本当の所…
こんなコメントを記事で
取り上げるのはどうかと思った…
タマゴさんなら、
「あんな奴の相手をするなんて…」
「自由びとさんって、本当に御人好しだね…」
なんて言われそうだし…
それでも…
人に相手にされない寂しさを痛感している私だから、
『ここはひとつ取り上げてみよう!』と決めた、のであろうか…
ならば~
どんなに否定的なコメントでも、
『その通りなのかも?』と
一旦は肯定的に受け止めて、そこから始めるの事にした。
以下は、そのコメントである。
コメントが届いた記事
児童との会話
・コメントを書いた人
空
・コメント
>gt;相変わらずの貶める造言
確かに上品な物言いではありませんでしたね。ですが、あれぐらい書かないと私の考えは伝わらないと感じましたのでね。<
↓
自由びとコメント
↓
<貶める>という言葉は、
空氏の「あれくらい」という程度の事ではなく、
書かれ、その内容・中身のなのです。
空氏は、記事「児童との会話」の中で、
>…自由びと氏の言動のほうが「普通じゃないな」
>…人間の頭をクルクルパーにする
と書いています。
普通の人なら、他人のブログの記事に対して、
このような言葉で自己の思い・考えを伝えようとはしません。
それは、他人のブログだから、です。
その人のブログは、その人の精神世界です。
その他人の精神世界に、
穢れた汚い自我・心を、そのまま言葉にしたが空氏なのです。
これを。空氏の言葉で表現するなら、
「空氏のコメントを方が普通ではない」
となります。
↑
>>認識の変化を求めて
誰しもが他者に対して某かを求めるものなのでしょう。それが船戸結愛ちゃんを虐待死させた父親の船戸雄大の場合は言うことを聞くように娘の認識の変化を求めての暴行だったのでしょうし、栗原心愛ちゃんを虐待死させた父親の栗原勇一郎の場合も娘の認識の変化を求めてだったのでしょう。
↓
自由びとコメント
↓
空氏は、全く誤解しています。
というより、全く分かっていませんね。
空氏の言葉で表現するなら、
「あれぐらい」厳しくやらないと「考えは伝わらない」と
栗原勇一郎は感じたのでしょう。
これって、ここでの空氏そのまま、なのです。
↑
>別に私が自由びと氏に批判的なコメントしたところで児童教育の経験の皆無な私に児童の教育が出来るはずもなく批評の域を超えるものではありませんが、何となく、まったくもって何となくなのですが自由びと氏の教育に関する思考は教育現場の一般的というか大勢を占める考えではないのではないか?という気がしたものですからね。<
↓
自由びとコメント
↓
あの記事で、自由びとが伝えたい想い・主旨が、分かり得ていないのに…
ここでも、分かったつもり・理解したつもり…のコメント…
まあ~私の説明不足も否めないでしょうね…
これについては、続編でも書きますか~
↑
>私がそれを読んだのも三十年も昔の話ですが、正に「個性的すぎる思春期での成長」に該当するのが自由びと氏なのではなかろうか?とも感じるものです。
ですので実際に自由びと氏が担当しているクラスの児童を私は見ていないわけですから
>従順とは言い難い
>素直に反抗的
だと言われれば、「そうなんだ~」と思うしかなく、反抗的な子供の心を入れ替えさせる自信など私はまったくもって無いですので、ね。ただ、
↑
自由びと
↓
うん~「反抗的な心」というより、「反抗的な言動」ですかね…
小四の児童の心は、まだまだ柔軟です。
その心が反抗的ではなく、
その言動が他人からすれば、
「反抗的に見える・思える言動」という事です。
それは、態度・言葉の表現の問題であり、その心の問題ではありません。
彼らからすれば、反抗ではなく、自己主張なのです、から…
↑
>>何でもカンでも、「玄和会否定」へと導いて<
↓
自由びとコメント
↓
成る程~「何でもカンでも…」は大袈裟ですね。
それでも、空氏の言葉で書けば、
「あれぐらい書かないと私(自由びと)の考え(思い)は伝わらないと感じましたのでね」
となります。
更に、書けば~
東大の優等生の違法行為は、その東大の責任?
東大が犯罪者の養成大学だったから?
数十年勤務した警官の違法行為は警察署の責任?
警察学校や警察署で、犯罪者を養成したから?
普通の人なら、そうは考えないでしょう。
それを出来の悪い?自由びとだから、
それは南郷継正のせいにしています。
武道なら、ある柔道家が相手を殺したら、
それは柔道を指導した師範の責任だと、
普通の人々が思い・考えますか?
