新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

全体と部分の関係問題

2023-08-19 13:37:37 | ~ものは考えよう~
8月19日


全体と部分の関係問題~

なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)  
を「羅甘菓」にて2023年3月9日から再読を始めて、

2023年8月12日に
なんごう つぐまさが説く
看護学科・心理学科学生への“夢”講義(6)
を自宅で読み終わった。

そんな途中で喜ばししい偶然的必然性的発見が発生した。

日時は8月初旬まだ“夢”講義(6)の途中に、
たまたま現代社のホームページ開いて見たら、
なんとビックリ「“夢”哲学原論[綱要]の発刊を知った。


早速、蔦屋へ行って取り寄せを頼んで、8月11日に読み始めた。
そう~この時は、“夢”講義(6)との併読となっていた。

そして、今日の朝、ハッキリと認識・自覚した事は、以下のようなモノである。

私は、ずっと分からずにいた…
何故に、柔道家・マラソンランナー達の失速・衰退の問題が、哲学の歴史・弁証法に関係するのか?
また、仰向け、這い這い歩き…等が関係するのか?
何故に、雑巾がけ、掃き掃除…が「這い這い」…なのか?

分からずとは、最近の公園トレーニングでは、
裸足で下向き「這い這い」歩き、上向き「這い這い」歩きを繰り返していた。


そして今日ハッキリした!
それは、全体・全身と手・足部分の関係性である…と。


過去の哲学の歴史は、無知から全体知へ向かい出発した。
全体知へ向かう為に部分知を集め始めた。

ギリシャ時代、何とかそれぞれの部分知から全体知への完成をみた。
その後ヘーゲルに至り、観念論的全体的・一体的な「哲学」の完成をみた。
その全体知を元に、部分知の深化・発展が始まり…
現代のような個別科学知の繁栄をみた、のだろう…

全ては妄想・推測・想像…(個人的な弁明)


問題は、子供時代の私、少なくても10年前までの私は、
全身が柔軟で、全力疾走が早い・遅いかは別として、
その走りは、違和感なく非常にスムーズであった。

しかし…ここ数年の私は、全力疾走ができ難い…
それは、走れても全身に違和感がある。

以前の私の全力疾走は、風を切るような感覚で、走れた。
でも、最近は、全力疾走なのに…全力で力んで歩いている、感覚である。


そうこれは、10年前までは、全身の筋肉・骨格・神経が一体的に全力で使えた。
でも、最近は、その全身の諸々のモノが一体的に使えない、という事だと理解した。
何しろ、当時は、開脚して座って、胸が床に付けられた。
それ程の全身的な柔軟性があった。

また、過去と現在の身体感覚の相違に気付けたのは、
最近始めた整体、内臓の位置矯正・調整や全身の骨格矯正・調整の結果だろう。
整体前と整体後の、それぞれの身体感覚の相違から…過去の感覚が思い起こせた。


師範が、武道としての空手を選んで正解、弁証法・哲学…に役立った、という理由。
それは、空手は「全身の武器化」、全身の一体的な武器化。
その全身の武器化の為には、部分の武器化から始めるから…
最終的には、全身的・一体的な武器化へ~



本能的な全身的運動から、意識的な部分的運動へ、
そして、それぞれの個別化した部分運動を全体的一体的な運動へ戻す「運動」。
そんな全体と部分の関係こそが「哲学の数千年の歴史」なのだろう。

「無知から部分的な有知」、「部分的有知は全体的無知」、「全体的一体的智慧」へ

これは、認識運動についても言える。
今年で67歳の私は21歳の息子のような柔軟な思考ができ難い。
「頭脳の柔軟性がない」とは、部分・部分の連携が悪い。
部分知と部分知を統括・統合する全体智の実力不足であろう…


以上のような思考が可能になった要因には、
今年の2月から始めた「毎朝のテレビ体操」の実践。
その5月から始めた毎朝の「骨ラブ体操」。
更に、数日前から始めた「下半身股関節の柔軟体操」。
それに室内での「ぶら下がり運動」。

思惟・思考の深化・発展には、
認識的な発展努力・読書と全身の統一的柔軟的な運動・体操が必要なのだろう…





コメント (26)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「対立物の統一」と「直接的... | トップ | 続・全体と部分の問題~ »

26 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (tada)
2023-08-19 14:10:55
自由びとさん こんにちは 南郷・滝村先生の国家の概念規定を簡単にまとめてみました。空海さん 相変わらずの難解な日本語 よくわかりませんでしたので とりあえず こちらを参考にしてみてください。
①南郷 国家とは 社会の実存形態である
滝村 国家とは 社会の政治的組織化である。
②南郷 政治とは 国家レベルでの支配手段(行使・アクション)である。
滝村 政治とは 統一社会的契機である。
③南郷 国家権力とは 国家レベルでの支配である。
滝村 国家権力とは 政治的権力である。
③が常識レベルで本質的ではなかったので 南郷 国家権力が どんな 国家権力であるか?を 南郷的「政治」概念②を使い まとめています。
南郷 国家権力とは 国家レベルで支配手段を行使する権力である。
これを 学説でみていくと ゲバルト支配説及び心理服従説に重なります。
南郷 国家権力とは 政治手段的権力である と規定します。
2人の「政治」概念の規定が違うので このようになります。南郷先生の政治規定ができていないと私は断定しています。原始共同体からの考察では統一社会的契機という概念規定ができないのです。原始共同体でははっきりわかる統一社会的契機がないからです。第三権力の規定が近代国家を正面にすえた中から規定されたように 政治という統一社会的事象も近代国家になり 明らかになったのです。政治の概念規定は社会的権力が政治的権力に転成するキーポイントなので ここがわからないと 国家・国家権力を理解することができません。南郷国家権力では 社会的権力から政治的権力という別ものに転成したことがわからないため 社会的権力そのままで 政治手段という機能で国家権力の本質を規定しているのです。
バラバラに複数ある 社会的権力が統一社会的契機によりひとつの組織(政治的権力)にまとまるというイメージを浮かべてください。ざっと 国家論の最初の大事なところをひろってきましたが どうでしょうか。この話には アリストテレスの部分の本質が全体の本質にはならないと言う問題も含まれていますよ。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-20 06:05:45
「羅甘果」…そうでしたか、秋川の…
今日は午前中に都内で専門分野の勉強会がありましてね、午後は空いているからそちらに遊びに行こうかと思ったんですが…

残念ながら羅甘果は日曜日と月曜日が休みなんですね。まー、それでも秋川駅の周辺をぶらついていれば自由びとさんとお会いできる可能性はありますけども(笑)

