新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・全体と部分の問題~

2023-08-28 12:10:17 | ~ものは考えよう~



全体と部分の本質について…


単細胞体は、一つで全体(生命体として全体)。
カイメン体は、単細胞が集まって全体。
ただ…単細胞の更なる分解も可能。
ただし、それ以下の分解では非生命体化してしまい、生命体の本質を離れてしまう…


単細胞体は、単細胞の本質=単細胞体の本質。
カイメン体では、単細胞の本質が集まって量質転化してカイメン体の本質。
単細胞の本質≠カイメンの本質


では、人間・人体は、どうなのだろうか?

多くの細胞が集まって、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…から構成されている。
それらが、頭脳によって総括・統括されて、人間として生活している。

ここには、単細胞としての本質があり、
また、多細胞から構成された、頭脳、神経組織、感覚器官、内臓、骨、筋肉…のそれぞれの本質があり、最後に、人間としての本質、が考えられる。

そう、本質とは事実してある、のではなく、論理として人間が見て取るモノ。

全体には、部分があり、その部分の一つ一つもまた全体として見て取る事が可能。
より正確には、全体の本質を見て取る事も可能なら、部分・部分の本質も見て取る事が可能。
部分が集まって全体なら、集まっている一つ一つの部分も全体と捉えられる。

もっとも…それは、現代の人類だから言える事で、
過去の人類にとっては、部分は部分で、全体は全体であったのだろう。

本質の二重性⇒、実体的な本質・機能的な本質。
合わせて、本質的な本質。

↑のように考えられるのは、人間の本質的な特性であろうか…

それは人間の頭脳には、「実体的な頭脳細胞の本質」と「機能的な頭脳活動・認識の本質」があるからだろう。
人間だけが、対象の二重化が可能なのは、人間には「本能的な認識と非本能的な認識」があるから…

オマケを書こう!

ピンチはチャンス⇒ ピンチ=チャンス。
ピンチがチャンス⇒ ピンチこそがチャンス。
ピンチをチャンス⇒ ピンチをチャンスに換える。

上記のような言い回しが可能である。
これが可能なのは、「ピンチ」と「チャンス」の本質が同じだから…であろう。
それは、人間が、「ある事・ある状態」を「ピンチorチャンス」と認識している、から、である。


なので、ある一つの事実(ある事・ある状態)を、ピンチと認識するもチャンスと認識するも、その人の自由選択である。


例えば、野球の9回裏で、二死満塁で、
バッターが2ストライク・3ボールの状態を「チャンスorピンチ」?

攻撃側は、ワンヒットで勝利(チャンス)、一回限りのチャンス(ピンチ)…
守備側は、ストライク一本で勝利(チャンス)、ボール一球で敗北(ピンチ)

「ピンチ・チャンス」のそれぞれの言葉・意味・認識としての本質は異なっていても、
そのように解釈している対象・事実は、同じモノ物事という事もあり得る(本質)。


上記の後半の「オマケ」部分は、↓以下のtada氏の以下の言説を意識して書いてみた!

>「ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) 」


「答えは次回…」を期待していますよtadaさん!



また、↑の
「ピンチからの(主体的な)脱出」という言葉…なかなか意味深の言葉ですね♪♪♪
tadaさんの認識・表現力に改めて感激しています。
もっとも…その能力を読み取れる私になり得た事への感激でもありますが…



前半部分は、以下の記述を意識して書きましたが…

>「思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。」

どうですか?tadaさん!

私の今回の記事・内容は、tadaさん認識に近似的になりえていますか?近づいていますか?


