黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

この妹と申すは(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 8)

2024-10-22 16:10:13 | 桐生老談記の世界

昨日、獅子丸のお部屋(サークル)を大掃除しました

ねむねむ獅子くんのぬいぐるみと毛布も洗いました

今日は、乾いた獅子くんを冬バージョンのお部屋に戻しました

ビオラやガーデンシクラメンの鉢と一緒で、明るいお部屋になったね

 

ガーデンの草むしりも頑張りました。

先住犬たちのお墓も、チューリップの球根を埋めてビオラが植わるように、草むしりです。

七海ママの墓標・七海地蔵の後ろの草を抜いていると、土中から何かが出ています

何だろう

掘り起こすと、あれ獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみでした

獅子くん、もうじき君が突然逝ってしまった3度目のあの日が来るね

お部屋を大掃除したので、うれしかったのかな

それにしても、全く痛んでない、不思議なことです

 

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 8(この妹と申すは)

この妹と申すは大炊之介殿の親父靱負丞後妻、岩崎大六が娘の腹より出生なり。

一度旗下の松嵜左衛門が妻に嫁入りして、永正七年七月管領上杉憲房の下知に任せ、桐生の名代として松嵜左衛門を武州権現山に向かって討ち死にす。子息友若と母と五蘭田城に在りしを、膳の徒党夜討ちをして、是によって親子ともに追い払わる。

扨て、友若は丈長じて左衛門と名乗り、再び本家を相続す。

母は浮世に山鳥の一人かもねぬ。年長けて三十有余にして二度膳の家に嫁し、一人の男子を設け、去る程に天文十七年夏草の露消え給う。

扨て、また大谷勘解由は板倉尾張が婿に約して末睦まじく栄花なり。

そもそも大祖桐生小太郎綱元の武功、世に現れたる人なれども、子孫の武徳薄くして、家名を世にしられなかんずく、又次郎六歳の時より家督日々に衰え、先祖の軍功を失い、終に国家を他に奪われ、悪名を後世に下す事、うとましけれ。是れ迄代々の古事併記、これより本文に帰る。



あらすじです。

膳因幡守に嫁いだ妹というのは、桐生大炊介の父の後妻、岩崎大六の娘がうんだ娘である。
一度は、桐生氏に従っていた松崎左衛門に嫁いだ。


左衛門は永正七年(1510)七月、関東管領上杉憲房の要請で、桐生大炊之介の名代として、武州権現山の戦で討ち死にした。子息の友若は母と五蘭田城にいたが、膳の徒党に夜討ちをかけられ、城を追われた。


けれども、、友若は成人して左衛門と名乗り、再び本家を相続した。


寡婦となった母は、三十過ぎて、膳家に二度目の輿入れをした。
そして、一人の男の子を産んで、天文十七年(1548)の夏、はかなくこの世を去った。

さて、大谷勘解由のほうは、(助けてくれた)板倉尾張の娘婿になった。

桐生家は、そもそも先祖桐生小太郎綱元の武功はすばらしいかった。けれども、子孫の武徳は薄くて、特に又次郎が六歳の時に家督を継いでから日々に衰え、ついには国を奪われ、悪名を後世に伝えることは、うとましいかぎりである。



膳家に嫁いだ、桐生大炊之介の妹の話です。
この妹のママは岩崎大六の娘です。
大六さんも、この戦いで戦死しています。
そうすると、敵の家に嫁ぐことになります

この妹は、五蘭田(ごらんだ)城主・松崎左衛門に嫁ぎます。
このあたりで勢力をもっていた黒川衆は、松崎氏ではなく松島氏です
たぶん松島左衛門でしょう
創作か誤記か勘違いか

永正7年7月の武州権現山の戦は、関東管領上杉憲房に反旗を翻して北条早雲と手を組んだ上田蔵人政盛を鎮圧するために、要請されたのでしょう。
この頃、桐生氏は管領方だったんですか
そこで、松崎左衛門は討ち死にしてしまいます
その時に、五蘭田城にいた母子を夜討ちで追い出すのは、なんと膳氏です
なぜ、膳氏が夜討ちを五蘭田までかけにいくのかよく分かりません

膳氏は重ね重ね許せない相手です

ところが、彼女は、天文13年(1544)、膳氏に嫁がざるを得なくなります。
永正七年(1510)から、天文13年まで34年です
うーん、20歳の未亡人でも54歳です
うーん、もう少し年齢が下がったとしても、子どもを産めるかな?

