新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

南郷継正の「夢を動かす」について~

2024-01-11 07:31:57 | 「わたし事・学」
南郷継正の「夢を動かす」について~


私は誤解していた⇒南郷継正の「夢」を…
私は失念していた⇒南郷継正の言葉を⇒「私の言葉は論理」を…

論理のレベルには、現象論・・構造論・本質論レベル…がある。
夢には、夜見る夢・白昼夢・人生の夢…がある。

私は、私の夜見る夢の中で、夢を動かした。
私は、夢そのモノを動かせただろうか
私は、人生の夢「悟りを求めて~」を動かせただろう?
人生で日常の変化・過程で「悟り」を使って頭脳・感情をコントロールする事。
そもそも…本当に私は「悟って」いるのだろうか?


南郷継正は、言っていた?書いていた!
「私は、認識を三回変えた」⇒「弁証法学・認識学・論理学」


結論から書くなら…

南郷継正は、
初めの夢「弁証法」⇒「弁証法」を駆使して「認識論学」⇒「論理学」⇒「弁証法唯物論哲学」
成る程…南郷継正は、「弁証法体得の夢」⇒「弁証法唯物論哲学(学問)・完成の夢」に変えた!?!


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24 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (弥勒)
2024-01-11 07:49:23
私の記憶も曖昧な所はありますけどね、随分と昔、南郷先生は「脳細胞を3回作り変えた」と言っていた記憶がありますね。「認識を作り変えた」ではなくて。

私も夢講義は余り読んでないんですけど、最新刊の夢哲学を買ったのがキッカケでヤスパースに関する本だとか買って読んでますね。それで、ヤスパースのイワユル「絶対的精神」というのが「愛」だというのは、やはりキリスト教圏の人間であるがゆえでアクィナスと同じだと思いましたし、「包括哲学」としての「実存哲学」もヘーゲルと並べる弁証法的な考えなのだと南郷先生を理解しましたけど。

京都の寄筆さんのように「夢は大学教員になること」だと公言して日夜勉強してるなんて見習いたいとは思いますけど、教員補助になりたいとは思いませんね。
返信する
驚駭!なのに静か? (自由びと)
2024-01-11 18:58:29
師範・弥勒様へ

オッス!

>私の記憶も曖昧な所はありますけどね、随分と昔、南郷先生は「脳細胞を3回作り変えた」と言っていた記憶がありますね。「認識を作り変えた」ではなくて。



御指摘の通りでした。ありがとうございます。

確かに、師範は「脳細胞を3回変えた」(私の記録)と1991年・私の緑帯時代に参加した、私の二回目の千葉県岩井浜海岸での夏季師範主催合宿の御講義で言われていました。

夏合宿の一回目・二回目の私が聞き取った師範御講義の記録をみたら、今の私が思って・書いている事と同じような事が書かれていました。
私は、初めから、私の到達点を教えられていたのですね…

取り急ぎのレスをいたしました。
これから夕食の用意ですので…この続きは…また~
すみません…明日から、仕事が始まれますので…

今日一日…実に不思議な静かな気分…
とんでもない事実なのに…驚駭レベルの事実なのに…
とても静かな驚きなのです。

言葉で感謝…というより、先生の御尊命中に、ここまで辿りつけて…
もしかして…少しは御恩返しになり得ていたら、
これで、きっと…南郷師範主催の茶会に招待頂けるかな…何て、期待して・失望するかも…なんてね…
返信する
オッス! (自由びと)
2024-01-11 19:02:20
オッス!宜しくお願いします!
返信する
上記コメントの続き (自由びと)
2024-01-11 22:16:52
上記の続きコメントです。


>私も夢講義は余り読んでないんですけど、最新刊の夢哲学を買ったのがキッカケでヤスパースに関する本だとか買って読んでますね。それで、ヤスパースのイワユル「絶対的精神」というのが「愛」だというのは、やはりキリスト教圏の人間であるがゆえでアクィナスと同じだと思いましたし、「包括哲学」としての「実存哲学」もヘーゲルと並べる弁証法的な考えなのだと南郷先生を理解しましたけど。



私も「最新刊の夢哲学」を買って、一回読みました…
でも、よくわかりません!でした。
上記の言葉を手掛かりに今度差再読してみます。


上記の「「包括哲学」としての「実存哲学」も…」とても難しい言葉ですが…
でも…現代の生成AIって、とても便利です。

「主観と客観の統一」ですかね…

例えば、眼前の花を知るには、
「過去の花の知識・他人の言葉・での問い掛け」と「目の前の花の実感・反映」の統一ですかね。

他人の言葉には、本に書かれたモノと、口から発したモノがあるでしょう。

絶対精神から観た花と当人の認識の統一…



>京都の寄筆さんのように「夢は大学教員になること」だと公言して日夜勉強してるなんて見習いたいとは思いますけど、教員補助になりたいとは思いませんね。



そうなんです…

小学館アカデミー(塾)が廃校なった、当時の息子の学校の校長にお願いして、見つけてもらいました。
私の教員免許は、更新していなかったので使用不能。
だから、産休代替は無理で、結局特別支援学級の補助員だったのです。

