月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。
教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
教育する者―教育者。
教育を受ける者―学習者。
師範⇒先生⇒先輩⇒後輩⇒同輩…
師弟関係について、
師範は、弟子を教育して一人前に育てる。
教師は、児童・生徒・学生…を教育して一人前に育てる。
どちらも、教育者と被教育者の関係。
教育関係において、「距離」とは何か?
以下の記述から考えてみた。
距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。
1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育
例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。
つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。
学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。
自由びとさんの展開
楽しみにしています。
「悟りを求めて…」いる私は南郷継正を師範と仰ぎ、「悟り」を習得しようと努め続けている。
私にとっては、南郷継正は、悟りを教えてくれる教師であり、手本・模範・ゴール師範…といえる。
私の学習・習得・修得…目標は師範の認識の中身―認識像である。
この場合、師範の認識像と私が思い描いた師範の認識像の相違・遠近を「距離」と考える事が可能である。
私の先輩とは、その者の師範の認識像が私より師範に近い者。
後輩とは、師範の認識像が私より遠い者。
同輩とは、師範の認識像が私と同じ程度者。
認識像について、
師範の認識像の二重性
一つ、師範の描きたい認識像―理想的な認識像
二つ、今の師範が描いている認識像―現実的な認識像。
師範は、師範の求める理想像を追い続けて…
私は、師範の現実像を追いつつ、その先の理想像を求め続けている。
算数には、「距離」と「道のり」という単元がある。
この場合の「距離とは直線距離」の事。「道のりは、ある道を通った時の距離」。
私が、師範の認識像を知って分かった…としても、
また、師範の通ったその道程・過程像・道のりも知って分かったとしても…
私が、師範と全く同じ「道のり」を行けるかどうかは不明である。
同輩とは、師範像と同じ距離・遠さにいる同行の者だから、互いにその先の道を闘論しつつ進める。
先輩は、先を行く者だから、アドバイスをもらいつつ背中を見ながら追いかけつつ先へ進める。
確か、南郷氏の著書に大学生の師範への手紙が紹介されていた。
その中で、「師範を目標にして、そこへの過程に大学・教授・授業を位置付けて学び続けている」といった内容のモノがあった。
これなど、師範をゴールと設定して、そこへの道を色々な教授・授業を位置付けている。
師範認識に近づく為の、踏み石を並べている…のだろう。
月研さんの以下の文面は~
>つまり、「距離」という概念で
>教師と先輩と学生が相対化されます。
↑
教師の認識像をゴールとし、その過程・道程に多くの先輩を位置付ける。
>学生からは遠い教師像が
>先輩からのより近い教師像を介して
>学生により鮮明な教師像が描かれ、
↑
それらの道標・踏み石として歩む事で、
より教師像に近づける。
>教師は、その学生の距離の変化で、
>学生像が更新される。
↑
学生像が更新される事で、学生の分かる・が分からない部分がより鮮明になり、
教師の理想的像は、変わらずとは、表現に使われる言語をより学生像に近づける事が可能になる。
別言するなら、
大人が、普通の対等な会話が難しい子供に対して、
その子供の特性を理解できたなら理解可能な易しい言葉を選ぶ事。
教師が、その発達障害児の特性を正しく理解出来た時、
その言動が、その児童が受け入れられる型に変化可能し得る。
自由びとさんもご高齢で、もう働かなくても良いご年齢でしょうが、そうすると一気に老け込むものですからね。
「悟り」とは心に喜びをもって生きることでしょうから、幸せな毎日をお送り下さい。
奥さまやご子息がいらっしゃいますから、私が心配することもないでしょうけれど(笑)