秋川駅で思い出したんですけど、以前は玄◯幹部の高橋衛さんが立川駅で道場をやってたみたいですね。自由びとさんの正体は高橋衛さんかも知れません(笑)。

弁護士云々の件についてハッキリ答えていなかったのを思い出したので述べますけど、いま手元には『武道の理論』も『試行』も無いんです。それは何処かに書いてあったことではなく、自分で武道界の重鎮の先生方の処へ足を運んでお話しを伺ったことなんですね。

まー、風の吹くまま気の向くまま、午前中の勉強会が終わったら秋川に行ってみようかと思いますね(笑)
返信する
Unknown (空海)
2023-08-20 09:35:22
今日の勉強会は神田ですから、江戸時代の玄武館跡だとか名跡が所々にあるんです。

江戸のこんな場所に道場を建てたというところからも《共同体→生活の生産》を理解することができますけど、そんな江戸期に盛えた道場が現在はもう無いということからもヘラクレイトスの「万物流転」や仏教の無常観を理解することが出来ます。

今日は秋川に遊びに行くと決めて秋川渓谷について調べていたら自然の豊かな場所が都内にもあるのだと改めて知りました。

日帰り温泉だとか楽しみですね(笑)
返信する
Unknown (空海)
2023-08-21 11:12:53
tadaさんにはtadaさんのお考え、方向性があるでしょうから私はそれを批判や否定する気はありません。

ですが私の考えをお話しする価値もあるように思えますので少しご披露いたします。

tadaさんのお考えは南郷学派が「滝村は概念規定をしていない」と非難しているところに対して「いや、概念規定をしているのだ!」というような形で滝村先生と南郷先生との規定された概念を比較しようという方向だと思います。
私の言葉で言うと「tadaさんの方向は弁証法的ではなく、論理学的な方向」だということになるわけですけど。

私はどちらかと言えば南郷先生が『弁証法・認識論への道』で述べていた「三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を更に深く理解するために滝村の『革命とコンミューン』や『マルクス主義国家論』に向かった」というようなものに似た志向性を持っていますから、初期の『マルクス主義国家論』に説かれた考え、もっと言ったならマルクスやエンゲルス(そしてヘーゲル)から引用された考えの何処がどう弁証法的なのか?ということに関心があるのです。

それで、あらためて『マルクス主義国家論』を読んでみて重要だと再認識したのは「《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》との原理的な区別、特にマルクスとエンゲルスにとっては《共同体-即-国家》が重要だった」というような指摘でした。

私はこの《共同体-即-国家》という原理は「支配者側(統治者側)と被支配者側(被統治者側)」という対立関係において《租税》という形で、被統治者側(被支配者側)の生産物(生活の生産資料)の一部が統治者側(支配者側)の収益(生活の生産資料)となるという「直接的同一性」がそこにあるということです。

ですので、例えば日本が律令国家となった時に天智天皇が「公地公民」を打ち出して「班田収授法」を定めたなんて国政のやり方も、それが農民(被統治者側)の生活を苦しくすると共に統治者側(天皇家の側)の生活をも圧迫したという直接的同一性における相互浸透として理解することが、班田収授法の継続が困難となって平安時代の初期に廃止されたという事実としての結果(変化、運動)を理解する弁証法的な思考だと考えますね。

そのように見ていくと、『学城』で滝村批判を繰り広げていた近藤茂美さんや加納哲邦さん、ついでに「滝村国家論は革命という特殊性だけを考えたからダメだ」みたいな頓珍漢な発言していた瀬江千史さんらは「《共同体-内-国家》と《共同体-即-国家》」という「滝村→マルクス、エンゲルス→ヘーゲル」と継承された原理的な把握が全く理解できなかったのだと考えますね。
返信する
遅くなってスミマセン (自由びと)
2023-08-21 11:14:15
tadaさんへ

解説コメントをありがとうございます。
コメントの公開が遅くなってすみません、でした。
ここ数日、「呪術廻戦」のシーズン1を視たり、お出かけしたりと忙しく、
全くパソコンを開いていませんでした。
度々のコメント投稿…手数をおかけしました。

今回の南郷氏と滝村氏の対比的な記述、とても分かり易く感じています。
それでも、まだまだ…知識不足の私には、難解に感じられていますが…

ただ…今思った事は、「宇宙の誕生」・ビックバンについて、
一般的な見解と南郷学派の見解の相違に似ている、ような感じ…。

今の「現宇宙から分かる情報」から遡って、「宇宙の始まり」を考える方法。
現在の自然・社会・精神を元に、弁証法的に過去へ遡って、
生命の始まり、地球の物質の始まり、地球外物質の始まり…宇宙の始まり…へ

私には、一般的ビックバンと南郷学派的ビックバンのどちらが正解かは判断でき難いです。
結局は、どちらが方に、今の私が納得できるか、という判断ですかね。

たぶん…原始共同体とは、
純粋サルのみの群れの集団・行動から、(ボスもサル・他もサル)

サルとヒト的サルの混合群れ集団・行動へ、(ボスはサル・他はサル・ヒトサル)

原始的な国家的な集団(ボスはヒトサル・他はサル・ヒトサル…)


そんな、ヒトだけの集団ではない、ヒト・ヒトサル・サルの混合集団での関係性を、
人間だけの集団に用いる「国家」「政治」「社会」…概念との一致は至難…だと思いました。

今の私は、専門知識不足から、専門用語の概念理解も中途半端です。
だから、逆に、南郷氏の言説が、何となくですが…分かるような気がしています。

しかし、それでは、本当に分かった、とは言い難いのでしょうね…
返信する
まあ~いいっか! (自由びと)
2023-08-21 11:46:08
>コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>「羅甘果」…そうでしたか、秋川の…

ほ~ご存知でしたか…
以前は自転車で行けた距離でしたが…
今では、息子の運転する車で行く距離になってしまっています。

>今日は午前中に都内で専門分野の勉強会がありましてね、午後は空いているからそちらに遊びに行こうかと思ったんですが…


私は「秋川」の川沿いに行った事はありませんが…
なかなかいい所だ、そうですよ。



>残念ながら羅甘果は日曜日と月曜日が休みなんですね。まー、それでも秋川駅の周辺をぶらついていれば自由びとさんとお会いできる可能性はありますけども(笑)


以前は、駅前の塾で講師をしていたので、その時なら出会っていたかも…
もっとも…互いに面識のない者どうしでは出会っていても、
分からない、「出会ったと認識不能」…でしょうね。

>秋川駅で思い出したんですけど、以前は玄◯幹部の高橋衛さんが立川駅で道場をやってたみたいですね。自由びとさんの正体は高橋衛さんかも知れません(笑)。


よくご存じですね。
確か、私が20代の頃、当時は母と二人で立川のマンション住まいで…
ある日、たまたまJR立川駅の掲示板で「…科学…空手」そんな広告を目にして、
早速、諏訪神社へ空手の稽古を見学に行きました。
その時に話した「高橋」さんは、
私が入会後に話した「高橋」さんとは、別人のように感じましたね。