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35 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (tada)
2023-08-28 22:14:08
自由びとさん コメントありがとうございます。暑さに強いんですね。私は普通に暑いのは苦手です。体を使う時は大丈夫です。汗ダラダラでも平気です。もちろん 水分塩分ミネラルをとりながらです。 逆に頭を使うときはエアコンで寒くなるくらいにしないと効率があがらないです。あと田舎に住んでいることもあり 夜の9時過ぎになると エアコンなしで 扇風機だけで 寝られます。資料室が2階にあるので 2階の寝室で物を書くのが理想ですね。2階は寝るだけなんです。昼間は熱くなっていて 利用できないのです。 歳をとったのこともあり 1階と2階の移動も面倒になって 寝室へのエアコンの購入を毎年検討しています(笑)。夏をすぎると忘れてしまうんですね。

ところで映画の話を続けながら 蓮實重彦先生のことを書くつもりでしたが またの機会にします。映画「ショーシャンクの空に」の元ネタはモンテクリスト伯でした。わかりましたか?それも 主人公ダンテスが刑務所から脱出するところまで ダンテスは刑務所で教育を受けるのですが 映画のほうは 逆に刑務所で周囲を啓蒙するのです。その他 比較すると面白いことが発見できます。南郷先生もモンテクリスト伯 お好きなようですね。 

自由びとさんの全体と部分の話に付け加えますと まんじゅうの皮とあんこでは 素材の違いを 本質がちがうことの比喩にしています。きびだんごは皮も中身も同じなので 本質が同じことを比喩しています。あんこ玉は皮も中身もあんこで同じなので 本質が同じことを比喩しています。まんじゅうが普通の国家で社会の自由があり 国家が全体をまとめているイメージ きびだんごがソ連のような国家 厳密に言えばナチスドイツとソ連は体制が違うのですが ファシズム国家のイメージ 国家が社会を飲み込みガチガチに管理しているイメージ あんこ玉は マルクスが言った国家死滅後の共産主義社会のイメージです。国家がない社会だけのイメージ。あくまでもお遊びですので むずかしく考えないでください。ここは笑うところだったんですよ。缶詰国家論だとソ連や共産主義社会がうまく表現できないので 南郷先生の例え話の負けという話でした。まんじゅうのことでこんなに盛り上がるなんて まんじゅうこわいです。おあとがよろしいようで。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-29 06:51:52
前の記事のコメントが25を超えたな…と気になった頃に自由びとさんが新しい記事を書いてくれたので息苦しさが消えましたね(笑)。

今回の自由びとさんの記事は私には何ということの無い内容ですが、少し想起したことがあります。

>単細胞以下の分解では非生命体化してしまい、生命の本質を離れてしまう…

これだけでは当たり前のことで何が言いたいのか?とも思うのですが、これが別の何かの喩えだとしたら、例えばtadaさんが言っている「解体学」というのがこれに相当するのか?しないのか?とか。

確か南郷先生も『弁証法・認識論への道』で「ピアノを分解して、あーこんな部品で出来ているのか!と見てとるのと、バラしたピアノを組み立てて元通りの音が出せるのか?」みたいなことを書いていましたね。

確かに自由びとさんが示唆しているように「ピンチはチャンス」だと直接的同一に理解するのと、「ピンチとチャンスは違うからピンチからの脱出」だと媒介的に理解するのとは違うようにも思えます。

>本歌取り

tadaさんは歌道にも造詣が深いのですね。「本歌取り」を調べてみて万葉集と古今和歌集との関係に出会いました。確か以前、『試行』に藤川隼人さんという南郷学派の人が論文を書いていて、藤川さんのご専門が万葉集だったかと記憶しています。おそらく、もう70歳くらいになっているかと。

万葉集には東北から九州までの歌が収められているという、正に「統一国家」となったが故の成果だと改めて感じると共に、『日本書記』に「今から必ず銅銭を用い、銀銭は用いないこと」と書いてあるのを知って《やはり国家統一は経済圏の拡大という経済・流通のため》なのだと確信しました。小学校だか中学校で習った「和同開珎」なんて通貨の知識も、「あー、ここに効いてくるのか!」という「私同」という名称が「みんなで同じ通貨を使うこと」だという統一国家の本質を言い当てている感動がありますね(笑)。

併せて、当時の日本(畿内)では旱魃による飢饉が多く、そこからの救済策として「飢饉の生じていない地域からの食糧調達」が必須の課題としてあったことが、中国型の統一国家を模倣した理由だと考えられます。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-29 07:32:41
tadaさん