又次郎は六歳で家督を継いだのですか
その後の没落は、ひとえに彼のせいという雰囲気です。

話が桐生家代々のことにそれたけれど、これから本来の話に戻るんですね

 

 

初稿  2019.11.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.22

 

( 膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・終 )

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『桐生老談記』番外編・永平寺52世宣峰禅師のふるさと

2024-10-20 20:31:28 | 桐生老談記の世界

少し肌寒い朝です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは堀之内を西に出ます。

タバサねーちゃんは、まもなく用を足してUターンして帰ります。

ひめちゃんは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

赤城山はなんとなく近くに感じられました

浅間山もうっすらと姿を見せてました

 

2020年10月の黒柴家族です。

 

小次郎パパと獅子丸(父と息子)の関係は微妙でした

 

 

 

 

膳城は、龍眼寺の和尚の仲介によって、落城を免れました
龍眼寺は、実は龍源寺のことと思われます
写し間違いか、意図的な作為かは、分かりません

膳城の北に位置する龍源寺は、永平寺52世となった宣峰禅師が得度した寺ということです
江戸時代には、末寺25ヶ寺を有する赤城山麓一の名刹であったといいます

『桐生老談記』の作者・高橋守行は、明和3年(1766)9月20日に51歳で死去しています。

『桐生老談記』が書かれた頃も、赤城山麓一の名刹だったでしょう
名刹に対する遠慮か、誤記か


『桐生老談記』に、直接は関係ありませんけど、龍源寺で得度した永平寺52世宣峰禅師の生家が、笠懸のよく通るあたりにあります


『笠懸村誌』(下巻・昭和62年)に、

宣峰禅師は越前、曹洞宗の本山永平寺五十二世をつとめ、勅号を給わった高僧である。江戸中期の延享三年(1746)、鹿田村において、父吉沢五郎右衛門・母とみの三男として生まれた。~中略~禅師は幼名を真三郎といい、粕川村の龍源寺(吉沢家の菩提寺)で得度した後、修行を重ねて関三ヵ寺の一つ、下総の総寧寺の四十世となった。後、江戸幕府の台命により文化五年(1808)十二月二十七日、同寺から本山の永平寺五十二世に就任することになった。

タバサねーちゃんと訪ねたことがあります。

白柴タバサちゃんの鹿田山漫遊記 5(永平寺52世の生家と山際の重制石幢)

 

鹿田赤城神社のすぐ南に、永平寺五十二世宣峰禅師の生誕地の碑があります。

 

すぐ東には、山際の重制石幢と子育て地蔵堂があります。

 

この頃は、タバサねーちゃん、お出かけ大好きなおばちゃんでした


 

『桐生老談記』とは、直接関係ないですけど、桐生氏と膳氏の調停役として、龍源寺の和尚はぴったり適役なのです

 

初稿  2019.10.28   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.20

 

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竜眼寺の和尚のあつかい(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 7)

2024-10-18 21:07:33 | 桐生老談記の世界

お昼頃から雨予報でした

でも、おかあさんが通院の日なので、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、テラスのお部屋(サークル)過ごしました。

お天気もなんとか夕方までもって、早めのお散歩をして、夜はしっかり室内犬です。

 

今日は、これからの場面に活躍したと思われる「龍源寺」(前橋市粕川町膳)の写真を探しました。

探しているうちに見つけた、黒柴家族です

2019年5月、獅子丸は、まだ実家に帰っていません。

小次郎パパ、まだ若い

ジャーマンアイリスもいっぱい咲いてました

七海ママも元気でした

笑顔がいっぱいだったね

 

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 7(竜眼寺の和尚のあつかい)