>弁護士云々の件についてハッキリ答えていなかったのを思い出したので述べますけど、いま手元には『武道の理論』も『試行』も無いんです。それは何処かに書いてあったことではなく、自分で武道界の重鎮の先生方の処へ足を運んでお話しを伺ったことなんですね。


ふ~ん…まあ…いいっしょ!
確かに「武道の理論」で、社会的な成功を目前…と書かれていたので、
それが「弁護士」でも他の職業でも、大差なりませんからね。

でも…「空手と弁証法を相互浸透的に学んだ」…のページは、まだ見つけられていません。

ただ、もう少し詳しく書くなら~
「空手を教え・学び・稽古…を弁証法的に考え…」
「弁証法の著書を読む時は、その言葉を空手の事実で考え…」
そんな「相互浸透的…」ですね。

これを、
私は南郷氏の頭脳内で、弁証法と空手を相互浸透的に学んだ、
と理解しています。

>まー、風の吹くまま気の向くまま、午前中の勉強会が終わったら秋川に行ってみようかと思いますね(笑)


まあ~散歩には、いいでしょうね…
もっとも…過去、塾講師の仕事で秋川へ行っても、散歩はした事はありません…
とても残念でした。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-21 13:27:08
>入会後に話した「高橋」さんとは、別人の

ほー、それはどういうことですか?高橋さんは早稲田のほうでも道場を開いていて、そちらでは見学者にもコワモテでしたけど…

>社会的成功を目前

そんなこと書いてありましたっけ?それは誰かに投影したのでは?
南郷先生は元々が武道家になる気などなかったと書いていたと思いましたし、
私が重鎮に聞いた話しでは何年受けても司法試験に受からなくて、それで仕事もしていなかったから収入がなかったらしいんですよ。
だから同じ埼玉大学OBのI先生が幼稚園に話しを通してきて「ここで空手の指導をして収入にしなさい」とお膳立てしてくれたそうですよ。埼大は元々が師範学校で教員になる人が多かったそうですし、I先生は県だか市だかの教育委員会で働いていて幼稚園だとかとも繋がりがあったらしいです。
返信する
Unknown (tada)
2023-08-21 16:31:08
自由びとさん こんにちは お忙しいところすいませんでした。こちらは暑さのせいでしょうか wifi環境が悪くなり 端末もフリーズしたりで コメントが正しく送られたどうか不安でした。急かすようで申し訳ないと思ってます。お手数かけました。
滝村国家論については 第2弾もあるのですが またの機会としますね。みなさん 消化できないみたいですから。
宇宙論のご指摘がありましたので 一言。時代はビックバンからマルチバース宇宙論です。空海氏へ 弁証法を事象のなかに発見しても 内的な構造、本質を見極めたことにはなりません。それは 意味の無いことです。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-24 06:51:19
なぜだか自由びとさんのブログ活動が停止して私が投稿したコメントが公開されずにおりますね。

南郷先生が長年に渡って司法試験を受験していたことは知る人ぞ知る事実でありますし、南郷先生ご自身が著述の中でアンドレ・ルイ・モローの名前と共にそれを示唆しているところです。

当時の司法試験について調べてみると合格率が1〜2%という驚異的な狭き門で大学の法学部を卒業しながらも10年かけてやっと合格したなんて人もザラだったみたいですね。どうして南郷先生がそのような難関に挑んでいたのかは謎ですが、奥さんが働いていたから可能であったのは間違いないですね。

tadaさんの南郷先生と滝村先生との概念の比較を改めて見てみたのですが、これは私には分かりにくい却って難しい記述になっています。

それでも、一つ一つ検討してみることで少しずつ見えてくるものもありますから、これからそれを記述してみたいと思います。

きっと自由びとさんにも参考になるところが多々あると思いますよ。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-24 07:30:37
tadaさんの概念規定の記載は小中学生でも理解できるように書いてみる、そこに意を配ることが大事だと私は考えるものですが、先ずは

①南郷 国家とは 社会の実存形態である
 滝村 国家とは 社会の政治的組織化である

これを検討してみたいと思います。こう書き出して想起されたのは、このtadaさんの記載は南郷先生の著述にある

「ヘーゲル 学問とは…
南郷   学問とは…」

という比較思考の形式そっくりで、いやソックリというよりも全くそのまま写しとったものだと言ってよく、tadaさんが南郷系の支持者であることを示唆するものだと想像されますね。

それで私は滝村先生の「命題形式は相応しくない」という考えに共感する者ですから、こうした命題形式⭐︎テーゼのような概念規定を見てもピンと来ないのですけど、
この「国家とは社会の実存形態」という規定は『学城』で南郷学派の近藤茂美さんが書いていたものだと記憶しています。

ここで問題となるのは「社会」という言葉と「実存」という言葉だと思います。日本では学校教育で社会科が出来たのは太平洋戦争で原爆が投下された敗戦後で、それは大日本帝國憲法が廃止されて日本国憲法になってからですよね。

この「社会」というのは元々がラテン語の「仲間」を意味する言葉から来ているということで、「現人神であった天皇陛下」が人間宣言をして、日本人が戦前の「天皇陛下の臣民」から等しく日本国民となった、そこで始めて「天皇陛下にお仕えする」のではなく「天皇陛下を含めて、みんなが仲間」だという意識が、まあGHQによる方向づけが大きかったんでしょうが成立できた。

それで、次に「実存」という言葉なんですけど、私なんかは実存と見ると対立概念として「理想」なんてのが頭に浮かぶわけです。つまりはプラトンによって提起された「イデア、まだ見ぬ理想国家」みたいな、ね。それに対して「実存」というとキルケゴールだとかニーチェだとかの実存主義で「神は死んだ」「私たちは神を志向するほど強くない」だとかの実存です。

そこから「国家は社会の実存形態」ということを鑑みるに、「日本国民が《仲間》としての現実を持ち得るのは観念内の理想的な倫理観によるものではなく、現行の立法・行政・司法という国家機構による「法の支配」、行政職としての警察による強制執行力があるからである!」なんて読み替えることも可能ではないかな?なんて思うわけですよ。

しかし、これは「国家は社会の実存形態」という命題形式(テーゼ形式)から強引に持って行った荒業的な無理無駄筋道とも言え、なかなか南郷学派の論理展開は難しいところがあります。

滝村先生の「政治的組織化」なる概念はまだ管見外ですので、これから調べてみたいですね。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-24 07:50:38
ここで南郷学派も滝村先生も同じく「社会」という言葉を使っていますけど、この「社会」に似た意味内容であるのが「共同体」という言葉だと思います。

つまり国家の起源を遡っていくと、この時の「國家」というのは試みに近代以前の部族國家、血族支配國家で考えてみますけど、日本なら天皇家だとか貴族だとかの血筋が統一國家を作る以前の共同体というのは、それぞれが狭い範囲に限定されていて共同体と共同体との間に社会関係=仲間の関係は無かったんじゃないでしょうかね?