学習補助員としての児童・生徒との関りは、とても新鮮な発見の連続で楽しいモノがあります。
でも…もっと勉強したく思い、社会人聴講生でどこかの大学…なんて思ったりして…

また、京都弁証法論理学認識論研究会への入会も…思ったりして…
でも、年齢的にどうかな…という心配もあり…なかなか実行できていません。
玄〇会にも、三〇支部への復帰…なんて…色々と思っていますが…
すぐまた…行かなくなって…結局迷惑かけて…なんて…色々と余計な事を心配・考えてしまいます。



そうそう、合宿で、師範が一人で海の中……を発見した、
私が師範に「何をしているのですか?」と尋ねると、
師範が「中国・拳法の新発見をした…」答えてくれました。

それって御講義で話していたのですね。
手を使って投げた時、足の力が抜けている…

私も、弁証法を大学で、社会人講師として、教えられたら…嬉しいかな…
もっとも…今日の私は、少し驕り高ぶっているので…明日は、その反動でドスンと沈んでいたり…だったり…

そうそう御尊命ではなく、「御存命」でした。
以前読んだ本に、「人間の寿命の限界は125歳、と書いていましたから…
師範もまだまだ、今の「1と1/3倍」は、いける可能性がありますね♪♪♪♪
限界への挑戦がいいですね…人類史上・最年長・記録がいいですね…

最後に…ユーチューブの「「悟りへの道 ブッタの教え」を見て、まるで私の事だ!と驚きました。
そんな風に思えてしまう私が、とても危ない…と実感しました。
返信する
覚り・悟る事 (自由びと)
2024-01-13 07:12:40
おはようございます♪南郷先生?


今朝、四時過ぎに、トイレに起きて、それから眠れず…床の中で、色々と妄想していました。
それは、即自、対自・即自かつ対自…またまた思考の迷宮へ…

結論から書きます。
<「神経体力・神経力」・「認識体力・認識力」の区別と連関を覚り・悟った>
のです。

認識体力は、五感器官の感覚能力であり、
対象の全体像を正確に感覚して反映する五感器官(神経伝達能力)の実力…
↑これも…他人の知識ですね。

では、私の場合を書きます。

初めの「母の死」の時、私はその死を感覚して「母の死」を事実だと認識した。
しかし、その事実と心では対自していない。目を逸らしていた。
その事実が、葬儀・告別式…全てにおいて、涙ぐむ事・泣く事もなく…ただの一滴の涙さえ流さなかった。
それは、私が即自・(自覚なく・心で)無視していた・逃げていた・対峙していない…から。
それでも、後日、母と離婚して、後妻と暮らしている父宅へ行って、父との話の中で「母の事で…号泣した」
この時が、初めての「母の死」とは対自であった。

それに比して「家内の死」の場合は、臨終の際には、泣けなかったが…その後、他人の話から、涙ぐんでしまう私を発見した。

何故に発見・気付く事が出来たか…
それは私が「母の死」の体験・経験(一回でも強烈な体験だったので経験)を比べて(対立物の統一)でその違いを認識できた。
このような気付き・発見・認識可能な能力が「認識力」である。

また、「母の死」では、なかなか泣けない私だったが…
家内の死では、他人との話で涙ぐむ自分を感覚(流れそうな涙・悲しみの感覚・感情)の自覚、
そこで、悲しみ感覚が感情に変化する前に、その思考を変えていた(心を家内の死から分離)。
それでも…告別式開始前の独りの時には、下を向いて殆ど声なき号泣が出来た。
これは、認識力のレベルアップ、その認識力の源が「認識体力」。

このような、対象(こごては私の正確な心裡状態・感情)を正確に認識可能も認識力なら、
外界物であれば、先ずは、五感器官の感覚能力とその対象を正確な像として描ける認識力。

認識体力とは、
「母の死」との対峙から回避・逃げていた私と「家の死」とは対峙していた私。
その違いが、「認識力」の相違…。
我慢力・耐える能力その認識体力の養成過程に「炎天下での大声合唱訓練」。
でも…「母の死」は、逃げて泣けない・「家内の死」は、逃げずに、悲しい感情に堪えて泣かない。
即自的でも(無意識的に回避・対峙しない)泣かないorその対象に悲しみを感じない。