去る程に勝ちほこったる桐生勢旗の手を押し直し、落ち行く敵の跡をしたうて、

其の日の暮れに及んで膳の城まで追い詰め、前後より取り囲み矢・鉄砲を撃って短兵急に攻め掛け、落城と見えるる所に、

其の時、竜眼寺の和尚、里見が旗下に来てさまざま扱い給うにより、尊慮黙し難きにより和睦して、城を巻きほぐし、時に人質として因幡が舎弟大学、家老鶴谷玄蕃主従を受け取り、後日の遺恨あるべからずと、因幡自筆の証文に血判を添えて、里見上総に渡しける。

兵を引きあげ帰陣いたしける。

重ねて和尚のあつかいを以て、因幡守、大炊之介妹婿に縁を結び、同年極月婚礼これあり。

右人質を返されけり。

自然時は互いに加勢致すべきと契約なり。


難解語句です。

短兵急(たんぺいきゅう)・・・・・・刀剣などで急に攻めること。
扱う・・・・・・この場合は、紛争・訴訟などの仲裁をすること。
恨・・・・・・忘れがたい恨み
極月(ごくげつ)・・・・・・12月


あらすじです。

勝ち誇った桐生勢は、落ちていく膳方の跡を追って、その日の夕方には膳の城にまで追い詰めた。
城を取り囲んで、矢とか鉄砲を撃って急に攻め、あわや落城寸前になった。
その時、竜眼寺の和尚が桐生方の大将里見の所に来て、さまざまな調停を行った。
里見は、竜眼寺の和尚の調停を拒否するわけにもいかず和睦した。
城の囲みを解き、人質として因幡の弟・大学と家老の鶴谷玄蕃主従を受け取った。
さらに、「後日に恨みはのこしません。」という、因幡守自筆の血判状をも受け取った。
桐生勢は引き上げた。
重ねて竜眼寺の和尚の調停により、因幡守は桐生大炊之介の妹婿になって、その年の12月に婚礼をあげた。
そのことによって、人質は返された。
これからは、戦闘時には互いに加勢するという約束であった。



真夏の真っ昼間の戦いでした
みなさんよく熱中症になりませんでした
最初に両軍が激突したのは、現在の桐生大橋の南の辺りです。
その後は、南に逃げた膳方を追って、広沢や笠懸辺りを転戦したようです
夕方、膳に逃げ帰ってきたのです。

あわや落城というときに、竜眼寺の和尚が仲裁に乗り出します
膳城の北にあるのは、龍源寺です
誤記なのか、創作なのかは分かりません



龍源寺は、今では普通の曹洞宗のお寺です。


けれども、かつてはたくさんの末寺を持つ格式の高いお寺だったそうです。
曹洞宗のトップになった和尚さんもいたそうです
その人が、江戸を往復したという御駕籠が残されています

また、今でも栃木の大中寺(だいちゅうじ)の末寺でもあります。
大中寺は、上杉謙信の叔父が住職をしていたとかいいますね。
龍源寺の和尚は、仲裁役としては、もってこいです

桐生家と膳家の縁談まで、まとめてしまったのです
因幡守は独身だったのかな?

 

それと里見兄弟の父、里見上総が指揮官として行動しています

 

 

初稿  2019.10.24  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.18

 

 

(つづく)

 

 

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膳の家人赤堀喜太郎というもの(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 6)

2024-10-16 19:40:24 | 桐生老談記の世界

雨雲レーダーの雨の振り出しが、どんどん遅くなりました。

雨が降らないで、一日が暮れました。

ひめちゃんの夕方のお散歩コースは、基本的に南に下って中学校の信号付近を廻ってきます。

今日は久しぶりに、ケンくんちのおばあちゃんに逢いました

 

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の帰りにケンくんちに寄るのを楽しみにしている時期がありました

弾む足取りで、ケンくんちに向かいます

ケンくんが大好きなひめちゃんに付き合って寄ていたタバサねーちゃんも、いつのまにかケンくんが好きになっていました

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 6(膳の家人赤堀喜太郎というもの)

 

