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《1》開始にあたっての挨拶 (一)

2021-03-28 08:39:32 | 弁証法講座
《1》開始にあたっての挨拶

1)ご恩には倍返しを
ゼミ開始の前に弁証法学習にあたっての私からの挨拶を行なっておきたい。
本講座は稲村氏の好意によるもので、無料でわれわれは弁証法の勉強ができる。
本来、弁証法は学の確立から人生訓レベルへまで幅広く役立つ考え方の導きの糸そのもの、というよりは…指針の前提となる科学的なものであり、その成果はここに集う諸君には常識であろうが、南郷学派の学問成果や、武道・武術、教育などの上達論や勝負論での成果に大きく世界の注目を集めてきている。

弁証法はまさにそれを自家薬籠中のものにした人には専門分野の難問が解ける、打ち出の小槌になると言われる。
しかしその弁証法を教えてくれる大学は、ごくわずかしかない。「弁証法入門」のような本もかつてはあったが、今はほとんど書店から姿を消した。弁証法なんか役に立たない、どんなものかはわかったが、それがどうした、と見捨てられていった。またかつて弁証法を唱えた学者やインテリはほとんどがマルクス主義者、左翼であったために、ソ連や中国の失敗と崩壊によって人気がなくなったせいである。左翼や政治革命とは無縁のところで武道と学問に役立てて世に示したのは南郷学派だけである。

であるから弁証法を学ぶチャンスは通常は現在、ほとんどないのである。弁証法は世間ではまさに「日陰育ち」に追いやられているが、その日陰者こそが学問や人生訓の王道である。
そんななか弁証法を自家薬籠中のものにした稲村先生が、後進の者のために貴重な時間を割いて、指導してくださる。
稲村先生の目的は健康腺療法の発展と継承にある。その一環として弁証法講座があるのである。なぜかなら健康腺療法の発展と普及には弁証法が欠かせないからだ。
その目的のおこぼれとして、諸君は個人的な目的での弁証法の勉強ができるのである。

私もかつて玄和会指導局に入って、弁証法を指導していただいたが、これは玄和会の発展に資するためであって、単に個人の能力を引き上げるのが目的ではなかった。そこが普通の学校とは違う。
これは貴重さで考えても、1回の教授料が何十万円払っても足りないくらいの価値あるゼミである。それをなんと謝礼もとらずに指導してくださるのである。
さて、ここで実はわれわれには二つの選択肢がある。

一つは、その無料でのボランティア的な指導が畏れ多いとか、まだ実力不足だから…ということで、遠慮するべきと考えることである。1回何十万円もする指導に応え得る実力が自分にはなく、将来的にも無理だと思うから、やめて置くというのがそのありようである。

もう一つは、それだけの恩義は十分承知のうえで、稲村先生の好意をしっかりと受け止め、やがて自分が立派になり、それぞれに専門分野で成果をあげることで、恩返しをすれば良いと考えるありようである。倍返しという言葉どおりに、始めに多くのものをただでもいいからもらって、そのお礼は自分が立派になって返すということだ。
前者の、ただでは申し訳ない、遠慮しておくという道を選択した者は気が楽であり、なんらの矛盾も生じないですむ。要するにやらなければ良い。等身大の自分で満足していることになる。

だが後者を選んだ場合は、大変なことになる。現在の自分を否定して、将来のあらまほしき自分の奴隷になるわけだから、大変な責任を負い、努力一途とならなければならない。自分が自分であるとともに、他の者すなわちあらまほしき自分でもある矛盾を背負うことになる。むろん失敗もあるし、道は険しい。成功した人はとても少ない。失敗したり途中で嫌になったりして逃げれば、稲村先生を裏切ったという負い目を背負わなければならないかもしれない。だから何もやらないで過ごすという選択肢は楽である。

だが自分の中に非敵対的矛盾を創りだせば、そこに「運動」が生じるのだ。努力する、勉強する、立派になっていく…というように、こうした変化発展を学問的には運動という。
何もしないのはつまりは現状維持と言えるかというと、そうはいかないのである。そこに弁証法性が生じないわけにはいかない。やらないということは、ただ「俺はやめただけ」と言いたいだろうが、これは自分のレベルを落としたから止められるのである。

Aになりたいと思い、その目的を放棄するとは、Aという認識すら止めることになる。止めれば余計に落ちる。
ダメ自分をつくっていく道をせっせと歩むことになるのである。
それが弁証法の恐ろしさなのだ。

弁証法を学ぼうと志したら、やり遂げるまで止められない。やめれば、ただ止めたにとどまらないで、それは非弁証法的な考え方を身につける悲劇の扉を開けて中に入っていくことだからだ。適度の中間はないと知らねばならない。
1回の講義やゼミが本当は何十万円も払わなければならないと言ったが、これは冗談ではない。諸君は、例えばラブレターを書くのに、仲良しの同級生にあてて書くのと、世界を圧したイングリット・バーグマンのような大スターに憧れて書くのと同じ思いで書くはずがない。

レポートを書くに世界一級の人物にあてて書く感情と同じようにゼミも聴かなければならない。だからこのゼミは1回何十万円もするほど世界一のゼミなんだと心してほしい。
そうすれば自分に逆流して相互浸透してくる。


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