ほ~ほ…宗教は、心・苦しみ・憎しみ感情を無視する・対峙しない認識を創る。
実は昨日、驚くような・タイミングでの出会いが、ありました。
それは、テレビを付けた瞬間に、「NHK」で「永平寺」の再放送が…
これは、以前に、家内の実家があった福島の「NHK何とか…」で、「永平寺」を視聴しました。
当時は、それらの修行の意味・意義が全く不明でした。
しかし、…昨日は、分かりました。それは、師範が説いていた「思考停止」であり
tadaから教えられた、自分が可能なある範囲内での認識の変化・運動の閉じ込め「集中」だと感じました。

永平寺の修行は、決められた姿勢・型での読経。
変化に乏しい長い廊下の雑巾がけ・運動。
食事担当、毎日決められた食事・調理・用意の長期間(四か月)
寺での全ての言動・行動・行為…を型に嵌めようとする修行。
それらは、現実の変化と無関係に、認識内に築こうとする「御経」の世界像。
現実との関わり・日常生活の変化・運動とは、可能な限り無関係な(絶対的?独立関係)の世界。
自己の観念内、宗教的な観念世界の創出…



神経力・神経体力を痛感(これが神経力だ!)(そうか神経体力とはこれっだったのか!)は、
最近、再読した「武道の科学」の「起床・就寝」時の二分間の足上げ腹筋を、また始めた体験談から…


20代頃に、国会図書館でとった「試行」のコピー書かれていたので、毎日実践した。
その時は、その二分間が苦しみだった。それでも、若さ故か、五分にして実践。
風邪気味で少々熱があっても実践していた。

でも今回も「武道の科学」を読み、思い出して実践…それから一ヶ月位…でしょうか…
数日前に、不思議と…辛い腹筋が辛く感じなくなって来た自分を発見…より正確には違和感が…

そうそう今週の火曜日に、テレビ体操をしていて…体感・感覚が違う。
全身のすみずみまで、神経・気が通っている…自分の自覚。
そして、今日…二分間腹筋の事実に、若い頃の私との違いが「神経体力」の違い…と実感。

神経力とは、その神経力の自覚なのだろう。
以前、全力走が、スムーズに感覚した時があった。
感覚として風を切って走っている筈なのにスピードは、以前のまま…
あの感覚が、神経体力…言うなれば、全身が一体化して走っている状態…

そう「全身の一体化」…その感覚…
そうそう…今回は「突き」が、
そう突きが、ピった!と止められる。


肉眼でみても、ピったと止まっている…
突きの意識も、初めからスーと伸びている。

今回の発見・覚り・悟るも…以前程の興奮がないが…静かな興奮・キョウガイのような感じある。

失礼しました師範。
中途から…師範意識がなくなり、私の観念的な世界へ突入しまいました…
でも、過去の私の経験・体験した事実は、私の頭脳内にしか存在せん…

それでも「神経力・神経体力」・「認識力・認識体力」の、
私の実感は正しい…師範と同じようモノでしょうか?

ご指摘・アドバイスをお願いします。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-13 10:10:35
自由びとさん、私はコロナに感染してしまい床に伏せっています。肉体労働で身体が疲労して免疫力が落ちているところで発症してしまったようです。
けれど医師からは薬も処方されずに「5日休んだら仕事に復帰できるから」とのことで、自分の免疫力で対処できるみたいですね。それで何度も風呂を沸かし直して身体を温めて、服を着込んで一日中布団の中で寝ています。

南郷先生が、こんなブログを見に来るとは思いませんけど、私がちょっと思ったことを述べますと日本の武道だとかの封建的な思想・儒教思想を色濃く残している団体では、キリスト教文化圏みたいな「自由と平等」ではなくて「順番」というものが重視されますでしょう?

ですから、私には今、玄◯会の中がどうなっているのか知りませんけど「南郷先生主宰の茶会」なんかを開くには私のように30年前に退会してその後は本部から「その人間を入会させてはならぬ」と宣告された者はもとより、自由びとさんのように初段レベルの人間が言い出すことの出来るものではなく、もっと上の五段、六段、七段だとかの高段者がやることではないかな?と思います。

さらに、南郷先生は既に相当なご高齢ですから「南郷先生にやらせる、やってもらう」ことを期待するよりも長年お世話になった弟子の自分が何かをして差し上げたいと思うものじゃないでしょうか?普通は。

南郷先生は18歳くらいから空手を始めてもう空手歴70年以上ですし、『武道の理論』発刊50年だとか『武道講義』発刊30年だとか色々とパーティだとか催して「いやー、これは歴史に残る本ですよ」だとか褒めまくるとか普通はやるでしょう、弟子たちが。南郷先生は余りそういうのが好きじゃないかも知れませんけど、弟子の玄◯会員ならば、そっちの方向で考えてみては?