また、膳の家人赤堀喜太郎と云うものは、杉野の姪婿なれば、膳の陣に目配せすれば猶、杉野大小を渡し降参す。

桐生方森下これを見付けて追いかけ、杉野に切りつければ、喜太郎、森下を後ろより組倒す。

森下下より喜太郎を一刀に刺し通し、首を取らんとせし所に、森下がしゅうと金子浄盛は和田兄弟に討ち取られける。

森下すかさず追いかけ、兄弟を左右に請け弟を切り捨て、兄をも首を討ち取り、しゆとの敵たちまち討ちて、比類なき働きなり。

この度の高名に山城に受領して、これ森下の大祖なり。

ここにまた大吉は必死を逃れ、手負いの馬を担ぎ、五町ばかり退くを見て敵も目を驚かす。

あれほどの強力者にとって返す事ならば人馬とてもたるまじと、我先にと逃げ去る。

勘解由は生年十六歳、身丈六尺に超えたり。

十余人力の者という、されば其の日の合戦に桐生方にて、小川随見、安藤五兵衛、小曽根筑後、岩崎大六、畠山庄兵衛、金子太左衛門入道浄盛、中崎喜太郎、桑原源次郎を初めとして、名ある人々八十人、上下三十人ばかり討たれけり。

寄せ手の方にも赤堀喜太郎、和田兄弟、村上静六、金子縫殿、五貫主水、小畑市之助を始め上下四十人余り討たれけり。

両軍の手負い数知れず。

 


あらすじです。

膳の家中の赤堀喜太郎というものは、杉野の姪婿であったので、杉野は大小の刀を渡して投降した。
桐生方の森下は、これを見付けて、杉野を追いかけ切りつけた。
赤堀喜太郎は森下を後ろから組倒した。
森下は下から喜太郎を刺し、首を取ろうとした。
ちょうどその時に、森下の舅(しゅうと)金子浄盛は和田兄弟に討ち取られた。
森下はすぐに追いかけ、兄弟を討ち、舅の敵を討った。
この時の功績によって、山城に領地をいただいた。
これがの森下のご先祖である。


また、大吉(大谷)は、死ぬべき運命をのがれ、けがをした馬を担ぎ、5町(500~600m)退却するのをみて、敵もビックリする。
「あれほどの力持ちがとって返してきたら、とてもたちうちできない」と、我先に逃げ出す。
(大谷)勘解由は16歳で、身長は180cm越えで、20人力の力持ちだという。


その日の合戦には、桐生側で小川随見、安藤五兵衛、小曽根筑後、岩崎大六、畠山庄兵衛、金子太左衛門入道浄盛、中崎喜太郎、桑原源次郎を初めとして、名ある人々八十人のうち、三十人ばかりが討たれた。


寄せ手の膳方でも、赤堀喜太郎、和田兄弟、村上静六、金子縫殿、五貫主水、小畑市之助を始めとして四十人余りが討たれた。


 


真夏の合戦です。
7月15日は、合戦をする日としては、どうも不自然です


姪の夫を見付けた杉野さんは、さっさと降参します。
かつて主人の細川さんを裏切ったのに、細川さんの復讐戦にきた膳方にさっさと降参するのです
肉親愛にあふれた人なのでしょう

森下さんは大活躍です。
杉野さんを見付けて成敗しようとしますけど、赤堀喜太郎に邪魔をされます。
組み伏せられても、下から刺し殺すのです
また、舅の金子浄盛の敵(かたき)もすぐに討ちます。

「これ森下の大祖なり」、作者の近くに森下家があるかな



赤堀さんというと、すぐ南の旧赤堀町(伊勢崎市赤堀町)、赤堀城主の赤堀さんが思い浮かびます

本文中の大吉は、大谷の誤記と思われます。
大谷勘解由は、まだ16歳だったのですか
身の丈180cm越えとは、当時としてはかなりの大男です


「所領を獲得するために命を懸ける」という時代の話だと思いますけれど、肉親愛につられての行動が見られます
作者は、むしろ肉親愛にこだわっているようです

仇討ちのために、たくさんの命が失われました
そして、膳城にも危機が迫ります


初稿  2019.10.19  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.16

 

 

(つづく)

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広沢茶臼山の番頭金井田左衛門という者(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 5)

2024-10-14 21:44:41 | 桐生老談記の世界

上野国山上も秋の気配になってきました。

ひめちゃんは堀之内を北に出て、高縄の集会所を廻ってきました。

集会所のハナミズキ、赤い実をつけてます。

 

5年前、2019年10月のムーハウスのみんなです

 

