたちと歩いているおかげでしょう

手すりがあるのも有り難いです

 

二の鳥居は、白木の鳥居です。

左右の狛犬は、ちょっと個性的です。

 

一の鳥居を見下ろします。

秋の景色ですね

 

二の鳥居をくぐると、説明板があります。

ムクロジの樹齢300年以上の巨木があるのですね。

神社の由緒等の説明はないようです。

 

拝殿で参拝です。

さて、どれがムクロジでしょう?

注連縄(しめなわ)がある木があります。

これかな

見上げると、巨大です。

黄葉の大胡神社です。

隣の紅葉と銀杏もコラボして、紅葉真っ盛りです

 

さて、本殿を確認です。

彫刻のあるりっぱな社殿です

 

本殿後ろの石造物も確認です。

たくさんの神様が合祀されています。

 

大胡氏時代の大胡城はここで、大胡氏の館跡は養林寺だということです。

深く浄土宗に帰依した大胡氏の記憶です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

 

そして、ここは赤城の神々の住む赤城山への入り口、近戸神社だったのです

 

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ひめちゃんちの名残の薔薇と早咲き椿コレクション2020

2020-11-22 20:50:33 | 日記

ひめちゃんは、小次郎パパと堀之内を北に出ようとしていました。

あれ、後ろから大きな白い東京ナンバーの車が追い越して行きます。

目的地は、左奥のあそこです。

ひめちゃんたちが到着すると、車はありませんでした。

場所を確認して、コンビニにでも行ったかな?

この建物の向こうは、ミニカーのサーキット場です。

知る人ぞ知る場所なのでしょう。

朝早くに東京を出て、今さっき到着したのでしょう。

 

獅子丸はタバサねーちゃんとお散歩にでます。

彼は、何故かぬいぐるみを持ってお散歩に行こうとします。

最近は、このラグビーボールのぬいぐるみを持って行こうとします。

獅子丸は、ミニカーのレースに大興奮します

見せないようにしなければなりません。

ミニカーが、生きている小動物のように見えるのでしょう。

幸いに獅子丸のお散歩中には、レースは始まりませんでした。

でも、昼間レースの音が聞こえたのか、ちょっと騒ぎました。

 

ひめちゃんは、夕方も小次郎パパとお散歩に出ました。

あれ、朝行き会った東京ナンバーの車です。

十分楽しめた一日だったのでしょう。

 

 

 

ひめちゃんちに、今咲いている薔薇と椿です

薔薇は名残の薔薇、椿は早咲きの椿ということになるでしょうか。

 

優等生の丈夫なきれいな薔薇です。

ミニドッグランのフエンスのすぐ外にあって、よく切られています。

かえって、それがいいようです。

年に何度か、きれいな花を咲かせます。

よく見ると、けっこう華麗です。

 

ミニドッグランすぐ南の密集地帯に、今年は元気な椿があります。

お名前知れずですけど、今年は元気にたくさんの花をつけました。

まだまだ、いっぱい蕾を付けています。

その隣、ちょっと背は低いですけど、こちらも元気に咲いています。

椿には余り見ないエンジ系の色です

 

白い爽やかな花です

何となく、凜としているような花びらです。

 

いわゆる藪椿ではないと思います。

少し花びらが薄いような?

 

こちらもお名前知れずです。

小輪で、不思議な感じです。

 

名残の紫の薔薇です。

劣悪な環境の中、よく咲いてくれました。

 

お名前知れずです。

たくさんの蕾を付けていて、咲き始めた所です。

 

原種系のつるバラです。

こちらの本当に悪条件の中、咲いて実まで付けてくれました

 

これは秋の山、なぜか名前を覚えています。

今年は気も大きくなり、蕾もいっぱいです

 

弁天西王母です

花は西王母だけれども、葉っぱに斑が入ってます。

コントラストがウチバなので、ちょっとわかりにくいですけど。

 

一重の色変わりの薔薇、ムタビリスです。

今日は、七変化の感じです

 

ひめちゃんちのあたりでは、薔薇はもう剪定を控えないと枯れてしまいます。

来年の春、3月になるまで待たなくてはなりません。

薔薇は2月に剪定するとかいいますけど、3月になるまで待たないと枯れてしまうのです。

教科書通りにはいかない土地です。

 

鉢植えの椿です。

たくさんではないけれど、ぼちぼち華麗な花を咲かせてくれます

 

基本的に、一重の椿と絞りの椿が好きで、集めました

 

唯一ではないけれど、例外の華やかな洋種の椿です。

 

これから椿はまだまだ咲きます

ひめちゃんとおかあさんも、歩き続けます

 

 

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晩秋のひまわりが似合う寺・金蔵院

2020-11-21 15:06:50 | 群馬県・旧勢多郡

冷たくない西風が吹く朝でした。

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台目指します。

 

柴犬とサイロの、今では貴重なコラボです

今はサイロは使わずにワラロールを作り、それを白いビニールで覆って、牛の飼料にしています。

 

西には榛名山がはっきりと見えます

隣の浅間山は、ちょっと雲をかぶっています。

 

山上の薬師の道を通ります。

あれ、あの薬師大日如来の石仏には、明治20年とあります

何かの病気が、流行したのかな?

