教育対象と教育…
教え育てる対象には、
一つ、全く・ほぼ、未教育・白紙的な認識の赤子・乳幼児。
一つ、ある程度の教育の結果の認識の子供。
一つ、かなり教育の結果・成果ある認識の中人・大人・老人。
例えば、白紙には、紙面全部に、大きく自由に絵が描ける。
しかし、書かれた絵がある紙面には、不自由である。
そんな書かれ絵のある紙面は、時に書かれている絵を消して書き直が必要かも…
二重性で書くなら紙面が、白紙か?否か?
白紙から、自由あれば、自在に新たに描く。
既に絵があれば、それを使って描くか?否か?
使わないなら、横・下・上…に描くか?消して描くか?
消すにしても綺麗に消せるか?消せないなら削るか?
何か書きたいか?
それは、家庭教育と幼稚園・保育園・学校教育の違い、である。
家庭での「躾」とは、言葉での教育ができ難い乳幼児への教育。
それは、彼らの認識に「言葉」そのモノが、まだ絵とし描かれてれてない「白紙的認識」。
そんな彼らへの「躾」は、
先ずは現実・事実を通しての言葉・教育。
それと並行して、危ない事はしない・さける「躾」。
昔・昔、玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻への三年時編入試験に合格した時の授業で、
確か「幼児心理学」の講義…「ピアジェ」理論の講義…の中で、
「私は、孫・幼児に『あっちち!熱い!』と言いながら、
少し熱めの「湯のみ」を手で持って、孫に触らせる。
言葉が分からない幼児には、
体験を通し「危険性」を教える・体験させる…そんな事を言っていました。
良く買い物・スーパーで、母親が、大声は「買って!」と言い張っている子供に、
「いい加減しろ!うるせい!」と躾けている姿に出会います。
殆どの場合、母親のその汚い・キツイ言葉でも静まっていません。
それは、躾の為の言葉ではなく、母親の感情発散の為の言葉・口調…なのでしょうね。
キツ厳しい事を「感情的・汚い・語気のキツイ言葉」で言おうが、
冷静に感情を心に秘めて、丁寧できれいな事が優しく言おうが、
どっちにしても、止めない幼児は止めません。
では…どうする?
何かの帰りに、駅の改札を出たら、
「いや!帰りたくない!もっといる!」と捏ねて両親を困らせている子供に出会いました。
両親は、とても困っている様子で、色々言葉で説得を試みていました。
そんな言葉の中で、「…帰らない…ここにいると変な人に…」を聞いて、
私はその子の傍へ近づいて「おじさんが、つれていくよ!」と言ったら、
とたんに、その子は、泣き止んで、横にいる父親に抱き着きました…
私と父親は、笑顔を交わして、その場は解決です。
これは、その父親が私の言動を「問題解説の為のモノだろう」と信じてくれたから…
これが、信じてもらえなかったら、「お前!何!警察呼ぶぞ!」で怒り買っていたかも…
本当は、スーパーでの「ただこね児童」にも、似たような事をやって、その場の解決を助けたい…想いはあるのですが…
「相手に信じてもらえない!だろう。ただの変なジジイ!」で終わるだろう…いう不信感から、殆どやれていません。
さて…結論的に端的に書くなら~
本来の教育には、
一つ「その根性を叩きなおすモノ」、
一つ「その根性を育てるモノ」の二重性の必要があります。
ここで、「叩きなおせない程の根性」なら、「新たな根性を創る」教育。
叩きなおせる条件は、
今の自分が嫌い!当人が自分を変えたい!根性を叩きなおしたい!
といった強烈な想いがある事。
南郷氏の技を「創る・使う」。
「応用可能な基本技を創る」・「創った基本技の使い方を創る」
応用が難しい技なら、
可能から・希求するなら「新たに応用可能な技を創る」事から始める。
さて…さて…現代社会・教育現場…一般的な認識は、
その時点での、教師自身の技を使って、学習者の技の使い方の教育…そんな感じでしょうかね。
それでも…幸せな人生が生き抜ければ、
ハッピーエンド、終わりよければ全てよし!