神経体力だとか認識体力だとか何を書いているのか私には理解できませんけど、「自由びとさんの母親が亡くなったときの悲しみと奥さんが亡くなったときの悲しみの比較」という、普通は「どちらも悲しかった」で終わることに猟奇的な執着をしていることには「自由びとさんの悲しみ」という「即自」から離れて「他者の、他の人の悲しみ」と比較してみることも可能かと思いますね。そうすれば「親が死んだなら悲しいのが当然で、それを涙を流さないのは逃げて向き合っていないからだ」という結論にはならないように思います。

宗教には様々な要素があると私は考えていますから、「痛み、苦しみから逃れる方法」としては現在のリハビリテーションや心理療法に通じるものを科学的ではなく経験的に獲得したのだと思いますよ。
リハビリテーションの運動療法をやると中枢神経系から鎮痛物質(オピオイド)が分泌することが分かっていますし、プラセボだとかカウンセリングだとかでも人間の体内では鎮痛物質が分泌することが分かっています。

だから小中学から運動していた者と座って本ばかり読んでいた者とでは痛み・苦しみの閾値が違うのだと思いますね。蚊に刺されて「ギャー」と叫んで飛び上がる人も稀なように、その痛み・苦しみの閾値の違いは生理学的な、その人の身体の状態からくるのだと思います。

こんなことを書いても「そんなことは既に南郷先生から教えられていた」と言うのでしょうから余り書きたくもないですけど。

「一体的」みたいな抽象的なことを書かれても理解はできませんね。何が如何一体的なのかは身体運動ならばバイオメカ的な説明をしなければ伝わらないでしょう。
それで思い出したのが30年前に玄◯の合宿で「足幅を肩幅にしたまま走る」というのをやらされたことでした。それは20年以上の人生で身につけてきた身体運動とは異質なもので違和感があったのですが、今から思うとあれは「前屈立ちの足幅」だったんだと思います。つまりは基底面の面積を広くすることで「バランス」をとることなく「安定」させてしまうという方向で、それは確かに騎馬立ちや前屈立ちへの南郷先生の解釈=土台、安定、不動から派生した走り方だと思いますけど、これはリハビリテーション医学や身体運動科学における「歩き方、走り方」とは異質なものでしょうね。

突きの拳がピタっと止まることを意識して練習している流派は多くないように思いますけど、自分で拳が見えないくらい速く突くことを意識したほうがいいように思います。
返信する
ここは、私の精神的な世界でも… (自由びと)
2024-01-13 11:27:28
Unknown (弥勒)
2024-01-13 10:10:35
「>自由びとさん、私はコロナに感染してしまい床に伏せっています。肉体労働で身体が疲労して免疫力が落ちているところで発症してしまったようです。
けれど医師からは薬も処方されずに「5日休んだら仕事に復帰できるから」とのことで、自分の免疫力で対処できるみたいですね。それで何度も風呂を沸かし直して身体を温めて、服を着込んで一日中布団の中で寝ています。」





そう言えば、私も、息子が、成人式(二年前の今ごろ)の後の二次会で隣の人がコロナになった事を知り、発熱した息子が病院へ行ったら「コロナ発覚」。
その後、病院勤めの家内と一緒に、その病院のコロナ検査を受けまして。本当は、行きたくなかったのでが…
たまには、家内の希望をきいてもいいかな…と行きました。
そしたら「○○忘れた名前」のコロナ検査、その場で10分位でしょうか…結果が出ました。
家内も陰で問題ない、でも、私は陽性でコロナでした。
その日は、そんな…私がコロナとは…その不安のせいか…その日は、いつも以上に寒い中の買い物へ行きました。
そして、次の日から発熱…その後は、二週間自宅療養…でも、その熱は全然苦しくなく、漫画を読んで過ごしました。

私も免疫力を信じています。
なので、私はコロナワクチンは、一度も打っていません。
家内も息子も、四or五回まで打っています。






「>南郷先生が、こんなブログを見に来るとは思いませんけど、私がちょっと思ったことを述べますと日本の武道だとかの封建的な思想・儒教思想を色濃く残している団体では、キリスト教文化圏みたいな「自由と平等」ではなくて「順番」というものが重視されますでしょう?」

