私は、いつか必ず死ぬ。
生命体は、非生命体化する。
生あるモノは、必ず死ぬ。
万物は、流転する。
「私は死ぬ」とは、事実であろうが…。
でも、あった事でも、ある事でもない。
言うなれば、将来に必ず「ある事」である。
これは、「事実的な論理」と言うのだろう。
生命体は事実として存在しない。
存在するのは、犬の個体とか…
具体的な生物・生命体の個体である。
生あるモノも…万物も…も同様である。
私にとって、
万物は流転する。
生あるモノは滅びる、
生命体は必ず非生命体化する…
は、実感し得ない言葉である。
それでも、
私は、いつか必ず死ぬ、
なら少々の実感が湧いてくる、と言える。
しかし、仮にこれが、
医者から言われた以下のような言葉なら、
「あなたは末期ガンです。」
「あなたの余命は三か月です。」なら、
かなりの実感があるだろう~
もっとも…これは予想であり、事実ではないが…
上記の四つは、それぞれ「論理」と言い得るだろう。
でも、それらの「論理」レベルが異なっている。
これは換言するなら、その論理性が異なっている。
論理性とは、論理の性質、論理のレベルの違い…
そのようなモノだろう。
人は誰もが、一人一人の実感可能な論理レベルがあるのだろう。
実感とは、感情的に分かる事であろう。
ならば、論理として理解するとは?
それは、
「言う事は分かるが…」
「でも……」と言ったような事だろう。
実感し得ない論理は、
事実的な体験、または論理的体験が必要なのだろう。
事実的体験と論理的体験の区別と連関は?
「私は死ぬ」の事実的体験は、可能でも無意味である。
体験しても、それを経験として生かせない。
人は死んだら終わりだから…
でも、他人の死の中に自分の死を想像・実感可能なら、
それは、論理的体験となり、
その体験は自己の経験として生かせる、のだろう。
弁証法性は事実としてはない。
事実の中に弁証法性を見て取るのだろう。