黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

大きな鏡の御神体・木之宮神社

2021-12-24 16:41:15 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、諏訪神社の向こうの高台を歩いてきました。

浅間山は、真っ白です

ひめちゃんは、道ばたのアブラナに食い付きます。

しっかり獅子くんの影響を受けたんだね

 

 

 

小平・親水公園にあった、付近の観光案内図です。

県道334号線を行けば、岩穴観音や小平の大杉に至るはずです。

久しぶりに、もっと小平の奥地を探訪です。

 

11月4日、またも県道334号線を奥地に進みます

 

神社があります。

急遽左折、小平川に架かる「きのみやばし」を渡ります。

 

通りに面した方ではなく、川の向こうが正面です。

木之宮神社とあります。

社殿は、本来の所にあるのでしょう

前の道より低い所にあります。

 

鳥居をくぐります。

鳥居の向こうには、小平鉱泉の文字が見えます

数十年前まで、あそこで小平鉱泉が営業されていたのです。

ここは、ミニ観光地だったのです

 

 

すごい、本殿です

ご神体は大きな鏡です

りっぱな神社の本殿です

 

『大間々町誌 基礎資料Ⅺ 大間々の社寺』によれば、

(明治40年5月29日に村社嵯峨神社に合祀が許可され、同年6月7日に合併済届けがだされた。)合併されたが、社殿はそのまま残った。

ウブスナといって、子どもの神様で小さな子どもが丈夫に育つという。この神様のおかげで瀬見ではお産で死んだ者がないという。

御神体は大きな鏡である。

 

 

社殿の裏を流れる小平川です。

むこうに見える道が、県道334号線です。

「きのみやばし」上流の流れです。

 

かつては、ここは鉱泉があり、釣り堀もある、ミニ観光地だったのですね

円空さんの時代も、日光へ行く旅人が自然に歩いていたかも知れませんね

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小平山・正福寺

2021-12-23 19:07:54 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を北に出ます。

昨日タバサねーちゃんは、ワクチン接種をしてきました。

あまり遠出はしないようにという動物病院の先生のアドバイスに従って、そこそこでUターンです。

蕨沢川に架かる2番目の橋・匠橋(たくみはし)を渡って、諏訪神社脇を通って帰ります。

途中、西の空には有明の月です

最近は、太陽光発電の農地にも、みどりの防草マットを敷くようです

蕨沢川沿いにある百番供養塔、やっとたっぷりの日が差すようになりました

 

 

 

 

成満院(じょうまんいん)墓地からの帰り道、隣の正福寺(しょうふくじ みどり市大間々町小平)にちょっと寄り道です。

 

階段を登ると、大きめ帽子で防寒の六地蔵さんです。

赤いオガケも大きめの冬仕様です。

合掌

 

正福寺についての説明板があります。

古いお寺です

明和7年(1770)に大金をかけて、現在の本堂を建立したんですね

 

この赤いトタン屋根の下は、茅葺きですね。

あれ、中がうかがえるようです

天井絵はみえません。

でも、なかなかの造作です

合掌

 

 

鐘楼堂は、シンプルです。

 

 

水子地蔵さん、きっとしだれ桜に包まれますよね。

合掌

 

 

静かすぎて、御朱印をと声を掛けることが出来ませんでした。

また、そのうちにお願いしてみましょう

隣の元・修験者さんちも、今はこちらの檀家だそうです

 

 

 

道の向かい側・親水公園にも、久しぶりにちょっと寄りましょう。

実は、この日はここに駐車しての探訪だったのです

 

あれえ、「ペットの持ち込み禁止」ですって

こっちにも、「ペットの持ち込み禁止」ですって

犬の散歩禁止と言うことですね

何かトラブルがあったのかな?

 

公園内の小平川(おだいらがわ)です。

親しめるようになってるのにね

 

散策しているのは、大人ばかりでした。

 

付近の案内図があります。

小平川、まだまだ上流があります

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円空仏にこんにちは(小平・成満院)

2021-12-22 19:04:50 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、東の牧場に行きました。

彼女は、無事かな?