それが大化の改新だとかで律令国家が出来て、その裏には刀剣を用いた武力による強制があったのでしょうけど、班田収授法なんかで国民一人一人が等しく生産資料としての土地を与えられて耕す権利を与えられたということは、それを犯す人間は処罰されたということだと思うんですよ。

これまで多く土地を持っていた人間は土地を奪われたのかも知れないけれど、今まで土地を持てなかった人間は土地を与えられた、そうしたものが「國家」じゃないかと考えますね。

ただ、その法に不備があって完全なものではなかったから消え去らなければならなかっただけで。
返信する
可能性は零ではない! (自由びと)
2023-08-24 10:56:52
>コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん こんにちは お忙しいところすいませんでした。こちらは暑さのせいでしょうか wifi環境が悪くなり 端末もフリーズしたりで コメントが正しく送られたどうか不安でした。急かすようで申し訳ないと思ってます。お手数かけました。
滝村国家論については 第2弾もあるのですが またの機会としますね。みなさん 消化できないみたいですから。
宇宙論のご指摘がありましたので 一言。時代はビックバンからマルチバース宇宙論です。空海氏へ 弁証法を事象のなかに発見しても 内的な構造、本質を見極めたことにはなりません。それは 意味の無いことです。


tadaさん

私に「忙しいところすいません」…なんて言葉は無用です。
そんな気遣い無用、忙しいのはお互い差様ですしょう!

私も経験があります。
一生懸命にコメント投稿しても、「なしのつぶて」だと、
そもそもコメントが届いているかいなか…と心配でした。

事実的にも…確かに実際に時々届いていないコメントもあったし…


tadaさんの言説、とても勉強になっています。
ただ確かに、今の私にとっては、まだまだ消化・吸収が難しいようですね。
勉強不足な私でスミマセンです。

でも…例え今は消化不良でも、私が読み続ける事で、
私の消化器官が慣れて来てもっと消化善良になり得るかもしれません(この可能性は零ではありません)…

なので、面倒でしょうが…そんな「またの機会」なんて書かないで、
是非に「第2弾」コメントを希望します。

「時代はビックバンからマルチバース宇宙論です。」…

この言葉で思い出しました。
南郷学派の「ビッバン説」は、現人類が観測可能な「現宇宙の誕生」限定でしたね。
それ以前の事は、考えても、
「今の人類には役立たない(?)、人生に役立たない(?)」…
そんなような事を書いていたような・ないような感じです。
返信する
信じがたい嘘と本当の混じり合い記述 (自由びと)
2023-08-24 11:14:37
>・コメント
>>入会後に話した「高橋」さんとは、別人の

>ほー、それはどういうことですか?高橋さんは早稲田のほうでも道場を開いていて、そちらでは見学者にもコワモテでしたけど…

私の見学時には、社会人のマンツーマン指導だったからでしょうね。
大勢の大学生を前にしての見学とは、状況が違う、という事でしようね。


>>社会的成功を目前

>そんなこと書いてありましたっけ?それは誰かに投影したのでは?


確か、この言葉は、どこかでの御講義での発言でした。
なので「誰に投影」はない、と思いますよ。
その内、時間が出来たら私の書き残している「師範の講義録」を再読してみます。


>南郷先生は元々が武道家になる気などなかったと書いていたと思いましたし、

その私も読みました。
「社会的成功」とは、武道ではなく、別の分野ですよ。

>私が重鎮に聞いた話しでは何年受けても司法試験に受からなくて、それで仕事もしていなかったから収入がなかったらしいんですよ。

さあ~それが事実か否かの判断は私には不能ですが…
その言葉が、妄想・幻想・夢想の空海お宅の言葉では、私には信憑性が皆無ですね。


>だから同じ埼玉大学OBのI先生が幼稚園に話しを通してきて「ここで空手の指導をして収入にしなさい」とお膳立てしてくれたそうですよ。埼大は元々が師範学校で教員になる人が多かったそうですし、I先生は県だか市だかの教育委員会で働いていて幼稚園だとかとも繋がりがあったらしいです。



「…社会的に成功…」の話は、「武道の理論」の出版の前あたり(たぶん)で、
空海お宅の上記の話が仮に事実だとしても、このずっと後の事でしょうね。

まあ~私の事をいつも「〇〇〇!」色々と自分勝手に断定している
空海お宅の言説は、嘘と本当の混じり合い言説なので、その全てが信じがたいモノですね。
返信する
やってみては? (自由びと)
2023-08-24 11:24:46
>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>なぜだか自由びとさんのブログ活動が停止して私が投稿したコメントが公開されずにおりますね。



そうですか…すみませんね…
見落としたのかも…
ここに再度の投稿を試みては如何かな?!

>南郷先生が長年に渡って司法試験を受験していたことは知る人ぞ知る事実でありますし、南郷先生ご自身が著述の中でアンドレ・ルイ・モローの名前と共にそれを示唆しているところです。

なる程…それはあり得ますね…
私も「社会的な成功」の具体的な中身は聞いていませんので…
まあ今となったら…だから!それがどうしたの?レベルですが…




>当時の司法試験について調べてみると合格率が1~2%という驚異的な狭き門で大学の法学部を卒業しながらも10年かけてやっと合格したなんて人もザラだったみたいですね。どうして南郷先生がそのような難関に挑んでいたのかは謎ですが、奥さんが働いていたから可能であったのは間違いないですね。


他人事の詮索!どうでもよい!事ですね。



>tadaさんの南郷先生と滝村先生との概念の比較を改めて見てみたのですが、これは私には分かりにくい却って難しい記述になっています。
>それでも、一つ一つ検討してみることで少しずつ見えてくるものもありますから、これからそれを記述してみたいと思います。
>きっと自由びとさんにも参考になるところが多々あると思いますよ。