 

高台をUターンして、蕨沢川を渡ります。

橋のたもとの百番供養塔が元気に見えます

自分が霊場巡りして得たパワーをみんなにもお裾分け、そんな懐かしい日本の心です

 

 

 

大胡氏館跡の養林寺の北に、金蔵院(こんぞういん)があります。

金蔵院は、

明治以前は金胎寺といい、元亀年間(1570~1573)に祐慶上人が開山した。明治42年(1909)に大胡城内にあった玉蔵院や江木町にあった西方寺を合併し、寺号を金蔵寺と改めた

ということです。

 

大胡氏とは直接の関係はなさそうですけど、なにせ館跡のすぐ北、十分行動範囲です。

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねての一編ですね

 

入り口がわからずウロウロしましたけど、脇から到着です。

駐車場の隅にひまわりが咲いています

気になるけど、後回しにしましょう。

 

どっしりとした山門です。

 

山門左に見える鐘楼堂も、同じようにどっしりと見えます。

 

山門をくぐると、大きな紅葉の木です。

 

全体に新しい雰囲気ですけど、六地蔵は古そうです。

落ち着いていい雰囲気です

 

山門を振り返ります。

桜の季節は、絵になりそうな雰囲気です

 

本堂で参拝です。

扉は堅く閉ざされていますけど、合掌

現代風の耐火建築ですね。

 

本堂脇には多くの石造物です。

赤城山も見えます

 

御朱印は桜の季節にでも、再訪したときにお願いしてみましょう。

人の気配のない、静謐な世界です。

 

鐘楼堂脇の銀杏の黄色も、一番きれいな時期だったようです

 

もう一つ気になる黄色がありました。

山門を出て、晩秋のひまわりに逢いに行きます

晩秋のひまわりが似合う寺です

 

さて、桜の咲いていない桜並木が通れそうです。

こちらから出てみましょう。

門柱を出て信号を左折し、少しいくと、大胡城・近戸曲輪(郭)だったという大胡神社です

 

 

 

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『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・浄土宗養林寺

2020-11-19 19:49:46 | 群馬県・旧勢多郡

今日は、夕方のお散歩がちょっと遅くなってしまいました。

ひめちゃんは、小次郎パパと堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

向こうの森は、山上城です。

空には、三日月が出ていたはずですけど、どうしてこう映るのかな?

まるで、UHOのようです

 

 

 

大胡城の西に位置する浄土宗の養林寺は、大胡氏館跡と言われます。

(『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会1988)

先に訪問した長善寺の、ちょっと東になります。

 

山門から、参拝です。

大胡城→の表示があります。

山門脇に、説明板と石造物です。

この青面金剛がひときわ目立ちます

三面六臂ですね。

ちょっと古風かな?

この辺りが、大胡氏館跡の堀の名残とか

 

説明板を確認です。

「大胡太郎実秀が法然上人に帰依し、草庵を立て念仏修行をした。」とあります。

「天正18年、大胡太郎の旧跡であることを聞いた牧野康成が鷹林寺を創建した。」ともあります。

 

赤い目立つ山門です。

でも、もしかしたらかやぶきの屋根をトタンで保護してるのかな?

かやぶき屋根が似合う山門です。

 

さて、山門をくぐって本堂に向かいます。

ゴテゴテしていない、素朴ないい雰囲気です

ガラス戸の前で合掌

 

庫裏を尋ねて、御朱印をお願いします。

ご住職がお留守と言うことで、御朱印は又の機会にお預けになりました。

 

駐車場に向かう途中、大きな楠木です。

樹齢の記載はありませんけど、人々の興亡を見てきたのでしょう。

お疲れ様

 

ウィキペディア「大胡氏」によると、

大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。『法然上人行状絵図』によると、大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依したという。隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在する。これは浄土宗の基本文献でもある。また、金沢文庫所蔵の「念仏往生伝」第46によると、大胡小四郎秀村な念仏修行を篤く行い、正元元年(1259年)死去の5年前に仏が夢に現れたと伝えている。

 

最初に法然に帰依したのは大胡小四郎隆義で、子の太郎実秀も帰依し、隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っていたんですか

法然からの返答が「大胡消息」として存在するんですか

そうすると、『念仏往生伝」』出てくる大胡小四郎秀村は、孫と思われます

そして、彼は法然からの返事を亀鏡として大切にしていたのです

大胡氏は、小四郎隆義、太郎実秀、小四郎秀村と三代にわたり、深く浄土宗に帰依していたのです

 

 

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『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・大胡太郎の墓石

2020-11-18 22:03:14 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんは小次郎パパと、堀之内を西に出ました。

諏訪神社の向こうに行こうとしましたけど、ひめちゃんは用心しています

黄色い帽子の集団の通過時間より、少し早いはずですけど。

南に下り、字天神(あざてんじん)の田んぼを廻ります。

パパも14歳半です。

ちょっと背中が曲がったかな?

 

庚申塚古墳を通って帰ります。

ここの双体道祖神が、地図上には塚越の道祖神として表示される事があります。

あれ、ひめちゃんのシッポの向こうのちっちゃい方は、馬頭観音でしょうか?

 

振り返ると、古墳の麓にも頂上にも、石造物があります。

これらの石は、どこから持ってきたのでしょう?

もしかして、ここにあった?

古墳の石の再利用の疑惑を感じます

そうすると、この古墳はもっと大きかったはずですね

 

 

 

上野国山上に住んでいた行仙上人の編集したという『念仏往生伝』に、大胡小四郎秀村があります。

大胡は、時にはお買い物に行きます。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です。

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします。

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれてあります。

 

中世大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手には、水子地蔵の隣が気になります。

何様かな?

 

線香立て付きの石殿です

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

 

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

 

 

 

 

 

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