彼女は、草を食べているようでした

又来るよ、バイバイ

サマンサ坂を上って帰ります。

帰り道、ひめちゃんは道ばたのアブラナに食い付きます。

獅子くんの影響受けてます

アタチは獅子くんと仲良しだったけど、ちょっとまねできません。

 

 

 

小平の成満院(じょうまんいん)には、円空仏の月光菩薩立像(がっこうぼさつりゅうぞう)があるといいます

円空さんが、泊まっていったのかな?

 

そういえば、成満院は親戚でした

11月2日、小平散策の途次、寄ってみます。

留守のようです。

 

現在は、普通の家のようですけど、ちょっとだけ堂宇を探検です。

『大間々町誌 基礎資料Ⅺ』に、小平の里修験として成満院があります。

もと本山派修験の寺院で、修験道廃止令以後、天台宗寺門派に属した。開祖は信州から来たと伝えられる。

不動明王を本尊とする。二月二十八日が祭日で、初不動と行って、戦前まで護摩を焚いた。

栄満は生き埋めになって竹筒を立てて息をし、鉦を叩いて、音がしなくなって死んだと伝えられる。

楠木正成の守り本尊と伝えられる毘沙門天がある。その由緒にちなんで成満院の鬼瓦には菊水の紋があしらわれている。

 

鬼瓦は確認しました。

毘沙門天は、未確認です。

そのうちに。

 

 

11月3日、電話を入れて出直しです。

 

「円空仏にこんにちは」です。

円空作の月光菩薩立像です

月光菩薩は、「月の光を象徴するという菩薩で、薬師三尊の一つ。釈迦の前世の姿とも言われる。薬師如来の右脇に侍し、左の日光菩薩と対をなす。」という仏様です。

台座に戻します。

 

でも、ちょっと後ろも拝見。

墨書があるようですけど、

ありがとうございました。

しっかり台座に戻します。

 

成満院は、現在は普通の家で宗教活動はやっていません。

円空仏は、町(市)の紹介でやって来た人にのみ公開しているそうです。

親戚の誼で、対面させてもらいました。

ありがとうございます。

 

 

 

『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々の社寺』に、成満院・修験者の入定の話があります。

その場所(隣の正福寺の西斜面)に案内してもらいました。

墓地の一角、大きな杉の根元が入定の場所だそうです。

天明7年(1787)、天明の飢饉の時です。

地域のリーダーは、自分の命を懸けたのです。

合掌

 

 

ここは、円空さんが通った道です

円空さんは、ここから山中を行き、現在の草木ダムの辺りに出て日光に向かったと言います

 

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小平の鍾乳洞

2021-12-21 14:17:20 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりの岩神沼です。

獅子くんがいないのが寂しいね

アタチが、いるでしょ

沼には、黒いカモの親子が住んでるみたいです。

ママと一緒で、いいね

 

 

 

(11月2日)嵯峨宮から、小平の里に戻ります。

観光バスが来ていて、小学生の遠足のようです。

密にならずに、ほどよい遠足が出来るのでしょう。

バスは、まもなく去って行きました。

 

 

密にならずに、鍾乳洞のある小平の里を散策です。

「埋蔵祈願の案内」があります。

地域の行事として、定着して行くでしょう。

 

いつも明るい布袋様、こんにちは

今年は「ながめの菊祭り」、分散開催とか

ここにも、プロの作品です。

「町の木かしわ」ですって。

知りませんでした。

大間々町の木は柏だったのです。

 

 

南の山麓の鍾乳洞を目指します。

右手に、なにやら説明板があります。

石灰を焼いていた窯の跡ですか

鍾乳洞は、原石採取の発破で発見されたんですか

 

 

少し歩きましたけど、鍾乳洞に到着です。

入口の聖観音様に、合掌

 

入場料300円を払って、入ります。

 

入り口の説明板を確認です。

この鍾乳洞は明治7年2月8日、現在地で石灰岩を採取中に発見されたものです。当時1人当たり160文の入洞料で一般の人に参観させていたともいいます。その後、10年くらいで、入り口が何かの理由で埋まってしまいました。その理由は今でも判明されていません。後年なって、何回か地元の有志で再発掘を試みたのですが発見に至らないままになっていました。

しかし、昭和59年、地元からの陳情を受けて、町が古文書などをもとに発掘した結果、同年10月24日に入口を発見することが出来ました。

 

洞内の案内図です。

 

鍾乳洞の風景の一端です。

洞窟の中に、観音様があります

長寿観音です

合掌

 

再発見された、数十年前に来た事があります。

大分落ち着いた雰囲気になってます

また、そのうちにゆっくり探検に来ましょう

 

 

鍾乳洞の出口の先には、水性植物園があるようです。

でも、時節柄探検は、次回に回しましょう。

 

 

道の反対側の木立の中に、観音様です。

蓮の花を持ってるので、聖観音かな?