>方法論を再確立してください。

tadaさんにとっては「方法」ということが非常に重要なことのようですね。それで改めて滝村先生の本を見始めたのですが、遺作となった『国家論大綱』では「方法としての世界史」なんてことを書いているわけですが、遡ると『マルクス主義国家論』でも盛んに「方法」ということを書いてます。

滝村先生にとっても「方法」というのが自覚的に追究するべき最重要事項だったみたいですね。
ただし、『マルクス主義国家論』では《共同体-内-国家》だとか《共同体-即-国家》だとかの視座を使うことを「方法」だと説いているようですね。

それで想起したのがアリストテレス『オルガノン』だとかデカルト『方法序説』、フランシス・ベイコン『ノヴム・オルガヌム』だとかでした。

要は三段論法(シュロギスモス)でソクラテスという「個人」を考える際に「人間」という類的というか上位概念を介するという「方法」ですよね。それによってソクラテス以外の別の人々の情報でソクラテスを考えるという「類推」という方法かと思いますよ。

これをtadaさんは一気に「普遍、特殊、個別」というセットで書いていたみたいですけれど、私からすればこの「普遍と個別」という関係こそが弁証法の基本である「対立関係」なわけですけども。対立関係であるからこそ、後に中世の普遍論争なんてことが生じたわけで。

>対立物の統一で物事をみても 対立物の統一が見えるだけで 本質は見えません。

私は逆に対立関係こそが本質観取のキーポイントだと思いますけれど。例えば南郷先生なんかは武道の本質を「生命のやり取り」だと述べて、それをスポーツ(娯楽)と対立関係として説いているわけじゃないですか?
それって基本的に日本の武家社会で用いられてきた《日本刀》という道具が「人間を斬る」という目的で作られたものであって、同じ刃物でも食肉を切る包丁だとか農作業のための草刈り鎌とは区別される、対立関係にあるからですよ。
その「日本刀」という道具とスポーツのための「ボール」だとかの道具の違い=人間を殺傷する道具と共に楽しむための道具という対比的な差異(対立関係)が「本質規定」というところに繋がるのだと考えますけど?

昔、勝新太郎の息子さんが映画の撮影で真剣を使い、相手を殺してしまいましたけど、ああいう「日本刀」という道具=武器の機能に武道の本質をみるということは、空手において糸洲安恒が体育目的で創作した「平安」を他者の生命を奪う目的の「玄◯1の型」に変えるということでしょうから、剣を拳に変えるといっても慎重にならねばならぬと思いますけどね。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-29 07:45:46
tadaさんの言う「方法」というので想起したのですけど、アリストテレス以来の論理学的方法で上位概念から類推するというのがありますけど、三浦つとむも『弁証法はどういう科学か』で述べているように弁証法では「不明瞭、ヌエ的、合の子的」なモノを扱いますよね?

それは論理学でいう上位概念が対立する・矛盾する二つ以上のものが重なるからで、それを南郷先生の派では「二重」なんて言っていると思うんですけど、
南郷先生が『弁証法・認識論への道』で「発展性のないピラミッドに収斂する可能性を秘めての出立」なんて書いていたでしょう?
あれって、もしかしたなら滝村先生の話しかもと思ったんですよ。
というのが『マルクス主義国家論』だと国家の原理(方法)を《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》の二つを上げていて、弁証法的だということは、この二つが重なるんじゃないか?と思うんですけど、『国家論大綱』だと「権力は権力、国家は国家」みたいなバラされた構成になっていた気がするんですよね。

いや、これは今思いついただけで、確認してみないと分かりませんけどね。
返信する
効果絶大! (自由びと)
2023-08-30 12:39:39
>・コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん コメントありがとうございます。暑さに強いんですね。私は普通に暑いのは苦手です。体を使う時は大丈夫です。汗ダラダラでも平気です。もちろん 水分塩分ミネラルをとりながらです。 逆に頭を使うときはエアコンで寒くなるくらいにしないと効率があがらないです。あと田舎に住んでいることもあり 夜の9時過ぎになると エアコンなしで 扇風機だけで 寝られます。資料室が2階にあるので 2階の寝室で物を書くのが理想ですね。2階は寝るだけなんです。昼間は熱くなっていて 利用できないのです。 歳をとったのこともあり 1階と2階の移動も面倒になって 寝室へのエアコンの購入を毎年検討しています(笑)。夏をすぎると忘れてしまうんですね。