教え育てる対象には、
一つ、全く・ほぼ、未教育・白紙的な認識の赤子・乳幼児。
一つ、ある程度の教育の結果の認識の子供。
一つ、かなり教育の結果・成果ある認識の中人・大人・老人。
例えば、白紙には、紙面全部に、大きく自由に絵が描ける。
しかし、書かれた絵がある紙面には、不自由である。
そんな書かれ絵のある紙面は、時に書かれている絵を消して書き直が必要かも…
二重性で書くなら紙面が、白紙か?否か?
白紙から、自由あれば、自在に新たに描く。
既に絵があれば、それを使って描くか?否か?
使わないなら、横・下・上…に描くか?消して描くか?
消すにしても綺麗に消せるか?消せないなら削るか?
何か書きたいか?
それは、家庭教育と幼稚園・保育園・学校教育の違い、である。
家庭での「躾」とは、言葉での教育ができ難い乳幼児への教育。
それは、彼らの認識に「言葉」そのモノが、まだ絵とし描かれてれてない「白紙的認識」。
そんな彼らへの「躾」は、
先ずは現実・事実を通しての言葉・教育。
それと並行して、危ない事はしない・さける「躾」。
昔・昔、玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻への三年時編入試験に合格した時の授業で、
確か「幼児心理学」の講義…「ピアジェ」理論の講義…の中で、
「私は、孫・幼児に『あっちち!熱い!』と言いながら、
少し熱めの「湯のみ」を手で持って、孫に触らせる。
言葉が分からない幼児には、
体験を通し「危険性」を教える・体験させる…そんな事を言っていました。
良く買い物・スーパーで、母親が、大声は「買って!」と言い張っている子供に、
「いい加減しろ!うるせい!」と躾けている姿に出会います。
殆どの場合、母親のその汚い・キツイ言葉でも静まっていません。
それは、躾の為の言葉ではなく、母親の感情発散の為の言葉・口調…なのでしょうね。
キツ厳しい事を「感情的・汚い・語気のキツイ言葉」で言おうが、
冷静に感情を心に秘めて、丁寧できれいな事が優しく言おうが、
どっちにしても、止めない幼児は止めません。
では…どうする?
何かの帰りに、駅の改札を出たら、
「いや!帰りたくない!もっといる!」と捏ねて両親を困らせている子供に出会いました。
両親は、とても困っている様子で、色々言葉で説得を試みていました。
そんな言葉の中で、「…帰らない…ここにいると変な人に…」を聞いて、
私はその子の傍へ近づいて「おじさんが、つれていくよ!」と言ったら、
とたんに、その子は、泣き止んで、横にいる父親に抱き着きました…
私と父親は、笑顔を交わして、その場は解決です。
これは、その父親が私の言動を「問題解説の為のモノだろう」と信じてくれたから…
これが、信じてもらえなかったら、「お前!何!警察呼ぶぞ!」で怒り買っていたかも…
本当は、スーパーでの「ただこね児童」にも、似たような事をやって、その場の解決を助けたい…想いはあるのですが…
「相手に信じてもらえない!だろう。ただの変なジジイ!」で終わるだろう…いう不信感から、殆どやれていません。
さて…結論的に端的に書くなら~
本来の教育には、
一つ「その根性を叩きなおすモノ」、
一つ「その根性を育てるモノ」の二重性の必要があります。
ここで、「叩きなおせない程の根性」なら、「新たな根性を創る」教育。
叩きなおせる条件は、
今の自分が嫌い!当人が自分を変えたい!根性を叩きなおしたい!
といった強烈な想いがある事。
南郷氏の技を「創る・使う」。
「応用可能な基本技を創る」・「創った基本技の使い方を創る」
応用が難しい技なら、
可能から・希求するなら「新たに応用可能な技を創る」事から始める。
さて…さて…現代社会・教育現場…一般的な認識は、
その時点での、教師自身の技を使って、学習者の技の使い方の教育…そんな感じでしょうかね。
それでも…幸せな人生が生き抜ければ、
ハッピーエンド、終わりよければ全てよし!