合掌

 

 

小平川にかかる小平橋を渡って、円空仏のある成満院(じょうまんいん)を尋ねます。

ここにあるのは、月光菩薩立像です。

 

(つづく)

 

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小平村鎮守・嵯峨宮

2021-12-20 20:15:55 | 小平川紀行

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台の薬師の道を歩きます。

黄色いブロッコリーの花が、いくつもあります。

獅子くん、ブロッコリー大好きだったね

 

浅間山は、白い雲に覆われていて、その姿を見せません。

吹雪いているかな?

 

 

 

 

小平(おだいら、みどり市大間々町小平)の鎮守は、嵯峨神社(嵯峨宮)です。

県道334号線沿い、小平の鍾乳洞反対側にあります。

訪問は、11月2日です。

よそからの来訪者を意識しています。

「埋蔵祈願」て、何でしょう?

 

由緒があります。

嘉暦の際(1326年)武士七名あり、官軍に属せし者ならん。この地に隠れ嵯峨神社を建立し草蕪を開き本村を創立す。初小平(コダイラ)村と称し後小平(おだいら)村と改めたり。後村落衰廃す。天正十八年(1590年)故に復す。

 

嘉暦3年(1328)は、「嘉暦(かりゃく)の騒動」まっただ中です。

嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を廻る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛(ウィキペディア)です。

鎌倉幕府滅亡まで、あと5年です

嘉暦3年(1328)は、京都でも、大覚寺統と持明院統の間で、皇位継承の争いが起こっていました。

 

嘉暦の頃、この地にどんな人たちがどんな事情でやって来たのでしょう?

 

階段を登ると、途中にはローマ字で案内があります。

 

さらにもうひとガンバリが必要です

二の鳥居をくぐって、到着です

 

2礼2拍1礼です。

町誌の資料や、嵯峨宮便りが掲示されています。

「埋蔵祈願とは、願いをしたためた祈願書を地中に埋めて祈願するもの」ですか

「月日が経ち希望の目が地上に出るように」、すてきな表現ですね

旅と言うほどではないので、「嵯峨宮便り」をいただいて、代金を賽銭投入口に入れます

 

社殿の横には、アマビエさんもいます

 

社殿横には、「語らざる願い地に埋め 春ぞ待つ」の文字があります。

この後ろ辺りに埋めるのかな?

 

下を見ると、かなりの急階段です

でも、転ばずに降りられました。

手すりは有り難い

 

なんとか転ばずに行ってこれました

これも、ひめちゃんたちと毎日歩いてるおかげだね

 

 

似た話が、塩原の鎮守・塩原神社にもあります

『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)によると、

塩原の鎮守で、字高松に鎮座する。

この神社は、明治40年に村社および無格社七社を合祀して、新たに成立した神社である。そのため現在でも八幡様と呼ぶ人もいる。

『山田郡誌』には「創立嘉暦(かりゃく)3年高守忠国乱を避け嵯峨天皇崩御後30年頃、天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り本社を創立せり」とあり、八幡宮の由緒を知ることができる。

と、あります。

 

「高守忠国」については、いくら検索してもわかりません

「嵯峨天皇崩御後30年頃」とありますけど、嵯峨天皇は延暦5年(786)~承和9年(842)の人です。

300年くらい歴史がずれているかな

「天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り」って、嵯峨天皇の直筆の文書を持って来たのですか?

嵯峨天皇は漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人とされています。

 

高守忠国は、鎌倉ではなく、京都から来たと考える方が自然でしょうか?

でも、なぜ塩原にやって来たのでしょう?

 

 

同じ嘉暦の頃、少し奥の小平にも、やって来た人たちがいたのです

 

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