でも…最近気付きました。
このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証レベルだという事。
しかし、弥勒さんのおっしゃる通り…確かに、南郷先生(実体)は見に来ない…かもしれません。
それでも…南郷継正的心のある者は、やってくるかも知れません。
そんな私だから、「この記事は南郷心の持ち主への叫びでもあります。
ただ…ブラックお宅コメントに、ホワイト南郷継正を感じ取って以来…
もしかして…本物なの?!という問い掛けが生じたのも事実なのです。

ですから、これは、サルが樹から降り立ったように、再び玄〇会へ行って、南郷先生の姿を…
ただ、それは非常なる失礼なのは、前回の一件で都築さから指摘されたので…
取り敢えずの…ここでの呼びかけなのです。
ただ、当人を目の前にしたら、師範の気迫で、そんな言動は、たぶん不能です。
ただただ…ここだけ、妄想・幻想・夢想…的な自由びとブログだけでの話なのです。

そうそう~このコメントの前に、tada さん宛てに「論理について」書く努力をしました。読んでみて、また感想を下さい。






「>ですから、私には今、玄◯会の中がどうなっているのか知りませんけど「南郷先生主宰の茶会」なんかを開くには私のように30年前に退会してその後は本部から「その人間を入会させてはならぬ」と宣告された者はもとより、自由びとさんのように初段レベルの人間が言い出すことの出来るものではなく、もっと上の五段、六段、七段だとかの高段者がやることではないかな?と思います。」

↑~
ですよね…でも、ダメ元で私の夢を書いてみました。



>さらに、南郷先生は既に相当なご高齢ですから「南郷先生にやらせる、やってもらう」ことを期待するよりも長年お世話になった弟子の自分が何かをして差し上げたいと思うものじゃないでしょうか?普通は。

そうですね…だから、
南郷継正に学び続けた私の姿~
「武道の理論」との出会いから45年後の私の姿を是非に見てもらいたかたのです。
そこで、失望or感激or無視…どのような反応をするかが、知りたかっただけなのです。



>「南郷先生は18歳くらいから空手を始めてもう空手歴70年以上ですし、『武道の理論』発刊50年だとか『武道講義』発刊30年だとか色々とパーティだとか催して「いやー、これは歴史に残る本ですよ」だとか褒めまくるとか普通はやるでしょう、弟子たちが。南郷先生は余りそういうのが好きじゃないかも知れませんけど、弟子の玄◯会員ならば、そっちの方向で考えてみては?」




そのような情報は、残念ながら、退会している私には、届きません。
それに「茶会」は事実レベルではなく、論理的な茶会であり、師範の御講義でも…なんでもOKなのです。
もっとも…今の退会中の私には、その情報も来ませんね。





「>神経体力だとか認識体力だとか何を書いているのか私には理解できませんけど、「自由びとさんの母親が亡くなったときの悲しみと奥さんが亡くなったときの悲しみの比較」という、普通は「どちらも悲しかった」で終わることに猟奇的な執着をしていることには「自由びとさんの悲しみ」という「即自」から離れて「他者の、他の人の悲しみ」と比較してみることも可能かと思いますね。そうすれば「親が死んだなら悲しいのが当然で、それを涙を流さないのは逃げて向き合っていないからだ」という結論にはならないように思います。」



これは、理性・現実的には向き合っている。
しかし、心の底では、向かい会えない状態・無意識的回避・逃げている・回り道…言い方は色々ですが…

まあまあ…泣けない私と泣けた私の相違が、認識力の増加・強化…その強化の源が「心・認識・問い掛けの変化…




神経力・神経体力の実感は、私の「突き技」の変化、
ついこの間、トレーニングで突きを練習した時の「突き感覚」と昨日再確認して突き感覚は別物でした。

またまた…昨日の小1の体育授業の後に、なんとなくいける思い「校庭で全力疾走「したら、できたのです。
その感覚は、以前の若い時の感覚とは少々違いますが。
足に確り力が込められている地面を踏みつけながらの全力疾走でした。
そして、日頃から頻繁に痛みを感じていた「右股関節の痛みもなく」…
これは、言うなれば、全身に「気が通った」状態です。




>宗教には様々な要素があると私は考えていますから、「痛み、苦しみから逃れる方法」としては現在のリハビリテーションや心理療法に通じるものを科学的ではなく経験的に獲得したのだと思いますよ。
リハビリテーションの運動療法をやると中枢神経系から鎮痛物質(オピオイド)が分泌することが分かっていますし、プラセボだとかカウンセリングだとかでも人間の体内では鎮痛物質が分泌することが分かっています。