それは有難い!
「当たるも八卦当たらぬも八卦」!
是非に試してみる価値はあるかも?
返信する
Unknown (tada)
2023-08-24 21:58:57
自由びとさん こんにちは ピンチはチャンスといいます。南郷先生が司法試験に落ちて 武道家を選ばれたのは 人生最大のキーポイントでしたね。弁護士や検事・判事は星のごとくいます。でも 南郷先生は只一人ですから。南郷先生にとっては挫折かもしれませんが 私のような読者にとっては 良いできごとになりました。
空海さん 私の先回のコメントについて あれは 初期学城 滝村国家論批判への反論です。親玉(南郷)が国家論をだすのを待っていたのですが 結局武道哲学講義も含め 小文のみで詳細はわからないので 推測ででっちあげたものです。10年以上前のことですが 彼らの方法論は確立しているので 転向していなければ 今もこれで対抗できると思ってます。そう言うわけで 命題形式については 最初から南郷側に寄り添って書いていますし 自由びとさんに理解してもらうために簡潔にしています。滝村先生が言ってましたね。本質論はだれでもできるんだ。素人だって 国家は〇〇だといえる。問題なのはどういう過程で導き出した本質論なのかだと。ちなみに滝村先生はまんじゅう国家論なんですね。国家はまんじゅうだ。皮の部分が国家で アンコが社会だ。南郷先生たちは 国家は缶詰ですよ。この例えでも滝村先生は勝っていて ファシズムやスターリニズムはきびだんごで マルクス主義はアンコ玉です(笑)。 
返信する
Unknown (空海)
2023-08-25 07:38:28
>空海氏へ
>弁証法を事象の中に発見しても 内的な構造、本質を見極めたことにはなりません。それは 意味の無いことです

tadaさんへ

tadaさんのご発言は結論的なことを漠然と述べていらっしゃると私には映るのですが、これはtadaさんの直感からくるご意見でしょうかね?

私は逆に「内的な構造や本質を見極めるとは弁証法性を発見することだ」と考えておりますが?この「弁証法性」とは勿論のこと単なる一つの事実や事象だけで見て取れるものではなく、複数の事象の間に対立関係を発見していくことだと考えますけど?

例えばtadaさんは

>原始共同体でははっきりわかる統一社会的契機がないからです。第三権力の規定が近代国家を正面にすえた中から規定されたように 政治という統一社会的事象も近代国家になり 明らかになったのです。

と述べていますね。おそらくこれは滝村先生だとかの本を読んで暗記した文章を、脊髄反射的に何も考えることなく(失敬w)力一杯に文字化したのだろうと想像します。
ですが、ここを小中学生でも理解できるように説明し直してみる意識的な努力が必要だと思うんですね。

ここで言う「近代国家」というのは事実的に述べたならフランス革命後の「民主主義国家」でしょう?「第三権力」というのは今で言う「国民主権」で、それ以前の「君主主権」に対立する弁証法性を帯びた言葉ですよ。

ですからフランス革命後の人権宣言にて述べられたように「人間としての自由で平等な権利を持つ国民が国家統治の主権者となる」という政治的方法としての「国民投票による代議制」に繋がる視座だと思いますね。
それを如何して「第三権力」なんてヤヤコしい言い方を滝村先生(や暗記しただけのtadaさん)がしたかというと、エンゲルスの本に「第三権力、dritter macht」と書いてあったからですが、これはフランス革命前のアンシャンレジーム(封建的な旧制度)において聖職者(第一身分)、貴族(第ニ身分)という特権階級の下の「第三身分とされた商人や農民による権力」という意味で、既に特権階級が無くなっている今の日本で何の脈絡もなく「第三権力」なんて言われても理解可能な人は稀でしょう。

というより、既に「第一権力、第ニ権力、第三権力」という構造性の無い所で第三権力云々を言っても単に「暗記の能力高いね〜」ぐらいのことですから。

それで、「国家」というものを考える場合に、この近代国家たる《国民主権》に対立する《君主主権》たる古代国家、例えば「大化の改新」後の律令国家を見た場合、地域によって独立して勢力を持っていた豪族たちの共同体、それは蘇我氏共同体だとか物部氏共同体だとかかも知れませんけど、そうした豪族である物部守屋だとか蘇我入鹿だとかをブッ殺して豪族共同体全体を統一した「統治、統(す)べる・治(おさ)める」形式が国家だとも考えられませんか?

確かに最近の南郷学派では南郷先生も瀬江さんも《帝国》を主張していますから、「法治国家における国民主権」に対立する「人治国家における君主主権」を志向している節がありますけどね。

こうした「対立概念における弁証法的な運動」というものは日常生活的な認識で自明の如くに見えるものではなく、学者・研究者としての地道な努力で見えてくるものだと私は理解しておりますけれど?
返信する
Unknown (空海)
2023-08-25 07:46:07
>私の見学時には、社会人のマンツーマン指導だったから

見てきたような嘘とはこのことですね(笑)。
早稲田の高橋さんの道場も社会人だけの少人数の道場で見学にくる人も社会人だけでしたよ。
ですが、高橋さんの本業は公務員でしたから、空手は収入のためにやってるんじゃない、ぐらいの気持ちでいたのでしょうし、南郷先生も「指導者は生徒に優しい顔を見せてはいけない」なんて言ってだから、見学者にも高飛車な態度だったんでしょう。

自由びとさんは高橋衛さんという人を実際にはご存知ないのでしょうね。

高橋衛さんといったら松村さんと並んで玄◯会の2大嫌われ人間として名を馳せていたんですよ。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-26 07:29:23
自由びとさんがお忙しく中々コメントが公開されないのが残念ですけど、tadaさんのコメントがキッカケとなって國家論や政治學を學ぶ機会を得れていることは私にとって望外の喜びですね。

忌憚の無い意見を述べさせていただくならば、tadaさんの記載は具体的事例に欠ける抽象度の高い言語表現となっており、それでも確かに私自身の学習が進んでいくならtadaさんの発言の真偽も判断できるようになろうかとは思います。
ですが、哲学的に言ったならカントの「純粋理性批判」「経験論と合理論との統一」で、経験的な感覚的事実を挙げることが合理論的な論説の理解を促すという面を再度指摘させていただきたく思いますね。

この「経験論と合理論との統一」ということが、卑近な例で言ったなら庄司和晃さんの「認識の三段階連関理論」における上り下りであり、『空手道綱要』で馬場規子さんが説いていた「論理は事実で、事実は論理で説け!」ということで、その頃に馬場さんはカント哲学をやっていたのだろうと想像されますね。

1977発刊の『空手道綱要』で馬場さんは「大ヘーゲル」なんてことを書いてますし、1980年代の『試行』で南郷先生は馬場さんのことを「専門は空手と哲学」なんて書いていました。
おそらく、『試行』の連載第一回目の時はマルクス主義の哲学批判説を受容していたのが、その後に滝村先生からヘーゲル『哲学史』の指導を受けていた可能性も考えられますね。

もっとも「専門は空手と哲学」なんてのは南郷先生の一方的な要望で、創価大学の法学部を卒業した馬場さんの専門は法律であり政治だったんだと思います。
条例で公表されていますけど、名古屋市議会議員の年収は1,600万円らしいですから、相当な高級取りで、「大人の通信簿」という経済的観点からもオール5みたいな成功事例なんでしょうね。
返信する
ピンチとチャンス (自由びと)
2023-08-26 09:04:23
>コメントを書いた人
>tada