>ところで映画の話を続けながら 蓮實重彦先生のことを書くつもりでしたが またの機会にします。映画「ショーシャンクの空に」の元ネタはモンテクリスト伯でした。わかりましたか?それも 主人公ダンテスが刑務所から脱出するところまで ダンテスは刑務所で教育を受けるのですが 映画のほうは 逆に刑務所で周囲を啓蒙するのです。その他 比較すると面白いことが発見できます。南郷先生もモンテクリスト伯 お好きなようですね。 

>自由びとさんの全体と部分の話に付け加えますと まんじゅうの皮とあんこでは 素材の違いを 本質がちがうことの比喩にしています。きびだんごは皮も中身も同じなので 本質が同じことを比喩しています。あんこ玉は皮も中身もあんこで同じなので 本質が同じことを比喩しています。まんじゅうが普通の国家で社会の自由があり 国家が全体をまとめているイメージ きびだんごがソ連のような国家 厳密に言えばナチスドイツとソ連は体制が違うのですが ファシズム国家のイメージ 国家が社会を飲み込みガチガチに管理しているイメージ あんこ玉は マルクスが言った国家死滅後の共産主義社会のイメージです。国家がない社会だけのイメージ。あくまでもお遊びですので むずかしく考えないでください。ここは笑うところだったんですよ。缶詰国家論だとソ連や共産主義社会がうまく表現できないので 南郷先生の例え話の負けという話でした。まんじゅうのことでこんなに盛り上がるなんて まんじゅうこわいです。おあとがよろしいようで。



tadaさん お返事をありがとうございます。

暑い日が続いていて、今日もとても暑いですね…
ふと思い出したのは~初めて参加した玄和会の夏合宿の事です。

今、その記録を見つけて来て、再度書き始めました。
時は、1990年(36歳)の紫帯時代、
場所は、千葉の岩井海岸、
名称は(確か?)、「師範主催の夏合宿」。

すぐに思い出したのは、「全員での炎天下での手拍子・合唱」です。
いつ終わるかが不明、限りなく続くかのように感じられ、延々と続いた強烈な手拍子・大声(要求)の合唱。

堪え性がなく飽きっぽい私は、途中でめげそうになりました。
その時、目に入ったのは、大学支部の男性会員の姿。
それは、いかにも、楽しそうな表情で、大きく口を開けて、強烈に手拍子しながら歌い続ける姿でした。
そこで、私は、彼の姿を見ながら、自分の感情を棚上げ・忘れて、手拍子・大声で歌い続けました。

ただ…殆ど記憶に残っていないのは、
「炎天下の砂浜での移動稽古?」と…
あと、確か電車の駅から宿までの行進です。

練習では、5、6人一組で、何回もの砂浜での全力走・競争の想い出が…
一回は一番をとっても、少々の休息での二度目では、一番の無理でした。

そうそう思い出したのは、同じ支部で同じ部屋で参加した同輩が、電気カミソリで髭を剃って叱られている姿です。
合宿では「ひげ剃り禁止」と言われていた事は記憶にあります。
でも、私達の班長が、髭剃りで髭を剃っている姿の記憶があります。
当時、私は、思いました。『○○(同輩)さんは、班長の髭剃り姿を見たから剃ったのだろうと…』

私が夏の暑さが平気なのは、たぶん、あの夏合宿のお蔭なのかも…
覚えてしませんが…たぶん師範の御講義でも「炎天下練習の意義・効果」…の話があったのかも…
その為か、その後は、真夏での中央公園で全力走・トレーニングを始めました。
当時は、よく家内から「熱中症になるなら、止めた方がいいよ!」と言われていましたが…。