ぬいぐるみを大事にする獅子丸とタバサねーちゃんです

タバサねーちゃんの外のサークルで、今もこの熊さんは存命です

 

小次郎パパもののこねーちゃんも元気です

七海ママも、レインコートでしっかりお散歩できました

もちろん、ひめちゃんも元気いっぱいでした

5年前は、賑やかな黒柴家族でした

 

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その5(広沢茶臼山の番頭金井田左衛門という者)

 

其の隙に大谷が難儀、味方の後陣に知らせければ、大将里見上野介大いに驚き、

「抜け駆けして味方のおくれしでかしたり。さりとも大谷を討たせては味方の名折れとなるぞや、討たすなものども続け」と下知なせば、

金子、岩崎、畠山、小宮山、奥布木、村岡、桑原、稲鍋、森下を初めとして、我先にと進みける。

中にも森下作弥と申すは、大谷が腹違いの兄弟なりしが、森下の家名を継ぐというとも、他名を名乗れども、「弟を討たせてははづかしや」と、人より先に進みけり。

心のほどぞ頼もしく、かかる所に広沢茶臼山の番頭金井田左衛門という者、三十騎にて天沼方面より「桐生の加勢後詰めなり」と呼ばわって、短兵急に取りかけ入り乱れたる其の中へ、

杉野平馬という者は細川内膳の家人なりしが、四五年以前細川をそむいて、金井田の家に仕えて、今陣に向かって寄せ手の大将膳因幡守、古主の親類なれば敵の方へ猶予を致されけり。


 

難解語句です。

加勢・・・・・・力を貸してたすけること
後詰め・・・・・・先陣の後方に待機する軍勢、予備軍
短兵急(たんぺいきゅう)・・・・・・ひどく急であること、刀剣などを持って急に攻めること

 


あらすじです。

板倉尾張が大谷を救っている間に、板倉の従者によって大谷の危機が知らされた。
大将の里見上野介はたいそう驚いて、

「大谷は抜け駆けして味方に迷惑をかけた。けれども、大谷を討たせては味方の名折れだ。討たせてなるものか 続けやものども。」と命じたので、金子、岩崎、畠山、小宮山、奥布木、村岡、桑原、稲鍋、森下を初めとして、味方(桐生勢)は、我先にと進んだ。
中でも、森下作弥というのは、大谷の腹違いの兄弟だったが、養子に行って森下の家名を継いだけれど、「弟を討たせてははづかしいことだ」と、人より先に進んだ。
その心は頼もしいことだ
そうしている所に広沢茶臼山の番頭金井田左衛門という者が、三十騎で天沼方面より「桐生の加勢後詰めなり」と叫んで、急に攻め入った。
入り乱れた其の中に杉野平馬がいた。
杉野は、4、5年前に細川内膳家を裏切って金井田に仕えたのだった。
寄手の大将は、元の主人の親戚なので、攻撃の手を緩めてしまった。



「抜け駆けした大谷を討たせては味方の名折れだ」という発想が、よく分かりません
軍は集団行動ですから、抜け駆けはダメです
でも、大谷は単独行動ではなく、手勢14人引き連れて追いかけたのです
大将の里見上野介は追いかけるなとか指示していません

作者は、森下作弥の「弟を討たせてははづかしや」という気持ちに対して、「心のほどぞ頼もしく」とコメントしています


広沢茶臼山の番頭金井田左衛門、気になる名前です
『新田老談記』によれば、由良信濃守成繁公家来のなかに、「金井田左衛門」がいます

さて、謙信公は下野国にお通りになる途中、佐野・桐生の道筋の山々を、御見物のため、鹿田山の峰でお弁当をおとりになり、広沢・境野の原を通って足利八幡へ向かった。~中略~その折り茶臼山寄居の物見の番頭として金井太左衛門という者が在番しており、この者が、謙信公がお通りになると聞いて雨沼のあたりに出て遠見していた。(芝蘭堂『新田老談記』)

金井・田左衛門ですね。
由良氏と桐生氏は渡良瀬川の水をめぐって、争っていたはずですね

金井田左衛門が「桐生の加勢後詰めなり」という行動をとる事はあり得ないのですけど

 

 

 

初稿  2019.10.14  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.14

 

 

(つづく)

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