>・コメント
>自由びとさん こんにちは ピンチはチャンスといいます。南郷先生が司法試験に落ちて 武道家を選ばれたのは 人生最大のキーポイントでしたね。弁護士や検事・判事は星のごとくいます。でも 南郷先生は只一人ですから。南郷先生にとっては挫折かもしれませんが 私のような読者にとっては 良いできごとになりました。
空海さん 私の先回のコメントについて あれは 初期学城 滝村国家論批判への反論です。親玉(南郷)が国家論をだすのを待っていたのですが 結局武道哲学講義も含め 小文のみで詳細はわからないので 推測ででっちあげたものです。10年以上前のことですが 彼らの方法論は確立しているので 転向していなければ 今もこれで対抗できると思ってます。そう言うわけで 命題形式については 最初から南郷側に寄り添って書いていますし 自由びとさんに理解してもらうために簡潔にしています。滝村先生が言ってましたね。本質論はだれでもできるんだ。素人だって 国家は〇〇だといえる。問題なのはどういう過程で導き出した本質論なのかだと。ちなみに滝村先生はまんじゅう国家論なんですね。国家はまんじゅうだ。皮の部分が国家で アンコが社会だ。南郷先生たちは 国家は缶詰ですよ。この例えでも滝村先生は勝っていて ファシズムやスターリニズムはきびだんごで マルクス主義はアンコ玉です(笑)。 

tadaさんへ


続きのコメントをありがとうございます

>…南郷先生が司法試験に落ちて 武道家を選ばれた…

う~ん…それが事実であるか否かは不明ですが…
仮に事実だった、としても…私には、これを「ピンチはチャンス」とは思えません。
これは、人生の方向転換であり、ピンチからの脱出!ですかね…

「ピンチはチャンス」とは、事実・現実の捉え方ではなく、
「ピンチ」で苦しむ自分への「感情転換の為の思考」方法ですかね。

ピンチもチャンスも、事実としてはありません。
ある出来事について、自分が「ピンチ」または「チャンス」と捉えるだけです。

だから、私の「ピンチ」は、奴には「チャンス」にもなり得ます。
敵の「ピンチ」は、仲間には「チャンス」てすね。


既に過ぎ去った過去は変えようもない必然です。
過去を喜ぶのも悲しむのも、同じ事でしょうね。
でも、人は、悪くて悲しい過去を悔やみ、良くて嬉しい過去を喜ぶ。
でも…悪くて悲しい過去があったから、今の私がいるし…
また、良くて嬉しい過去があったから、今の私がいる。

そんな過去の出来事の感情に、いつも振り回されている私…の反省ですかね。

南郷氏の国家論について… ”哲学原論[綱要] を、読みながら思いました。
南郷氏の国家論についての言説の数々は、
弁証法的・哲学的・学問的…な国家論とは、「〇〇〇のように書かれるモノ」とっいた、
国家論を書き方、国家論への道、手順…そのような事を書いているのでは?と…
私の勝手な想像・妄想で…この信憑性は、読み手にお任せで…すみません…

南郷氏は、弟子が「国家論」を書き発表する事を期待している?のでは、と、


国家の殻が、「饅頭」と「缶詰」ですか?

饅頭は、そのまま直ぐに食べられますが、缶詰を食べるには缶切りが必要ですね。
饅頭の皮は簡単に破れますが、缶詰の缶は、なかなか破れませんね。

饅頭の皮は、中身の保護力が弱く、缶詰の缶は、保護力は強力ですね。
饅頭は初期の頃の国家で、缶詰は現代の高度の軍事力保有国家ですかね。

軍隊は、外部からの侵入に対する防衛力・攻撃力・。
警察は、内部での防護力?…

「本質論」について、全体に対する本質論が哲学、部分的専門的な本質論が個別科学…かな?
もっとも…何をもって「全体」または「部分」とするかは、その書き手の選択次第ですね。

空手には空手の本質論があり、武道には武道の本質論、武術には武術の本質論。
空手を空手から論じるか、
空手を武道から論じるか、
空手を武術から論じるか、



その自分の論じたい「空手」の捉自分の立場・捉え方の自覚が必要ですね。
当然に、他人の論じているモノの捉え方・立場も分かっていないと…反論が反論になり得ませんね。


そうそう…現代なら、空手をスポーツとして論じる事も可能ですね。

スポーツ空手の本質論。
ダイエット空手の本質論。
宗教空手の本質論。   なんてね…
返信する
嘘と誠 (自由びと)
2023-08-26 09:29:55
>・コメントを書いた人
>空海

・コメント
>>私の見学時には、社会人のマンツーマン指導だったから


空海お宅には「嘘」、でも私には「見学は事実」…
ただ…弟子・彼が社会人だったか、は覚えていません。
それでも、彼・弟子は若者でしたね。



>見てきたような嘘とはこのことですね(笑)。
>早稲田の高橋さんの道場も社会人だけの少人数の道場で見学にくる人も社会人だけでしたよ。
>ですが、高橋さんの本業は公務員でしたから、空手は収入のためにやってるんじゃない、ぐらいの気持ちでいたのでしょうし、南郷先>生も「指導者は生徒に優しい顔を見せてはいけない」なんて言ってだから、見学者にも高飛車な態度だったんでしょう。


「高飛車な態度」とは、とんんでもありません!でした。
「今は寧に会員が少ないから…」勧誘をしていました。
私の初対面の印象は、とてもナイーブな人、とてもとても「高飛車」は論外です。

そもそも、都築さんもそうでしたが…
彼らは「収入が目的」ではなく、弟子の指導で自分の空手の実力向上が目的なのでしょうね。


空海お宅は、自分が何でも「金銭」で考えるから、他人も同じだと思うのですね。
それって、卑しい・非文化的な唯のヒト・レベルですかね。

>自由びとさんは高橋衛さんという人を実際にはご存知ないのでしょうね。


講習会では、黒いサングラスで、怖い人…でしたよ。
よく大声で、怒鳴っていましたね。

ただ…今なら分かります。
大学生会員を相手にして、社会人同士のような丁寧さは、空手の指導ではマイナスです。
大学生は、まだまだ社会人未満ですから…



>高橋衛さんといったら松村さんと並んで玄◯会の2大嫌われ人間として名を馳せていたんですよ。


それは聞いた事があります。
私が思うに、都築さんのサングラス、高橋さんのサングラス…
(忘れた)誰かが言っていました。
「サングラスは指導者としての目の変化・動揺…」を相手に見せない為…だと。

「優しい」とは、相手の立場で考え過ぎるモノ。
でも、それは、自分の考える相手の立場です。
空手指導者は、自分の空手指導者の立場で、その大学生の弟子の立場を考える。