また師範が御講義で、半袖姿の弊害を説いていました。
半袖だと「皮膚表面の温度差?により頭脳の統括が乱れる・一致しない…」と言っていたかは不明ですが…
体に良くはない…と言っていたように理解して、それ以後、なるべく夏でも長袖にするようにしています。

以前は、半袖のTシャツで、ウインドパーカーを着ていましたが…
今では、真夏でも長袖の肌着です。この為、一日に数回肌着を着替えています。


「モンテクリスト伯」は、たぶん…私が一番すきな小説です。
「巌窟王」という名称は知っていましたが、読んだ事無く、
初めて師範の著書で「モンテクリスト伯」を知って、
初めて読んだ時の感想は「復讐できた事が痛快」。
その後、数回目の再読の時の感想が「虚しい復讐」、でした。
それは、「復讐過程の痛快さ」と「その結果への虚しさ」ですかね。
「復讐は果たせた自分的な満足感」
「復讐を果たした結果の周囲の人達の不幸」の虚しさ…

もともと…長編小説・読書が大嫌い(推理小説・探偵ものは好き)の私が、初めて読んだ長編でしょうね。

当時は、同じ小説に対する感想なのに、その中身が変化していた事に驚き・好奇心…不思議な感じがしました。
でも、今は、それが人生体験・経験の連続の結果での私の感性の変化…かな、と思っています。

数年前に、「モンテクリスト伯」再読を!と思って、所有している文庫版を開いたら…「文字が読み難い!」ビックリしました。
こんな小さい文字でも普通に平気で読んでいた過去の私を痛感しました。


饅頭国家の解説を非常に感謝しています。
そんなにも、深い意味があったのですね。

私の想像ですが…「缶詰国家論」は、現代の完成した国家を表現したのかも…

缶詰の「缶」は、実体的な武器・兵器…の防衛力だけではなく、
「缶」の如く、国家規範での内部への縛り、外から入れない、中からも出られない「缶」。

「缶」の中での、「缶」に守られ、「缶」に縛られての生活・自由。
無条件・無限の自由ではなく、条件付き・有限の自由、ですね。

「缶詰め国家」が、強固な現代の単細胞なら、
全地球を一つの多細胞体として、個々の「缶詰」間を自由に移動可能な世界が欲しいです。
全ての個々の缶詰・国家を総括・統括可能な、全地球・脳が欲しいですね。

それには、SF小説ではありませんが…
宇宙人から地球への攻撃で、全ての国家の一致団結…ですかね…


tadaさんの言説は、
私の妄想・幻想・夢想の輪を広げる効果絶大ですよ!
毎度・毎度のコメントをありがとうございます。

お互いに、暑さに負けないではなく…
暑さと仲良く付き合っての生活をしましょうね。

そうそう…私も9月1日から仕事が始まります。
全教室に個別にエアコンが装備されていて、子供達は快適な学習をしています。
去年、全校一斉の空調が壊れて使えなくなり…今は個別教室対応のエアコンです。
多分…電気代が、とんでもない金額でなのでしょうね…
返信する
空海お宅へ (自由ひど)
2023-08-30 12:57:45
>>単細胞以下の分解では非生命体化してしまい、生命の本質を離れてしまう…

>これだけでは当たり前のことで何が言いたいのか?とも思うのですが、これが別の何かの喩えだとしたら、例えばtadaさんが言っている「解体学」というのがこれに相当するのか?しないのか?とか。


ご指摘を感謝です。

個々に分解した結果、生命体⇒非生命体。
ならば、非生命体⇒生命体の過程を考える事が必要。

個々の分解されてモノが、
どうような過程で「生命化」したか?