普通の人々ならありえませんね。
もっとも…
その師範が自己責任に苦しむ事はあり得ますが…
↑
<私は何でもカンでも導いているつもりはありませんけれど、玄和さんで三十年以上も学んだと公言したのは自由びと氏自身でしょうし、一般的に三十年も学んだと言われたら深く影響されていると受け止めるのが当然ではないでしょうか?
その上で、私が「現在の現場の多くの教員はそうではないのではないだろうか?」と感じる自由びと氏の特性というか個性的なところは三十年以上も学んだ南郷さんや海保さんの本に露になってるように思われたのですね。
それが「現代教育に欠けたるもの」に説かれた「歴史性のない者は豚である」というヘーゲル由来の思想や「武道の理論シリーズ」や「子供の認識の論理を求めて」で説かれた人間性を否定された悔しさを原動力として頑張らせるという方法論のように思われます。
私も教育学は門外漢の素人なのですが、確かに教育学には「狼に育てられた少女」を問うような部分があるのだと思うのですが、それが「教育学」という体系?の何処に如何に位置づけられるのか?個々の事例の一つ一つの教育場面での指導スキルに顔を出すものなのか?ということが、自由びと氏の「学習課題をやらせようとの指導現場で人間か動物園の鑑賞動物かを問う」なんて方法への違和感から考えられたことなのですよ。
そもそもが学校教育というのは現代社会に出て生活していくための準備期間として知識を蓄え体を鍛え知能を発達させていくのだと考えます。社会に出ていくというのは社会的な義務を担うわけですから憲法にもあるように労働の義務を果たして経済的な活動をし納税の義務を果たし参政権として国を動かしていく役割をも担うという、だからそれらを果たし得ない未成年は「社会人」とは扱われないのですし、二十歳という年齢が「成人」なのだと思います。
そうした社会へ向けての準備期間に社会的に許されない方法、例えば「宿題やらなかったらブッ殺す!」とかの「脅迫」を手段としたならば「目の前の課題をやらせる」ということしか考えていないことになり、場合によっては「目的のためなら手段を選ばない」という思想を子供に教育指導することにもなりはしないか?と考えますね。
ですから「学校の課題をやらなかったらキミは動物と一緒だから裸を見られても仕方ないよね?」なんてことを、船戸勇一郎が「躾のためだった、相手が言うこと聞いてれば問題にはならなかった」と言ったのと同様に、口にする教職員がいたとしたならば、時代錯誤というか教育学の体系を履き違えているとか感じたとしても無理ないのではありませんか?
昔のヨーロッパと異なり、今は動物と共生して行こうとしている時代ですから、動物というのは人間未満の軽蔑すべき存在なんて思想の持ち主は多くないでしょうから、動物扱いされることが悔しくて頑張る動機となるなんて考え自体がナンセンスではないでしょうか?<
↑
自由びとコメント
↓
上記のように、ここまで長々と書いた結論が以下とは…
↑
>自由びと氏に再確認していただきたいのは、自由びと氏は自分が考えているような「考えることが好きな人間」では全くなく、考えない人間なのだということです。<
↓
自由びとコメント
↓
自由びとが、
自由びとの事を、
如何に考えようと、
自由びとの自由です。
それを
いちいち自己矛盾している言葉で書くとは、
空氏には羞恥心というものが皆無ですね、
その自己矛盾とは以下です。
(自由びとを)「考えない」と書くなら、
「自由びと氏は自分が考えている…」は、矛盾しています。
また、
(自由びとが)「考えない人間」と書くなら、
「自由びと氏は自分が考えている」も矛盾しています。
これらの自己矛盾が、
この空氏の結論なら、
それが彼の言説の全。
そして、それは、
彼の人物性・人間性を
如実に物語っています。
こんな矛盾を結論と書けてしまうような人物を養成したのが、
彼の信じる処の、哲学、学問、武道…なのでしょうね…
そういえば、
以前に哲学者を名乗り、
京都弁証法認識論研究会のブログへ
哲学の長文を転写して、
自己の哲学を披露した、
某氏を想起しました。
彼は、最後の最後は、
書き込んだ自己のコメントの全てを
「消去してくれ!」でしたね。
あれって~
自己矛盾の為でしょうかね…
結局~あのブログ内でも、
自己矛盾から自己崩壊
したのでしょうかね。
あれって~もしかした…
いやいや!きっときっと!
空氏なのでしょうね!