それが…なかなか難しいのですね。
どうしても、空手指導者としての厳しい指導は…
返信する
懐かしい… (自由びと)
2023-08-26 09:39:27
>空海

>・コメント
>自由びとさんがお忙しく中々コメントが公開されないのが残念ですけど、tadaさんのコメントがキッカケとなって國家論や政治學を學ぶ機会を得れていることは私にとって望外の喜びですね。

>忌憚の無い意見を述べさせていただくならば、tadaさんの記載は具体的事例に欠ける抽象度の高い言語表現となっており、それでも確かに私自身の学習が進んでいくならtadaさんの発言の真偽も判断できるようになろうかとは思います。
>ですが、哲学的に言ったならカントの「純粋理性批判」「経験論と合理論との統一」で、経験的な感覚的事実を挙げることが合理論的な論説の理解を促すという面を再度指摘させていただきたく思いますね。

>この「経験論と合理論との統一」ということが、卑近な例で言ったなら庄司和晃さんの「認識の三段階連関理論」における上り下りであり、『空手道綱要』で馬場規子さんが説いていた「論理は事実で、事実は論理で説け!」ということで、その頃に馬場さんはカント哲学をやっていたのだろうと想像されますね。

>1977発刊の『空手道綱要』で馬場さんは「大ヘーゲル」なんてことを書いてますし、1980年代の『試行』で南郷先生は馬場さんのことを「専門は空手と哲学」なんて書いていました。
おそらく、『試行』の連載第一回目の時はマルクス主義の哲学批判説を受容していたのが、その後に滝村先生からヘーゲル『哲学史』の指導を受けていた可能性も考えられますね。

>もっとも「専門は空手と哲学」なんてのは南郷先生の一方的な要望で、創価大学の法学部を卒業した馬場さんの専門は法律であり政治だったんだと思います。
条例で公表されていますけど、名古屋市議会議員の年収は1,600万円らしいですから、相当な高級取りで、「大人の通信簿」という経済的観点からもオール5みたいな成功事例なんでしょうね。



相変わらずの、なんでもかんでも「金銭感覚」です。
「武士は食わねど高楊枝」の時代が懐かしいですね。

本来は、金銭獲得は、生きていく為の手段。
でも今は、金銭獲得が生きる目的ですかね。

本来は、お金を儲けて、それを使って「快の獲得」。
なのに現代は、お金獲得そのものが「快感」です。
返信する
Unknown (tada)
2023-08-26 22:51:09
自由びとさん 連日の暑さ お疲れ様です。
ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) まんじゅう国家論については お遊びですので あまり真剣に考えないでください。でも南郷先生の缶詰国家論はまじめかも?
思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。

空海さんへ 第三権力についてのコメント 拝見しました。結果発表です。
滝村大学は落第決定です。論研は不合格です。お勉強を続けてまたの機会まで 努力してください。丸暗記では無理ですよ。方法論を再確立してください。 繰り返しますが 対立物の統一で物事をみても 対立物の統一が見えるだけで 本質は見えません。そして 私はあなたの先生ではないので くわしく教える義務はないのです。筋の悪い人には教える甲斐もありません。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-27 06:47:13
tadaさん

国家の例えが「まんじゅう」だとか「きびだんご」だとか「アンコ玉」だとかいうのは難解ですね。ちょっと意味が分かりかねます。皮で包んでいるというところに何らかの類推を働かせるのかも知れませんが、そうすると想起されるのは外との関係という「外交」で、争うのか親和するのか選択肢も一つでは無いように思われます。もちろん、アンコを中央に集めているという「内政」を示唆しているとも解釈は可能ですけれど。

南郷学派の「缶詰」という例えは確かに「軍事」を中心にしたものだと執筆者である近藤さんは書いていたと思います。これは武道や武術といった相手を殺傷する技法を修めた人間としてはごく普通の発想で、私が学んだ多くの武道家の先生たちも「軍事国家論」を説いていましたから。

私はまだ滝村先生の国家論も南郷学派の国家論も本格的な検討はしていませんけど、この軍事国家論に対立する?違った視座としては、やはり「地域の生産物の流通」という《経済的な事》で、そのことによって食料の調達ということを他者に任せて別の仕事で生きていける人間が増えていったという基本的なことじゃないか?と考えますけどね。

すべての人間は例外なく食べなければ生きていけません。その《食糧》を確保することが大前提で、米や肉、野菜だとかを如何に手に入れるか?が直接的には人間として最大の課題でしょう?ですが現代において「食べていく」という言語表現は「何か労働(仕事)をして、それに対して対価(お金)を与えられて、それを食糧と交換する(購入する)」という間接的(媒介的)な意味を持っています。ですので「お仕事は何をされていますか?」と問われた時に「大学で哲学の講義を担当しております」なんて言っても「え?哲学なんかで考え事していてもお腹は一杯にならないでしょ?畑仕事はしないのですか?」なんて話しにはならないで、「大学の教員として採用されているということは《家族を養うだけの十分な収入(お金)=別の人が別の労働をして生み出したモノと交換できるだけの収入(お金)》を手に入れることが出来てるのだな」と判断されるわけですよ。

だから、まだ10代の若者が「私は将来、こういうことをやりたい」と今現実には無い事柄・夢を思い描いたときに(私もそんな若者の一人でしたからw)、大人として心配するのは「それは食べていける仕事なのか?」ということです。

南郷先生の人生のターニングポイントは司法試験(弁護士)を諦めて空手家(武道家)に専念するようになったことよりも、『試行』という雑誌に執筆して単行本が日本全国で読まれたということでしょうね。

それで印税がどのくらい入ったのか分かりませんけど、その「日本全国」という政治的に統一されている領土が、北海道から九州、沖縄まで「南郷継正の『武道の理論』」が販売され消費される経済圏なわけですよね。

これが古代の蘇我氏共同体や物部氏共同体ならぬ《南郷共同体たる玄◯会》という狭い範囲に限定されたなら本の売れる部数も、例え南郷先生が会員に「1人5冊買うように!」と指令を出していたとしても非常に少ない印税になると思うわけです。

そうした「経済圏」という視座の元に滝村先生に限ったものでは決して無い「社会構成体」という観点が位置できるのだと私は考えますけどね。「社会構成体」というのは要するに三浦つとむが『社会とはどういうものか』で説いたようなことでしょうからね。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-27 07:22:39
tadaさんは滝村先生から直接ご指導いただく機会を得れていたのですね、それは何よりでした。

私は出版社を通して滝村先生のご自宅を教えて頂き、一度お会いして喫茶店でコーヒーをご馳走になったんです。ですが、それ以降は2度と会っては頂けず、会いに行っても「論文書いて送って来い!」の一点張りで、それでいつの間にかご逝去なさっていましてね。