生命体の分解は比較的容易でも…
その分解された個々の非生命体を集めての「生命体化」は至難。

サルのヒトへの進化。ヒトの人間への進化。
それらは、比較手的に簡単の分かります・言えます。
それらは、現代の常識レベルですから…
ただ、信じれるだけでOK、間違いない事。

では、その進化の過程は如何に?
それは、まだ常識化していません。
返信する
Unknown (tada)
2023-08-31 10:04:43
自由びとさん こんにちは コメントありがとうございます。

夏合宿の話 興味深いです。熱さ・汗・砂・アンダーシャツ・大声・手拍子・走る・行進する・チームメイト。夏の高校野球、甲子園、応援団を連想しました。若さの訓練、「青春」の再認識化。とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?私自身の考えですが 脳の健康には悪いと思いました。脳内温度が高くなると 脳細胞が死滅するからです。南郷先生は脳が 歳をとるほど活性化しているとのお話でしたが 武道講義以降の著作はダメだと思っています。目次はすごいのですが 論文ではなく エッセイにしか見えないからです。この辺に遠因があるのでは。歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

モンテクリスト伯は大河小説ですから 単に復讐だけではなく 友情恋愛教育政治サスペンスなどなど 様々な話が挿入され 読むことができる総合小説でもあります。この小説があれば 他の小説はいらないくらい。言い過ぎですね。

缶詰国家については 自由びとさんのお考えでよろしいかと思います。南郷先生は 一般的な国家と機能(軍事警察)を念頭において 表現していると思われます。宇宙人による地球人の団結 米国中心の多国籍軍や連合軍のような形態ですね。中国の動きが足かせになります。

まんじゅう国家の話 ご理解していただき うれしく思っています。
国家について 論理学レベルで言うと 普遍性―特殊性―個別性またそこから普遍性―特殊性―個別性へという概念弁証法(考察のサイクル)を何十年まわし続ける地道な方法論が滝村先生の方法論です。概念の層が厚くなり 概念すべてが紐付けされている状態です。学説自説、理論・実証性を秤にかけ 批判と肯定を繰り返し 磨き上げられた概念 明確な国家像があるからこそ 冗談のように 国家論を語れるのです。滝村先生は面白いけど、超人だったかも。
返信する
Unknown (空海)
2023-09-01 07:49:08
>ご指摘を感謝です。

いえ、私のほうこそ感謝しています。自由びとお宅さん、ここでのコメントのやり取りは私に有益な学習の機会を与えるものとなっています。

tadaさんの「本歌取り」という歌道の専門用語から歌道について調べ始め、それが日本文化の大きなる核心であることに気がつけたのも大きいです。

私の先生は芸術家の指導も沢山やってきた人ですから、先生にまた少し近づけたという喜びもあります。

>個々に分解した結果、生命体→非生命体ならば、非生命体→生命体の過程を考えることが必要。

論旨が良く分かりかねます。「生き物を殺すと死体、ならば死体から生き物への過程を考えることが必要」ということ?
フランケンシュタインという小説も昔はありましたけど。

常識的には「死んだら生き返らない」じゃないですか?

>まだ常識化していません

常識というのは分かりませんけど、現在の主流はアストロバイオロジーで、生命は宇宙から来たというのが有力な考えらしいですね。
返信する
私が思うに… (自由びと)
2023-09-02 16:30:47
>tada

>・コメント
>自由びとさん こんにちは コメントありがとうございます。

>夏合宿の話 興味深いです。熱さ・汗・砂・アンダーシャツ・大声・手拍子・走る・行進する・チームメイト。夏の高校野球、甲子園、応援団を連想しました。若さの訓練、「青春」の再認識化。とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?私自身の考えですが 脳の健康には悪いと思いました。脳内温度が高くなると 脳細胞が死滅するからです。南郷先生は脳が 歳をとるほど活性化しているとのお話でしたが 武道講義以降の著作はダメだと思っています。目次はすごいのですが 論文ではなく エッセイにしか見えないからです。この辺に遠因があるのでは。歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

>モンテクリスト伯は大河小説ですから 単に復讐だけではなく 友情恋愛教育政治サスペンスなどなど 様々な話が挿入され 読むことができる総合小説でもあります。この小説があれば 他の小説はいらないくらい。言い過ぎですね。

>缶詰国家については 自由びとさんのお考えでよろしいかと思います。南郷先生は 一般的な国家と機能(軍事警察)を念頭において 表現していると思われます。宇宙人による地球人の団結 米国中心の多国籍軍や連合軍のような形態ですね。中国の動きが足かせになります。