実体・身体的治療と心裡的認識的な治療ですかね…



「>だから小中学から運動していた者と座って本ばかり読んでいた者とでは痛み・苦しみの閾値が違うのだと思いますね。蚊に刺されて「ギャー」と叫んで飛び上がる人も稀なように、その痛み・苦しみの閾値の違いは生理学的な、その人の身体の状態からくるのだと思います。
>こんなことを書いても「そんなことは既に南郷先生から教えられていた」と言うのでしょうから余り書きたくもないですけど。
>「一体的」みたいな抽象的なことを書かれても理解はできませんね。何が如何一体的なのかは身体運動ならばバイオメカ的な説明をしなければ伝わらないでしょう。」


>それで思い出したのが30年前に玄◯の合宿で「足幅を肩幅にしたまま走る」というのをやらされたことでした。それは20年以上の人生で身につけてきた身体運動とは異質なもので違和感があったのですが、今から思うとあれは「前屈立ちの足幅」だったんだと思います。つまりは基底面の面積を広くすることで「バランス」をとることなく「安定」させてしまうという方向で、それは確かに騎馬立ちや前屈立ちへの南郷先生の解釈=土台、安定、不動から派生した走り方だと思いますけど、これはリハビリテーション医学や身体運動科学における「歩き方、走り方」とは異質なものでしょうね。


思い出しました。
昨日の全力走も先日のマロン散歩での全力走も、肩幅の方が安定していたのです。
逆に書くなら、普通の歩幅では、全力で走れないのです。
でも…早く走れる子供達は、普通の幅で、地面を滑るように入っていますね…身体の柔軟性・平衡感覚…




「>突きの拳がピタっと止まることを意識して練習している流派は多くないように思いますけど、自分で拳が見えないくらい速く突くことを意識したほうがいいように思います。」


一先日、一度思いっきり突いたら…
なんと肘が抜けそうな感覚になりました。

私の肘関節の問題でしょうか…
以前に、足関節に比べて肘関節の弱さを…なんか感じて、関節廻しや上下…で訓練していたのですが…

そうそう、昨日の夜、庭の土耕しを前足を交互に変えやった後…
「頑張れ元気!」中での「太鼓叩いて見えない腕の動き」ではない…
元気の先生がサンドバックを突いているその手が見えなかった元気…

そんな事は、浮かびませんでしたか…
「あしたのジョー」…

とにかく、肩を動かさないジャブの練習をやってみました。
パンチは、確り見えていました。逸れても結構早かったです。
それは、私が、速いパンチでのみる目があるのか?
または、私のパンチが遅かった?
その判断は、私には不能で、第三者の判定・確認が必要ですね。
返信する
Unknown (弥勒)
2024-01-13 12:59:15
>このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証法レベルだという事。

苦笑せざるを得ませんね(笑)。「このブログでの私(自由びと)のコメントは、弁じて証明する、弁証法レベル」ならまだしも、専門分野の科学的知識を介して話しをしている私(弥勒)も同レベルにされてしまうとは(苦笑)。

確かに武道講義の時の南郷先生は弟子たちの専門が医学やらだったからでしょうから田邊元の本を出して「科学が分からなければ哲学は分からないのだ」と科学的知見を包括する哲学を志向していたみたいですけど、悠季真理が入ってきた今では「思弁」を重視しているみたいですね。

私はお宅(自由びと)が何処の誰だか本当に分かりませんけど、「告白云々」と気持ち悪く書いているところを見ると女性だという感じもしますね。

確かに男には生涯にわたって大切にするお姫さまを娶る必要がありますし、そのために年齢を重ねて自己を強くしていくのだとも言えますが、それは世界中でたった一人いればいいわけで何人も必要ありません。

そこを理解していないと己れの身体が独り身を寂しく感じて男を必要としていることと、相手と恋愛関係にあることとの区別がつかなくなっていきます。

お宅が中国人の張という人だというのも天寿堂さんから聞いた話しですけど、私は天寿堂という人間も嘘をつくから信じてはいませんけどね。

お宅の年齢が67、68歳だというところからは昔の高弟だった馬場さんだとかも連想しますけど、ああいう人は道場での稽古をしなくなっても四段だとかで名前が残っているとか、あるいは名誉段だとかで上に置かれるんでしょう。

南郷先生が試行の執筆から降りたのも玄◯会の女性会員から「南郷先生にセクハラされた」という手紙が来たからだそうで、南郷先生は一時期神経体力が低下したからだとかで馬場さんにオンブされてたと言ってましたけど、そのときに背後からオッパイを揉んだりしたのかも知れませんね。

馬場さんとしては大学教授で忙しかった薄井さんに取って変わって南郷先生を寝取りたかったのかも知れませんけど、薄井さんが亡くなっている今なら90歳の南郷先生に嫁ぐのも可能でしょうね。お互いに介護が大変でしょうけど。
返信する
同レベルの心が…叫ぶ! (自由・妄想びと)
2024-01-14 11:58:08
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
南郷継正の「夢を動かす」について~