同じようなことは三浦つとむの奥さんの横須賀壽子さんにご連絡した時もありましたよ。『胸中にあり火の柱』という本が出た頃ですから2002年の、今からもう21年前になるんですねぇ(笑)

門前払いで「私はみなさんが三浦の本をそれぞれの立場で役に立ててくれればそれで嬉しいの。別に三浦学派みたいなのは望んでないのよ」なんて話しで、その「南郷先生の声かけによって生まれた」という本の「南郷学派ならぬ三浦学派」みたいな構成に批判的だとも受け取れる話をしていましたけどね。

それで「南郷くん(横須賀さんは「南郷くん」という言い方をしたんですよねw)は《私は教えて貰えなかったんだ!》と怒ってねぇ…でも三浦には武道の技だとか何だとか言われたって全然知らないわけだから…」なんて話しをしてたんですよね。

私は、その横須賀さんの話しをどう受け止めたら良いのか少し考えていて、南郷先生は滝村先生が三浦さんから指導を受けていて自分が教えて貰えなかった腹立たしさを三浦さんが亡くなった後で年老いて弱った未亡人にぶつけていたのかwと。

それで、南郷先生が教えて貰えなかったのだから、私(空海)も教えて貰えないのを甘んじて受け止めて自分で道を拓け!ということかな?なんてね。

横須賀さんは京都の寄筆さんの所には自分から出向いて行ったようですから、そういう意味では「力道山に溺愛されたジャイアント馬場と粗末に扱われたアントニオ猪木」みたいな関係かも知れませんねw

こんな私の私的体験を開陳されてtadaさんには「もてなされている」と感じて頂けてますかね?
返信する
Unknown (空海)
2023-08-27 07:47:46
tadaさんに聞いてみたいんですけどね、まあ、同じ関心は持てていないみたいですから期待はしていませんけど、

私が述べてtadaさんが「難解な日本語」だと言った滝村先生の初期の著述『マルクス主義国家論』の「《共同体-内-国家(国家権力)》と《共同体-即-国家》の区別」という観点が、滝村先生の遺作となった『国家論大綱』の骨格となっていることなんですけどね。

「第一部⭐︎権力論、第二部⭐︎国家論、第三部⭐︎特殊国家論」という構成は、『マルクス主義国家論』から『北一輝』までで大筋は出来ていて、後は細部を詳しくしただけとも解釈できますし、第二部⭐︎国家論の中の細目が「構造論」なのだという解釈も出来ます。

それと、最近、南郷先生だとかが書いている「帝国」ということなんですけども、もちろん時代的に「人治国家としての帝国」を主張するとは思えませんけど、イギリスのような「立憲君主制としての日本の復活」を期待しているとも予想できるんですね。

アメリカのように元々が国王のいなかった国なら兎も角も、日本のように「国王としての天皇」がいた国の行く末にはイギリスのような立憲君主制と、フランスのような「政体には王侯貴族は入ってこないが、文化の担い手としての貴族は残っている」という方向があるかと思いますけど、tadaさんはどう考えますか?
返信する
考えてみました! (自由びと)
2023-08-27 16:07:46
>tada

>・コメント

>自由びとさん 連日の暑さ お疲れ様です。
>ピンチはチャンスのコメント読ませていただきました。ピンチからの(主体的な)脱出ですね。面白いです。映画「ショーシャンクの空」を思い出しました。主人公アンディ・デュフレーンは私のヒーローです。原作はスティーブン・キングですが この作品は本歌取りで 元歌 つまりモデルがあるんですね。答えは次回ですよ。(笑) まんじゅう国家論については お遊びですので あまり真剣に考えないでください。でも南郷先生の缶詰国家論はまじめかも?
>思考方法としては 演繹的方法が哲学的です。帰納的方法が科学的です。が 実際は両方が複雑に関連しています。煎じて詰まれば 弁証法になります。全体と部分について それぞれの本質論は実際の対象次第で決まりますので 全体と部分が同じ場合もあれば 違う場合もあるわけです。

>空海さんへ 第三権力についてのコメント 拝見しました。結果発表です。
>滝村大学は落第決定です。論研は不合格です。お勉強を続けてまたの機会まで 努力してください。丸暗記では無理ですよ。方法論を再確立してください。 繰り返しますが 対立物の統一で物事をみても 対立物の統一が見えるだけで 本質は見えません。そして 私はあなたの先生ではないので くわしく教える義務はないのです。筋の悪い人には教える甲斐もありません。


tadaさんへ

本当に暑い日が続きますね…
本当に暑いのですが、私はクーラー・エアコンを使っていません。
息子は、「暑いからつけよう!」と言うのですが…
私の寝室のエアコンはずっと故障で、修理もしていません。
それを理由にして、息子には「涼しい居間から暑い寝室だと眠れない!」と言って、理解を得ています。

でも本当の所は、エアコンの冷気が嫌いなのです。
因みに、息子の部屋のエアコンは普通に使えています。

若い時は平気だったのですが…今は、普通の店に入っても、冷気で寒くて長居できません。
外食の時には、必ずウインド・ブレイカーを持参しています。

さて…饅頭国家論と缶詰国家論から、考えて気付いて事があります。
国家には、殻・外堀・国境…があります。
ならば、原始共同体は?
原始共同体の前は、たぶん…「サル集団」。
「サル集団」には、「縄張り」はあっても、国境・殻は?
「縄張り」と「殻・国境」の違いは?

縄文時代から、弥生時代になって、稲作が始まりました。
稲作とは、土地に縛られるモノです。
固定した、土地・場所…があれば、国境もあり得ます。

サル集団の場合は、縄張りが奪われたら、他へ移動可能です。
でも、稲作の土地を奪われたら、他での稲作は非常に困難でしょう。
ならば、逃げて場所の移動ではなく、そこに留まって戦う事を選択するでしょう。

饅頭の皮では、破られて、負けて奴隷。
缶詰の缶なら、破られにくく、持久戦で戦えます。
皮や缶は、防衛力、になります。

確か、西洋では民族大移動で、国家が誕生…?

原始共同体から国家を考えると、共同体と国家の違いが明確になる、ようですね。
移動し続ける共同体は、国家と言えるのでしょうか?

ある共同体が移動した時、そこに他の共同体が存在していた時、どうなるか?
狩猟民族・共同体が、稲作民族・共同体と出会ったら、どうなる?
戦ったら、どちらが勝つ?
勝ったらどうなる?
負けたらどうなる?

そんな事を考えていました。
私は学生時代、社会・歴史が苦手で、殆ど勉強していません、でした。
なので、その分野の知識は、今でも、ほとんど小学生以下ですね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

~ものは考えよう~」カテゴリの最新記事