>まんじゅう国家の話 ご理解していただき うれしく思っています。
国家について 論理学レベルで言うと 普遍性―特殊性―個別性またそこから普遍性―特殊性―個別性へという概念弁証法(考察のサイクル)を何十年まわし続ける地道な方法論が滝村先生の方法論です。概念の層が厚くなり 概念すべてが紐付けされている状態です。学説自説、理論・実証性を秤にかけ 批判と肯定を繰り返し 磨き上げられた概念 明確な国家像があるからこそ 冗談のように 国家論を語れるのです。滝村先生は面白いけど、超人だったかも。




tadaさん

コメントありがとうございます。
滝村先生って本当に凄い学者さんだったのですね。
きっと南郷氏も滝村先生を心から尊敬していたのではないでしょうか…
返信する
Unknown (空海)
2023-09-03 07:08:48
tadaさん

>とどのつまりは脳と神経の強化だったのでしょうか?
>歳を取ってきますと 南郷超人思想ではなく 吉本先生の弱者寄りの思想に惹かれますね。

ここの評価・判定は難しいところだと思います。確かに南郷先生は少なくても30年以上前から「廃用性」について語られていたと思います。それは市販された著述の中には無かったかも知れませんけど「科学技術の発展によって生活が便利になったがゆえに肉体を使わなくなったことで衰えていく人間の能力」といったことです。

それは近年、「フレイル」や「サルコペニア」といった医学用語でご高齢者の日常生活能力や寿命に関わる問題として重要視されるようになってきています。

ここも対立関係の非常に難しいところではありますが、科学技術による自動化やロボット化によって障害者のバリアフリーが実現し、他者による介助の割合が減って自立度が高くなることは喜ばしいことです。生まれながらに重度の障害をもった人が健常者と同じレベルの日常生活能力を持とうとリハビリを繰り返すことは、tadaさんの言う「超人思想」にも相当するものかも知れませんね。

ですけど南郷先生の周囲には奥さんを含めてお弟子さんだとか医学系・医療系の人が沢山いたわけでしょう?医療専門家によるリハビリが個々の患者さんの状態に合わせて達成可能な目標を立てるのとは裏腹に、練習生の個別の体力だとかを無視した過激な訓練がそこで行われていたとしたならば、それはやはり「超人思想による人間破壊」だと思われても仕方がないでしょう。

「真理を誤謬に転化する方法は、それを度はずれに拡張すること」だという弁証法的(ヘーゲル的)な金言が、「量質転化」という小論理学に説かれた認識方法?を有益なものだと再認識させるところかと思いますね。

ただ、自由びとさんが記述した夏合宿の場面は、私が参加したのと同じ流派のものとは思えないということだけは述べておきたいと思います。
玄◯は南郷先生が著述で述べていたような思想性を、少なくても南郷先生が現役で指導していた頃まではもっていて、ですから合宿で歌わされる歌というのは「軍歌」が元歌になっていました。要するに「歌謡曲だとかPOPsを聴いて敵と闘えるか!」というわけです。

その「歌っているのは軍歌に基づく戦争歌だ!」ということを会員が自覚するよう機関誌でも明確に文章化されておりましたし、道場でも「ニヤニヤするな!」「顔付きをしめろ!」といった指導が怒声と共に行われていて、まあそれは玄◯という流派に限った話しでもなく「昭和」という時代の空手道場では普通に見られたことかも知れませんけど。

「相手がどのように自分には映った」というのは主観的なものですから自由びとさんには「大学生が楽しそうに歌って見えた」というのを否定はできませんけど、それは単なる体力だけの体育的な観点で、玄◯の夏合宿では本来考えられない事だと私には思えます。

頭の中で「J-POPsの聖子ちゃんや明菜ちゃんが流れている」ことで楽しく歌い続けられるくらいなら、「体力の限界で、私にはもう出来ません」としゃがみ込んでも良いというのが南郷先生の考えじゃなかったか?と私には思われますけど。
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