>・コメントを書いた人
>弥勒


>・コメント
「>このブログでの私とお宅のコメント応酬は、弁じて証明する。弁証法レベルだという事。」


その通りに、今の私に、そうは思えて仕方ありません…




「>苦笑せざるを得ませんね(笑)。「このブログでの私(自由びと)のコメントは、弁じて証明する、弁証法レベル」ならまだしも、専門分野の科学的知識を介して話しをしている私(弥勒)も同レベルにされてしまうとは(苦笑)。」


たぶん…それは私心のレベルが同だった!弥勒菩薩さんが、時々の私心のレベルに合わせて、少しずつ、悟りへ導いていたのかも…
何しろ、「弥勒菩薩は、如来の意志に従って様々な姿にかわる」そうですから…


>確かに武道講義の時の南郷先生は弟子たちの専門が医学やらだったからでしょうから田邊元の本を出して「科学が分からなければ哲学は分からないのだ」と科学的知見を包括する哲学を志向していたみたいですけど、悠季真理が入ってきた今では「思弁」を重視しているみたいですね。


書かれている科学的な知識を頭で理解出来ても…その書いた科学者の心は、理解も、想像する事も至難です。
頭脳は、「頭・理性」と「心・感性」の一体的同一性なのですから、「頭・理解・心・理会」が必要なのでしょう。

確かに現代でも実験可能な科学・知識もあります。それでも、その実験・方法を一から苦労して考え出した科学者の心裡・心理・感情は想像もできない、でしょうね…

>私はお宅(自由びと)が何処の誰だか本当に分かりませんけど、「告白云々」と気持ち悪く書いているところを見ると女性だという感じもしますね。


その事を、私もずっと考えていました。師範は、日本・世界の文学全集から、日本・世界の心を学んだそうです。
その事から、類推するなら、私は小四の時に「石森章太郎のマンガコミック本「ボンボン」に嵌っていらい…
石森章太郎から始まり、沢山のコミック漫画本…途中で少女漫画にも嵌って、それ以来少年・少女漫画を鬼のように読みまくりました。
テスト前には、先ずは漫画を読んで心を前向きにして、テスト勉強をしていました。
その漫画読みは、今も続いています。

そうそう~小学生高学年の時に、親類の叔父さんに「…マンガ本の絵が動いている…」と言ったら、バカにされました。
今、考えると、それて、私は、観念内で、その漫画の絵を連続的に動かしていた、ようなのですね…
師範は、文学全集という言葉から心を育てのでしょう。
私は、漫画本で、少年・少女の心(運動・変化)を創ってしまった、ようですね。






「>確かに男には生涯にわたって大切にするお姫さまを娶る必要がありますし、そのために年齢を重ねて自己を強くしていくのだとも言えますが、それは世界中でたった一人いればいいわけで何人も必要ありません。」


う~云わんとする事は、わかりますが…
國によっては、一夫多妻。本妻・第二妻…「英雄色を好む」も言う事実もありますね…


「>そこを理解していないと己れの身体が独り身を寂しく感じて男を必要としていることと、相手と恋愛関係にあることとの区別がつかなくなっていきます。」


これも分かります…
私の場合は、両親は商売・生活維持に必死で、私は一人っ子…そんな淋しさが子供時代からずっと続いていました。
ただ…確かに二回目の大学時代に付き合っていた彼女は「自分の淋しさ故…彼女は母心に似ていました。


「>お宅が中国人の張という人だというのも天寿堂さんから聞いた話しですけど、私は天寿堂という人間も嘘をつくから信じてはいませんけどね。」


この話は個人情報なので「スルー」しますね。
それでも…私の名前は師範ならご存知ですね。



>お宅の年齢が67、68歳だというところからは昔の高弟だった馬場さんだとかも連想しますけど、ああいう人は道場での稽古をしなくなっても四段だとかで名前が残っているとか、あるいは名誉段だとかで上に置かれるんでしょう。


一度…青雲塾で、背骨をピンと伸ばして姿勢がよく、雰囲気がとても凛々しい女性を見ました。
多分、あの女性が馬場さんですかね…

ほうほう~私の今の心は馬場さん的なレベルなのでしょうか…




「>南郷先生が試行の執筆から降りたのも玄◯会の女性会員から「南郷先生にセクハラされた」という手紙が来たからだそうで、南郷先生は一時期神経体力が低下したからだとかで馬場さんにオンブされてたと言ってましたけど、そのときに背後からオッパイを揉んだりしたのかも知れませんね。」


どうなのでしょうか…ね…
私は、小学生・低学年頃に、当時両親でやっていたテーラー・洋服店の縫い職人のお姉さんに負ぶってもらっていた時に、その胸に私の手が当たり、その感触が気に入ったのか、思いっきり揉んでしまいました。

セクハラか!or否か?は、その行為した人物の動機・心の問題ですね…
その目的意識・感情の問題だと思います。

自己の欲求の解消為か?相手の為の言動・行動か?
単なる自己満足か? 相手の満足・他者満足か?


>馬場さんとしては大学教授で忙しかった薄井さんに取って変わって南郷先生を寝取りたかったのかも知れませんけど、薄井さんが亡くなっている今なら90歳の南郷先生に嫁ぐのも可能でしょうね。お互いに介護が大変でしょうけど。

事実か?or虚偽?とも…分からない他人のデマを、上記のように妄想可能なのは、お宅が強烈なスケベ心の持ち主だから…
私も結構スケベな妄想好きですよ。
「英雄色を好む」ですね。
♪♪♪「お前と俺は同期の桜」♪♪♪


♫♫~貴様と俺とは同期の桜~♫♫

♫♫~同じ航空隊の庭に咲く~♫♫

♫♫~咲いた花なら散るのは覚悟~♫♫

♫♫~みごと散ります国のため~♫♫

♫♫~貴様と俺とは同期の桜~♫♫

♫♫~同じ兵学校の庭に咲く~♫♫

♫♫~咲いた花なら散るのは覚悟~♫♫

♫♫~みごと散りましょ国のため~♫♫

でも…まだ~お互い、「散り」たくは、ありませんよね…


そうそう…
ずっと思っていました、月研ぎさん、tadaさん…には、とても気を使って書く・書かなきゃなのですが…
お宅とは、そんな気を遣わずに、本音・本心から、無遠慮で書けてしまうのですね…
本当の「ふ・し・ぎ」…もしかして、お宅は私の分身・私がお宅の分身なのかもね…


そうそう最後に以下のような事が分かりました…
師範が、「星読み」、「満月の日の地面の変化」、「人造物は変化が乏しい…」、「台風の話」から、
想像・推測しました。

人間は動物、動物は本能的に天災…を感覚する。
人間の本能部分は、心…心が騒ぐ時、心が理由なく不安な時…

地震は、地球内のマグマの熱の地上への放散が地震…
ここ数年の地震の発生…地球の変動は、人間の心をザワザワされている。
そのザワザワを国家レベルでの放散が、戦争。
新世紀は、100年単位、その100毎に、地球の異変・結果人間界の戦争勃発…

なんってね…これも、単なる、
自由な妄想・幻想・夢想びと言説でしょうかね…
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Unknown (弥勒)
2024-01-14 19:42:11
>その書いた科学者の心は

意味が今一つ理解できませんね。おそらくは自由びとさんご自身が自分で意味も分からず書き綴っているのでしょうけれど。取り敢えず「自由びと」という人物の価値あるものとしては「心」の方にあるのだ、ということだと思いますね。例えば専門分野が看護の人間が「相手の心を慮ることを最重要視するように」みたいな、ね。
私は今まで人が発見しなかったことを発見したような科学者にはガリレオやニュートンのような社会的破綻者だとか変わり者が多いと思っていますから、自由びとさんのような田◯さんに本気で突かせないために能ある鷹は爪を隠すで忖度せよ、みたいな心ではなく、どちらかと言ったなら南郷先生が書いているような世界が敵に回っても我行かん!みたいな人格だと思いますね。
自由びとさんが言ってるような「心」は「科学的発見をするために必須な心」ではなく「神庭さんがどうして博士号という肩書きを欲しがったのか?」という「その心」だと思いますね。

>青雲塾では背骨がピンと伸びた

あすこでは男も女も「背筋を伸ばす」ように言語的な指導がなされていて皆が皆、背筋に力を入れて背中を反らし気味の姿勢でいましたよ。誰か特定の女性が一人なんてことはありませんから、表面的な言葉だけの嘘でしょうね、自由びとの。
その背骨は柔道やレスリングのように技として使うためではなく、見た目が真っ直ぐであるという「華法」としての真っ直ぐでしょうから、その真っ直ぐさで極真をボロくそ書いたり兄弟子だった人をボロくそ書いたりしたのでしょうね、南郷先生から言われるままに。

私は幼少期はマンガ本が大好きでしたが、高校に入ってから読まなくなり、今では却ってマンガを読むのは苦痛ですね。アニメも一緒です。実写も20代の頃はトレンディドラマなど良く見ていましたけど、いまはテレビも見ませんし、活字の本を読むばかりですね。

自由びとさんとは完全に趣味嗜好が違うのが分かります。
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